2021年12月14日
21時12分
私とランサーはダズおじさんを招いての晩餐会をして、何故かわからないけれど私の昔話に花が咲いてしまった
ダズおじさんはどこから買ってきたのか瓶ビールをラッパ飲みするし、いくら注意しても聞かないから手が焼ける
「だははは!君面白いねぇ!計算でやってないのがいい!」
「お褒めに預かり光栄だよ」
「そらもう一杯!」
終いにはランサーにまでお酒を注ぐ始末…この酔っぱらい、どうにかしないと
ランサーも素直に受け取らない飲まない!
「も〜、一体何本目?どんだけ積んできてたの
泊まっていいから運転だけはやめて…」
注意しようとしたその時、何か変な感覚が走った
世界が切り替わったような…テクスチャが張り替えられたような
私も魔術を齧った身、ダズおじさんも魔術使いだ、この異変に即座に気がついた
「ランサー、今の…」
「…世界そのものが塗り替えられる
しかも相当強力で、徐々に拡大していってる」
固有結界
師匠が軽く言っていた程度の、噂程度にしか知らない大魔術
世界そのものに干渉する魔術で、個人の中に内包された世界をそのまま書き換えてしまう…物凄い魔術なんだとか
使用できる魔術師は生きていて一人会えるか会えないか、と師匠は言っていたけど…今起きたのがそうだってことなんだ
「この出力…サーヴァントの宝具と見ていいだろうね」
「サーヴァント…一体誰が?」
「それはわからないけれど、ひとつ言えることは…
…この方角、アン達の病院の方だ」
それを聞いた途端、私は一瞬だけ思考が停止した
脳裏に浮かぶアンちゃんの顔
もしかしたら、彼女に何かあったのかもしれない
「ランサー!すぐ行くよ!」
「わかったよ」
「なんだなんだ、立派なマスターになっちゃってまぁ
萌恵ちゃん、ちょいと待ちな
これを持っていきなさい」
咄嗟に飛び出そうとした私をダズおじさんが呼び止める
振り返ると目の前に投げられたのは、弾倉だった
おじさんの刻印が刻まれた、特殊なルーン配列の銃弾だ
「君のお気に入りの銃にも使える最新型だよ
本当は他のも含めてメンテナンスしてあげようと思ったけど、ちょっと忙しくなるみたいだからせめてこれをサービスしてあげよう」
「ありがとうおじさん!
危険かもしれないから家から出ないで!」
私達が急いで玄関から飛び出す際に、ダズおじさんは軽く掌を降り、見送ってくれた
そのまま一度外へ出ると、病院の方角が何やら広範囲の靄がかかっている
それは紫にもピンクにも変わり、極彩色のマーブル模様をしている
「あれが固有結界の範囲内だろう
対象を個人の内包世界に取り込むのではなく、世界を書き換える大魔術
まだあの程度の大きさだけど、秒速三メートルの速度で拡大していっているね」
「アンちゃん…かごめくん…!
ランサー、警戒しつつ人目につきにくい高さで高速飛行
ひとまず固有結界の端っこまで飛んで、そこからは徒歩で行ってみよう
何があるかわからないから」
「的確な支持だね、了解したよ」
私は既に何度もランサーに抱えてもらっているし、今更恥じることも無いのだけど、毎度移動に便利に使ってしまって申し訳ないな…と思いつつも、ランサーの事だからこういう風に使ってもらえることに喜んでいるようだ
私を片手で抱えたランサーの首にしっかりと捕まり、ランサーの体がふわりと上昇する
時間が時間だから住宅街に人がいなくて助かった
そのまま周辺の街並みが見下ろせる高さまで飛び上がり、より病院方向の異様な光景を見ることが出来た
靄は…固有結界は半球体に拡がり、少しずつ街を呑み込んでいってる
中が一体どうなっているのかは外からじゃ何も見えない
「マスター、行くよ」
「うん」
ランサーは結界の端へ向かって高速飛行を始め、私は到着するまでの数十秒間強く目を瞑った
「…行ったか
やれやれ、二十七年前の冬木を思い出すねぇ
最も、あの子達は彼女とは全然別物だけどね」
家主のいなくなった部屋の中、ベランダの柵に身をもたれさせ、上空を飛んでいく形を見届けながらダズは酒を煽る
彼は片目が無いが、残った片目には遠い日の炎の記憶が幻のように揺らめいては消える
1994年、日本の地方都市で起こった聖杯戦争
彼もそれに少なからず関与しており、懐かしむように、忌むように思い出していた
「心ちゃんの娘らしい、それは似ている顔立ちだけど…中身が全く違うもんだね
あの子は彼女と違い人の心がある優しい子だ
彼女はどちらかと言うと…うん、共感性に乏しく自分の信じる未来を疑わなかった
そこまでは良かった…けど、どうしてああなっちまったかねぇ」
空になった酒のグラスを見て、ダズは屋内へ入っていく
外に出るな、と可愛い娘にも等しい子から言われたのだから、大人しく部屋の中で待つとしよう
ソファにどかりと座り、テレビを付ける
ニュース速報では現在まさに南中央病院を中心とした謎の霧が発生していると報じられている
現代のテレビ局はより足が早くなり、SNSの一般投稿を拾って報道している
インターネットが普及してからというもの、魔術や神秘といったものはより淘汰されていく未来なのだろう
だが、心は…萌恵の母親はそれを文字通りひっくり返すことの出来る天才だった
いや…鬼才と呼ぶべきか
「懐かしいね、彼女が聖杯戦争に参加するから手伝ってくれとお前に言われたから協力したけど、あの時も相当なものだったよなぁ
ビルは倒壊するし、海辺に巨大怪獣が現れるしでとんでもないものだったよな
その次の第五次は残念ながらお目にかかれてないが、それも災難なものだったんだろうなぁ
聖杯は解体された、なんて噂は聞いていたのに、全く心ちゃんは厄介な置き土産をしてくれたもんだねぇ
…そういや、あの時にはお前の他にお得意様がもう一人参加していたんだっけか
今頃どうしてるかねぇ、もう死んでたりしてな」
ダズは他に聞く相手のいない部屋の中で、独り言を呟き続ける
しかしそれは、この場にいないだけの話
この場にいない者へ、一方的に語り続ける独り言
「ご丁寧に小型盗聴器を仕込みやがって、心配なら直接会いに来たらいいのによ
あの子、お前のこと気にかけてたぞ」
幾分かトーンの落とされたダズの声が、低く屋内に反響する
今この場に萌恵がいないからこそ見せる、ダズの裏社会の顔
朗らかに振る舞う彼でも裏社会の人間であり、殺すための道具を商品として扱う役職柄、どうしても冷徹な顔は持ち合わせてしまうものだ
彼は脚を組み、天井を見る
天井に掛けられた照明にでも話しかけるように
「お前の言う通りにしてやったんだ、あの子を傷付けたらさすがの僕でもお前を殺しかねないよ
まぁ最も、お前があの子の身体を傷付けるなんてことしないとは思うから、これは心の話なんだが
運命ってのは残酷で、遠くに追いやろうとすればするほど迫ってくるもんなんだ
ともかく僕はお前よりあの子の方が大事だからね
こんな薄汚れた僕の人生に意味を見出させてくれた
…だからこれは、回りくどくてムカつくお前への嫌がらせと、あの子に後ろめたいことはしたくない僕なりのささやかな罪滅ぼしなんだけど」
そこまで語った後、ダズは腕を窓に向けてゆるりと持ち上げた
そして、コートの裾の隙間から小さな何かを発射させた
それはBB弾のような極小の球体だが、BB弾と違い鉛でできた簡易弾丸
火薬こそ入ってはいないものの、特殊な銃から放たれたそれは弾丸よりも軽く、より速く射出される
その高速弾はベランダ窓の框にぶつかり跳ね返り、上へ…天井照明へと飛んでいく
そしてそのままの速度で、照明と天井の隙間…そこに備え付けられた盗聴器を貫通した
音を拾うためのマイク部分を破損させた盗聴器は意味を失い、ダズは再びグラスに注いだ酒を一息に飲み干した
「…はぁっ、ははは!ざまぁみやがれ
全部お前の浅慮が招いた失策だよ
あの子の実家の轟がお前の提案を素直に飲む筈もなく、送り出されたあの子をまた追いやるためにコソコソ盗聴器仕掛けて動向を探るとか
お前の根っこの暗さがよく現れた気持ち悪さだよ!
…あ、もう聞こえてないか」
ダズは気分よくなりながら、視線をテレビの方へ向ける
液晶画面には引き続きあの靄がライブ中継され続けている
「…さて、どう転ぶかね」
ダズは武器商人
だが少々贔屓しがちな、恩情固い商人で、悪人だ
「…この先が、固有結界」
「そう、境界線を踏み越えればその先は術者の世界だ
境界線は世界と世界を分ける境目だから、僕の気配感知もこちら側の世界にしか作動しない
だから正真正銘、中に入らなければ何もわからないということだ」
私とランサーはとある路地裏に降り立ち、前方100メートル先の固有結界の壁と対峙していた
念の為にかごめくんに電話をかけてみるけれど、案の定というか、電波も遮られているようで音信不通の結果に終わる
そうしている間にも結界は拡がり、空間を飲み込んでいく
呑み込まれた土地やそこにいた人々は一体どうなってしまったのだろうか
何もわからない今、ただただ生きていることを祈るばかりだ
「…行こうかランサー」
「うん
何があっても君だけは守るから、安心しておくれ」
私は一度深呼吸をし、ランサーと並んで足を踏み出す
数歩進めば目前と迫る結界に片足が差し掛かり、そのままの勢いで全身が結界の中へと呑まれていった
…
……
『君は誰?君は何?一体全体どういうつもり!?
被せる役職探してみよう、現代には求人雑誌が山ほどあるからね!
看護師は兵隊に、暗殺者は首輪のつけられた猫
慌てふためくチャラチャラボーイは特別に白兎の仮面を被せましょう!
それなら君は、貴方は、お前は?
こわ〜い
さぁさぁおいでませ、ここに広がるは新たなアリスによる不思議の国
ウェルカム・トゥ・ザ・ワンダーランド!
御伽の夢の続きをご覧くださいますよう』
目が覚めた
輪郭が定まらない視界を正そうと何度か瞬きを繰り返すと、次第に視界がクリアになっていく
私は、眠っていたのだろうか
何か変な夢を見ていたような…声が語っていたような気がするけれど、よく覚えていない
私は…そうだ、私は
『…』
ここは私の城の中
私の白が際立つように設計された、暗い黒い城の中
壁際に備えられているロウソクと、天井のシャンデリア…そして窓から差し込む日差しだけが、この空間照らす光源
純白のドレスの裾を持ち上げ、私は玉座から立ち上がった
『……す……め…』
玉座の間の窓からは外の景色が見える
城の向こうには色とりどりの木々が並ぶ森の先、赤いお城が見えた
そこにいるのは…そう、確か、いや、確実に赤の女王に他ならない
私は今日の正午、赤の女王とのチェス対決をしなければならなかったはずだ
駒は私達自身…そうだ、私の騎士はどこに行ったのだろう
美しい顔を持つ私の騎士、私の剣、私の盾…私の…
「起きろ!小娘!」
「…!」
私の目の前に現れた、黒い蛇
私なんて一息に飲み込めてしまいそうな漆黒の蛇は、真っ赤な瞳を私へ向けて睨みつけている
はて…私の手元に蛇の駒なんてあっただろうか
「何を飯事に殉じておるか!貴様のやるべき事を忘れたか!」
目の前に現れた蛇は黒い城の壁や床に劣らず、より奈落の底のような黒い鱗を持っている
この場の何よりも黒い、黒い蛇は、不躾にも女王である私へ「小娘」だの「貴様」だの言ってきた
あまりにも不敬だ、女王としての威厳が低迷してしまうじゃない
「貴方は誰ですか?私は白の女王、この城の主です
その不遜な態度を改めるのであれば私を「小娘」呼ばわりした不敬を許します」
「本当に頭がとち狂ったのか貴様は!
ここは敵の術中の中じゃ!自我を見失うでない!」
「敵?そう、貴方は赤の女王の手先ですね
その深紅の瞳が何よりの証拠でしょう」
「話が通じんのか貴様は!」
黒い蛇はその鋭い牙を見せながら叫ぶ
話が通じないのは一体どちらなのだろうか
それにしても赤の女王は、こんな不遜な手下を寄越して今日のチェス対決を有耶無耶にしようだなんて、小狡い彼らしいやり口だとは思うけれど
「…はぁ、いい加減にせよ小娘
その滑稽な姿、自我を取り戻した後に笑い飛ばしてやるから覚悟せよ
貴様は園村萌恵、轟家家系の端の端、園村家の代表である
妾は無二、貴様が名付けた名である」
「私…の名前…と、私が名付けた貴方の名前…?
何を言っているの、轟家なんてもの、私は知りません」
「知らぬはずがない、あそこには貴様の兄達がおる
聖杯を持ち帰らねば、貴様共々立場が危うくなろう」
兄達、轟家、聖杯
知らない、そんなもの、私には関係がない
けれど脳裏に浮かぶ、優しい男の人達の顔
私の頭を撫でる大きな手
一体、この記憶は何?
「小娘、貴様と妾は一心同体
肉体は貴様が、魂は妾が、心は共に分かち合っておる
わかるか?貴様は妾、妾は貴様じゃ」
「そんなはず…私は、私…貴方みたいな蛇が、私のはず」
「世界蛇
…今は亡き、
それを差し出して、吾の魂を貴様に宿し、命を繋いだ
その首の傷を忘れるな」
蛇が、頭を私の首に擦り寄せる
首に巻かれたチョーカー…それを外して、窓に歩み寄った
これは…そう、これは、私の傷を隠すもの
窓に反射した私の姿…その首には、横一文字の傷痕がくっきりと残っている
「…これ…は…」
「そう、貴様が一度死んだ証
吾が貴様に憑いていなければ、貴様はそのまま死んでいた
肉体が損傷した時…
吾がそれを補っているのだ」
途端、脳裏に記憶がフラッシュバックしてくる
七年と数ヶ月前、そう、やけに蒸し暑い夏の日
父はとうとう包丁を持ち出して、私を捕まえて、この首を切り裂いたんだ
父は狂ってしまった
最愛の妻である、私の母を失ったショックで…それまで穏やかで優しかった父は豹変し、毎日のように泣き叫んで…
私を「
八年前のあの日、私は母に連れられ海外に行っていた、その帰りに、搭乗していた飛行機が墜落事故を起こした
私は奇跡的に助かり日本に帰ることが出来たが、母は機体と共に海の底へ沈んでいった
遺体の入っていない棺桶
眩しい笑顔の遺影
参列者の後が絶たない葬式で、お父さんはずっと泣いていた
遺品も全て実家に…轟家に押収され、残った結婚指輪を握り締めて、泣き崩れていた
兄さん達はお父さんに寄り添ったり、退院したばかりの私に寄り添ってくれていた
…そういえば、兄さん達は、葬式でもそれ以外でも…母さんの死で泣いたところを見たことがなかったな
なんでなのか、聞いたこともなかったけど
母さんが死んで、お父さんときょうだい四人になって、生活には困らなくても家庭内にはぽっかりと穴が開いてしまった
その穴はもう埋めることはできなくて
埋めることが出来ないはずなのに
お父さんは私を、母さんの
思えば私しか適任がいなかったからだ
私達きょうだいのなかで私は唯一の女の子で、顔立ちも母さん似だったから
だからお父さんは、私に母さんの面影を重ねた
最初の頃は私を私と思って接しようとしてくれたけれど、いつしか私のことを「心」と呼んで直そうともしなかった
「心、今日はちょっと仕事が遅くなるよ」
「父さん…萌恵は母さんじゃないんだよ」
「えぇ?お前達何言ってるんだ
母さんと萌恵は確かに似ているからなぁ」
お父さんは母さんの事が大好きだったから、喪って耐えられないのも理解できなくは無い
精神が崩壊していることを私と兄さん達はわかっていた…でも、病院に連れていくことも出来なければ相談できる人もいなかった
それに、私が受け入れたんだ
母さん役を演じることを
それでお父さんが苦しまずに済むのなら、私自身を見てくれなくてもいいんだ…って
最初こそ、そう思っていた
「心、今日は久々に映画館デートでもしよう
君が好きだった映画の最新作が出たんだ、きっと面白いぞ」
「息子達も大きくなって家を出ることになったら、二人でゆっくり暮らそう
寂しいのなら、ペットを飼うのもいいかもなぁ」
「心、いってらっしゃいのキスをしてくれないか?」
「心、風呂一緒に入ろう!」
「心…愛しているよ、心…」
お父さんの娘の私が、夫婦の営みを再現出来るはずもなく
私がお父さんの意に沿わない反応をすると、返ってきたのは暴力だった
「心はそんな事言わない」「心ならそんな行動しない」と…うわ言のように繰り返し呟きながら私を殴って蹴っていた
やがては学校にすら通うことを禁止され、お父さんも仕事を休みがちになった
兄さん達が何度も何度も止めてくれたけど、私がお父さんを庇い続けたから、私のことを想ってくれている兄さん達はそれ以上のことをしなかった
私が一人我慢すればいい
母さんを愛していたお父さんだって辛く苦しいのだから
でも、あの日、真夏の蒸し暑いある日のこと
兄さん達は学校に行き、家に残ったのは私とお父さんだけ
もう何日も会社を無断欠勤していた父さんは私から離れられなくなっていた
夫婦ごっこを続けていた私に、お父さんはいつもの愛の言葉を囁いた
「愛しているよ…心」
私はこの時、お父さんの寂しさを埋めたくて…なんとか応えようとして、怯えながらも言葉を返した
「私も愛しているわ、優朔」
今まで躊躇って抵抗していたこの言葉を、私は私として生きることを諦めた中に口にした
…けれど、それがいけなかったのだ
次の瞬間に認識したのは、床を見つめる私の左頬が熱かったこと
口の中には味わい尽くした鉄の味がしたこと
何かを叫ぶ父の声
「心はそんなこと言わない!心が!俺に愛の言葉を返してくれたことなど一度たりともなかった!
俺の愛に彼女はいつも微笑むだけ!彼女は俺を愛してなどいないからだ!彼女は俺の資産だけを必要としていた!彼女の「心」はいつもどこか違う方を向いていたからだ!
俺の愛に彼女は応えない…!!心は俺を愛さなかった!!愛してくれなかった!!」
両手で顔を覆い、泣き叫ぶお父さんを呆然と見つめていると…鋭い視線が私を見た
「心…ああ…心…!心、心、こころぉ…!なんで…なんで死んだのが心なんだ!
その言葉が、私の耳に張り付いて離れない
頭の中で反響して、私の心臓が凍り付いたみたいに痛く冷たく感じた
お父さんはキッチンへ駆け込み、何かを漁って…見つけたソレを手にした
鋭く研いだ、包丁…ソレを手に、お父さんは私に近付いてきた
私はすぐに命の危険を悟ったけど、恐怖とパニックと、言われた言葉に砕かれた心が上手く体を動かせない
這いつくばりながら逃げようとするも、あっという間に髪の毛を掴まれ、床に押さえつけられた
お父さんの顔は恋をするように頬を染めながら、絶望に涙したようなぐちゃぐちゃとした顔で
「もう…もう一人にしないよ…心…い、一緒に…一緒にいこう…?
大丈夫…大丈夫だからね…俺も後からいくから…」
「やだ…やだ!いやだ!ごめんなさいお父さん!次こそ完璧にお母さんやるから!ごめんなさい!許してください!
やだやだ、やめて、やだ!!いやぁぁ!!」
「愛してるよ心…もう君をひとりぼっちにはさせないから…!」
錯乱した父の手により、私の首は掻き斬られた
首から生暖かい血が吹き出てきたのを今でも覚えている
息を吸っても喉の傷口から血とともに抜けていく
痛みと熱と血の感触で私の感覚神経は占領され、それ以降のお父さんの叫びを聞き取ることは出来なかった
私は、母さんになれなかった
それ以前に、私の方が生き残ってしまったことを悔いた
葬式には沢山の人がいた
誰もが母さんの死を悲しんでいたはずだ
母さんは天才的な魔女、私はその魔術回路の一割すら引き継げなかった出来損ない
何故母さんが私を連れ回していたのかはわからないけれど…それでも私には母さんが期待するほどの才能は無い
私が生き残るよりも、母さんが生き残るべきだった
ごめんなさい、生き残ったのが私で、ごめんなさい
どうして私だったんだろう
どうして私だけが生き残ってしまったんだろう
私じゃなく、母さんが、生き残るべきだったのに
「否、貴様でないとならなかった
でなければ、
蛇が、私に寄り添った
お父さんに殺されたあの日、あの時、私は夢を見た
いつも見ていた海に溺れる夢じゃなくて、真っ黒い世界の中で真っ黒い蛇が佇む夢
その時初めて悪夢を見ずに済んだのだ
「吾は世界蛇
名はとうの昔に失われ、今は身体なき亡霊である
魂だけの吾を、貴様が見つけてくれたのだ
誰も吾を見出すことの出来なかった中、貴様だけが吾を見定めた
吾を孤独から救い出した貴様に報いる時である
命を奪う側の吾に、死んでから初めて、救うことをさせてくれた
愛しき命よ、どうかもう一度その息吹を蘇らせてくれ」
「……無二」
目の前にいるのは、もういつもの小ささに戻った黒い蛇
私の影と繋がった、私の半身
どうして忘れてしまったのだろう
「ああ、そうだ
貴様が名付けた妾の名だ」
「私がお父さんに殺された時に、私の命になってくれた…魂の代わりになってくれた、私の大切な存在」
「妾も貴様が大切なのだ
故に、斯様なところで飯事の人形にさせられるのは耐えられなんだ
貴様が幸福に生きること、それが名を失った世界蛇の望みである」
無二と私は額を擦り合わせ、存在を確かめ合った
私は園村萌恵
轟家分家系外五十二位の園村家代表
そして、聖杯戦争に参加した魔術師の一人であり…ランサーのマスター
そうだ、ランサーはどこだろう
はやくランサーとも合流しないとだ
「無二、ランサー見てない?一緒にいたはず…」
「この固有結界内に入ってからは見ておらん
だが、そう遠くはないであろう
ここに入ってきた際の声を覚えておるか?」
固有結界に入った時に聞いた声…なんとなく覚えてはいるけれど、御伽噺の一節みたいな抽象的な文言だったな
それに…記憶を失っている間、朧気に言っていた自分の言葉、意識…
赤の女王の「彼」に、私の騎士…赤の女王はわからないけれど、騎士というのはもしかして
「マスター!」
玉座の間の大扉を開けて、誰かが入ってきた
この声は、そう、紛れもないランサーの声
「ラン…サー……」
振り返り声の主を目視しようとすると、そこには輝かしい騎士が立っていた
元々の美貌に加え、綺麗にまとめられた髪に中世ヨーロッパの騎士や、王子様を思わせる白色の装い
騎士…うん、これはもはや王子様だ
小さい頃絵本を読んだことのある子供なら誰しも想像するような、絵に描いた通りの白馬の王子様そのもの
さすがに私も言葉を失ってしまう
「良かった、無事で
ごめんよ、この結界内に入った瞬間転移させられたみたいなんだ
けど、そう遠い場所でなくてよかった」
「う、うん、そう、だね…」
「マスター?歯切れが悪いけれど、どうかしたかい?」
どうもこうもあるか!自分の良さを自覚して自重してほしい!いつにも増してキラキラの光フィルターが四割増しでかけられているから!
…いや、ランサーも私と一緒で何故かこんな格好をさせられているんだろう
私だって、こんな煌びやかで白いドレス、ガラじゃないのに…
(…ん?待てよ、なんだかこの色に組み合わせ…)
…いや、考えないでおこう、そう言うものに例えられた時、そんなつもりも無いのに変な空気になるのはいたたまれない
「ひとまず無事を確認できてよかった
どうやらここは、中にいる人間に何らかの役職を被せる空間の様だ」
「何らかの役職?」
「ここに入る時に聞いた声、そして僕らの格好…洗脳やじみた強い強制力を誇る支配魔術…この固有結界内の「法則」が永続的に仕掛けられている
僕は高度の対魔力スキルがあるから通じなかったけど」
「わ、私は無二のお陰で支配から解放されたってことなのかな…?」
「そうじゃ、感謝せよ」
「うん、ありがとうね」
謝礼の言葉を聞いた無二は満足したのか、私の影の中に戻っていった
無二がいなかったら、私は今もこの固有結界の支配から逃れられなかったかもしれないんだ
とりあえず、ランサーとも合流したところで…今の現状を整理しよう
私達は南中央病院を中心として発生し、今も拡大中の固有結界の調査のために固有結界内に足を踏み入れた
その結果、固有結界の法則に支配され、何らかの役職を被った
その結果がこの姿であり、ランサーはともかく私はその役職に記憶も人格も改変されたというわけだ
白の女王…そして赤の女王、とくれば…
「ここはもしかしたら、不思議の国なのかもしれない」
「不思議の国?」
「うん、世界的にも有名な童話「不思議の国のアリス」の舞台となる、現実とは全く異なる異世界みたいな場所のこと
そこには同じく現実的でない、常識の通じない不思議な住人達がいて、私は白の女王の役を被せられたのかも」
そうなると、この固有結界を発動したのは、昨晩病院を襲撃してきたキャスター…ルイス・キャロルで間違いない
でも、これ程大規模な固有結界を継続して展開できるなんて、キャスターはそれほどまでに優秀な魔術師だったのか?
固有結界というものは、本来世界を文字通り「改変」してしまうもの
でも本来の世界もまた自分達の存在を守るため、抵抗する…それが「抑止力」というものらしい
抑止力による修正力が働くから、本来固有結界は長い時間展開し続けられないって
でもこの固有結界は、修正力に押し切られるどころかどんどん拡大していっている
近代の数学者であり作家であるルイス・キャロルが出来る芸当とは思えないけれど…
「キャスターの攻撃…もしくは宝具の可能性が高いし、キャスターを見つけ出す必要があるね
とりあえず、病院を目指そう
…って、地形もめちゃくちゃ変わってるから何処に何があるのかわからないね…」
「安心してほしいマスター
結界内ならアンやかごめ、他のサーヴァントの気配も辿れる
まずは…そうだね、あの赤い城を目指そう」
ランサーは窓の向こうの城を指さした
「あそこには彼…エリーゼがいる」
「赤の女王の彼…って、まさかエリーゼが赤の女王になってるとか?」
「君と同様に役を被せられている可能性は高いね
キャスターとセイバー、そしてそのマスター達はアンを殺そうと狙っていた
彼女が一番弱く、満足に動くことも出来ないから
狙いやすいところから崩すのは実に合理的…だけど、この固有結界がキャスターの宝具ならば何のために僕らに役を被せたのだろう」
そう、この固有結界がキャスターが仕掛けたものだとしたら、その目的は一体何なのだろうか
入ってきた時に聞いた声…あれがもし、世界の主たるキャスターのものなのだとしたら
新たなアリスというのは、一体何なのだろうか