セックスが淘汰された世界で、唯一の『クソオス魔装鍛冶師』 作:北川ニキタ
学院の食堂は、朝もバイキング形式だった。
焼きたてのパン、数種類のスープ、卵料理、果物、ハム、チーズ。
昨晩の夕食に続いて、師匠の工房時代では考えられない豪華さだ。師匠の朝食は黒パンと白湯。以上。曜日による変化なし。あれに比べたら、ここは毎食が祝祭である。
トレイに料理を盛って席についた。
隣にはフィーネ。昨晩の「角」事件のことは、触れてこない。そのままでいてくれ。あの話を蒸し返されたら、パンが喉を通らない。
◆◆◆
「ねえ、今日から授業でしょ。どうするの」
フィーネがスープをすすりながら聞いてきた。
「どうするって、出るだろ普通に。学院に編入したんだから」
「……あのね」
フィーネがスプーンを置いた。
「七席は、授業に出なくても卒業できるのよ」
「……は?」
「七席には特別な権限がある。学院の全施設を自由に使えて、授業の出欠も問われない。極端な話、まるごとサボっても卒業証書が出る」
なんだそのVIP待遇。
前世の大学で単位に怯えて徹夜でレポートを書いていたオレの魂が泣いている。
「えー……」
とはいえ、気になるものは気になる。
「授業の一覧とか見れないか?」
「受付で時間割をもらえるはずだけど」
食事を終えて、受付で時間割の冊子を受け取った。
ぱらぱらとめくる。
――魔素制御基礎。近接戦闘実技。魔装戦術論。集団戦闘演習。魔素応用・中距離射出。対魔獣戦闘実践。
全部、戦闘だ。
どのページをめくっても、戦い方。戦い方。また戦い方。
鍛冶の「か」の字もない。
素材学も、魔脈紋の理論も、炉の扱いも、工具の手入れも。何一つ載っていない。
……あれ?
てっきり、鍛冶師として編入したのだと思い込んでいた。リーゼに連れてこられた経緯を考えれば、「工房の腕のいい鍛冶師見習いを、学院の設備で育てる」的な話かと。
違った。
ここは戦士を育てる場所だ。
そして七席とは、戦士の中の上澄みに与えられる称号。
戦えないオレが、戦士の学院で、戦士の最高位を与えられている。
犬がドッグショーに出るんじゃなくて、犬が騎馬戦に出場している。種目が根本的に違う。
「フィーネ、これ――」
振り返ったが、もういなかった。
「わたしは授業あるから。じゃ」と言い残して廊下の向こうに消えていく明るい髪の後ろ姿が、角を曲がって見えなくなった。
残されたオレは、時間割の冊子を手に、廊下の真ん中で突っ立っていた。
心細い。
圧倒的に心細い。
昨日まではフィーネという「知っている人間」がいた。不機嫌で口が悪くて、オレのトイレを覗いてくる問題児だが、それでも唯一の知り合いだった。
その唯一がいなくなると、オレはこの学院で完全な孤立無援になる。
しかたない。ひとまず、歩こう。
施設の把握くらいはしておかう。
◆◆◆
学院は広い。
昨日の夕方に駆け足で通り過ぎた印象以上に、敷地が巨大だった。
中庭を囲むように教室棟が並び、その奥に訓練場が三つ。さらに裏手に図書館、研究棟、武器庫、そして寮棟。全部石造り。重厚で、歴史の匂いがする。
廊下を歩くだけで、すれ違う生徒たちの視線が刺さる。
昨日と同じだ。
「男?」「本物?」「ちょっと見て」
ひそひそ声の周波数にはもう慣れた
訓練場の横を通りかかった。中から金属のぶつかる音と、掛け声が聞こえる。模擬戦をやっているらしい。覗きたい衝動に駆られたが、やめておく。「男が訓練場を覗いていた」と噂になったら面倒だ。
地図によると、このまま進むと研究棟のようだ。こっちなら人が少ないかもしれない。
石壁の廊下。窓から差す朝日が、床に四角い光を落としている。静かだ。足音がよく響く。
角を曲がった。
次の角も曲がった。
もう一つ曲がった。
――あれ、ここ、さっき通ったか?
迷った可能性がある。石壁の廊下は全部同じに見える。目印がない。
もう一歩、踏み出した――瞬間。
ぎゅん。
両腕が、引かれた。
何かが手首に巻きついた。細い縄。それが一瞬で両腕を背中側に引っ張り、壁に縫い止めた。
罠だ。
廊下の石畳の一枚が起点になっていたらしい。踏んだ瞬間に魔法陣が起動し、壁の穴から縄が射出されて、腕を拘束する仕掛け。
身動きが取れない。引っ張っても、縄はびくともしない。魔素を帯びた素材だろう。オレの腕力では千年かけても切れない。
「――ふぅん」
声が、正面から降ってきた。
廊下の影から、一人の女子生徒が現れた。
壁に寄りかかるようにして立っている。最初からそこにいたのか、今来たのか。気配がまるでなかった。
長い髪。目元が涼しい。唇の端だけが持ち上がった、計算ずくの微笑み。
手に持っているのは――斧。
正確に言えば、戦斧。片刃の三日月型。柄が短く、刃渡りが広い。接近戦用の、肉を断つための魔装。
その刃が、オレの首筋に当てられた。
冷たい。
金属の冷たさが、喉仏の横をなぞる。
ぴりっ、と痛みが走った。皮膚が薄く切れている。首を伝う温かい感触。血だ。少量だが、確実に出ている。
「あなたが、新しい七席ね」
低い声。芝居がかった抑揚。舌舐めずりしそうな響き。
「この程度の罠に引っかかるなんて。たいしたことないのかも?」
刃がほんの少し深く食い込んだ。呼吸がしづらい。
「いいの? 抵抗しなくて。このままだと、あなたの首――ちょん切っちゃうよ?」
彼女が顔を近づけてきた。息がかかる距離。黒い瞳が、猫が獲物をいたぶる時のそれだ。
――怖い。
客観的に見れば、怖い状況だ。
拘束。首に刃。殺気。
恐怖を感じるべき場面。
なのに。
オレの脳は、まったく別の情報を最優先で処理していた。
服装エッッッッロ。
いや、服装と呼んでいいのかすら怪しいか。
彼女の上半身を覆っているのは、布という概念に対する冒涜だった。
ビキニだ。
上半身にビキニ。
戦闘用の学院制服の上着を完全に脱ぎ捨てて、代わりに身に着けているのが、乳首だけを申し訳程度に隠す三角形の布切れ二枚。紐で首の後ろと背中で結んでいる。それだけ。
それだけだ。
鎖骨から腹筋まで全部出ている。肩も出ている。脇も出ている。おへそも出ている。
しかし問題はそこじゃない。
胸だ。
美しい球体。
滑らかな曲面。
ガルドラほどではないが、確実に、大きい。
その凶悪な質量を、三角形の布切れ二枚で支えている。
支えきれていない。布の面積が圧倒的に足りない。上から溢れ、横から溢れ、下からも溢れている。
三方向同時決壊。ダムに穴が三つ開いた状態。
三角形の布は乳首の頂点をかろうじて覆っているだけで、それ以外の情報が全公開されている。
肌の色と質感が、朝日に照らされて、もう全部見えているのと実質同じだ。布があることで逆に「ここに隠されているものがありますよ」と矢印で示されている。目隠しじゃなくてハイライトだ。
しかも呼吸のたびに揺れる。
彼女がオレに顔を近づけるたびに、重力に従って、左右非対称に、ぷるん、と。
ぷるん。
ぷるん。
駄目だ。
首に刃が当たっているのに、視線が吸い込まれて戻ってこない。ブラックホールだ。光すら逃げられない重力場が、鎖骨の下に二つある。
「ねえ、聞いてる?」
聞いてない。
一文字も聞いてない。
さっきから彼女が何か喋っているのは音として認識しているが、言語として処理される前に、全部おっぱいに上書きされる。
脳内のメモリが完全に占拠されている。タスクマネージャーを開いたら「oppai.exe」がCPU使用率99%だ。残り1%で呼吸と心臓を動かしている。言語処理に回すリソースがない。
「このままだと本当に切るわよ?」
何か脅されている気がする。
気がするだけだ。
だって今、あ、布の端が――
呼吸に合わせて三角形がずれた――。
右側。
ほんの二ミリ。
二ミリだが、さっきまでギリギリ隠れていたラインを、超えた。
見えた。
乳首の輪郭が、見えた。
布の端から、ほんの少しだけ。ピンク色の曲線の始まり。完全には見えていない。だが始まりが見えた。始まりが見えたということは、そこに全体があるということだ。あと一ミリで全貌が明らかになる。
頭が、真っ白になった。
そして――身体が、反応した。
下半身が。
反応した。
完全に。
不可逆的に。
待て。
頼む、待ってくれ。
タイミングが最悪だ。首に刃が当たっている状態で勃起するな。どんな性癖だよ。
首を切られて興奮する変態みたいになっているだろうが。違う。首は関係ない。胸だ。全部胸のせいだ。
しかし彼女がそんなオレの下半身の反乱に気づくはずもない。
この世界に「男の生理現象」への理解はない。昨晩のフィーネの「角」発言が証明している。仮に気づいたとしても「ああ、なんか突起が大きくなってる。男の体って変なの」で終わるだろう。
終わるだろうが、オレの尊厳は終わらない。終わらせてたまるか。
中腰になった。
反射的に。ガルドラのフィッティングの時と同じ対処法。困ったら中腰。人類最後の砦。
「……ふぅん」
彼女が、何かを感じ取った顔をした。
刃が、首から離れた。
ひゅんと弧を描いて、背中の縄を一刀で断ち切った。
両腕が自由になる。
「流石ね、七席」
は?
「普通なら、恐怖で体が固まるところよ。それなのにあなた、微動だにしなかった」
え? おっぱいがなんだって?
「首に刃を当てても、表情一つ変えない胆力。男だと聞いて侮っていたけど――見直したわ」
表情を変える余裕がなかったんだ。顔面の筋肉もおっぱいに持っていかれていたんだ。
「殺気を浴びせても揺るがない精神力。認めざるを得ないわね」
何の話だ?
ああ、そうか。
首に刃に押し当てられたんだ。すっかり忘れてた。
ただおっぱいに集中していただけなのに、なぜか彼女の中では「恐怖に屈しない鋼の意志を持つ男」が完成しつつある。
勘違いの城が、また一つ建った。
しかし訂正する暇がない。なぜなら彼女が髪をかき上げたからだ。
その動作で上体がわずかにひねられ、ビキニの三角形がさらにずれた。
左側も限界を超えた。
もう両方見えている。
いや見えていない。見えていないことにする。光の加減だ。朝日が生んだ幻影だ。五十年分の願望が網膜に焼きつけた残像だ。
中腰が深くなった。膝が震えている。別の理由で。
「ようこそ、七席へ」
彼女が手を差し出した。
「わたしの名は、ヴァルトラウテ・カイエンベルク・ドライツェン。七席の第四席を預かっているわ」
大事な自己紹介だ。
同僚の名前だ。覚えなければならない。
ヴァル……なんだっけ?
入ってこない。
一文字も入ってこない。
脳内再生されるのは名前じゃなくて、さっきの二ミリ。布の端から覗いたピンクの曲線。右と左。二つ分。高画質で無限リピート。
映像記憶の才能が、最悪の方向に全力稼働している。
見たものを写真のように記憶する能力。普段は鍛冶に活きる。騎士の動きの記憶に活きる。今この瞬間は、乳首の輪郭を4K解像度で脳に焼きつけるのに活きている。
消せない。
一生消えない。
この映像を抱えて、オレはこれからこの女と同僚として顔を合わせ続ける。
「あなたを、歓迎するわ」
「ど……どうも。ディート、です」
声が裏返った。中腰のまま自己紹介した。
ズボンの前面は隆起。全身から体液と欲望が漏出している。人体の危機管理システムが全方位で崩壊している。
ヴァル……なんだっけ。
名前、もう一回言ってくれないかな。
いや、言われても多分覚えられない。彼女が喋るたびに呼吸で胸が揺れて、揺れるたびに布がずれて、ずれるたびにオレの脳がフリーズする。永久ループだ。
七席の洗礼、終了。
首の傷より、脳の傷のほうが深かった。