アマギ・システムズホールディングス本社の地下七階には、限られた人間にしか立ち入ることのできない区画がある。
その区画は社内ポータルのフロアマップにも記載されておらず、役員向けの防災資料にすら、地下七階には倉庫と設備室しかないことになっている。巧妙に秘匿されたその区画──地下駐車場よりさらに下へ続く専用エレベーターに乗り、三段階の生体認証と、その日ごとに切り替わる暗号鍵を通った先に、その実験フロアがある。
白い壁。低温に保たれた空気。むき出しのサーバーラック。遮音扉。光沢のない床。どれもが無機質なこの空間で、かつて、夜な夜な実験が繰り返されていた。
その夜、アマギ・システムズホールディングス社長の天城統真は、久方ぶりにこの実験室を訪れていた。
時刻は十一時を少し回っていた。一般フロアの明かりはもうほとんど落ちているはずだが、この区画にいると、時刻の感覚が酷く曖昧に感じる。窓がないうえ、人の出入りもほとんどない。空調とサーバーの駆動音だけが途切れず続くせいで、ここでは昼と夜の境目が妙に薄かった。
フロアに保管されているものもほとんどが試作機か、凍結された案件の残骸ばかりだった。表に出る前の技術だけを集めた場所は、どこか現実の手前で時間が止まっているように見えることがあった。
だが今夜、その停滞した空気の中に、ひどく性質の悪い異物が紛れ込んでいた。端末には、酷く場違いで軽薄なファイル名が写っている。
『tsukuyomi_seed』
六時間前、この閉鎖区画にある完全隔離端末の一台に、外部接続の痕跡なしでファイルが保存されていた。ログ上、侵入経路は存在しない。ネットワーク的には何も起きていないことになっている。それなのに実際にはファイルがある、というのは、統真が最も嫌う種類の異常だった。
説明のつく失敗や事故ならいい。どんなに高額の損失が出ようと、原因が分かれば処理できる。怖いのは、因果が記録に残らないことだ。そこから先は技術の問題ではなく、統治の問題になる。会社の中で何が起きているかを把握できない人間は、会社を率いる資格がない。統真はそう思っている。
セキュリティ部門は総出で調査を始めていたが、このファイルの出所を特定するのには少なくない時間がかかるそうだ。ビジネスの世界では、少しのタイムロスが全ての崩壊を引き起こすのが常だ。悠長に報告を待つ気にはなれなかった。だから、自らが赴くことにした。もともとこういった分野について好んで学んでいた統真は、セキュリティ部門が舌を巻くほどの知識と能力を、社長になった現在になっても持ち続けていた。
その端末に映っているのは、仮想空間の基盤設計だった。
それも、ただのメタバース事業計画の類ではない。三次元で展開された層構造、感覚同期の補助、アバター制御、行動履歴の学習、人格連続性の保持機構。それは統真から見ても、異様なほど美しく整備された『骨格』であった。
既存の仮想空間設計は、だいたいが現実の延長だ。現実の身体を代替する、現実の交流を拡張する、現実の消費行動を乗せ換える。利益を求める以上は、必ずそういう方向に収束するのだ。なぜならパトロンが、それを望むゆえに。
だがこの設計は、最初から違う方向を向いていた。
仮想空間を現実の模造品にするのではなく、もう一つの生の場として成立させること。
それは、かつて統真自身が夢見て、現実の前に切り捨てた発想だった。
若い頃──まだ今の立場でなかったころの話だ。彼は《Eidolon》という没入型認知仮想空間の計画に、自分でも驚くほど熱を入れていた。仮想空間は現実の代用品ではなく、人が別の輪郭のまま生きることを許す第二の環境になれる――そんなことを、今思えば青臭く、しかし本気で信じていた。
結局、その夢は事業化の過程で削られ、叶うことはなかった。投資家に説明できる言葉に直され、法務を通る形に整えられ、医療安全基準と社会的受容性の名のもとに角を落とされ、最後には「次世代没入型インターフェース事業」という、どこにでもある凡庸な看板になった。残ったのは中途半端な技術と、夢を諦めたひとりの人間のみ。統真は、自分でも驚くほどあっさりとその計画を凍結した。それから統真は、仕事に全てを投じるようになった。その様は、狂気的とも言えるほどだった。わずか数年で、その失敗を過去のものにするほどの利益を会社にもたらし続け──その最中、前社長が逝去。若く、過去にプロジェクト凍結により損失を出したにも関わらず、統真がそのポストに選出された。それは前社長の意向だったが、上層部の中にも反対の声はなかった。それほど、統真は有能だったのだ。
そして、そんな統真だからこそ気づいていた。
このファイルに示されている骨格は、自分の《Eidolon》より遥かに優れていると。
人が別の輪郭をまとったまま、自分として生きることができる世界、その骨格──理念は自分のものと似ていても、それを実現させるための技術的構想が、飛躍した、けれど優れた理屈で綴られている。
まったくもって正気ではない。正気ではないが──筋が通っている。いっそ不思議なほどに。
統真は、立ったまま腕を組み画面を睨んだ。
「……悪趣味だな」
その言葉が誰に向けられていたものだったのかは、統真自身も分かってはいなかった。
そのときだった。
部屋の照明が、わずかに揺れる。
停電ではない。主電源は落ちていない。ただ、部屋全体の光量が一瞬だけ沈み、元に戻る。サーバーラックのLEDが、照明とは別のリズムで明滅しているのが見えた。
統真はすぐに端末へ手を伸ばした。胸ポケットからセキュリティ用の携帯端末を取り出し、電源ボタンを押す。反応しない。バッテリー残量は十分だったはずなのに、画面は黒いままだ。
補助モニターが一台、また一台と点灯した。
順番に、まるで誰かが暗い廊下を歩きながら、手元のスイッチをひとつずつ入れていくみたいな速度で。
主モニターにノイズが走る。設計図が乱れ、線がほどけ、画面いっぱいが黒に塗りつぶされる。
数秒の沈黙のあと、そこに現れたのは少女であった。
統真は動かなかった。動けなかったといってもいい。
整った顔立ちをした、長い白髪の少女だ。十代後半か二十代前半に見えるが、同時に年齢という尺度そのものが噛み合っていないようにも見える。アニメキャラクターのような外見をしているが、間違いなくそれとは違う。肌の陰影も瞳の光もあまりに自然なのに、カメラ越しの現実感だけが決定的に欠けている。統真の知るどの映像とも違う質感だった。実写でもCGでもアニメでもないのに、どれよりも自然で、どれよりも現実感が薄い。
少女はこちらを認めると、小さく手を振った。
「こんばんは。来てくれたんだね」
あまりにも場違いな明るい声に、統真は警戒を強める。
「たぶんそうするだろうなとは思ってたけど、ほんとに来ると、ちょっと嬉しいね。予想は正しかった……ってことかな」
統真は数秒黙ったあと、最低限の言葉だけを選ぶ。
「誰だ」
少女は軽く笑う。その笑い方が、安っぽく挑発しているわけではなく、ただ本当に可笑しそうなのが腹立たしかった。
「誰だって……そうだ、そうだね。私の名前は……ヤチヨとでもしておこうかな」
「……ヤチヨね。ふざけるのが好きなのかい」
「あ、ヤッチョでも可です」
当然名前は明かす気なし、と。何せ大企業だ、敵も多い。ハッカー集団か何かに攻撃を仕掛けられたのかと思ったが、ヤチヨ、という名前に該当する集団は記憶の中にはない。と、すると新興集団かあるいは個人か──統真は警戒度をひとつ引き上げた。日本国内一の大企業のネットワークに侵入しておいてこの態度。経験上、このような手合いは厄介なことが多い。
「このファイルを送ったのは君か?」
「うん、そうだよ。正真正銘私が作って、あなたに送った」
少女──ヤチヨは澱みなくそう答える。こんな若い少女が、おそらくは単独で我が社のネットワークに侵入した──理屈で考えればあり得ない。だが統真の本能は、それが事実だと言っていた。
「……こんな少女にセキュリティを突破されるとはな。体制を見直さなければならないようだ」
「あら、気にしなくていいよー。私は少し例外的だから……セキュリティ担当の人たちを責めないであげてほしいな」
「随分優しい犯人もいたものだ──目的は?」
「ふふ、なんか尋問みたいだねえ」
「答えろ」
ヤチヨは肩をすくめるような仕草をした。
「目的はもう、半分果たしたよ。あなたにあのファイルを見てもらう──それこそが、私の目的だったんだから」
「……何?」
統真はそこで初めて、これが破壊や脅迫の類ではない可能性を考えた。
ファイルそのものを見せることが目的だったのなら、相手は何かを奪いに来たのではなく……。
「もう半分は、あなたが受け入れてくれるかどうかだけどね」
「……は。何をだ」
「共同事業の持ちかけをだよ──」
果たしてそれは、統真の想像からはそう外れていなかった。
「共同事業か。侵入者が随分な物言いだな」
「詳細は聞かないんだ。それとも、もうわかってるのかな?」
「………」
「さすが社長さんだね。私的には、ここは結構な大勝負だから、理解が早いのは助かるよ……」
「大勝負か。そうは見えないが」
「そりゃあもちろん、そう見えないように頑張ってるからねぇ」
一拍置いて、統真は口を開く。
「内容は」
瞬間、ヤチヨの雰囲気がほんの少しだけ変わったことに統真は気づいた。うっすらとした笑みは浮かべたままだが、どこか"重心が前のめりに移った"ような──。ここからがヤチヨの本題なのだと分かる、そんな変化だった。
ヤチヨもまた一拍置くと、深呼吸をして──モーションキャプチャーだとしたら非常に高性能だと統真は思った──覚悟を決めたように言った。
「仮想空間をひとつ、世の中に出したい」
どくん。心臓が、静かに揺れた。
「……やはり、ファイルにあった『骨格』はそれか」
「そう。まだ完成系じゃないけど、核となる部分は既にある。私が、それを作った」
「君が?」
統真は思わず声を上げる。その言い方だと、まるでヤチヨ1人であの骨格を作り上げたかのような言い方だ。
「そうだよ。ファイルにある骨格は、私が1人で作ったもの。たった1人でね」
「1人だと? 嘘もいい加減にしろ。あんなものが個人で作れるわけが」
「さっき言ったでしょう」
ヤチヨは、統真の声を遮るように口を開く。
「私は"例外的"な存在なの。人間の常識の外にいる──おとぎ話の登場人物みたいな存在」
「何を……」
「私がなぜ、世界一強固と呼ばれるこの会社のセキュリティを突破できたと思う? あなたが直接現場を確かめにきたのだって、これが尋常な事態じゃないとわかっていたから……そうでしょ?」
統真は答えず、モニターに残る設計図へ視線を戻した。
「……まあ、いい」
「あれ、追求しないんだ」
「極論、お前の正体が個人だろうが集団だろうがAIだろうが、どうでもいいんだ。なぜ俺が警察やセキュリティに通報せず、悠長にこうして会話していると思う? お前に我々を害す意思がないことはわかっているからだ」
「……ずいぶん断言するね。多くの社員の生活を預かる人間としては、少しノー天気じゃない?」
「俺を舐めるなよ、小娘。俺がこの世界で、どれだけの人間と、どれだけの化け物と接してきたと思っている。俺から言わせてもらえば、お前は少々正直すぎる──ビジネスマンにはあまり向かないな」
ヤチヨは驚いたように目をぱちくりさせると、小さく笑った。
「ふふふ、そっかぁ。ヤッチョ、結構頑張ってたんだけど」
「は、そうか。まだまだ経験が足りないな、小娘──さて、今度は俺の本題だ。……お前、《Eidolon》を知っているな?」
そう言うと、ヤチヨは嬉しそうでも得意げでもない、妙に静かな顔になった。
「やっぱり分かるんだ。うん、悪いけど、見させてもらいました」
統真は、モニターへ映し出された設計の一部を拡大した。人格の連続性保持機構。《Eidolon》が最後まで越えられなかった箇所だ。その設計は《Eidolon》と非常に似通っていた。ただし違うのは、ヤチヨが提示した『骨格』では、その解決案が示されていたところだった。
「認めるのか」
「したものを、してないとは言えないし」
その潔さが腹立たしい。統真は内心で舌打ちをした。
ただ、とヤチヨが続ける。
「下敷きにはしたけど、私の『骨格』には《Eidolon》と全く異なる部分があるの。それが何なのか、あなたにならわかるよね?」
統真はそこでようやく彼女の眼を見た。
ヤチヨは、こちらをまっすぐ見返していた。統真にはすぐにわかった。こちらを、試している。
「《Eidolon》が頓挫したのは、技術的な問題のせいだけじゃない」
彼女はゆっくり言う。
「仮想空間を、現実の延長線上でしか説明できなくなったから。別の輪郭のまま生きてもいいんだ、ってところを先に捨てちゃった」
統真は、何も返せなかった。
それは彼の初期メモにあった考え方そのものだった。正式なプロジェクト資料にすら残っていない、もっと手前の、誰にも見せるつもりのなかった言葉。それを、ヤチヨは知っている。いや──知らないが、感じ取ったのか。
「……なぜ私のところへ来た」
声が少し低くなったのを、自分でも感じた。
「あなたは、もうひとつの世界を作れる人だと思ったから」
「他にも候補はいる。俺は……一度、間違えた」
「かもね。でも──」
ヤチヨは、まるで確信しているかのように言った。
「あなたは、思ったことがあるでしょ? 仮想空間をただの便利なサービスじゃなくて、人が現実とは別のかたちで生きてもいい世界にしたいって。そうやって、人々が繋がれる世界にしたいって」
統真は言葉を紡がなかった。
「もちろんその思いは、今じゃ削れて小さくなっちゃったのかもしれないけど。今こうやって話して再確認したよ。あなたのその思いは、まだ消えてないって」
ヤチヨの声は柔らかかった。断罪でも慰めでもない。その事実が、統真の心を乱していた。
「だから、あなたを選んだ。ただ技術があるだけの人じゃなくて、私と同じ思いを、抱いたことがある──ううん。今でも抱いてる人を」
統真は、目の前の存在をしばらく見つめた。酷く不快だった。図星だったからだ。ヤチヨからはかつての自分の青臭い理想、そしてそれが理想のまま終わった苦い記憶を突きつけられているようだった。
ただ──同時に、奇妙な感覚もあった。身体の奥の奥に、熱を感じるのだ。それは統真が今の立場になってから、久しく感じなくなっていたものだった。
「……あなたには、私が作った仮想世界、『ツクヨミ』の表向きの開発主体になってほしいの」
「つまり、うちの会社の名前を使わせろと?」
「うん。正確には、名前だけじゃなくて、人も、設備も、お金も、法務も、いろんな説明責任も」
「注文が多いな。侵入者の立場で図々しい……」
「だってヤッチョ、そういうの一個も持ってないから」
そこでヤチヨは、少しだけ肩をすくめる。
「会社もないし、戸籍もないし、銀行口座もないし、役所に行こうにも無理だし……」
「やはり犯罪者か」
「違う違う! 言ったでしょ、私は例外的なの!」
おとぎ話の登場人物にしては、縛られるものが多すぎる気がするが、と統真は思った。目の前のヤチヨという存在、やはり不審極まりない。それらの当たり前のものがない理由とは何だ、と考えそうになり、思考を打ち切る。それは後でいい。
「あともうひとつ。空間そのものは私が作る。たぶん、ツクヨミの核になる部分は私にしか作れないから。でも、世界だけがそこにあったところで、人間はそのままじゃ来られない──入口がなければ」
ヤチヨは指先を振る。主モニターの図面が切り替わり、薄いレンズ状のデバイス設計が現れた。
「だから入口が要る。安全で、身近な、そんな入口が」
「……それも盗み見たのか」
「コンタクト型ってのはいいアイデアだよねえ。私も驚いちゃった」
それもまた、統真がかつて構想したものだった。最後まで形にはならなかった、仮想世界へダイブするためのコンタクト型機器。
「簡単に言うな。角膜上に常時装着する機器だぞ。視認性、生体適合、長時間装用、衛生、認知同期、どれを取っても単独で事業が成り立つ難易度だ」
「だから並の会社じゃ無理なんだよね。光学だけでも駄目だし、医療だけでも駄目だし、通信だけでも駄目。それらの技術を全部持っていて、しかも世の中にその完成系を広められる会社を私は探してた。……それに、やっぱり組織だけじゃなく、社長も並じゃないみたいだし?」
統真は腕を組み直した。こいつは、それが実現可能だと信じているのか──私になら。私たちになら。
統真は声を震わせながら、口を開く。
「……仮に、仮にだ。それが技術的に成立したとしてもだぞ。あれほど完成された仮想空間が社会に受け入れられるためには、正当化の物語が要る。提案した以上、知らないとは言わせんぞ」
堰を切ったように、言葉が溢れ出した。
「かつてアメリカのある企業が、便利で素晴らしい仮想世界を作り出した。ヘッドセット型の機器でログインする仕様で、アメリカでは大人気、社会現象化した。そして日本にも数は少ないがその機器は流通していた──だが! すぐに問題は噴出した。若者の仮想世界への依存。仮想世界の犯罪利用。ヘッドセット自体のエラーによるログアウト不可……その世界はすぐにクローズされ、仮想空間の印象は世界中でガタ落ちだ。それ以降、大規模な仮想世界を作る企業はいなくなった……人類には早すぎた、とさえ言われた。そして私も結局、その言葉を覆しきれなかった。その通りだと、そう思ってしまった……」
ヤチヨは、真剣な表情を浮かべ、統真を見ている。
「……それでもお前は、仮想世界を作れると──作る価値があると、思うか」
ヤチヨは少しだけ目を細め、それから驚くほど静かな声で答えた。
「あるよ」
意思が漲った声だった。信念を持つ人間にのみ宿る、声色だった。
「どうしてそう言い切れる」
「それは、あなたが知ってるはずだよ」
「……何?」
問い返されて、統真は眉を寄せた。
「あなたは、仮想世界が起こしたそういう問題を、起こしてしまうかもしれない可能性を知っていて──それでも昔、世界を作ろうとしたんでしょう。それが、理由だよ。あなたは信じてるんだ。仮想世界の可能性を……」
統真はすぐに言葉を返せなかった。
その通りだ。少なくとも、かつては信じていた。仮想空間は現実から逃げるための檻ではなく、現実で押し潰された輪郭を保ったまま呼吸できる場所になりうる、と。人々がそうやって繋がれる場所になれると。そんなことを本気で信じていた時期があった。
信じて、失敗した。
だから、信じていなかったことにしていたのだ。
ヤチヨは、じっと統真を見ていた。決して急かすことはせず、ただじっと何かを待っていた。
そうして、永遠にも思える沈黙が過ぎて。
統真はゆっくりと、モニターを見た。そこに映る少女は、不審な要素の塊だ。正体も経歴も不明。やっていることは明確に不法侵入で、持ち込んできた話は現実の外にある。まともに取り合う理由など、本来なら何ひとつない。それでも、もう分かっていた。ここで逃げて仕舞えば、自分は後悔すると。そして何より、胸にあるこの熱に従わないのは──ビジネスマンとして2流だと。
「提案書を出せ」
ヤチヨが目を瞬く。
「え」
「正式な形にしろ。技術要件、段階目標、必要な人材、設備、法的リスク、想定される反発、全部だ。こちらに何を求めるのかも明文化しろ」
「……それって」
「検討に値するかどうか、判断する」
しばしの沈黙のあと、ヤチヨは派手に、大きな声をあげた。
「やったぁぁぁぁ!! 第一関門突破ぁぁぁ!!!!」
統真はあまりの煩さに顔をしかめた。
「勘違いするな。信用したわけじゃない」
「うん。そこは分かってるよ。でも、話の続きができるなら十分!」
次の瞬間、映像の輪郭がわずかに揺らぐ。音声にもノイズが混じった。
「どうした?」
「や、時間切れかなぁ。やっぱりまだ慣れてなくて、こっちから長く触るのは無理があったカモ……」
何だそれは、という準備の悪さに少し苛つきながら統真は言う。
「次はいつだ」
「準備できたらまた来るよ。ちゃんと資料も持って」
そこでヤチヨは、少しだけいたずらっぽく目を細めた。
「あとは……次までに、ヤッチョのことを完全に不審者扱いするの、ちょっとだけ控えてくれると嬉しいな」
「難しい注文だな」
「善処をお願いしますよ、社長さん?」
そう言って、彼女はひらひらと手を振った。やけに人間くさい仕草だった。
「じゃあ、また。今度はもう少し、ちゃんと話そ!今日は、ほんとに、ほんとーに、ありがとう!!」
映像が途切れる。と同時に照明が安定し、サーバーラックのランプも元の規則的な点滅に戻った。部屋には、さっきまでの出来事がまるでなかったかのように、空調の音だけが残っている。
だが、彼女がいた証を残すように、端末には、新しいフォルダが一つ増えていた。
『TSUKUYOMI / proposal_draft_01』
統真はしばらくそれを見つめ、それからゆっくりと椅子に腰を下ろした。
合理的に考えるなら、いまこの瞬間に区画を封鎖し、全ログを保全し、危機管理案件として処理するべきだ。外部侵入の可能性を前提に、セキュリティ部門へ全面委譲する。それが会社を守る判断だ。しかし、統真の胸の奥では、別のものが動いていた。何年も感じていなかった、不快で、危険で、それでも鮮烈な熱だ。捨てたと思っていた夢の残骸に、いまさら火がついたような感覚。
あの存在は、会社を乗っ取りに来たのではない。もっと面倒で、もっと始末が悪いものを持ち込んできた。自分がいったん切り捨てた理想の、その先を。
統真は最上位秘匿回線を開いた。
深夜にもかかわらず、回線の向こうは数コールで繋がった。統括の寝起きの声が何か言いかけるのを遮り、統真は短く告げる。
「三年前に凍結した《Eidolon》の初期資料を、閲覧権限ごと私の直轄へ戻す。それから、今日付で新規の極秘案件を立ち上げる」
一拍置き、モニターの端に残るフォルダ名へ視線をやる。
「案件コードは仮置きでいい。当面は『ツクヨミ』と」
通話を切ったあとも、統真はしばらく画面を見ていた。
まだ引き返せる。そう思う。
だが、その選択肢は既に自分の中にはない。
統真は、あの例外的な少女に、夢の続きを求めてしまったのだから。