災厄の日・上
2159年 7月×日
世界は平穏だった
世界は安寧だった
約束された安息も世は正しく人間にとっての楽園であった
百年以上続く平和の世の中で、誰も気には留めていなかった
その日は、とある島国において最も悪逆な人間が処刑されようとしていた
過去に多くの命を奪い、秘匿してきたのは…数ヶ月前までその島国を治めていた総理大臣
高潔なる血筋の、誰もが期待と信頼を寄せた若き女
島国のため、そして世界の為に改革を起こし続けた傑物
しかしその人間は隠していた、隠匿していた
命を奪った、命を奪った、殺した、殺した、殺して殺して殺した
それが公になり、問い詰められては瞬く間に死刑執行が取り決められた
今日この日、国民の半分は前代未聞の元総理の死刑に気を惹かれ、残り半分は興味も示さず真夏の暑さに身を焼かれていた
ある神社に女は立ち寄った
強く照り付ける日光を遮るための日傘を畳み、神社の中へと入っていく
広大な本殿を抜け、回廊を渡り、封鎖されている宝物殿
そこはその神社を祀る正当な血筋のものしか通れない結界が張られており、女の指を焦がして拒絶する
女は舌打ちを噛み殺し、そのまま結界の陣へ爪を立てる
陣は黒い稲光を走らせながら女の手を拒むが、女は指先から脊髄へ駆け巡る痛みを気にも留めずに陣を掻き斬った
引き裂かれた陣は消滅していき、結界が消えた宝物殿の扉を持ち合わせた鍵で開錠する
大きく厚い鉄製の扉を開けば、直射日光の当たらない宝物殿の中は外よりも比較的涼しく、祭事に用いる装飾品や儀式に使う祭具が保管されている
女は何を思ってか、その祭具に触れ…静かに涙を流す
一筋の涙を流した後、さらに奥の扉に目を向ける
そこはさらに高度な結界が張られていたが、先程と同様に突き立てた爪で結界を破り所持している鍵で開錠する
セキュリティの甘さに苦言を呈したくなるが、仕方ない…この神社には今や誰もいないのだから
そもそもここは今政府に厳重に押さえられている場所であり、本来人間が立ち寄れるものではない
…女が人間であれば、例に漏れなかったのだろうが
女は扉の奥に続く地下階段を確認し、降りていく
暗くなっていく階段の先に、赤い光が零れている
女が辿り着いた空間の中央には、複数の魔術式で保護された、赤く光る卵のような置物
子供一人入れるその大きさの卵の中には、小さな塊が浮かんでいる
小さな、小ぶりの、小規模な……人間の、心臓
心臓ひとつで鼓動を続けているそれが納められた卵がまさに、女が求めていたものだった
『あれ、お客さんだ』
女が卵の前まで歩み寄った時、どこからともなく声がした
その声は女の脳内に直接訴えかけるように、穏やかに女を出迎えている
『みんな死んで、生き残った人達も出て行って、もう誰も来ないのかと思った
でも結界を力業で破壊して、鍵も持ってるってことは…ここを管理していた轟家の関係者…唯一の血筋ではない者、魔術にも対抗する…
従属の吸血種、きみだね』
幼い声は女の正体を看破し、女は昏く赤い瞳を持ち上げた
「わたくしを認知していましたか
ですが、今更語ることもありません。貴方はここで破壊されるのですから」
女は古い懐中時計を取り出し、時間を確認する
時刻は正午まであと数分…約束の時間まで、あと少し
『今日は
「…あの方は来ません、もうじき処刑されますから」
『そう、バレちゃったんだ…でも不思議だね
本来元々存在するはずのない一族だったから抑止力の修正で轟家の誰が死のうが世界によって辻褄が合わせられる、誰も真実に気付くことはない
生き残りだって彼の力と権力に敵わない
それなのに…ここで起きた大量虐殺が露呈したのは…それこそ、彼の思惑通りなのかな
世界平和に消費されたことへの復讐のために』
声の推測に、女は肯定も否定もせず、ただひたすらに秒針を眺めている
『僕を壊すことで、彼の復讐は成就される
彼はこの大嫌いな世界から旅立って勝ち逃げ
オーディエンスの正義感を最高潮に高め、歓喜に満たしたところを…絶望に叩き落とす
そういう寸法だろ?』
針は正午まであと一分を示している
『逃れられないんだ…うん、仕方ない
本当はあの人が想ってくれた僕の為に死にたくはないのだけど…僕もこうなってしまったのは不本意とはいえ、彼に申し訳なく思っているよ
だからこれが、全世界を巻き込んだ贖いだ
かつての僕らのヒーローが齎した平和の終わりを認め、訪れる終末を受け入れよう』
「…ヒーロー、ですって…?あの女が…?
わたくしから愛するあの人を奪った、あの女が!世界の英雄だなんて!
認めない、認めない、認めない!わたくしはあの女が築いた幸福な世界を壊す、同じ気持ちを抱いている、彼と共に___!!」
突然豹変した女は何層もの結界を貫き、卵へ手を伸ばす
狂乱した女の口元からは鋭い牙が覗き、血走った眼は強い眼光をその心臓に向けている
尖った爪が卵の
心臓は、想う
かつての英雄でも、こうして憎しみを生み出してしまう運命の残酷さを嘆き…
そして、長い杯の生を終えられることへの安堵を