アークナイツの短い話   作:十羽せろん

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ジアロ姉弟が疑問を問う話

『何故でしょうか、私には理解できません』
『何故そうなのか、私には分からないの』


【穏やかな午後】 

 

 

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『あらゆる問題や争いは……力で解決するしかないのでしょうか?』

 

『胸に秘めた感情は……お互いを傷つけ合うだけなのかしら?』

 

 

 

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「お疲れ様でした、イグゼキュターさん。本日の精密検査は終了です」

 

 その言葉を聞いて、イグゼキュターは目を開いた。既に見慣れた天井が映り、同じく見慣れたロドスの医療スタッフの姿が視界に入る。精密検査を受ける前と一切状態が変わらない事を自覚し、視線だけを動かして周りの状態を確かめた。今回も自分の精密検査を担当した彼女は、手元の端末に向かって何かを入力している。恐らく前回の結果と今回の結果の比較等を行っているのだろうと判断し体を起こす。検査の為に預けていた装備品を身に付け、普段通りの格好に戻った所で医療スタッフに声を掛けた。

 

「今回の精密検査の結果について教えて頂けますか?」

「血液中源石密度の変動も僅かで、それ以外は相変わらず健康そのものですね」

「何の問題も無いと?」

「そうですね。この精密検査をするのも、そこそこの回数にはなりますが……この時間で別の事をしていた方が、遥かに有意義な気がする程には健康ですよ」

「……」

 

「イグゼキュターさん、あなたは一体何がそんなに気になるのですか?」

「分かりません」

「分からない?」

「はい」

「……うーん」

 

「私の中に、これまでには存在しなかった違和感が確かにあります。ですが、”それ”が何であるかを言語化する事が出来ません」

「だから『分からない』と言う事ね」

「はい。この私の中にある違和感に対して、明確な答えを探しています。しかし、この違和感が何に由来する物なのか、私に何の影響を与えているのか断定出来ずにいます」

「つまり……”分からない事が分からない”状態であると?」

「その表現は適切ではありませんが、その認識で問題ありません」

「成程ね」

 

 ロドスの医療スタッフは、イグゼキュターが抱えている問題についての解決法を考えた。彼が抱えている問題は、精密検査等では何回調べた所で意味をなさないだろう。これは身体に関連する問題ではないからだ。根本的な問題は、イグゼキュターの精神面に抱えているのだから。しかし、この問題はメンタルケアと言った方法で、解消出来ると言う事でもない。本人が明確な答えを求めている以上、誰かから与えられるのではなく、自らで導き出さなければならない。彼が直面しているこれは、きっと誰もが経験する事で、それが彼にとって少々遅れながらやって来たと言うだけだ。

 

「イグゼキュターさん、一旦この様な精密検査をするのはやめましょう」

「それはつまり、ロドスでは私の抱えている問題を解決する事が出来ない、と言う事でしょうか?」

「違います、やり方を変えようと言う話です。あなたが抱えている問題は身体では無く、精神面の可能性が高そうですからね」

「私は精神に何かしらの疾患を抱えていると?」

「ちょっと違いますね……心の問題だと思いますよ」

「……心。私には理解出来ません」

「あなたには確かに……難しいかもしれませんね。兎に角、この問題を解決する為の力になってくれる人物に紹介状を書きます。少しお時間を頂きますので、外でお待ち下さい。紹介状が出来上がりましたらお呼びしますので、自由に歩いて貰って大丈夫ですよ」

「……了解しました」

 

 イグゼキュターは検査室を出ると患者たちの間を抜け、待合室を離れる。そのまま廊下で待機しようと考えたが、何故か病室に足が向かった。ただ無意識に、何か考えがあった訳でも無いのに、自然を病室に向かって歩き出していた。これこそがイグゼキュターが抱えている違和感であり、問題であり、変化だった。彼は多くの場面でこの様な行動を繰り返し、後になってその行動について疑問を持つ事を繰り返している。この変化はイグゼキュターにとって歓迎すべきものではあるのだが、本人はそれをまだ理解する事が出来ない。

 

 

 

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 イグゼキュターは歩きながら自身の状態を確かめる。呼吸、心拍、光輪、その全てに異常はない。そんな事は精密検査を受ける前から、分かっている事ではあるのだ。分かっていながら、こうしてロドスを訪れる度に精密検査を受けている。医療スタッフに言われる必要もなく、無駄な事であると既に十分に理解していた。では何故、無駄な事を繰り返しているのか? ロドスの医療スタッフの言葉を思い出す、『”分からない事が分からない”状態であると?』……確かにアンブロシウス修道院での任務を終えてから、思考回路がよく停滞してしまう。”物思いに耽る”、かつては縁の無かったこの行動の頻度が著しく増えている事にも困惑している。

 

(今後、感情によって行動が左右される事態は避けなければなりません)

(では、私が現在感じている違和感は何に起因する物なのでしょうか?)

(──必要な事は今まで通り、職務に忠実であることを徹底するのみ)

(問題がそこにあれば、解決を試みればいい)

(心に疑念が生じれば、誰かに答えを求めればいい)

(その”誰か”から与えられた答えで、私は納得する事が出来るのでしょうか?)

(私は──)

 

「お兄さんも病気なの?」

 

 人の出入りが少ない病室で何度も繰り返された思考をしながら、窓の外を見ていた時に急に声を掛けられる。声がした方を見れば、ベッド備え付けの机の上に紙を広げ、絵を描いている子供がいた。

 

「いいえ。先程の検査の結果では、何処にも問題の無い健康そのものだそうです」

「じゃあ……何処か怪我をしたの?」

「いいえ。直近の任務での負傷は一切ありません」

「……だったら、窓の外に何か面白いものがあるとか?」

「いいえ、少し考え事をしていました」

「ふーん。新しい同室の人が来たと思ったのに違うんだね」

「あなたはこの部屋での生活が長いのですか?」

「そうだよ。お兄さん、ずっと立ってないでこっちに来て座ってよ」

「……了解しました」

 

 イグゼキュターは子供のいるベッドの横の椅子に腰を下ろす。

 

「あなたはずっと、ここで絵を描いているのですか?」

「ずっとじゃないよ。調子が良い時だけ」

「こちらの絵は何でしょうか。形から推察するに何かの動物の様ですが」

「図鑑に載ってた羽獣だよ」

「この体色を持つ羽獣を私は知りません。最近発見された新種でしょうか?」

「……お兄さん、友達少ないでしょ」

「私には職務上の同僚は多く存在します。しかし、あなたの言う通り”友人”と呼べる存在は、あまり多くないのかもしれません」

「そう言う事じゃないんだけど……」

「あなたの表情には微かに落胆が見られます。私の回答は、あなたを満足させるのに不十分だったでしょうか?」

「ううん、そんな事は無いよ。けど……」

「なんでしょうか」

「何でもないよ」

 

 少しばかり考えた後で、子供は話の話題を変える事を選ぶ。

 イグゼキュターもその事について、深く追及する事はしなかった。

 

 

 

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「お兄さんはサンクタだから、天使の国から来たの?」

「天使の国……ラテラーノの事でしょうか?」

「そう、ラテラーノ」

「はい。私はラテラーノ公証人役場法定執行人です」

「ラテラーノこう……?」

「ラテラーノ公証人役場法定執行人です」

「……凄そうだね」

「凄いと言う表現が適切かは分かりません。ですが数多くの人々が、様々な分野で在籍しているのは事実です」

「へぇ~、ラテラーノの街ってどんな所? なんか兎に角、白いって聞いた事があるよ」

「その情報は誤りではありません。ラテラーノの街並みは基本的に白に統一されています。似た様な外観の建造物が並んでいる為か、人によっては非常に整った印象を受けるそうです」

 

「夜になったらどうなるの?」

「ラテラーノ電力管理所は都市全体の公共電力システムについて、統一的な計画が行われています。最初に点灯するエリアが啓示の石塔のある街区となっています。これにはパネル操作員の習慣によるものですが、啓示の石塔右側の通りを起点に、ミカエレオン区の公証人役場と大小様々な銃工房、聖マルソー区のサンセット礼拜堂を経て、教会広場へ続きます」

「夜のラテラーノは順番に灯りが点くんだ。きっと凄く綺麗なんだろうね」

「そうですね……変わらず美しい景色です」

「見てみたいな」

「以前、ドクターがラテラーノを来訪された時は複数の子供達と一緒でした。次の機会があれば、あなたも同行を希望すると良いでしょう」

「……そうしようかな」

 

 ラテラーノには何があるのか、ラテラーノでは何が人気なのか、サンクタはその時の気分で周囲を爆破する噂は本当か等々……自分が目にした事のない”天使の国”(ラテラーノ)に対して想像力を働かせながら、子供は未知への想像と期待の中で、突如として目の前に現れた”天使”(イグゼキュター)に質問を繰り返す。イグゼキュターはそれらの沢山の質問に対し、正確かつ正解な答えを返す。彼から得た答えの中に更なる疑問を得た子供は、更に質問を繰り返す。問いと答え、そこから生まれる疑問と新たな答え。飽きる事無く繰り返されるそれは、会話の難易度や対象の違いはあれど、普段のイグゼキュターの会話に似た様な所があった。

 

「以前私は、ラテラーノで風船を大量に体に括り付け、空へと浮かび上がった人物を見た事があります」

「ラテラーノの子も、そう言う事やってみたりするんだ」

「いいえ、成人の男性です」

「えぇ……大人がそんな事するの? ……その人はどうなったの?」

「彼の当初の目的であった、”風船を括り付け空を飛ぶ”と言う内容は達成されました。しかし、想定以上に浮き上がった結果、高所恐怖症である事を思い出し救助を要請、私が風船を破壊し救助を完了しました」

「……思ったよりも変な所なんだね」

「そうでしょうか? この様な事例は、ラテラーノでは珍しくありません」

 

「お兄さんの話を聞いていると、印象がどんどん変わっていく気がする」

「情報を得て、認識が事実に近付き、理解を深める事は重要な事です」

「印象が変わるのは……お兄さんに対してもだけどね」

「どう言う意味でしょうか?」

「そのままだよ」

「そのままとは? 質問への回答は、正確かつ明確にお願いします」

「だからそう言う所だって!!」

 

 子供のイグゼキュターに対する印象は既にすっかりと変わっている。

 確かに色々な事を知っているし、自分よりも遥かに大人だ。

 話し方も堅苦しいし、言っている事も難しい。

 

 けれどその中心にあるのは単純な疑問だと思った。

 目に入る物全てが気になって仕方がない、疑問に対する答えが欲しい。

 そう、まるで色々な物に興味を持ち始めた頃の弟の様だと。

 

 

 

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 思考を整える為の”物思いに耽る”と言う行動から、唐突に生まれたこの出会いから始まった会話は、それほど難しい内容では無い。どれもイグゼキュターの中に正確に記憶されている情報によって、正しく伝達されているからだ。多少難解な言い回しに聞こえる内容であっても、話をちゃんと聞いていれば子供でも十分に内容を理解出来る。だからこそ、この会話の中でイグゼキュターに新たに大きな疑問は生まれる事は無く、思考は安定した状態を保っていたのだが、子供の最後の質問によりそれは大きく乱される事になるのだった。

 

「ラテラーノには神様が居るって本当?」

「ラテラーノに”神”と呼称される個体は存在しません」

「一番偉い人は神様じゃないんだ」

「ラテラーノにおいて最高指導者と呼ばれる立場は”教皇”と呼称され、現在はイヴァンジェリスタXI世がその地位に在籍しています」

「いばじぇすたじゅういっせい?」

「イヴァンジェリスタXI世です」

「その人は神様じゃないの?」

「違います」

「じゃあ神様は居ないんだ」

「あなたの言う”神”とは、どのような存在なのでしょうか?」

「どんな願いでも叶えてくれる凄い存在?」

 

 イグゼキュターはその言葉に大きな疑問を持った。

 

「……”神”が居たと仮定したとして、あなたは”神”に何を願うのですか?」

「えっとね……もっと優しい世界になりますようにってお願いするの」

「自分自身の事は願わないのですか?」

「自分だけ良くなるよりも、皆で良くなった方が嬉しいでしょ?」

「そうなのでしょうか?」

「そうじゃないの?」

「分かりません」

「お兄さんには分からない事が沢山あるんだね」

「……私はこれまで多くの事を学び、実践し、理解してきました。ですが……ある時を境に、理解していた筈の事が分からなくなってしまったのです。”それ”が一体何に起因しているのか、またそれはどうすれば解決する事が出来るのかをずっと考えています」

 

「分かってた事が分からなくなったの?」

「はい。ある人は『”分からない事が分からない”状態である』と診断しました」

「でも今は”分からない事が分からない”が分かったんだね」

「どういう意味でしょうか?」

「だって、本当に”分からない”事ってそれ自体に気が付かないでしょう? ”分からない”が分からないなら、その事を気にする事だって出来ないよ。だから……お兄さんが”分からない事が分からない”って思えてる事は、それを分かる様になれるって事だと思うな」

「それはあなたの考えなのですか?」

「本当はもっと難しい言い方してたんだけど、大体はお父さんとお母さんの受け売りだよ」

「ご両親は健在なのですね。良い事です」

 

「お兄さんは?」

「私の両親は15年以上前に殉職しており、既にこの世にはいません」

「……ごめんなさい」

「私は気にしていませんので問題ありません」

 

 少しばかり脱線した話を本筋へと戻す。

 

「先程、あなたは優しい世界になる様に願うと言いました。つまりあなたにとって、今の世界は優しくないのでしょうか?」

「うーん……どうなんだろう? 優しい所も優しくない所もある……気がする」

「何故そう思ったのですか?」

「何故って聞かれても……何となく? ちょっと待ってね。考えてみるから……」

「……」

「病気になった事は優しくないけど、ここで治療を受けられている事は優しいんじゃないかな。他には……」

 

 子供は拙いながらも自身の考えや思いを語った。その内容は聞く者によっては理解出来ない物であっただろうし、その逆もあるだろう。子供の言葉には複雑な思惑も、崇高な思考も含まれる事はあまりない。その瞬間的な考えや感情、非常に曖昧で脆いもので作られている。故に分かり易く、単純で、だからこそ納得する事が出来るのだ。

 

「お兄さんは優しい世界ってどんな世界だと思う?」

「考えた事がないので分かりません」

「じゃあ今、考えてみてよ」

「……」

 

 イグゼキュターは考える。

 ”優しい世界”とはどんな世界なのだろうか? 

 ”優しい”の定義とは何だろうか? 

 言葉の意味は理解している。

 しかし、その意味と理解だけでは想像する事が出来ない。

 理解している筈の事が分からなくなっていく。

 イグゼキュターは再び思考の乱れと混乱を感じた。

 分からない事が分からない。

 

『イグゼキュターさん、書類の用意が出来ましたので受付の方にお越し下さい』

 

 そのアナウンスによって思考は中断を余儀なくされる。

 

「申し訳ありません。私は行かなければならないようです」

「えー、お兄さんの答えを聞いてなのに?」

「現在の私では、あなたの質問に十分な回答を用意する事が出来ないようです」

「じゃあ、答えが出たら教えてくれる?」

「了解しました」

 

 イグゼキュターは椅子から立ち上がる。

 

「またね、天使のお兄さん」

 

 その言葉に頷き、病室を後にした。

 

 

 

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『……なぜこのような疑問が生成されたのでしょうか? 思考中──エラー、不具合が発生しました』

 

 

 

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 あれから暫く後、イグゼキュターはドクターの執務室を目指して歩いている。本来であれば、紹介状を受け取って直ぐに尋ねるべきだったのだが、当時ドクターは不在でイグゼキュター自身も任務の予定が入ってしまっていた。任務自体は問題無く完了したものの、イグゼキュターの脳内にはあの病室での問いがずっと渦巻いていたのだ。多くの時間をかけて思考を続けても、『”優しい世界”とはどんな世界であるか?』と言う問いの答えが見つける事が出来なかった。故にイグゼキュターは、自身の抱えている問題とこの問いへの答えを得る為に、ドクターの居る執務室へと早足に向かって行った。

 

「ドクター、イグゼキュターです。入室の許可を求めます」

「どうぞ」

「失礼します」

 

 イグゼキュターが扉を開けて入ると、ドクターは手元の端末に目を向けながら、片手で器用に四角い飴の柱を築いていた。新しい飴を人差し指と中指で挟み、既に積み上がった飴の上へと置く。その動作は一瞬たりとも視線を向けられる事無く行われており、積み上がっている飴の柱には一切のズレもない。機械の様な正確さで行われるそれは、人によっては称賛の対象になりうるのだが、イグゼキュターにとってはそうではない。むしろドクターのこの様な行為は、当人の異常性を示す指標として記憶されている。

 

「ドクター、飴はその様に積み上げて遊ぶものではありません」

「これは私のおやつだよ」

「ドクターの返答は、私の指摘に対する答えとしては不適切です。またその様に主張するのであれば、休憩時間に接種すべきです。業務中の間食は推奨されません。健康上の観点からも同様です」

「じゃあ、今から休憩時間にしよう。それに飴玉一つで健康はどうこうなったりしないよ」

「ご存じの筈ですが、ドクターの休憩時間はまだ先です」

「……」

 

 ドクターは何も言わずに飴を一つ取ると、包み紙を剥がし口の中に放り込む。

 

「君も一つどうだい?」

「私には間食の習慣も無く、休憩時間の前倒しもありません。故に必要ありません」

「あぁ……そう……」

「ドクターからのこの様な問答は、既に何度も繰り返されており、私がその要求に応じる事はありません。しかし、あなたは私に会う度に同じ様な勧誘を行います。何故でしょうか?」

「もしかしたら、今回は君が誘いに乗ってくれるかもしれないだろう?」

「残念ですがその可能性はありません。希望的観測は改めるべきです」

「……どうだろうな。まぁ良いさ、それで何か用事があったんだろう?」

「はい。こちらをドクターにお渡しする様にと」

 

 ドクターはイグゼキュターから封筒を受け取る。

 表面にはロドス医療部の文字が印字されていた。

 中から書類を取り出し、内容を素早く読み取る。

 やがて全てを読み終えたのか、書類を封筒の中に戻した。

 

「大体の事は分かったよ。君の抱えている問題についてもね」

「ドクターになら、私の問題を解決出来るのでしょうか?」

「全て、と言うのは難しいな。これは他人がどうこうして解決出来る話ではない」

「……」

「きっと、時間をかける事で君は……この問題を自力で解決出来るだろう。私にはその手助けをさせて欲しい」

「具体的に、私は何をすればいいのでしょうか?」

「そうだな……まずは話をしよう。立ち話は疲れるだろう、座ってくれ」

 

 ドクターは椅子に座る様に手で示し、イグゼキュターはそれに従う。

 

「さて……これから君とする話は、ロドスのオペレーター:イグゼキュターとしてでは無く、一個人のフェデリコ・ジアロとして聞いて欲しい」

「何故でしょうか? 会話の内容が立場に影響するとは思えません」

「心構えの様なものだよ。ロドスと言う組織の上下関係でも無く、ロドスとラテラーノと言う協力関係でも無い。私の友人である、フェデリコ・ジアロの悩みを解決する為の話だからだ」

「了解しました。ドクターの配慮に感謝します」

「どういたしまして」

 

「ドクター、私はこれから何を話せばいいのでしょうか?」

「うーん……そうだな。君が今気になっている事とか、疑問に思っている事、悩んでいる事とか? 何も無ければ思いついた雑談でも構わないさ」

「少々、時間を頂いても宜しいでしょうか?」

「勿論、ゆっくり考えてくれて構わないよ」

 

 フェデリコは視線を正面に向け考える。

 自分は何を話すべきなのだろうか? 

 ドクターは一体何を求めているのだろうか? 

 自分が抱えている問題は、自分自身の話をする事で解決するのだろうか? 

 ドクターは自力で解決出来ると言っていた。

 しかし、現在の状態ではとてもそうとは思えない。

 考えれば考える程に、深みに嵌まる感覚には覚えがある。

 どうすれば、この感覚を抜け出し、答えを得る事が出来るのだろうか? 

 

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『お兄さんは優しい世界ってどんな世界だと思う?』

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 その時、フェデリコは病室での問いが再び脳裏に浮かぶ。

 多くの時間をかけて思考し、答えが出なかったあの問いが。

 

 

「ドクター、質問があります」

「何かな?」

「”優しい世界”とは、どんな世界なのでしょうか?」

 

 フェデリコが自身が抱えていた疑問について投げかける。

 ”優しい世界”とはどんな世界なのか? 

 ドクターからならば、明確な答えを得られると信じて。

 

 

 

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「”優しい世界”とは、どんな世界なのでしょうか?」

「”優しい世界”?」

「はい」

「──まずは君が、その問いをするまでの経緯が知りたいな」

「了解しました。では、経緯について説明します。重要でない要素について、省略してもよろしいでしょうか?」

「君の思う様に話してくれたら良い」

「では、その様にします。以前、私はロドスの病室にて一人の子供と話しました。彼女は私にラテラーノに”神”は居るのかと尋ね、私は事実に基づいてそれを否定しました。本来であれば、その話はそこで終わる筈だったのです。しかし……私は突如として、彼女が”神”に何を願うのかを知りたくなりました。私自身、何故この様な事を思ったのか整理する間も無く、彼女に問いかけていたのです。『あなたは”神”に何を願うのか』と」

「……」

 

「少しの間をおいて、彼女は『もっと優しい世界になりますように』と発言し、私は”優しい世界”が、どんなものであるかを重ねて問いました。彼女の答えは曖昧な部分が多くありましたが、その主張を理解する事は可能です。逆に彼女から同様の質問をされた時、私は答える事が出来なかったのです。ドクター、私は”優しい世界”がどんな世界であるかについて、数日に及ぶ思考を重ねましたが、最終的な答えを導き出す事が出来ません。故に私の知る中で最も例外的な存在である、あなたに質問しています」

「成程ね」

「経緯について、納得して頂けたようですね」

「だがこれは……随分と難しい質問だ……」

 

 そう答えながら、ドクターは伸びをする。

 

「フェデリコ、君の質問……『”優しい世界”とは、どんな世界か?』に対しての答え自体は簡単だ。何故なら、私の思う世界を答えれば良いだけだからね。しかし残念ながら……必要なのは私の答えでは無く、君自身の答えだ」

「何故でしょうか?」

「その子供が望んだのは、誰かから聞いた物ではなく君自身の言葉だからさ」

「……」

「と言っても、私も君を突き放すつもりは無い。そもそも”優しい世界”とは人によって異なるだろう。”優しい世界”とは言い換えれば、”自分が望む世界”でもある訳だ。例えば、自分のやる事が全て成功する世界……これは当人にとっての”優しい世界”だろう。例えば……一生戦争が続く世界、これも戦いが好きな人にとっては”優しい世界”となりえる」

 

「少なくとも後者は、多くの人に受け入れられるものではない、と私は判断します」

「ほら、少し形が見えて来たじゃないか。君は少なくとも、『戦争が一生続く世界は優しくない』と認識しているんだよ。そんな世界になって欲しくないと願っているんだ。つまり『”優しい世界”とは、どんな世界か?』とは……言い換えれば、どんな未来を望むのかと言う話にも出来る」

「未来?」

「そうだとも」

「……私は未来に何を望んでいるのでしょうか?」

「それは私にも分からないよ。時間が掛かっても良い、間違っていても良い。想像してみるんだよ」

「……」

 

 フェデリコは未来について想像を試みる。どんな世界を望むのか、世界にどうあって欲しいのかを考える。しかし、未来と言う不確かなものについて、自分自身が全く想像できない事に気が付いた。任務であれば内容に対し、適切な行動をとれば間違いはない。想定外の出来事についても同様だ。発生した事象を分析し、対応する。徹底的に合理性と問題解決までの時間短縮を重視し、行動……それの繰り返しだった。未来とは不確かなもので、何も確定してはいない。何が起きるかは分からず、予想や予見と言った、ある種の演算が通じない程に遠い場所にあるのだと、この時になって気が付いたのだ。

 

 そこまで思考が辿り着いた所でドクターの方を見る。

 ドクターは飴の柱を更にもう一つ築き上げていた。

 正確無比に積み上げられたそれは一切のズレも生じていない。

 完璧と評する他に無い程に。

 フェデリコはドクターの元で行った、全ての任務を完璧にこなしていた。

 ドクターの要望を読み取り、実行する。

 

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『ドクターの要望はごもっともです』

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 過去の自らの発言に誤りはなかった。

 だが今は、ドクターが自分に対し何を望んでいるのか分からない。

 

「ドクター、私はどれ位の時間を思考していたでしょうか?」

「それ程長くはない、五分程度だ」

「……五分。ドクター、私は未来について思考を重ねましたが、やはり想像する事が出来ませんでした。未来において、ラテラーノ、ロドス、多くの人々が平穏であり幸福であるべきだと考えます。しかし、それらがどの様な形をしているのか、どの様な状態であるべきか結論を出せません。人々の間から争いは無くなるべきだと考えますが、その未来を仮定したとして、私自身が今手にしている銃を手放す姿を思い描く事が出来ないのです。思考を続ける度に疑問が増え、答えはより遠くへと離れて行きます。ドクター、私は想像力の欠如と言った、思考そのものに問題があるのでしょうか?」

「いいや、君は正しく”正常”そのものだ。未来について想像が出来ないのは、著しく想像力が欠けているか、凄まじく想像力が豊かであるかのどちらかさ。そして君は間違いなく後者だよ」

 

 フェデリコはドクターの発言の意味が理解出来なかった。

 

「どう言う事でしょうか? 何故、未来を想像出来ない事が、想像力が豊かである事に繋がるのでしょうか?」

「君が現在の世界を正確に捉えているからだよ。現実を正しく認識出来ていれば出来ている程、楽観的な未来を思い描く事が出来なくなってしまう。フェデリコ……君は現実や現状が見え過ぎているんだよ。今の世界が”優しくない”と認識出来てしまっているんだ。だから『”優しい世界”とはどんな世界なのか?』と言う問いの答えが見つけられない」

「私は今の世界に失望していると言う事なのでしょうか?」

「失望と言うのは違うな」

「では、なんなのでしょうか?」

「君が抱えているのは”困惑”だよ」

「私にはドクターの言葉の意味が理解出来ません」

 

 フェデリコが自身が抱えていた疑問について、ドクター投げかけた。

 ”優しい世界”とは、どんな世界なのか? 

 ドクターからならば、明確な答えを得られると信じていた。

 しかし、ドクターから得られたのは新たな疑問と混乱だ。

 

 

 

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『神など、そもそも存在しなかったんだ……』

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 崩れた聖像に凭れ掛かり、やがて死に至る疲れ果てた庭師の言葉。

 

「ドクター、あなたは”神”を信じていますか?」

 

 思わず零れた唐突な質問に対し、ドクターは即座に返答して見せる。

 

「信じていると言えば信じている、信じていないと言えば信じていない」

「曖昧な答えです。私はもう少し明確な答えを求めます」

「明確……か。そうだな、単体の宗教として”神”を信じているかとなると『信じていない』のは確かだ」

「では、信じている部分は?」

「私にとって、都合の良い”神”を信じている」

「”都合の良い”とは、どういう意味でしょうか?」

「分かり易く言えば……そうだな……」

 

 ドクターは少しだけ考える様子を見せた後で言葉を続ける。

 

「例えば何かをやろうとして、それが上手く行かなかったとする。『ああ、今回は手を貸してくれなかったから、上手く行かなかったんだな』、と責任を”神”に押し付ける。例えば何かをやろうとして、それが上手く行ったとする。『ああ、今回は自分の努力が報われたんだな』、と少しだけ名も知らない”神”に感謝をする。こんな感じだよ」

「随分と身勝手な話の様に聞こえます」

「君の言う通り、身勝手な話さ。でも、それで良いんだよ」

「何故でしょうか?」

 

「誰にも責任の取る事の出来ない理不尽な出来事、理由の付かない苛立ち、不満、不幸……そう言ったものを感じた時に、罵り怒りをぶつけて良いのが、本来の”神”と言う存在だと思っている。だから先程言った様に、私は私にとって都合の良い”神”を信じていると言う訳さ。人間的で個人的な感情の捌け口として、”神”の存在を求める事はあるかもしれないが……そこに宗教性や救いは求めていない。私からすれば、宗教性が強い”神”と言うのは結局の所、”それ”を考え出した人間の感性に共感出来るかと言う話でしかない」

「……成程」

「今の説明で十分だっただろうか?」

「全てを理解した訳ではありませんが、ドクターの仰りたい事は分かりました」

「それは良かった」

 

 ドクターの信じる”神”とは、瞬間的な物である。

 幸運、不運、好調、不調、喜び、悲しみ、怒り、嘆き。

 過去から現在、そして未来まで……人々に幾度となく起こりえるそれら。

 どうしたって制御出来ない物事の矛先に、”神”は存在する。

 ”神”は人を救わない、人が勝手に居るかも分からない”神”に救われているだけだ。

 だからドクターの信じる”神”とやらに、具体的な主張も形も必要としていない。

 その時々に思いついた何かで十分なのだ。

 

「君は分かっていると思うが、私は宗教性の”神”を否定する気も拒否する気も無い」

「はい」

「それでも尚、人にとって”神”と言うのは、非常に便利な存在であり言葉だ。その単語一つで何かに方向性を持たせ、人々を結束させる。それは使い方次第で、大量の金銭を動かす事も可能で、時に一方的な暴力に正当性を与え、誰かを排除する理由にもなる。だからこそ、権力者やそれに準ずる者達は、”神”と言う象徴を求める傾向が強い。勿論、全てがそうだとは言わないけれどね」

「私もその様な事例は知っています。時の権力者が増長し、”神”の代弁者としての立場を捨て、自らを”神”と自称する様になったと。しかし、その様な生き方はやがて破綻を迎えています。過去から現在までの歴史の中で、”神”を自称した人物が真っ当な最期を迎えた例はありません。増長と過信による破滅は最もありがちな結果です」

 

「フェデリコ、君の言う通りだ。だが過去から現在まで繰り返し似た様な事例が起き、その結果は悉く破滅の道を示しているのに、同じ事を行う人間が現れるのは何故だろうか?」

「私はこの表現をあまり適切と思いませんが、ドクターの仰った様に、それ程までに便利な存在であると?」

「そうでなければ”神”に執着する必要は無いからね。それに盲目的に”神”を信じる者達はやがて、思考を放棄し”神”の言葉を待ち続ける様になるのだろう。何故だか分かるか?」

 

 ドクターの問いに対し、少しだけ考えた後に答える。

 

「思考を放棄する事が、最も簡単に生きて行けるからです」

「正解だ。自分で何も考えず、疑問も持たず、あらゆる物事から目を背け、誰かの言葉に従って生きる事は……とても簡単だ。ましてやその対象が”神”ともなれば、安心感や中毒性は他の比ではないだろう。だから歴史は繰り返される。”神”に執着するのが個人単位でしかないのなら、きっとここまで宗教的な”神”と言う存在は大きくならなかっただろう」

 

「……それがドクターが『都合の良い”神”を信じている』理由なのですね」

「大雑把に言ってしまえばね。他には『神と人、どちらが先に産まれたのか』と言う話もあったりするのだが……これは思考実験の領域に半分踏み込む事になるだろうし、君には不要だろう」

「はい。それについては私には必要ありません」

「ならこの話はおしまいだ。君の質問に対して、私の答えは満足して貰えたかな?」

「問題ありません、ドクターの答えに対して私は十分に満足しています」

 

 フェデリコの言葉に対して頷くと、思い出した様に少しだけ言葉を繋げた。

 

「まぁ色々と言ったが……私は”神”を嫌っている訳でも無いし、その必要性についても理解しているつもりだ。それに”神”を利用する”扇動者”は嫌悪するが、”神”を追う”先導者”には敬意を表するよ。先導者と言うのは考え続ける存在だからね」

「……先導者」

 

 その言葉を聞いた時、フェデリコの脳裏には殉教者と呼ばれた人物の名が浮かんだ。

 ラテラーノを去った彼は、今も答えを求めて歩み続けているのだろうか? 

 

 フェデリコ・ジアロは曖昧な感覚、不確定な要素を信じない。

 しかし、彼の中にはそう遠くない未来。

 必ずラテラーノで殉教者と再会するだろうと言う確信があった。

 

 

 

 ──────────────────────────────────────

 

 

 

 フェデリコはあのアンブロシウス修道院での出来事を再び思い出す。あの場所で起きた全ての事は、今でもはっきりと思い出せる程に記憶されている。明確に悪と呼べる者がいないにも関わらず、最悪の方に進んでしまった。サルカズとサンクタの因縁を乗り越え、一定の共存を行えていた楽園は既に焼け落ち、残されたものはそう多くはない。あの場所で見つけた焦げた一輪の花、それは現在はドクターの手に渡り、厳重に保管されている。自分が抱く疑問の答えはまだ得られてはいない。

 

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『些細な混乱が起こるだけで、表面上の秩序は崩壊してしまう。そしてひとたび混乱に陥れば、人は互いに傷つけ合う……』

 

『「時代」には波乱や混乱が付きものだ。我々は予め可能な限りそれに備える事しか出来ぬ』

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 感情とは情報である。

 感情とは一種の付加情報である。

 自分には他人の感情は理解出来ない。

 ではこの疑問は……一体何処から来たのだろうか? 

 

 

「ドクター、人々は誤解無く相互理解する事は出来ないのでしょうか? この先も変わらず、隔たりはそこにあるままなのでしょうか?」

「……」

「アルトリアの望んだ様に、内に秘める物を全て曝け出せば……それらを取り除く事は可能なのでしょうか?」

「──君はサンクタの持つ、共感能力を全ての人々が所有し、全てを共有出来る様になれば、問題無く相互理解出来ると思うか?」

「分かりません。ですが、その可能性もあるのかもしれないと私は考える様になりました」

 

「……フェデリコ」

「なんでしょうか」

「──"もしも"の話をしよう」

「はい」

 

「もし……アンブロシウス修道院が救援要請をしなければ、あの事件が起きなかっただろうか?」

「事件そのものは起きなかった可能性はあります。しかし、アンブロシウス修道院の生活環境は既に困窮しきっており、救援要請を出さなかった場合でも、遠からず破綻していたのは間違いないでしょう」

 

「もし……あの場所にアルトリアがいなければ、事件は違った形になっただろうか?」

「分かりません。しかし、あの事件にアルトリアの影響があったのは事実です」

 

「もし……君の同僚が気まぐれと好意で、故障していた守護銃を直さなければ……報告にあったサンクタは、親友を殺す事は無かっただろうか?」

「分かりません。ですが彼女達のすれ違いに関しても、また別の形で起こり得る事です」

「もし……先行組及び救援に来たのが君達ではなかったなら、あのサルカズは命を差し出さずに済んだろうか?」

「分かりません。場合によっては、より多くのサルカズが犠牲になっていた可能性も十分にあり得ます」

 

「だろうな。こうして事件を振り返ってみても、"もしも"の仮定をしても分からない事ばかりだ」

「はい」

「あの場で明確に誰が悪かったとは断言できない。何もかもが噛み合わず、何もかもが悪い方へ転がってしまっただけだ。結局全ては、その時の偶然と瞬間的な選択の積み重ねに過ぎないんだよ」

 

 ドクターは三本目の柱を積み上げながら話をする。

 

「”もしも”……先程君が言った通り、人間が全ての思いや感情を共有出る様になったとして……誤解無く相互理解する事出来るかどうかと言う話だが、恐らく無理だろう」

「何故でしょうか?」

「今の状態ですら相互理解出来ないからさ。考えている事、思っている事、抱えている感情を全て共有される事は、人にとって恐怖でしかないんだ。全てが誰かに伝わってしまうからと言って、全ての人が悪感情を持たない存在になる訳じゃない。良好な感情や思いが共有されるだけなら……まだ良いだろう。だがちょっとした苛立ち、妬み、恨み……そして瞬間的な感情による殺意、そんな負の感情が飛び交うとしたら大抵の人はどうすると思う?」

「他者との接触を避ける様になります」

 

「その通り。確かにちょっとした隔たりはなくなるかもしれない。だがそれ以上に大きな隔たりが生まれるだろう。些細なすれ違いよりも直接的な衝突が増えてしまう。言葉にするよりも早く伝わると言うのは、決して良い事だけでは無いんだ。今ではあれば、その一時的な感情を整理し、どうにか形を整えて言葉出来る……しかし、サンクタの共感の能力の拡大版の様な状態になってしまえば、悪感情を持った瞬間に周囲に伝達される。良い感情と違って、悪感情と言うのは遥かに強く、そして根深く残り続ける。それらを避ける為にそれぞれ孤立し、周囲を警戒し、他者に対して過剰なまでの拒否感を持つ様になる訳さ。いずれ皆、口を揃えて言うだろう、『こんな全てを共有される力なんて望んで無かった』ってね」

「……」

 

 現在の人は自身が抱えている思考、思想、感情を、正しく他者に伝える事が出来ない。それ故に必要な言葉の内容を整え、不必要な情報をそぎ落とし、他者に分かる様に努力する。多くの人が幾度も繰り返して来たこの行為ですら、当人の意図しない形で受け取られ、あらぬ誤解を生みだす事がある。誤解が誤解を生み、争いの始まりになる事すらあるのだ。この問題は、あらゆる感情や意識が共有出来る様になったとしても、解決に至りはしない。全ての思考、思想、感情が他者に共有される事を人は望まないのだから。

 

 人は全ての考えを理解する事は出来ない。

 人は全ての感情を共有する事は出来ない。

 人は全ての他者との関係を許容する事が出来ない。

 

 人は他者に変化を要求するが、自身が変わる努力をあまりしない。

 人は他者に自分を受け入れる様に要求するが、他者からの同様の要求を拒む。

 人は他者に自分の考えの理解を望むが、他者にその全てを明かす事はない。

 

 感情があるから、余計な問題が生まれる。

 感情ではなく、理性に従えば、それらの問題は生まれないのかもしれない。

 

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『ラテラーノ公証人役場の執行人フェデリコ、発砲音によって警告をいたします』

『教皇庁枢機卿補佐官レミュアン、レガトゥス・オレン、及び同行人である第六庁所属技術者スプリア。直ちに無意味な争いを停止してください』

『私はあなた方の立場を理解する義務はありません。あなた方の衝突の調停も同様です』

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 あの時、無意味な争いを繰り広げようとする三人のサンクタに対し、銃を向けた時、フェデリコの胸中に感情はあっただろうか? あの場所で、感情よりも理性的な判断を優先する彼の内にあったのは、もしかしたら”苛立ち”と言ったものに分類される感情だったのかもしれない。それは理性に基づいた行動の下に隠された、あの場所で起きている全ての理不尽に対する”怒り”だったのかもしれない。

 

「ドクター、私は必要であるなら、禁忌は破られても良いと考えています。問題を解決する為、暴力を行使する事に対しても抵抗はありません。破壊は最も単純な行為であり、容易に状況を変化させる事が出来ます」

「……」

「しかし……直近の出来事を経て、そこに疑問が生じたのです。暴力が最終的な答えなのでしょうか? あらゆる問題や争いは、力で解決するしかないのでしょうか? 人々が追い求める平穏や平和と言ったものは、衝突の先でしか得られないものなのでしょうか? ドクター、私のこの疑問に答えは無いのでしょうか?」

 

 ドクターと話し始めて以降、フェデリコの疑問は広がり続けている。

 

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『あなたが私のように自分を疑い、迷いや動揺を感じざるを得なくなった時……力や理由が必要であることに思い至るかもしれないな』

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 ロリス・ボルディン……彼の言葉はこの事を示していたのだろうか? 

 

 

 

 ──────────────────────────────────────

 

 

 

 フェデリコの問いに対し、ドクターはすぐさま答えた。

 

「あらゆる問題を暴力で解決する事は確かに簡単だ。しかし、人々が追い求める平穏や平和を、最も強い存在が暴力によって作り上げたとしても……その平穏や平和は同じく暴力で崩れ去る。暴力とは結局の所は力でしかない。力とは移ろいやすいものであり、力とは必ず衰える物だからだ。そして暴力で問題を解決した時点で、『暴力で問題を解決しても良い』と言う前例が生まれてしまう。フェデリコ、君は先程、暴力を行使する事に抵抗はないと言った。それは君が正しく力の使い方を……暴力によって得られる結果を十分に分かっているからこそ、成立するものだよ」

「暴力で解決した問題は、また暴力によって崩れ去る。ドクター、これは今の世界において頻発している事象です」

「残念ながら、その言い方も出来るね」

 

「では、人々が追い求める平穏や平和の為には、”力”を手放す必要があると言う事でしょうか?」

「どうだろうな……いずれ手放す必要はあるのかもしれないが、当分は無理だろう。私達、ロドスだって暴力から切り離された所にはいないんだ。何かの目的の為に戦う必要だってあるし、自分達の主張や主義を通す為にも力は必要になって来るものさ」

「……」

 

 ドクターの主張は理解出来る。

 しかし、胸の内に渦巻く疑問が消える事は無い。

 

「──物事の考え方の中に『最大の利益を追求すべき』と言うものがある」

「それは功利主義の事でしょうか?」

「ちょっと違うかもしれないが、大体はその認識で構わないよ。要するに『少数を犠牲にして、それ以上の利益を得続ける』……理性に振り切った感じだね。機械の様に全体の価値を数値として認識し、より数値の大きい方を選ぶ……分かってしまえば単純な考え方だ。この考え方は正しい方を選び続ける事が出来たなら、一定の段階までは結果を維持出来る事を過去の歴史が証明している」

「はい」

 

「例えば、罪の犯していない善人と罪を犯した罪人、どちらを優先的に助けるかと言う場合、前者が選ばれる事が多い。何故なら善人であると言う事は、それだけでこの先も全体に対する利があると言えるからだ。対して罪人は既に害になる……つまり損失を与えている事になる」

「その判断は理解出来ます」

「ところが将来的に前者の善人が百人の命を奪い、後者が千人の命を救うとなると……どうだろう? 後者の罪人を助ける方が利益が多くなる」

「ドクター、それは条件の後付けです。実際にはその様な未来の事について、予測するのは不可能です」

 

「確かにその通りだ。ではこうしよう……君は任務で戦場に立ち、ある場面に遭遇した。そこでは一人の仲間を犠牲にすれば、確実に十人の仲間を救え、更に君自身の任務を達成できる。逆にその一人を助けようとすれば、十人の仲間を危険に晒し、結果として任務達成が不可能になるかもしれない。こう言う場面であれば……君はどうする?」

 

 フェデリコは少しだけ考えた後で答える。

 

「任務遂行を優先します。私と同じ職務の一環で戦場に立つ者であれば、犠牲になる覚悟もあると判断します」

「実に君らしい答えだ。今の君は理性的な判断により、最大の利益を追求した結果を選んだ事になる」

「はい」

「では次、ラテラーノが危機的状況になり、同時にロドスも危機的状況になっている。どちらか一方しか君は救援に向かえない。そして、ロドスを見捨てればロドスは壊滅する……が、ラテラーノ本国は破滅を免れる。勿論逆の場合も同じだ……君はどうする?」

「その様な事態になるのは、事前に避けるべきです」

「私もそう思うが、それだと話が進まないだろう? さっきと同じ様に、理性的に判断を下せば良いだけだよ」

「……」

 

 フェデリコは考える。

 ラテラーノとロドス、どちらを選ぶべきなのだろうか? 

 先程と同じ理屈で考えるならば、ラテラーノを選ぶべきだ。

 しかし、本当にそれで良いのだろうか? 

 

「……」

「……」

「私はどうするべきなのでしょうか?」

「何か迷う事があるのか?」

「分かりません」

「これまでの傾向に従うならば、君はラテラーノを救うべきだろうな」

「ロドスを切り捨てるべきだと?」

「そうだろう? 君はあくまでもラテラーノに所属するサンクタであり、”聖徒”に名を連ねている。ならば君が追求するべきはラテラーノの利益だろう。それにロドスは多方面に繋がりを持っているが、国でも無く、あくまでも小さな一組織でしかない。この大地からロドスと言う組織が消えたとしても、全体として見れば小さな数値で損失だ」

「しかし、ロドスと言う組織が与える影響が、絶対的に小さいものであるとは限りません」

「そうかもしれないし、そうでないかもしれない……結局、予測するのは不可能だよ。分かっているのはロドスは消えてなくなり、ラテラーノが残ると言う事だけだ」

「……」

 

 ドクターはまた飴玉を摘まむと柱の上に乗せる。

 

「未来の為に合理的で……理性的な判断を下すべきだ。君はこれまでそうして来ただろうし、これからもそうするべきだろう」

「──ドクター、あなたはどちらを選ぶのですか?」

「ん?」

「問いの様にロドスと私やラテラーノが危機に瀕した時……どちらかを選ばなければならなくなった時、あなたはどちら選ぶのでしょうか?」

「君にとっては難しい問いかけだったかもしれないが、私にはそうではない。だから、答えはとても簡単だ」

「……簡単?」

「そうさ。ロドスとラテラーノ、どちらも見捨てはしない。両方を救える方法を探すだけだよ」

 

 ドクターは一切の躊躇も躊躇いもなく言い切った。

 そこには一切の損得勘定も、理性的な判断でもない。

 ただ……そうする事が当然である様に。

 

「ドクターの発言には矛盾が生じています。先程、ドクターは未来の為に合理的で理性的な判断を下すべきだと発言しました。ですが今、あなたはその合理的な判断を捨て、全てを助けると主張しています」

 

 フェデリコは指摘せずにはいられない。彼の疑問や指摘は真っ当なものであり、ドクターの答えは今の今迄続いた二人の会話全てを無に帰すようなものだった。

 

「そうだね」

「これは明らかな主張の衝突になり、これまで私との会話の中おける、あなたの発言の信用性が失われています。ドクター、私は先程の発言の意図と理由の説明を求めます」

「……人は……人だけが、感情によって理性的な選択を貫き、時に感情によって理性的な選択を放棄する。人だけが、感情に従って他者を守り、時に感情に従って他者を害する事が出来る。理性的な考えでは争うべきないと分かっているのに、感情によって争う事を止められない。理性的な判断による数値的な利益を求め戦争を起こし、一切の利益を求めない感情によって戦争は終わる。……相反する二つの要素は常に人の中に存在している訳だ。つまり、どう言う事か?」

「……」

 

 

 

 フェデリコはドクターの答えを待つ。

 

 

 

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「──人とは矛盾する生き物だよ」

 

 

 

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 フェデリコはドクターの言葉の真意を理解出来なかった。

 

「……分かりません。私の質問に答えて頂けないのでしょうか?」

「いいや、これが答えだ」

「……やはり、私には理解出来ません」

「そうか。それもまた、今は仕方のない事なのかもしれないな」

 

 ドクターはフェデリコの言葉を聞いて息を吐き出す。

 そして徐に机の上に聳え立つ飴の柱の三本の内の一本を指で弾く。

 完璧な一本の柱だったそれは、衝撃を加えられた事により脆く崩れ落ちる。

 甲高い音を立てて、飴の柱が崩れていく。

 

 完璧だった柱が崩壊していく。

 

「フェデリコ、君は理解出来ないと言うがそんな事は決してない。君は必ず今の私の言葉の意味を理解するだろう」

 

 更に二本目の柱も指で弾く。

 再び甲高い音を立てて、飴の柱が崩れて行く。

 

「君の言う”答えのな問い”と言うのも存在しない。何故なら人は考える生き物であり、どんな物事であっても最終的に答えを、自分で出さなければならないからだ。誰かから与えられたものではなく、自分で考え、解釈し、納得出来る答えは必ずある。君はもしかしたら、人ではなく機械に産まれていた方が良かったのかもしれない。だが君はこうして、”フェデリコ・ジアロ”として……人間として生を受け、数多くの経験をして来た。中には余りにも愚かで理解しがたい事もあっただろう。想像も出来ない程に大きな感情の波を受けて、君の中に響くものが一切なかった事もあるだろう」

 

 三本目、最後の柱も崩れ落ちて行く。

 机の上や床に大量の飴が転がり、カラカラと音を立てた。

 

「だが……先程の私の問いに対し、君は即答する事が出来なかったな。私が意地の悪い問いかけをした所為もあるだろうが、ロドスとラテラーノ……どちらかを理性的な判断で選ぶ事が出来なかったと言う事だ。それは理性と感情の間による、葛藤であり困惑であり、迷いと同情だよ」

「……私が感情的になっていると言うのですか?」

「感情的と言うよりは感情そのものだよ。どちらか一方を理性的に考え、簡単に選ぶ事が出来ない事に対する……拒否反応の様だと思えばいい」

「……」

「何かに対して理性では無く、感情で迷い……選んで結論を出す。それが”人間らしさ”ってやつだよ」

 

 ドクターは椅子から立ち上がり、フェデリコに歩み寄る。

 床に散らばった飴を踏み潰す度に、乾いた音が響く。

 

「君は君が思っている以上に、感情豊かであると私は思っている。『”優しい世界”とはどんな世界か?』……『あらゆる物事は力で解決するしかないのか?』……これらの一見答えの無い様に思える問いに対して、君は必ず答えを見つけるだろう。人は考える生き物で、君もまた人なのだから」

「……」

 

 ドクターは小さな封筒とひとつの飴を差し出し、フェデリコはそれを受けとる。

 

「今、私が君に話してあげられる事はこれ位だ。きっと君には困惑と混乱ばかりを与えてしまっただろうが……もう一度ゆっくりと考えてみて欲しい。この封筒の中身は大したものではないが、ヒント位にはなるだろう。まずは疑問を持つ事さ……そして何か分かったなら、また話をしよう」

「……了解しました」

 

 混乱と困惑、答えを得る事無く終わったフェデリコは部屋を出る前に振り返る。何も言わずドクターは、変わらず散らかった部屋の中に立っていた。その姿に知っていた筈のものが、未知のものに変わってしまった様な感覚を覚える。扉を閉め、廊下を歩いている最中でも頭の中に、あの飴の柱が崩れる甲高い音が響いていた。

 

 

 あれは自身が持っていた完全性が崩れる音だ。

 

 

 

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 ──────────────────────────────────────

『失礼、この病室を利用していた患者は今何方に?』

『えーと……どの患者さんの事でしょうか?』

『左端のベッドを利用していた患者です』

『あぁ、彼女はもうここにはいませんね』

「……」

『イグゼキュターさん?』

『何でもありません。ありがとうございます』

『あ……行っちゃった……』

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 ドクターから渡された封筒の中には、二枚の小さな絵の様な物が入っていた。ただそれは絵と言うにはあまりにも単純で、正確に分類するならば塗りつぶされた紙片と言うべきなのかもしれない。どちらも表面は青色に塗りつぶされているが、微妙に色合いが異なっている。裏面にとドクターが書いたと思われる『これは何色?』の文字があった。

 

 イグゼキュターは二枚の塗りつぶされた紙片をじっと見る。

 

 一枚は夕暮れ時の仄暗い空のような深く渋い青色。

「……青です。色識別355273……」

 

 もう一枚は明るく澄んだ秋の空のような薄い青色だった。

「……こちらも青です。色識別6C9BD2……」

 

 何方も青色に変わりなく、他に何かが描かれている訳でも無い。

 では何故、ドクターはこれらがヒントになると言ったのだろうか? 

 求めるものは明確で明解な答えである。

 これまでドクターに間違いはなく、与えられる答えもまた同じだ。

 

 イグゼキュターはこの短時間の内に、ドクターに何かしらの変化が起きた可能性を考える。しかし即座に否定する。ドクターの行動や言動の内に大きく変わった所は無く、自分に対する接し方も変わる事は無かった。

 

(変化したのはドクターではない?)

(変化したのは……私、つまりフェデリコ・ジアロの方だと?)

(情報の整理と分析が必要です)

 

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『ドクターになら、私の問題を解決出来るのでしょうか?』

『全て、と言うのは難しいな。これは他人がどうこうして解決出来る話ではない』

 ──────────────────────────────────────

 

 ドクターは全ては解決出来ないと言った。

 つまり部分的には解決できると言う事である。

 

 再び二枚の塗りつぶされた紙片をじっと見る。

 青、異なる二色の青、これは何色なのだろうか? 

 

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『まずもって認めるべきは、人々の色彩感覚にはある程度の主観性こそあれ、一定の共通認識も形成されているという点です』

『例えば赤色は刺激的なイメージを持ち、一般的に興奮や激情、情熱といった感情を表します』

『青が表す静けさ、理性、そして奥深さは、私が一生かけて追い求めているものなのです』

『さらに、青色は目にした者の感情を安定させ、心を落ち着かせる効果もあり……』

『つまり青とは……我が魂の眠る場所であり、永遠の象徴なのです……ああ、何と美しい色なのでしょう──』

 

『シメオネさんの言動は矛盾に満ちています。彼が語った青色に関する情報の信憑性には、いささか疑問が残ります』

『それはどうかな、フェデリコ。色彩がもたらす感覚は複雑だ。あれは変わりゆく感情を取り巻く一要素に過ぎない』

 

『……弁償だと? 私があの天井画に注いだ心血が、金なんぞで補えると思っておるのか?』

『仮に貴様が私の筆遣いまでをも再現できたとしても、筆を手にした私の心中に渦巻いていた激情や、脳内に湧き起ったインスピレーションはどう再現するつもりだ?』

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 ……感情。

 あの後に起こった出来事も含めて、関連するのは全て感情だ。

 

 感情とは情報である。

 感情とは一種の付加情報である。

 自分には他人の感情は理解出来ない。

 ではこの疑問は……一体何処から来たのだろうか? 

 ドクターは何故、感情に関わる疑問ばかりを与えたのだろうか? 

 

「……この青は何色なのでしょうか?」

 

 

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『いつかきっとわかるわ。こういうものは、守護銃と同じくらい役に立つのよ』

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 ──────────────────────────────────────

 

 

 

『フェデリコ、母がかつてあなたにピアノを教え、読み書きを教え、そして眠っているあなたに語りかけたことを覚えていますか?』

 

 

 

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「ドクター、あなたはフェデリコに何を言ったの?」

「何って……変な事は言っていないよ」

 

 ドクターが資料室で作業をしていた時、唐突に声を掛けられる。声の主たるヴィルトゥオーサの唐突なの問いに対し、ドクターは即座に返答して見せた。まるで彼女がここに現れる事も、何の目的があるかを既に把握しているかの様に。

 

「あなたの私達に対する、誤魔化す必要のない所で誤魔化そうとするのは……止めた方が良いと思うわ。会話の一手目から、相手が何処まで知っているのか……何を聞こうとしているのか試そうとするのもね」

「……」

「あなたはフェデリコの事をよく理解しているみたいだけれど、私もあの子の事をよく理解しているのよ? その私ですら、あんなに悩んでいるフェデリコの姿は見た事がないの。あれだけ長い間……”思考”を続けて答えを出せない”問い”を投げかけるのは、あなた位しかいないわ」

「君の言っている事は理解しているが、実際私は変な事は言っていないよ。私は彼の問いに対し、私なりの答えを返しただけに過ぎない。その先で彼がどの様な答えを出すのかは……当人次第と言えるだろう」

「……」

 

 現時点において、ヴィルトゥオーサはドクターへの演奏は禁止されている。そして彼女独特の分析と会話法もドクターに通用する事は無い。つまり他者に対して、ヴィルトゥオーサ自身の特異性による優位は、最初から存在しない。第三者からすれば非常に扱い辛い両者は、限りなく平等な状態でこの場に立っているとも言えるのだが、既に優位性はドクターが握っているとも言えた、その事に彼女が気が付く事は無い。フェデリコ・ジアロがドクターに問いを投げかけ、ドクターの答えにより思考を続けている現状、更にそれを見たアルトリア・ジアロがこうして現れた時点で、ある程度はドクターの思惑通りに進んでいたのだから。

 

「彼には色々な話をしたが、最終的な部分で言えば……彼自身が感情を受け入れられるかどうかという話になる」

「感情を情報として処理しているフェデリコには随分な難題ね」

「ヴィルトゥオーサ、君はどうなんだ? 感情と言うものについて、君は正しく制御出来ているのか?」

「私にとって感情とは制御する物では無く、あるがまま人の中に存在する物よ」

「成程……それで君は、人が己の内に必死に隠している感情を暴き立てるのか?」

 

「あなたは誰もが抱えている……本当の願望や欲望と言った物に向き合うべきだと思わないのかしら? 自身の内にある真実から永遠に目を背ける事は幸せなの?」

「人の内に秘めた感情や欲望と言うのは適切なタイミングで、それぞれが向き合う時がやってくるものだ。中には一生気が付かないままの人もいるだろうし、中には早々に向き合い、それらに対し区切りをつける人もいるだろう」

「だったら……」

「それがいつ訪れるかは、君が決める事じゃないんだ。確かに君の能力によって共鳴し、自分自身と向き合い、新たな目覚めを得る事もあるだろう。だがそれらは何時か自然と起きるものなんだよ。人の感情と言うのは、君の感情の受け皿や考えを確かめる為に利用して良いものではない」

「……」

 

 ヴィルトゥオーサはドクターの言葉を聞いて沈黙する。

 

 

 

 ──────────────────────────────────────

 

 

 

「ヴィルトゥオーサ、いや……アルトリア。人の中に、人の心の中に土足で入ってはいけない。どれ程の親切心があろうと、どれ程の愛情があろうとも……人と人が生きて行く世界で、それだけは絶対にやってはいけないんだよ。……これは過去にアーミヤも失敗を経験している事だ」

「私は自分の抱えている感情に、目を背けて生きて行く事は幸せな事とは思えないわ」

「それを決めるのは君じゃない」

 

 ドクターのある種、拒絶ともとれる言葉にアルトリアは疑問を持った。

 目の前の人物は誰よりも人を理解している。

 人がどの様に考え、どの様に感情を動かすかを理解している。

 適切な場面で悲しみ、適切な場面で喜びを表現する技術を持っている。

 最も自然で最も不自然な存在。

 過去の記憶を失っても、自分自身の在り方を決め、己を律する術を知っている。

 

 では、この人物は何を持って……人を人として定義しているのだろう? 

 その頭の中に、どの様な考えが渦巻いているのだろう? 

 

「ドクターは人の感情や欲望について、どう思っているのかしら?」

「人は……人だけが……自身の生涯全てを費やしても使い切れない財力を築こうとする。人だけが……既に食べる必要も無いのに食事を腹に収めようとする。人だけが……自身が生きる快適さの為に周りの環境を作り変える。何故か? それは他の生き物と違い感情の比率が高いからだ。感情の比率が高いが故に、欲があり限度と言うものを知らない」

「感情が悪いものだと言いたいの?」

「良いとも悪いとも言える。良い意味で人を人たらしめるのは感情であり、悪い意味で人が人であるのも感情だ。感情があるが故に人と人は争う」

 

「感情があるから間違いが生まれ、この大地から争いや悲しみが消えないのかしら?」

「人が人と一切争わずに、間違わずに生きて行く方法はある」

「それは?」

「絶対に間違えない、単独の指導者を頂点に据えた統一国家を作る事だ。もっと言えば、その指導者は感情も持たず、死ななければ更に良い」

 

 それは人々から徐々に感情を取り除く方法だ。

 

「単独の指導者と言うのは一点集中権力型の国……独裁国家を作ると言うの? それが人と人が争わないで生きて行く方法なの?」

「そうだよ。指導者が絶対に間違えないのなら……人々は指導者の言葉に従って生きるだけで良い。争いも格差も、悩みも憂いもないだろう。指導者が間違わず、指導者が死なないとなれば、これまでの数多くの国家に起こった様な問題が全てなくなる。足の引っ張り合いによる政策の失敗から始まる争い、利権に走りがちな大勢の権力者も必要ない。指導者が変わった瞬間に崩壊する制度、指導者が死んだが故に起こる権力争い……そう言った刹那的な人の欲から生じる火種は消え去るだろう」

「……その指導者の席には、全知全能の”神”でも据えるつもりなの?」

 

「私は”神”を信じていない。”神”は人の手によって作られた想像と理想、そして願望に過ぎないからだ」

「私の知っているものは随分と感情的だったり、人に興味を持ったりしていたけれど……それら全てが人による創作物に過ぎないと言うの?」

「全知全能の”神”が生み出したモノが、不完全性に溢れていたらそれは”神”の完全性を否定する事になる。感情によって何かしらのブレが生じる様では意味が無い。なのに私達の周りに存在する”神”とやらには、人間的な要素が多過ぎる」

 

 ドクターはアルトリアに対し、意図的に感情に対する必要性の無さを説いている。フェデリコに対し、感情の重要性を説いたのは真逆の事をしていた。それはアルトリアが、人の感情を強く重要視しているからこそである。彼女はリターニアにて、新たな”神”の誕生を目の当たりにしている。『ツヴィリングトゥルムの黄金』、人の手によって生み出された兵器が人の思惑を超え、人となり、やがて”神”になった。人々が新たな”神”を狂喜的に称え、迎える瞬間を目撃した筈だ。しかし、大衆は新たに生まれた神が片割れを失い、涙を流していた事を知りもしない。

 

 

 人は簡単に”神”と言う存在を作り過ぎる。

 

 

 

 ──────────────────────────────────────

 

 

 

「その国で生きて行く事は幸せなの?」

「幸せだろう。最も何をもって幸せであるかを考慮しなければの話だが」

「あなたの話は……人が徐々に感情を失い、ただ機械の様に過ごしていくだけの様に感じるわ」

「だが争いも無い平和な世界だ。感情による混乱も衝突も起きる事は無い」

「……」

「アルトリア、君は今の私の例え話に否定的なようだな。だが、この大地の上で今の例え話に最も近い場所に居るのは、サンクタとラテラーノだと私は思っている」

 

「サンクタとラテラーノが?」

「君は感じた事があるんじゃないか? 感情の起伏を感じた”個”と言う意識が、巨大な統一された”群”と言う集合意識に溶けて行く感覚を。個人による振れ幅の大きな感情の波が消え去り、誰もが”死”と言う消滅に対しても機械的に受け止められる様になる。そう言った、個人の感情を消失する事による安定や安寧……”絶対の集合知”と呼ぶべき”それ”を君は朧気乍らに感じた事は?」

「……」

 

 アルトリアはかつてイベリアの海岸で遭遇した個体を思い出した。

 素晴らしく、整っていて壮大な音。

 個体としての意識は無く、在るのは統一的な集合意識。

 あれらは今のドクターの話に対する共通性を持っている。

 

「私が感じたのは……あなたが”絶対の集合知”と呼ぶ様なものでは無かったわ。繋ぎ合わされた意識が統一され、整然として落ち着いた効率的なラテラーノでは無いの。私が感じた可能性は、繋ぎ合わされた感情が聴衆の心を満たす……互いに分かち合い助け合う、開放的なラテラーノだったもの」

「……そうか、君はそちらの可能性を感じたのか」

 

『無我の唯一識』、”それ”は彼女が法と接続し導き出された可能性の一つ。

 だが、”それ”は彼女が望むものではない。

 ”個”の感情が失われ、”群”としての一個体となる事は望んでいない。

 

「アルトリア、君の感情に対する執着とも言える”それ”が、幼少期の出来事に起因する事は知っている」

「……」

 

 それはドクターによって、まるで天気の話でもするかのように唐突に切り出された。

 対してアルトリアは微かに、ほんの微かに眉を動かした。

 

 そして彼女が自身の感情が揺れる感覚を味わう。

 触れて欲しくない部分を暴かれる様な、そんな恐ろしさを感じた。

 心の奥底がざわつく様な感覚……不快感を感じたのだ。

 

「君のある種の善意とも言える感情によって、君の母親は自らの心の底にしまっていた衝動に従い、全てを投げ出して行動した結果の先で命を落とした。この出来事が君自身の……ある種の方向性を決定づける事になったのだろう? こんな筈ではなかった、こんな終わりを迎える筈では無かった。その自身の行動の結末に対する、”困惑”が全ての始まりだった」

「……」

 

 アルトリアは答えない。

 

 

 ──────────────────────────────────────

『そうして長い間じっとしているうちに、段々と抜け出す勇気も失ってしまったの』

『だけど……たとえ危険だとしても、長い間囚われていた場所からようやく抜け出せたの』

『したいことを自由にできるのよ。きっと嬉しかった筈よ!』

『アルトリアに感謝するわ。あの子の演奏が私を束縛から解放してくれた』

『きっとまた会えるはずよ』

 

 あの夜、演奏を聴いた母は涙を流しながら私を抱きしめてくれた。

 次に母に会ったのは冷たい棺桶の前だった。

 こんな筈ではなかった。

 ──────────────────────────────────────

 

 

「君は自身の心の底に眠る感情に向き合い、勇気をもって自由への一歩を踏み出した者達には、相応しい結末が訪れるべきだと思っている。唐突な死と言う終わりではなく、未練を埋め努力の結果に伴う素晴らしい結末が。それは喜びであり、幸せであり、未来である筈だと。だが、それらは未だ見つかっていない。君が共鳴した感情や欲望は、君の望んだ結末を迎える事は無い。ある者は拒絶し、ある者は破滅し、ある者は死を望んだ。勇気を出し己の恐怖に打ち勝つ所か、死によって一瞬にして消え去ってしまう」

「……」

 

 ──────────────────────────────────────

『お母さんは、凄く大きな勇気を出して、あの一歩を踏み出したんだよね』

『なのにどうして、死はあっと言う間にやって来て。お母さんの人生を終わらせちゃったの?』

『どうして死は体を空っぽの器にしてしまうの? どうしてあんなに複雑で深い感情するらも、一瞬にして全部消し去ってしまえるの?』

『死は、未練を埋めようとする私たちの努力を、また新たな未練へ変えてしまうのね』

『本当なら、お母さんが死ぬ事はなかったのに』

 

 あの雨の降るお葬式の演奏で、私は参列者達の感情を解放した。

 フェデリコは演奏を止めさせ、人々は自分の感情の渦に溺れた。

 人は余りにも多くの糸に束縛されている。

 ──────────────────────────────────────

 

 

「だから君は人の感情を探している。この大地の中に、何処かに必ず自身の感情に向き合った結果の先で、素晴らしい終点を迎える人間がいる筈だと。その人物を見つけ、その感情を読み取り、共鳴する事で、初めて君は自身の中に生まれた感情が正しかったのだと納得出来るんだよ。だがその前に、君は感情を……人を理解出来ているか? 君は共感によって、聞き手の耳を通して同じ音を聴き、目を借りて同じ涙を流す。本当にそれは君の感情か? ただそこにある物を真似しているだけではないか?」

「……」

 

 

 ──────────────────────────────────────

『私のこの一生の中で未練を感じないのは、この世を去る時だけだって』

『むしろ未練があるのは、あなたのほうじゃなくて?』

『だけど、私の感情と超えれ迄経験したすべては、本当に雲の様に跡形もなく消え去ってしまうのかしら?』

『私の親友アルトリア、どうか私のために一曲奏でててちょうだい。もう一度あなたのチェロを聞かせて』

『それこそが、この音色が持つ存在意義なのだと、私はずっと信じているわ』

 

 私の親友と呼べる存在は、自らが最も愛する存在の手によって命を落とした。

 彼女が死ぬ必要なんて無かった筈なのに。

 ……あなたは満足しているの? 

 ──────────────────────────────────────

 

「アルトリア、君は人の感情が言葉よりも強い力を持つと信じている」

「……」

 

「人の感情の素晴らしさを説きつつも、別の物に囚われてはいないか?」

「……」

 

「君の原点とも言える感情、それは他者に対する”愛情”でも”探求”でもない」

「……」

 

 アルトリアは何も答えない。

 

「君のそれは、死に対する”困惑”と”怒り”だ」

「……」

 

 

 アルトリアはただ沈黙している。

 

 

 

 ──────────────────────────────────────

 

 

 

 暫くの沈黙の後、アルトリアは口を開く。

 

「私は今、とても酷い気分だわ」

「だろうな。その感覚はよく分かるよ」

「この感情は何なのかしら? 怒り? 嫌悪? 混乱? それとも拒絶なのかしら?」

「君が今感じている”それ”が、他人に心の踏み込んで欲しくない領域にまで踏み込まれた者の感情だよ」

「……あぁ、私の感じているこれがそうなのね」

「欲望の開放は感情ではないんだよ。感情は理性と共にあるべきものだ。他者に勝手に共鳴し、勝手に心を暴き立て、そこに眠る欲望を解放する事はあってはならないんだ」

 

 ドクターは封の切っていない水のボトルを差し出した。

 アルトリアは受け取り、水を飲む。

 

「私は”死”と言うものに対し、自分が一定の敬意を持っていると思っていたけれど……」

「……」

「本当は怒りを感じているのね。死は何も残してはくれないから」

「アルトリア、死は何も残さない訳ではないよ。死して尚残るものはある」

「それは?」

「感情、言葉、そして意思だ」

「……死を迎えれば感情は消えてしまうわ」

 

「いいや。感情は消えはしない。君の母親は死の間際に自分の選択を後悔したのだろうか? 君は母親の死に何も感じなかったか? 君の友人は死の瞬間、何の感情も持っていなかったか?」

「……」

 

「それらに触れた時、君は何も感じなかったのか? そんな事は無いだろう。君は母親の死に怒りを感じ、友人との別れに哀愁を感じた筈だ。それらは他者の死によって君の中に残ったものと言える」

「……」

 

「君が数多くの死に触れて来た様に、私も数多くの死に触れて来た。間接的に触れる事もあれば、直接的に触れる事もあった。例えば……私の目覚めの時、数多くの犠牲の上にロドスへと帰還した時の事を……今でもはっきりと覚えている。彼らを犠牲にしてまで私を救い出す事に、そこまでの価値が私にあるのかは今でも疑問だ。だが彼らは選択し、自らを犠牲にする決断をした。その時の感情がどうであったかは、私には分からない。だが私の中には彼らによって生み出された感情があり、言葉があり、意思がある」

「あなたは死を拾い集めているの?」

「これらは私が抱えて行かなければならない痛みで、感情だ。彼らは私に未来を託し、私は彼らの意思に応える事を己の使命としている」

 

 ドクターの言葉に対しアルトリアは問う。

 

「死者の感情によって、生者に新たな感情が生まれるの? それは悲しみに溢れるものばかりではないの?」

「始まりは悲しみだけかもしれない。だが人は悲しみへの向き合い方を知っている。君は母親の死によって生まれた感情により、こうして他者の感情や心の内に執着している。これは君の母親が生きていたら、君の中に生まれていない感情だったかもしれない。早いか遅いかの違いはあれど、死は必ず訪れる。そして生きている人間に出来る事は、死んだ人間が安心して眠れる様に前へと進む事だよ。そして悲しみも大事な感情だ」

 

「死者の言葉は誰も救ってはくれないわ」

「君は言葉は無力だと言うが、言葉は決して無力ではない。時には思っていた通りに伝わらない事もあるだろう。時にはただ相手を不快にさせるだけかもしれない。だが……死者に限らず、残された言葉は生者の中に残り続ける。例えば遺言……あれは死者から生者の為の言葉であり願いだ。そして言葉を重ねた先の共感は、ただ機能的に行われる共感よりもずっと深い意味と価値を持つ」

 

「……」

「あらゆる考え、あらゆる生き方は尊重されるべきだ。生きていく上で、常に正しく有らねばならないと言う決まりもない。それら全ては他者を過度に侵害しなければ、基本的には許容されるべきなのかもしれない。だからこそ君に問おう」

 

 ドクターは真っ直ぐにアルトリアを見た。

 

「アルトリア、君は今迄にたった一度でも……誰かの感情に本当の意味で共感した事があるのか?」

「……」

 

 君は本当に誰かに共感した事があるのか? 

 君は本当に誰かの心に触れた事があるのか? 

 君は本当に誰かの感情に触れた事があるのか? 

 君は本当に……感情の力を信じているのか? 

 

 これまでたったの一度だけでも力に頼らず、誰かの感情に共感した事はあるのか? 

 

 感情は理性を殺すのだろうか? 

 理性は感情を殺せるのだろうか? 

 

 アルトリアはこの長い会話の中で疑問を持った。

『ドクターの問いは何を示しているのだろう?』と。

 目の前の人物は始めに感情の不要性を説いていた。

 では今はどうなのだろう? 

 感情の重要さ、言葉を重ねる事の意味、死と生。

 

 感情……最後はやはり人の持つ感情だ。

 

 

 

 アルトリアは目を閉じる。

 

 

 

 ──────────────────────────────────────

 

 

 

 瞼の裏に、宮殿に立つ巫王の影が浮かび上がる。

 

 ──────────────────────────────────────

『貴様はかほどに多くを目撃し、かほどに多くを経験し、かほどに感情の力を信じている』

『だが、貴様はその答えから最も遠い人物である』

『貴様はかほどにも弱い』

 

 過去、リターニアの虚空にて聞いた残響。

 驕り、失意、憤り、心残り……そして期待。

 ──────────────────────────────────────

 

 脳裏に、宿舎に現れた教皇の光が走る。

 

 ──────────────────────────────────────

『君とは一体何者なんだろうね?』

『君自身から固執と傲慢と罪を除いたら、君は果たして何者になるのだろうか? 何をして、何をもたらすのだろうか?』

『どう足搔いたところで、君は光輪を有するラテラーノのサンクタなのだ』

 

 誰も知らぬ告解室にて聞いた導き。

 経験と行動、理念、そして固執。

 ──────────────────────────────────────

 

 心の中に、森の中で話した指導者の言葉が巡る。

 

 ──────────────────────────────────────

『アルトリアさんはとても悲しんでいるんですね』

『私達は結局は別人でしかありません』

『アルトリアさんのことは私が担保します』

 

 演奏者と聴衆の間、暗黙の了解。

 近い性質を持つ者同士でも理解し合う事は出来ない。

 ──────────────────────────────────────

 

 ………………

 …………

 ……

 

 

 

「ドクター、私は目覚めたわ」

 

 

 

 ──────────────────────────────────────

 

 

 

 アルトリア・ジアロは目を開き、目の前の人物の問いの意味を理解した。

 

「ドクター、あなたは私に答えを見つけて欲しいのね」

「そうだ、私は君に答えを見つけて欲しい。君の理想から、君自身が最も遠く離れた場所にいるとしても……他者の感情の糸によって絡めとられた現状を抜け出し、容器や鏡と言った空虚さから逃れ、正しい終点へと辿り着いて欲しいと願っている」

 

 感情とは、人が人である事の本質だ。

 あらゆる感情を人は受け入れなければならない。

 例え、それが受け入れがたい程の醜いものであったとしても。

 例え、それが一時の誤りから生まれた衝動であったとしても。

 全ての感情には意味があり、意思があり、始まりがあり、終わりがある。

 

 人は感情が必要で、人の感情には置き場所が必要だ。

 全てを”共有”する必要は無い。

 ただそっと、”共感”する瞬間があれば、きっとそれで良いのだ。

 

 ──────────────────────────────────────

『だからこそ、私達は共に肩を並べ、悲しみも喜びも分かち合う未来が必要なの』

『私達の悲しみや喜びは生命のある瞬間にのみ存在する。でも私達は、いつだって起きた事を全て感じているの』

 ──────────────────────────────────────

 

 この人の不完全な世界に、完全な”神”は必要ない。

 人は感情によって不完全であり、不安定で、愚かな生き物だ。

 そうであるからこそ、人を望み、人を愛し、人を求める。

 時に制御不能になる程に厄介なモノである感情。

 それは全ての人に与えられた平等な力であり、愛すべき不完全な権利だ。

 

「そしてあなたはフェデリコにも、人としての感情の重要性と尊さを知って欲しいのね」

「誰よりも理性的である彼は、今もまだ感情を情報の一種として捉えている。感情を理解出来ないものとして扱っている。それはあまりにも寂しいじゃないか」

「直接、そう言ってあげたら良いのに」

「フェデリコに直接そう言って、彼が素直に聞き入れてくれると思うかい?」

「……『私には理解出来ません』と答えるでしょうね」

「だろう?」

 

「それでこんな遠回りで難解なやり方をしたと言うの? 私を巻き込んで?」

「私の方から見れば、君が自分から巻き込まれに来た様だったよ」

「……全てはあなたの望んだ通りなの?」

「それは考え過ぎだよ」

 

 アルトリアはドクターの言葉によって、今回の話の終わりを感じた。

 まだまだ訪ねたい事、胸の内に秘めているであろう考えてについて問いたいと思う。

 しかし……それはきっと、今ではない。

 この胸の内に渦巻く疑問について、尋ねる機会はまだ先だ。

 

「ドクター、最後に質問をしても良いかしら?」

「勿論、構わないよ」

「あなたは”優しい世界”の実現の為、人々に必要な要素は何だと考えているの?」

 

「──力に頼らない話し合いと歩み寄り、理想と現実のすり合わせ。親愛と友情による互いの尊重。そして最後に……ほんの少しの妥協だよ」

 

「……ドクターの理想は遠い所にあるのね」

「私も道半ばで、理想迄程遠く……まだ歩いている途中さ」

「──今も禁止されているけれど、いつの日か……こうして膨らみ続ける期待を抱えて蓋をするのにも終わりが来た時、あなたの楽章を奏でてみたいわ。あなたの頭の中を覗いて、緻密な構想が組み上げられる中で……どれほど恐ろしい意志が吹き上がっているのかを知りたいの。あなたの楽章がこの上なく色鮮やかな旋律を奏でたなら、きっと素晴らしい演奏会になるわ」

「……アルトリア、君は私に固執する前にもっと世界を歩いてみるべきだな」

 

「あら……フェデリコには優しいのに、私には厳しいのね」

「君は十分に周りから優しくされているからね。時には厳しく接する相手も必要だろうさ。それに……」

「それに?」

「……現在は”聖徒”と言う大層な肩書も増えているけれど、フェデリコは皆が思っているよりも遥かに”幼い”だろう?」

「……その言葉には私も同意するわ」

 

 ドクターの言葉に対し、アルトリアは微かに笑って見せる。

 そのまま立ち上がり、ドクターの側によると机の上にある手に触れた。

 

「ドクター、あなたは色々な事を考えるのが得意で、他人が何を考えているのかを読み取るのが上手だわ。だからこそ、あなたにサンクタの持つ”共感能力”の様なモノを持っていなくて良かったと思うの」

「常々、私もそんなものが無くて良かったと思っているよ」

「……今日、私はあなたについて少しだけ理解を深めたわ。ドクター……あなたは希望の”先導者”ではなく、希望の”扇動者”なのね」

「──私に導く資格はない。出来るのは少しでも良い方向に向かう様に、周囲を煽る事だけさ」

 

「……その苦しみもいつかきっと終わるわ。だからドクター、また時間を見つけて話をしましょう? 音楽がまだ言葉の代わりにならないと言うのなら、お互いにまだ話すべきことが沢山ある筈だもの」

「それも良いね。その時はアーミヤにも参加して貰おうか」

「えぇ、アーミヤさんも呼んで……思い切り、お互いを感じましょう」

 

 アルトリアはそう告げると、机の上に手を滑らせ、部屋の中から出て行った。

 部屋の中にはドクターのみが残り、無機質な音が微かに響いている。

 

 

 

 ──────────────────────────────────────

 

 

 

「は……」

 

 ヴィルトゥオーサが完全に離れたか事を確認すると、ドクターは大きく息を吐いた。

 

(──彼女との会話は……やはり神経を使うな)

 

 ドクターはヴィルトゥオーサに対し、様々な印象を持っていた。だがそれらは、数多くの人が彼女に対して持っている物とは異なる。ヴィルトゥオーサ、アルトリア・ジアロ……数々の事件にかかわった嫌疑を持つ、テラーノ本国からの指名手配犯。理解する事が難しい、特殊なアーツと複雑な要素を兼ね備えている危険人物。そして独自の感性と独特の判断基準を持ち、他者からは同じく理解する事が難しい思考回路。警戒する要素こそ数あり、手放しで歓迎できる人物では決してない。ロドス艦内である程度の自由は認められてはいるものの、その行動には数多くの制限が加えられている。

 

 誰しもが危険人物と評する事が出来る彼女に対し、ドクターが数回に渡る会話を経て出した結論は至ってシンプルであった。

 

 超越的な姿の陰にある、年相応の人間。

 過去の出来事を抱え、それに対する答えを探している。

 強大な力の裏側にある脆さ。

 

 詰まる所、アルトリア・ジアロも等身大の人間である。

 過去に傷つき、感情に迷い、人を信じている。

 

 ──────────────────────────────────────

『他と変わらない、思ったよりも普通だな』

 ──────────────────────────────────────

 

 ヴィルトゥオーサへの、ある意味拍子抜けとも言えるドクターの最終的な評だった。

 だからこそ、彼女に対しての会話は神経を使う。

 

 力に頼らず、特殊性に頼らず、特別扱いをしない。

 力を前提に話さず、特殊性を追求せず、特別な事を求めない。

 ただ一人の人間として話す必要があるからだ。

 強大な力を持つ者は、その力に引っ張られる事も多々ある。

 それは本人だけでなく、周囲の人間も同じだ。

 

 お互い、自分の考えだけで話さなければならない。

 彼女に必要なのは、きっとそう言った存在なのだから。

 勿論、ドクターは自分がその様な立場になれると思い上がってはいない。

 ロドスのドクターとして出来る事は、ほんの少し手助けをする事だけ。

 彼女を完全に理解する事は出来ないのだから。

 

 あの二人は相互理解も共感も出来ないのだろう。

 だが誰よりもアルトリア・ジアロを理解しているのは、フェデリコ・ジアロであり……同じく誰よりもフェデリコ・ジアロを理解しているのは、アルトリア・ジアロだ。数々の問題を乗り越えた先、姉弟の固い繋がり。

 きっとそれは……どんな困難をも凌ぐ力を与えるだろう。

 

(難しいだろうが、出来る事ならその日が一日でも早く訪れます様に)

 

 ドクターはこの時、碌に信じてもいない都合の良い”神”に確かに願った。

 無意識に机の上のある場所に手を伸ばす。

 

「あれ……?」

 

 この時になってようやく、ドクターは机の上に置いていた、ある物が無くなっている事に気が付いた。

 資料の山をどけ、紙の下を探しても見つからない。

 ヴィルトゥオーサの退室直前の動作を思い出す。

 

「あーあ……またやられた」

 

 ドクターは脱力して椅子に凭れ掛かると、楽しそうに笑った。

 

 

 

 ──────────────────────────────────────

 

 

 

 廊下を歩きながら、手に隠した物をそっと目の前にかざす。

 

「今日は赤林檎……知恵の実の味なのかしらね」

 

 ヴィルトゥオーサはそう呟くと、包み紙を剥き飴玉を口に入れた。

 ドクターに対するちょっとした、いつもの悪戯である。

 

 

 

 ──────────────────────────────────────

 

 

 

『弦に指を乗せる度に、周囲に漂う感情が私の中に流れ込んで、指先を通って空と大地に流れていくの。聴こえたかしら? これが命のあるがままの叫びよ。なんて衝撃的で、美しいのかしら』

 

 

 

 ──────────────────────────────────────

 

 

 

 イグゼキュターはロドスからの物資輸送依頼を受け、ロドスオペレーター共に目的地に向かっていた。あれからもドクターの話から生まれた疑問について考えているが、相変わらず答えは出ていない。ただ、考え続けている内に最初は答えが見えない程に遠くにあった思われるそれは、今では随分と近い所まで来ていると感じてもいる。自分が抱えている疑問の答えは何なのか、ドクターが自分に与えた問いの答えは何なのか。後はほんの少しのきっかけさえあれば、ずっと自分の中に渦巻いている違和感等の正体も分かる筈だ。

 

 運転中にもかかわらず、外付けの端末を操作しているロドスオペレーターの姿が見える。

 

「この端末、新しく買ったのにす~ぐ熱くなるんだよな。不良品か?」

「運転中に他の事に意識を割く事は、事故を起こす可能性を飛躍的に高めます。直ちに車両の運転に集中して下さい」

「この道は真っ直ぐだから多少は大丈夫さ。それに何度も通ってるから慣れてるよ」

「人はその様な慢心によって、時に重大な過失を生み出します」

「……あんた、そう言えば機械に強かったよな?」

「専門家程ではありませんが、大抵の事は対処出来ると思います」

「じゃあ、俺の代わりにちょっと調べてみてくれよ。そうすれば運転に集中できる」

「了解しました。お預かりします」

 

 イグゼキュターは端末を受け取ると調べ始める。

 

「こちらの端末はどちらで手に入れられたのですか?」

「機械の部品ばっかり取り扱ってるジャンク屋があってね、そこで安く買ったんだよ。最新ではないらしいけど、そこそこ新しいやつな筈だ」

「成程……であれば理由は分かります」

「もう分かったのか?」

「ええ。使用されている部品の問題ですね。恐らく一三世代か一四世代前期の物が使用されているのでしょう」

「それだと端末が熱くなるのか?」

「はい。動作電圧の上昇によりその現象が発生していると思われます。不具合修正の為のプログラムデータが配布されていたと記憶していますが、購入時に何か言われていませんでしたか?」

「いや、何も?」

「安い商品には何かしらの理由があるものです。ジャンク屋はこうなる事を知っていて販売していたのでしょう」

「はー……お得意様だからって騙した訳かよ。別に良いけどよ」

 

「あなたの表情には呆れの感情が見て取れます。こういった場合、怒りの感情が現れるものでは無いのでしょうか?」

「怒ったってしょうがねぇよ。安く買ったのは俺だし、元々訳有の商品ばっかり取り扱うのがジャンク屋ってもんだろ? むしろ良い勉強代になったって思う位だ」

「そうですか」

「そんな事よりも、その修正プログラムってのは今でも手に入るのか?」

「私の記憶によれば正規購入店のみ取り扱っていた筈です」

「あー、じゃ駄目か。ロドスのエンジニア部に持ち込んでみれば何とかなるかもな」

「その可能性はあります」

「何にせよ、原因が分かってすっきりしたよ。ありがとうな」

「いえ」

 

 イグゼキュターは端末を返却し、改めて車両内部に視線を巡らせる。過去にこの人物と仕事をした時も、こうして彼が運転し自分が後部座席に座っていた。

 

「あなたと仕事をするのは随分と久し振りですが、ロドス指定の車両は相変わらず使っておられないのですね」

「何回か使ったんだが、しっくりこなくてね」

「以前の車両とは随分と内装が違うようですが」

「当たり前だろ、別の車なんだから」

「あれは廃車になったのですか?」

「……おいおい、聞き捨てならねぇな。他人事みたいに言うが、あんたが俺の車をぶっ壊したんじゃないか」

「……」

「まさか覚えてないのか?」

「いえ、覚えています」

 

 イグゼキュターはロドスオペレーターの言っている出来事を確かに覚えている。あれは薬品や物資を運ぶ任務中の出来事だった。本来であれば遭遇しない筈の強盗団に遭遇し、任務遂行の為に最も効率的な方法で状況を打破したのだ。最終的に任務は無事に遂行され、ロドス側の人的損害はなく車両一台の犠牲で済んだ。今思い返してみても、あの時取った行動に間違いはなかったと断言できる。

 

 

 ──────────────────────────────────────

 

 

 

 ──────────────────────────────────────

『ん……正面にいるのは怪我人か?』

 

 車両の進行方向に怪我人らしき人影が手を振っているのが見える。

 

『……速度を落とさず、そのまま進んで下さい』

『なんで? 怪我人だぞ、助けなきゃ』

 

 イグゼキュターの制止よりも早く車両は減速していた。

 

『あれは怪我人ではありません。罠です』

『罠?』

『はい。近頃強盗団の手口として増えています。怪我人を装い足止めを行い、他の仲間が周囲から襲い掛かると言うものです』

『……間違いないか?』

『はい。しかし、既に手遅れです。速度を落とした事で相手に時間を与え、既に囲まれています』

『嘘だろ……今から戻るか?』

『不可能です。仕方がありません、停車して下さい』

『どうするんだ?』

『こちらから奇襲を仕掛けます』

 

 ロドスの車両は道の真ん中に停車する。

 もう隠すつもりも無いのか、手を振っていた人物は武器を取り出していた。

 ゆっくりと武器を手に近付いて来る人影が増える。

 

『停車したけど、奇襲ってどうするんだ? 囲まれているって事は、相手の方が人数も多いんだぞ』

『問題ありません。既に直近の事件情報、地形と照らし合わせ、相手の人数、配置、装備の割り出しは完了しています。私達二人で十分に対処可能と判断します』

『……意外と俺って高評価されているんだな』

『事実に基づいた評価です』

『それで奇襲するって話だが……作戦はどうするんだ?』

『このまま車両内で待機し、相手が近づいて来た所を車両内部から射撃を行い、先手を取ります』

『……は?』

『このまま車両内で待機し、相手が近づいて来た所を車両内部から射撃を行い、先手を取ります』

 

『車両内から射撃するって言ったか?』

『はい』

『そのデカい銃で?』

『はい』

『そんな事したら、車が穴だらけになっちまうだろ!!』

『任務遂行の為、必要な犠牲です。勿論、車両が走行不可能になる様な損傷を与えるつもりはありません。強盗団の目的はこの車両に積まれている積み荷……特に薬品です。つまり、相手は車両に加える攻撃は最小限にしようとするでしょう。その心理を逆手に取ります』

『待ってくれよ、これは一応ロドスに登録されている車両だが、手間暇かけて改造もしてる俺の私物でもあるんだぜ!?』

『そうですか。ではこの様な事態を想定し、次からは私物ではなく、破損しても精神的ダメージの少ない、ロドス指定の車両を使用する事を推奨します』

 

 イグゼキュターは既に銃を準備し、奇襲を仕掛けるタイミングを待っている。

 

『奇襲後、私が前に出ます。あなたは援護をお願いします』

『ちょっと待ってくれよ。今、何か考えるから……あんたの奇襲作戦は最終手段だ。やるにしても一言かけてからだ。良いか? 絶対に俺に黙ってぶっ放すんじゃないぞ!!』

『了解しました。では、これより射撃を開始します』

『……え?』

 

 直後、連続で響く射撃音、穴だらけになる車両側面

 イグゼキュターの蹴りにより、吹き飛ぶドア。

 強盗団の怒声と悲鳴、飛んで来るボウガンの矢。

 

『いや────!!!!』

 

 喧噪の中、様々な感情を含んだ情けない悲鳴が響く。

 そして悲鳴を上げた本人も武器を手に、車両を飛び出して行った。

 ──────────────────────────────────────

 

 

 

 ──────────────────────────────────────

 

 

 

「確かに私は車両の一部を破壊しましたが、走行に問題はなかった筈です。事実、無事に物資を指定の場所まで送り届け任務を遂行しました」

「一部? 車両の側面吹っ飛ばして、出来損ないのオープンカーみたいになったのに一部だって? 冗談きついぜ」

「私の先程の発言の中に冗談は含まれていません」

「……俺は今でも半壊した車両で物資を届けた時、対応した連中……あの何とも言えない視線を思い出せるぜ。ロドスのマークが残ってなかったら、俺達の方が強盗に間違われて自警団に追い出されただろうさ。そしてロドスに戻って来た時の仲間の反応……転げまわる位に笑われたもんだ」

「あなたの発言には、一部誇張表現が含まれていますね。ロドスに帰還した際、私達の心配をしていましたが、笑っていた人物はいませんでした」

「……イグゼキュター、あんたは変わらないな」

「そうでしょうか? あなたから見て、私は以前の私と何ら違いは無いのでしょうか?」

 

 ロドスオペレーターの発言に対し、イグゼキュターは思わず問う。

 

「……いや、少し変わったかもしれない」

「どこがでしょうか?」

「前よりも少し愛想が良くなった気がする」

「それは良い事なのでしょうか?」

「良いんじゃないの? 人間らしいって事だろ?」

「……」

 

 イグゼキュターはその言葉を聞いて沈黙する。

 ロドスオペレーターはその様子をちらりと見ると、特に何も言わず運転を続けた。

 

 

 

 ──────────────────────────────────────

 

 

 

 ロドスオペレーターとイグゼキュターは街の入り口付近に車両を停車させ、ここから合流してくる人物を待っていた。既に合流予定時刻は過ぎていたが、特別急ぎの任務でもない為、連絡が来るまで車内で時間を潰す事にしたのだ。ロドスオペレーターは運転席にて寛いだ様子で雑誌を読み耽り、イグゼキュターは二枚の塗りつぶされた紙片を眺めている。そんな状態が暫く続いた後、沈黙していた端末が点灯しメッセージの着信を表示した。

 

「お、この街で合流予定のオペレーター、直ぐそこ迄来てるっぽいぞ」

「そうですか」

「荷物を載せないといけないから、合流したらちょっと降りてくれよな」

「荷台の方に置かないのですか?」

「大事に取り扱わないといけない物らしいから、こっちの後部座席の方に固定するんだよ」

「分かりました。必要であれば、私は荷台部分に移動しても問題ありません」

「そこまで大きな荷物じゃないから大丈夫の筈だ。固定方法によっては並んで座ってもらう必要は出てくるかもしれないけどな」

 

「了解しました。合流予定時間を過ぎている事に関して、そのオペレーターに説明して頂く事は出来るのでしょうか?」

「そりゃ出来るだろうけど、別に急ぎでも無いし気にしなくても良いんじゃないか?」

「余裕を持って計画された任務であっても、理由のない遅延は発生すべきではありません。また、理由及び原因に正当性が認められない場合、当人の評価を下げる事になります」

「多少の遅れがあったとしても、ちゃんと仕事を終わらせたら良いってドクターは言ってたぜ」

「……この依頼はドクターからなのですか?」

「え、聞いてないのか?」

「……」

 

 突如としてフェデリコは何かを感じた様に視線を動かした。

 やがてその気配が近づいて来る方向を断定すると、そちらをじっと見る。

 

「どうした? なんか顔が怖いぞ」

「……何故」

「何?」

「危険が迫っています」

「は? 危険?」

 

 そう言うとイグゼキュターは銃を抜き取った。

 その様子を見て運転席で寛いでいたロドスオペレーターは飛び起きる。

 

「おいおいおいおい」

「あなたは中で待機していて下さい」

「待てって!!」

 

 ロドスオペレーターの制止も聞かず、イグゼキュターは銃を手にしたまま車両のドアを開けた。そして躊躇う事無く、目の前の人物に突き付ける。

 

「……あら、なによフェデリコ。そんなもので私を歓迎してくれるのかしら?」

「何故ここにいるのですか?」

「あなたに銃を突きつけられるのは、もうすっかり慣れてしまったけれど……ちゃんとしたお仕事の最中にまで、こうされるとは思わなかったわ」

「質問に答えて下さい」

「この街で合流予定のオペレーターが居るって聞いていないのかしら?」

「……」

 

 イグゼキュターは目の前の人物を睨みつけたまま動かない。

 その後ろから、ロドスオペレーターが顔を出し挨拶をする。

 

「ヴィルトゥオーサさん、お疲れ様です。予定時間よりも遅れていますが……こちらでやるべき事は終わったんですか?」

「ええ、終わったわ。本当は予定よりも早く終わっていたのだけれど、子供達の演奏会があると聞いて会場へ足を運んでいたの」

「まぁ、ドクターもあなたが時間通りに来る事は無いだろうって言ってましたし……良いですよ。荷物は手に持っているのと背負っている物だけですか?」

「ええ、とても大事な物だから私の目の届く所に置いて貰えるかしら? 出来れば直ぐに取り出せる様にもして欲しいの」

「大丈夫ですよ、ドクターからもその様に聞いています。後部座席の方に固定するので一旦お預かりしますね」

「ドクターは何でもお見通しなのね」

 

 ドアの前に立ち続けるイグゼキュターをロドスオペレーターがなんとが動かすと、ヴィルトゥオーサから荷物を受け取り後部座席の方に固定する作業に入った。

 

「ドクターがあなたの単独行動を許可したのですか?」

「えぇ、その通りよ。私はドクターからの正式な依頼でここに来ているの」

「私は聞いていません」

「あちらのオペレーターさんは聞いていた様だけど?」

「──ドクターが意図的に私への情報を遮断したと言う事ですか?」

「フェデリコ……あなたは仲間外れにされてショックを受けているのね」

「私は事実を確認しているに過ぎません。憶測で発言するのは止めて下さい」

「……相変わらずね」

 

「協定ではロドスオペレーターとしての活動には、常に私の同行が必要な筈です。では何故、あなたは単独行動を許可されているのか説明して下さい」

「ここに来たのはロドスと言う組織では無く、ドクターの個人的な依頼なの。個人から個人への依頼であれば、あなた達の言う協定を適応範囲外だって言っていたわ」

「それは都合の良い解釈をしているに過ぎず、屁理屈に分類される言い分です」

「……じゃあ、これで納得してくれるかしら?」

 

 ヴィルトゥオーサはイグゼキュターに依頼文書を手渡す。そこには一時的な単独行動を許可する事、正式な依頼である事、行動責任はドクターが持つ事とドクターの署名が記載されていた。依頼文書の隅から隅まで確認しても偽装された形跡はなく、全てが正式な手続きの元で発行された事を示していた。

 

「……確かに正式な依頼文書です。偽造の形跡もありません」

「あなたは口で言っても納得しないだろうからと、こうして文書を持たせておいて貰って良かったわ」

「──では、あなたがドクターから依頼を受けた内容について、私に説明して下さい」

「……まだ納得していないの?」

「私はあなたを信用していません。またオペレーター:ヴィルトゥオーサの行動について、把握しておくのは私の責務です」

 

 その言葉にヴィルトゥオーサは微かに肩を竦めて見せる

 

「私がドクターから依頼を受けたのは、この街で指定の荷物を受け取る事。そしてあなた達に合流し、一緒にロドスへと帰還する事よ」

「つまり私の任務完了まで、あなたが同行すると言う事ですか?」

「そうなるわね」

「……」

 

 沈黙し動かないイグゼキュター。

 同じく動かないヴィルトゥオーサ。

 

 とっくに荷物の固定作業を終えていたロドスオペレーターは、そこでようやく口を挟んだ。

 

「あの~お二人さん、悪いんですけど、それまだ時間掛かります? まだ続くなら俺もう一人で行こうかな~って思ってるんですけど」

「私は終わったわ」

「……」

「じゃあ……イグゼキュターは?」

「不本意ではありますが問題ありません、任務を継続します」

「ならさっさと乗ってくれ。あんたら目立ち過ぎなんだよ」

 

 半ば呆れ気味に溢された言葉を気にする事無く、二人のサンクタは車両に乗り込む。

 別の意味で難易度が上がった様な任務に対し、ロドスオペレーターは大きな溜息を吐き出さずにはいられなかった。

 

 

 

 ──────────────────────────────────────

 

 

 

 ヴィルトゥオーサは窓から外の流れる風景を眺め、イグゼキュターはその姿を監視している。

 

(いや……空気重……)

 

 目的地に向けて車両を運転するロドスオペレーターは、すっかり変わってしまった車内の空気に戸惑っている。何とかしてこの状況を変えられないかと考えているものの、余計な事を口走ればもっと事態を悪化させてしまう様な予感もあった。彼は必死に頭を働かせ、幾つかの会話パターンを考え出すとその中から慎重に選択し、どうにかこの状況が変わる事を祈り口を開く。

 

「そう言えば、ヴィルトゥオーサさんはドクターの依頼で、あの街に行ったんですよね? 大事な荷物って中はなんなんですか?」

 

 そして彼は初手で選択を間違えた。

 

「楽器よ。大きい方はチェロ、小さい方はヴァイオリンが入っているわ」

「まさか、ドクターがあなたに楽器を持たせる事を許可したのですか?」

「ええ」

「……」

 

 話題を振った張本人は、事態の収拾を諦め、我関せずの態度を固める。

 

「そんなに警戒しなくても大丈夫よ。これは純粋な楽器だもの。アーツの増幅機能なんて付いていないし、音を記録する事も出来はしない……これはただ本当に音を奏でる事しか出来ないわ。部品の一つ一つが職人の手によって作り出され、ある意味で最も原始的な作られ方をしているよ。ドクターが教えてくれなければ、私はこの芸術作品とも言える、これらに再び触れる事も出来なかったでしょうね」

「事実かどうかを確認します」

「チェロは今回の私のお仕事に対するドクターからの報酬だから、ご自由にどうぞ」

「こちらは?」

「ヴァイオリンの方は……ドクターからアーミヤさんへの贈り物だそうよ」

「把握しました。ではチェロの方を確認します」

 

 イグゼキュターは後部座席に固定された大きい方のケースを開け、丁寧に収納されていた楽器を取り出した。疑念を持っているとしても、彼は物を乱暴に扱う事はせず、慎重に、徹底して丁寧に扱っている。やがて隅々まで確認し終えた彼は、元の様に丁寧に収納するとケースをゆっくりと閉じた。

 

「満足したかしら?」

「事実確認を完了したに過ぎません。確かにこの楽器には、特殊な機能は組み込まれていないようです」

「だから、そう言ったのに。あなたって相変わらず私の話を聞いてくれないのね」

「あなたの発言には信頼性と信憑性が無い事を、私はよく知っています」

「そうやって私の言葉を全て疑ってばかりいると、大事な時に大事な事を見落としてしまうかもしれないわよ」

「……必要な場面であれば、私はあなたの言葉や行動を正当に評価し判断します。ですが、今はそうではありません」

「……」

 

 再び両者の間に沈黙が訪れる。ヴィルトゥオーサは窓から外の流れる風景を再び眺め、イグゼキュターはその姿を監視している。二人の会話とも言い争いとも言える様な空気の中、耐えらなくなったロドスオペレーターが再生した音楽が、ひっそりと車内に流れていた。それは明るい音色でありながらも、どこか物悲しさを秘めている。

 

「──とても珍しい曲を聴いているのね」

「え? あ、五月蠅かったですか?」

「いいえ。私も色々な音楽に触れて来たつもりだけれど、それは聴いた事が無いわ」

「それより、言い争いは満足したんですか?」

「……? 私達がいつ言い争っていたの?」

「私達は事実の確認をしていたにすぎません」

「そうなんだ……まあ終わったなら良いや」

 

 ロドスオペレーターは投げやりにそう言うと音量を少し上げる。

 

「……これはドクターが執務室で聴いていて、なんか良かったから後で色々まとめて貰ったんです。これの他に歌詞がある曲が幾つかありますけど、クルビアやヴィクトリアの言語に近いと思いますが……なんか違うんですよね。ドクターに聞いてみたら、古いデータベースから引っ張り出して来たとか言ってました」

「あら、そうなの。明るい曲調なのに死を主題にしているのは、とても珍しい事だわ」

「あ、やっぱりそうなんですか? 正確な意味までは分かりませんけど、ニュアンス的にそんな感じがしました」

「死を題材にしているのは、鎮魂歌の様なものなのでしょうか?」

「残念ながら違うわ、フェデリコ」

「どう違うのですか?」

 

「これは死を主題にしてはいるけれど、同時に愛の歌でもあるわ」

「……愛ですか」

「──そうだわ……少し演奏しても良いからしら?」

 

 何かを思いついたヴィルトゥオーサは、ケースからチェロを取り出す。

 

「あ、どうぞ。じゃあ一旦音楽の再生止めますね」

「彼女の演奏は危険です。許可するべきではありません」

「危険って……演奏を聴いたら車が爆発でもするのか?」

「車両は爆発する事はありませんが、秘めた感情が爆発する可能性があります」

「感動して泣き止まなくなるって事?」

「あなたはオペレーター:ヴィルトゥオーサのプロファイルを読んでいないのですか?」

 

「……今のロドスに、どれだけのオペレーターがいると思ってるんだ? 俺みたいな一般オペレーターが、全員のプロファイルなんて見てるわけ無いだろ」

「私は任務を全うする上で、必要なプロファイルは全て目を通しています」

「……あぁ、そう」

「そんなに警戒しなくても大丈夫よ。これは純粋な楽器で……私はただ音の違いについて実演して見せるだけよ」

「私が危険だと判断した場合、即座に演奏を中断させます」

「それはもう好きしてくれたら良いが……車内で銃だけは使うなよ」

「……成程、あなたは意外と根に持つタイプなのですね」

「五月蠅いな」

 

 二人を気にする事なく、ヴィルトゥオーサはチェロの調弦を済ませると軽く音を奏でた。音の響きに問題が無い事を確認すると、演奏を始める構えを見せる。一瞬の沈黙の後、車内にチェロの音が響く。それは静かな音色で、悲しみや苦しみを含んだ冷たい雨に沈んで行く様な感覚になる。もしも、多数の聴衆がこの場に居たなら、きっとそれぞれの悲しい思い出が思い起こされ、あちこちから啜り泣きの音が聞こえてきたかもしれない。演奏者はたった一人、演奏されている楽器はチェロただ一つなのにもかかわらず、響き渡る音には数多くの悲しみや苦しみが含まれていた。

 

 

 

 ──────────────────────────────────────

 

 

 

 ヴィルトゥオーサの演奏は終わった。

 

「どうだったかしら?」

「凄く良かったです。昔あった色々な事とか、ちょっと思い出して目が熱くなりますね」

「フェデリコはどうだったかしら?」

「今の演奏は先程再生されていた曲と同じですね」

「そうだったのか? 全然分かんなかったな……」

「他には?」

「特にありません」

 

 相変わらずのイグゼキュターの反応に彼女は微かに笑って見せる。

 

「イグゼキュター、あんた今の演奏聴いて何の感想も無いのか?」

「はい。変わらず音楽について天賦の才を持っている事は認めます」

「はー……悲しい感性してるな」

「演奏に共感出来ない事は、悲しい事なのでしょうか?」

「全部が全部共感出来るとは言わんが、良いものを良いって感じ取れなかったり、自分自身に響くものが無いってのは、悲しいんじゃないか? 大体共感云々に関しては、サンクタの方が詳しいだろうに」

「……」

「そんなに気にする事ではないわ。フェデリコは昔からこうだったものね。死を主題にしつつも愛を謳った原曲に対して、私の演奏は死の部分をより際立たせる様にしたの。同じ曲であっても演奏の仕方で印象は大きく変わるのよ」

 

 ヴィルトゥオーサは再び弦を動かし音を出す。

 優しい音、悲しい音、激しい音、高い音、低い音。

 全て同じ一音だったが印象が異なる。

 それは人の感性、感情があるからこそ感じとれるものだ。

 

「フェデリコ、あなたはきっと私の演奏や原曲を全く同じ様に演奏出来るでしょう。でも、それは演奏からは程遠い、音の羅列に過ぎないわ。あなたは幼い頃、私の演奏に対して言った事を覚えているからしら?」

「覚えています」

 

 イグゼキュターは即座に返答する。

 確かに覚えている。

 あれはまだヴィルトゥオーサ……アルトリア・ジアロがこうなる前の頃だ。

 

 ──────────────────────────────────────

『姉さんはとても上手ですから、どの曲も同じ様に聴こえます』

 ──────────────────────────────────────

 

「あなたは私の演奏がどれも同じに聴こえると言ったけれど、この世界に同じ音は一つだって存在していないの。同じ曲、同じ奏者であってもね。その日の感情、重ねた経験によって音は変わって行く。ある時、最高とも思える演奏をしたとしても……またある時にそれを超えて行くのよ」

「……」

「逆にたった一度の演奏で全てを出し切って、もう二度と楽器を取れなくなる演奏家もいるわ」

「ヴィルトゥオーサさん、それって一曲だけ出してそれが大ヒットして以降、一切曲が書けなくなってしまう人の事ですか?」

「そう言う人も居るわね。自身の最高到達点を感じてしまった事で、更に上へ挑戦できなくなってしまう気持ちも理解出来るわ」

「──」

「──」

 

 イグゼキュターの耳には二人の会話は殆ど入って来ず、彼は別の会話を思い出していた。

 

 ──────────────────────────────────────

『今回の任務はピアノの演奏が必要になるかもしれないのですね。安心してください。私は百曲以上の名曲の楽譜を暗譜しておりますし、鍵盤を順序通り精確に叩くことも可能です。専門的な訓練を受けた法定執行人として当然のスキルです。それは演奏とは言えない? なぜでしょうか、私には理解できません』

 

『音符は同じですが、感情の面でだいぶ異なりますよ』

 

『ですがちっとも感情がこもっていませんよ! 規則を暗記するやり方で音楽を理解してはいけません。まずは……えっと、楽曲が書く感情を想像するんですよ』

 ──────────────────────────────────────

 

 感情、またしても感情だった。

 この自身が抱える問題は、何処へ行っても感情が付いて回る。

 ドクターの話でも、アルトリアの話でも重要視されるのは感情だ。

 今一度、人が抱える感情について向き合う必要があるのかもしれない。

 

 感情とは情報である。

 感情とは一種の付加情報である。

 自分には他人の感情は理解出来ない。

 では、今自分が抱えている”これ”は感情なのだろうか? 

 そして……”これ”はどんな感情なのだろう? 

 

 イグゼキュターが気が付いた時、既にヴィルトゥオーサはチェロをケースにしまっていた。まるで演奏などしていなかったかの様に、窓から外の流れる風景を眺めている。ロドスオペレーターも無言で運転を続け、車内には再び音楽が流れていた。ドクターが古いデータベースから引っ張り出して来たと言った、ヴィクトリアともクルビアとも微妙に異なる言語のそれは、変わらず死への喜びと愛を歌っている。

 

 

 ■■■■■■■ ■■ ■■■■……♪ 

 ■ ■■■■■ ■■■■■■ ■■■■■■……♪ 

 ■■ ■■■■ ■■■■■■ ■■■■■ ■■■■■ ■■■ ■■■■■■……♪ 

 ■■■■■■■ ■■ ■■■……♪ 

 ■■■■ ■■■■ ■■ ■■■■■■■■ ■■■ ■■■■……♪ 

 ■■■■ ■■■■ ■■ ■■■ ■■ ■■■■■ ■ ■■■■■■ ■■■■■■……♪ 

 

 

 

 ──────────────────────────────────────

 

 

 

 

 三人を乗せた車両は無事に目的の町に辿り着いた。今回ロドスオペレーターとイグゼキュターに与えられた任務は、この町の住人に医薬品を届ける事であった。元々町の住人の幾人かはロドスで治療を受けていた事があり、受け入れ作業自体は非常に素早く完了した。医薬品の大部分は町の医療施設に収め、後はそれぞれ適した薬品セットをそれぞれ適した住人に渡して完了となる。

 

「大部分は片付いたし、残りは個人宛の荷物ばかりだ。悪いが半分ずつ手分けして配るぞ。ラベルが貼ってあるからそこに書かれている人に届けてくれ」

「了解しました。では、こちらの配達分は私が担当します」

「私も手伝った方が良いのかしら?」

「あー……ヴィルトゥオーサさんは、この任務に割り当てられている訳では無いので、無理にやって頂かなくても大丈夫ですよ」

「あら、そうなの? どうしようかしら……ねぇ、フェデリコ?」

「あなたは車両内で待機していて下さい」

 

 イグゼキュターは即座に言い放つと、荷物を抱えて車両を離れて行った。

 

「……ですって」

 

 ヴィルトゥオーサは肩を竦めなら言い、ロドスオペレーターは苦笑いをしてみせた。残念ながら彼女は殆どの場合において、『待て』と言われて大人しく待っている様な人間ではない。ロドスオペレーターもその事はこれまでの出来事の中で十分に理解していたし、イグゼキュターもまた、ああ言ってはいるもののヴィルトゥオーサが言う事を聞くとは思ってはいない。あれは発言した事による状況対処への布石に過ぎないのだ。そして早くも車両から離れ、イグゼキュターの後を追う。

 

「自由行動は構いませんけど、周りに迷惑かけないで下さいよ」

 

 後ろから聞こえるロドスオペレーターの声に、彼女は手を振って見せた。

 

 イグゼキュターは幾つかの家を訪問し荷物を配達した。元々決められていた荷物を届けると言う、契約の元に行われているに過ぎない任務に対し、荷物を受け取った人々は誰しもが感謝の言葉を述べる。感謝、これもまた感情の一種。これまでも何度も感謝の言葉は聞いて来たが、果たして自分はその言葉に含まれる感情に向き合った事があったのだろうか? 

 

 イグゼキュターは扉を叩き声を掛ける。

 

「失礼します。ロドス・アイランド製薬です、契約に従い荷物の配達に参りました」

「はーい。今行きます」

 

 扉の向こうから、随分と若い声が返って来た。

 やがて扉が開く。

 

「お持たせしました。ちょっと手が離せなくて……」

「……」

「……天使のお兄さん、どうしてここに?」

「ロドス・アイランド製薬のオペレーターとして、今回任務によって荷物の配達に参りました」

「びっくりしたよ」

「私も、あなたがこちらにいらっしゃるとは知りませんでした。先に荷物の受け取りをお願いしてもよろしいでしょうか?」

「あ、はい。ありがとう、天使のお兄さん」

「……」

 

 イグゼキュターが言葉を発するよりも早く、別の声が響く。

 

「なんと、今回は天使のお姉さんもいるのよ」

 

 イグゼキュターの後ろからヴィルトゥオーサが姿を現す。

 新たに現れたサンクタに感嘆の声が上がる。

 

「わぁ~」

「あなたがフェデリコの先生ね。会えて嬉しいわ」

 

 ヴィルトゥオーサはそう言うと、子供の手を取って握手をした。

 

「先生?」

「ええ。とても大事な事を教えてくれた素晴らしい先生よ」

「車両内での待機を要請した筈ですが」

「じっとしているのも退屈だもの……それに本当に一度会っておきたかったのよ」

「……」

 

 イグゼキュターに僅かながら警戒の反応が出る。

 

「そんなに警戒しなくても、何もしないわ」

「では早急に車両内に戻って下さい。あなたの手を借りる必要はありません」

「もう少し位は話をさせてくれも良いでしょう?」

「……」

 

 当人を置き去りにし、話が進んで行く中で助け舟が入った。

 

「ヴィルトゥオーサさん、探しましたよ。今日はどうやらちょっとしたお祭りの日らしくて、向こうで何かの演奏がある様です。誰でも参加も出来るらしいので、見に行ってみてはどうでしょう?」

「この辺りは、音楽に関わるお祭りが多いとドクターが言っていたけれど……本当なのね。なら折角だもの、行ってみましょうか。先生、良かったら後でお話ししましょう?」

「え、うん」

「彼女の話は真に受けないで下さい」

 

 ヴィルトゥオーサは子供に手を振ると立ち去った。それを見届けたロドスオペレーターはイグゼキュターの方を向いて、右手の親指をぐっと立てて見せる。そして彼もまたヴィルトゥオーサの後を追う。

 

 イグゼキュターは少しの間、自分の右手を見つめる。

 そして無表情でロドスオペレーターの背中に右手の親指を立てた。

 隣には荷物を抱えたまま、困惑した様子の子供が残されている。

 

 

 

 ──────────────────────────────────────

 

 

 

 イグゼキュターは子供に連れられ、家の中に入った。中にいた両親と思われる大人は、突然の訪問者に驚いた様に此方を見たが、きっと話を聞いた事があるのだろう、イグゼキュターの姿を見て深々と頭を下げた。同じ様にイグゼキュターも頭を下げる。そして案内されるまま子供の後を付いて行った。

 

「ロドスでの治療を止め、ご実家の方に戻られていたのですね」

「うん」

「それで良かったのですか?」

「やっぱり大好きな家族の近くが良いなって思ったから」

「……」

「それにほら、またお薬届けてくれたから安心だよ」

 

 子供はそう言い、受け取った荷物を棚へとしまう。

 その棚の中には既に大量の薬品が並んでいる。

 

「あなたに謝罪しなければならない事があります」

「?」

「私は思考を続けていますが、未だに『”優しい世界”とは、どんな世界であるか』と言う問いに対する答えを出せていません」

「そっか……でも嬉しいよ」

「嬉しい? 何故でしょうか?」

「だってお兄さんは、ずっと考えていてくれてたんでしょう?」

「はい」

「答えが出なくてもずっと考えていてくれたなら、それで十分だよ」

「……」

 

 部屋の壁には沢山の絵が貼られていた。

 そのどれもが人と明るい色に溢れている。

 白い建造物が並ぶ絵……あれはラテラーノだろうか? 

 

「もしもこの先、お兄さんが答えを出せたなら……それをドクターに教えてあげてね」

「ドクターにですか?」

「うん。私がロドスから帰る時に会いに来てくれたの。その時に沢山お話して、色々な事を教えてくれたの」

「……」

「最後にまた天使のお兄さんに会わせてくれるって、約束してくれたんだ。本当に会えるなんて驚いたよ、ちゃんと約束を守ってくれたんだね」

「ドクターはあなたに何を話したのですか?」

「……内緒。教えちゃ駄目だって言ってたから」

「……」

 

 イグゼキュターの問いに対し、子供は正直に答える。

 ドクターと話した事は内緒なのだ。答えが出ていないのならば、今ではない。

 

「あなたに……後悔はありませんか?」

「後悔はない……と思う。たぶん」

「何故でしょうか?」

「やりたい事とかやってみたい事は、きっと沢山あると思う。出来た事よりも出来なかった事の方が多いと思う」

「……」

「けど、色々な事に対して長い時間をかけて受け入れたんだ。だから、後悔はないよ」

「それで良いのですか?」

「良いとか悪いとか……そう言うのは通り過ぎちゃったんだと思う。でも、きっと意味はあったんだ」

 

 窓から外を見る視線を追えば、外で遊んでいる小さな子供が見えた。

 外観から推察するに弟なのだろう。

 以前に比べ、弟を見守る子供は随分と落ち着いた様子に感じる。

 きっと迫りくる”それ”に対し、長い時間をかけて答えを出したのだ。

 

 ならばロドスオペレーターではなく、執行人としての仕事をしなければならない。

 

「──ラテラーノ公証人役場法定執行人の職務の中に、他者に遺しておきたい言葉や願いを聞き届けるといったものがあります。あなたにそう言ったものはありますか?」

「言葉や願い?」

「はい」

「何でも良いの? 無理だって言わない?」

「どの様な内容であっても問題ありません。これまで私は数多くのものを遂行して来ました」

「……」

 

 ──────────────────────────────────────

『あなたは自分の意志が死後も延長され、必ず果たされると生者に信じさせ、私は人々の一番美しい感情を音楽の中で活かし続ける』

『私たちはどちらも生きる意味を実証しているの』

 ──────────────────────────────────────

 

「じゃあ……」

「……どうしました?」

「本当の本当に大丈夫なの?」

「安心して下さい。私個人の力だけでは不可能な場合では、頼れる同僚の力を借りる事も出来ます」

「……」

「……」

 

 やがて決めたのか、子供は願いを口にした。

 

 

 

 ──────────────────────────────────────

 

 

 

「■■■■■■■■■■■■■■■■■■■?」

「はい、確かに記憶しました」

「本当に?」

「ラテラーノ公証人役場法定執行人:フェデリコ・ジアロがあなたの願いが叶えられる様、力を尽くす事をお約束します」

 

 

 この時、フェデリコ・ジアロは新たな人の願いを背負った。

 これまで託されて来た数多くのそれらと同じ様に。

 

 

 

 ──────────────────────────────────────

 

 

 

「私達の感情……悲しみや喜びは生命のある瞬間にのみ存在する。でも私たちはいつだって起きた事全てを感じているの」

「フェデリコ、あなたは今……何を感じているのかしら?」

「本当はもう分かっているのよ。ただ言葉に出来ないだけで……」

 

 

 

 ──────────────────────────────────────

 

 

 

 ロドスの車両が大地を進む。イグゼキュターとヴィルトゥオーサ、そしてロドスオペレーターを乗せた車両はロドスへの帰路へとついている。ヴィルトゥオーサは窓から外の流れる風景を眺めていたが、やがてチェロがしまわれたケースに寄り添う様に眠りについている。車両内には穏やかな音楽が小さく響き、それぞれ多少なりと疲労感を抱えている三人を優しく包んでいた。運転をしながらちらりと後ろを見たロドスオペレーターは、イグゼキュターが変わらず同じ姿勢を取り続けている事に気が付き、声を掛ける。

 

「イグゼキュター、あんたも寝て良いんだぞ。ロドスまでもう少しかかるし、疲れただろう」

「お気遣いありがとうございます。ですが私は大丈夫です。あなたの方は大丈夫なのですか? 必要であれば運転を変わる事も出来ます」

「俺は大丈夫だよ。こう言った任務は慣れてるからな。それにあんたが運転する乗り物には、乗るべきじゃないって俺の勘が言ってる」

「……」

「そんな心配しなくても、ちゃんとロドスに帰れるから安心しろって。あんたも忙しい身の上だろう? 居心地はあんまりよくないかもしれないが、休める時に休んでおけよ」

「了解しました」

 

 イグゼキュターはその言葉を聞いて、意識の切り替えを行った。変わらず眠っているヴィルトゥオーサを視界に収めつつも、今回の任務中に起きた出来事について振り返る。ロドスオペレーターとの過去の任務を振り返り、ヴィルトゥオーサと合流し、町であの子供に出会った。そしてラテラーノ公証人役場法定執行人として願い……遺言を預かった。振り返ってみれば、日頃こなしている通常任務と大差はない。荒事が起きなかった分、通常よりも難易度は遥かに低いとも言える。

 

 では、この体を包む疲労感は何なのだろう? 

 では、この胸に渦巻く”これ”は何なのだろう? 

 今回の任務経て、微かに感じるこの変化は何なのだろう? 

 

 イグゼキュターは服の内側にしまっていた封筒を取り出し、中から二枚の塗りつぶされた紙片出す。そしてそれをじっと見た。今ではこの青が何色なのかはっきりと分かる気がする。青は青だ。だが、青は単純な色だけを見るものではない。

 

 一枚は夕暮れ時の仄暗い空のような深く渋い青色。

(……青です。色識別355273……)

 

『これは何色?』

(これは悲しみの青です)

 

 もう一枚は明るく澄んだ秋の空のような薄い青色だった。

(……青です。色識別6C9BD2……)

 

『これは何色?』

(これは喜びの青です)

 

 この時、イグゼキュターは色に感情がある事を理解した。音に感情がある事を理解した。言葉にも様々な感情が宿り、それらは複雑に絡み混じり合う事で、また別の感情となる。感情とは情報である。しかし未だに自分は、その情報を正しく理解出来ているとは思えなかった。だが、あんなにも何も見えていなかった……感情に対する答えは確かに、薄っすらとした輪郭として見えてきている気がした。

 

 ”分からない事が分からない”。

 ”分からない事が分からない”は、いずれ分かる時が来る。

 ドクターが言っていた意味が、この時になってようやく形を持ち始める。

 

 

 

 イグゼキュターは目を閉じる。

 

 

 

 ──────────────────────────────────────

 

 

 

 瞼の裏に、柱を崩すドクターの姿が浮かび上がる。

 

 ──────────────────────────────────────

『まずは疑問を持つ事さ』

 

 今回の一件、全ての始まりは疑問を持つ事からだった。

 自分の事、”優しい世界”とは何か、ドクターの話の意味とは。

 疑問が疑問を呼び、疑問と疑問が繋がってやがて答えとなる。

 

 全ての答えは……今の時点で導き出せるものではないのかもしれない。

 ──────────────────────────────────────

 

 脳裏に、夕日に染まる町の子供の影が揺れる。

 

 ──────────────────────────────────────

『またね、天使のお兄さん』

 

 あの子供は任務を終え、町を去るイグゼキュターに対してそう言って見送った。

 ”また”と言うのは、再び会う約束をする言葉でもある。

 しかし、イグゼキュターはあの子供に会う事は二度とないという確信があった。

 もう未来は残ってはいない、後は限られた時間を過ごしていくだけなのだから。

 

 数多くの死を見送って来た葬送人として、やがて来る死を……また一つ見送った。

 ──────────────────────────────────────

 

 心の中に、アルトリアと歩きながら話した事が巡る。

 

 ──────────────────────────────────────

『あの子にとって、フェデリコは神様だったのかもしれないわね』

『発言の意味が不明です。私は神ではありません』

『あの子に自分の意志が死後も尊重され、必ず果たされる事を約束した。そうして感情が残り続ける事をあなたが決めたのよ』

『……』

『フェデリコ……あなたは、あの子の憧憬が分からなかったのかしら?』 

『私にとって重要なのは、感情ではなく願いや遺言の方です』

『本当にそれだけだったの?』

『……』

 

 あの子供は死者ではない。だが、やがて死者となる。

 遠くない未来、物言わぬ墓石の下に眠る日が来る。

 ……これは悲しみなのでしょうか? 

 これまでの任務の中で受け取った遺言の託し主に対し、私は悲しみを感じていたのでしょうか? 

 

 フェデリコ、かつて同じように雨の墓地に立ち尽くしていたあなたは、「死」を理解していたのでしょうか? 

 ──────────────────────────────────────

 

 

 

 ………………

 …………

 ……

 

 

 

 

 声が聞こえる。

 

 

 

 ──────────────────────────────────────

 

 

 

「ヴィルトゥオーサさん、あんまりそうやって余計な事すると怒られますよ」

「フェディったらまだ目覚めていないみたいなの」

「まぁ……疲れていたんでしょう。主にあなたの所為で」

「私の所為と言うよりも、きっと考えすぎなのよ」

「何についてですか?」

「”優しい世界”の作り方……かもしれないわね」

「それはまた……随分な難題ですね」

「どれ程の難題であろうと、この大地には”それ”を考える人は必ずいるのよ」

「そうですねぇ……アーミヤ代表もきっと考えている人なんでしょうね」

「──」

「──」

 

「言ってたらロドスが見えてきましたよ」

「本当ね。じゃあ、目覚ましの曲でも演奏しようかしら」

「──その必要はありません」

「あら?」

 

 ──────────────────────────────────────

『君は君が思っている以上に、感情豊かであると私は思っている。『”優しい世界”とはどんな世界か?』……『あらゆる物事は力で解決するしかないのか?』……これらの一見答えの無い様に思える問いに対して、君は必ず答えを見つけるだろう。人は考える生き物で、君もまた人なのだから』

 ──────────────────────────────────────

 

 

「私はもう目覚めています」

 

 

 イグゼキュターは目を開いた。

 

 

 

 ──────────────────────────────────────

 

 

 

 後日、ドクターが執務室で仕事をしていると扉を叩く音と声が聞こえた。

 

「ドクター、イグゼキュターです。入室の許可を求めます」

「どうぞ」

「失礼します。前回の任務についての完了報告に参りました」

 

 イグゼキュターが扉を開けて入ると、ドクターは目の前の端末を操作しながら片手で器用に角砂糖の山を築いていた。瓶の中から器用に人差し指と中指で角砂糖を挟み、既に積み上がった角砂糖の上へと置く。その動作は一瞬たりとも視線を向けられる事無く行われており、積み上がっている角砂糖は美しい正方形を作っている。相変わらず機械の様な正確さで行われるそれは、人によっては称賛の対象になりうるのだが、イグゼキュターにとってはそうではない。むしろドクターのこの様な行為は、当人の異常性を示す指標として変わらず記憶されている。

 

「以前も同じ指摘した覚えがあります。ドクター、角砂糖はその様に積み上げて遊ぶものではありません」

「これは私の脳に必要な当分だよ」

「ドクターの返答は、私の指摘に対する答えとして、やはり不適切です。脳の活動に糖分が必要である事実は認めますが、それならばより適した物を選ぶべきです。吸収効率の観点で言えば、ブドウ糖の方がより効率的です」

「生憎と私の手元にあるのは……これか、秘蔵のお楽しみだけだよ」

「そうですか。では、ドクターの業務活動における備品として、後ほどブドウ糖の申請を行いましょう」

「……」

 

 普段と変わらない様子のイグゼキュターに対し、ドクターもまた普段通りに言葉を返す。

 

「今回の任務も何事もなく終わったかい?」

「はい。特別報告する様なトラブルは発生していません」

「それは良かった。ヴィルトゥオーサはどうした?」

「オペレーター:ヴィルトゥオーサはここへは来ません。彼女からドクターへの報告は私に任せると言われています」

「彼女らしいね」

「恐らく、ドクターが許可した演奏会に向けての準備を始めるのでしょう」

「私も彼女の演奏を楽しみにしていてね。君も参加するだろう?」

「はい、ロドス内におけるヴィルトゥオーサの行動には、私が同行する必要がありますから。ドクター、心配の必要はありませんよ。彼女の演奏によって問題が発生した場合、私が必ず場を制圧して見せます」

「まぁ、私はそんな心配はしていないが……」

 

 ドクターはイグゼキュターの様子を観察する。

 今回の任務を経て、彼は何かしらの答えを得たのだろうか? 

 フェデリコ・ジアロと言う人間に何かしらの変化を与えたのだろうか? 

 それとも彼はまだ、困惑と混乱の渦の中にいるままなのだろうか? 

 

「今回の任務についてですが、随分と色々な方面に手を回されたようですね」

「……大した事はしていないよ。少しばかり人事部と医療部にお願いをして、任務工程に多少手を加えただけさ」

「そうですか。では、今後はこのような事は不要です」

 

 イグゼキュターは淡々とドクターにそう伝えた。

 以前と変わりの無い様子に少しばかり残念そうに言葉を溢す。

 

「──分かったよ……君は変わらないな」

「いいえ」

「ん?」

「ドクターの私への印象には誤りがあります」

「と言うと?」

「今回の任務を経て、私は確かな変化を感じています」

 

 

 

 ──────────────────────────────────────

 

 

 

 イグゼキュターの言葉を聞いて、ドクターは思わず身を乗り出す。

 

「変化と言うと……君の疑問に答えは出たのか?」

「いいえ。私の疑問に対する答えは出ていません」

「では、何が変わったんだ?」

「分かりません」

「分からない?」

「私はまだこの変化について、確かな説明を行う事が出来ません。ですが、私が抱えている疑問についても、今はこれで良いのだと判断しました」

「疑問を疑問のまま残しておく事に抵抗はないのか?」

「抵抗がない訳ではありません。しかし、これらの答えが出るのは、きっと今ではないのでしょう。加えて私は”分からない事が分からない”状態と言うのは、人には誰にでもある現象である事を理解しました。”分からない事が分からない”は、裏を返せば何時の日か必ず分かる日が来るのです」

 

「……ははっ」

「嬉しそうですね、ドクター」

「ああ、私はとても嬉しいよ」

「何故でしょうか?」

「貴重な友人が確かな成長を迎えたんだ。これはとても喜ぶべき事なんだよ」

「それは個人的な感情ですね」

「そう、個人的な感情だ」

「……私は変わらず、『感情とは情報である』と言う考えに変わりはありません。あなたが何故、私の変化のついて喜んでいるのかも理解出来ません。しかし、この不安定で不確定な感情について、長い時間をかけ改めて分析する必要があると判断しました」

 

「それは何故かな?」

「任務中に私の身体が思考に先んじて動く事について……あれは私の感情による刹那的な行動であると理解しました。しかし、それが私のどの様な感情であるかは分からないのです。そして感情とは多くの場合において、共通したパターンが存在します。ですがその共通したパターンにおいても、個人によって大きな差があるのです。喜びや悲しみ、言葉にしてしまえば簡単なものですが、これらには複数の複雑な情報が組み込まれています」

「……」

「この複雑な感情と言う情報を理解出来た時、私は疑問の答えを得るのでしょう」

 

 ドクターは満足そうに頷いた。

 彼は既に答えの無いと思われた問いに対し、一定の答えを出した。

 自身が納得出来る答えにはまだ遠いのだろう。

 だがそれで良いのだ、人とは考える生き物なのだから。

 

「今回の任務で、君は私の思っていた以上の成果を持ち帰ってくれたようだ」

「ドクターのご期待に添えた様でなによりです」

「とても興味が湧いて来た。今回の任務で君が見て、感じた物を聞かせて欲しい」

「了解しました。では後程、改めて報告に参ります」

「いや、今聞かせてくれ」

「優先すべきは机に積み重なっている仕事の方だと判断しますが」

「そんなのは後で良いんだよ」

 

 ドクターは思いついた様に立ち上がり、冷蔵庫を漁りだす。

 

「……折角だから秘蔵のお楽しみを出そうかな。君も食べるだろう?」

「私には間食の習慣はありません。そして、業務中の間食は推奨されません」

「じゃあ、今から休憩時間にしよう」

「ご存じの筈ですが、ドクターの休憩時間はまだ先です」

「……」

「ドクター、聞こえないフリをしても無駄です。あなたがこの距離で声を聞き逃す筈がありません」

「……」

 

 やがて冷蔵庫の中から箱を取り出すと、ドクターは応対用の机の上に置いた。イグゼキュターの視線など気にする事無く、続けて紅茶の準備を始める。上機嫌に湯を沸かし始めるドクターを見つつも、イグゼキュターは机の上に置かれた箱の銘柄に覚えがあった。これはラテラーノで現在非常に人気の高い店の物だった。

 

「ラテラーノのドーナツですね。現在、こちらの店の商品を購入する難易度は非常に高いと聞いています」

「それはモスティマから貰ったのさ。ラテラーノでのこう言った商品を頼むなら、彼女かフィアメッタに頼むと大体何とかなるんだよ」

「成程。彼女達の協力があったのですね」

「君も一つどうだい?」

「私には間食の習慣はありません」

「……そうだったな」

 

「ドクター、質問があります」

「なんだい?」

「こちらのドーナツ、種類はなんでしょうか?」

「勿論、入手困難な一番人気の”甘味爆発ラテラーノスペシャル”だが?」

「……」

「それがどうかしたのか?」

「私も頂きます」

 

 ドクターは驚いて振り返った。

 

「これは驚いたな。一体どういう風の吹き回しだ? これまで一度だって、誘いに乗ってくれた事は無かったじゃないか」

「以前あなたは、『いつか私が誘いに乗ってくれるかもしれない』と仰っていた筈ですが?」

「それにしたってさ。さっきだって君は間食の習慣は無いと言ったじゃないか」

「……」

 

 

 イグゼキュターは少しだけ考える様に視線を動かす。

 そして適切な言葉を見つけたのか、ドクターを真っ直ぐに見て言った。

 

 

 

 ──────────────────────────────────────

 

 

 

「──人とは矛盾する生き物です」

「……」

「……」

「──成程、それは良いね。人間らしい、とても良い理由だ」

 

 紅茶の入ったカップを二つ用意し、自身とイグゼキュターの前に置いた。

 そして箱を開け、中からドーナツを一つ取り出すと相手に渡す。

 イグゼキュターも中から、派手な色合いのドーナツを一つ取り出した。

 

「さて、聞かせて欲しいな。今回の任務でイグゼキュターが……いやフェデリコ・ジアロは何を見て、何を感じたのかを」

「了解しました。私は──」

 

 

 二人はドーナツをつまみ、紅茶を飲んで話をする。

 それは風の吹く穏やかな午後の事だった。

 

 

 

【穏やかな午後】 終

 

 

 

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 番外:【扇動者の回答】

 

 

 長期的な平和とは、ただ力によって達成されるものではない。

 互いを理解する事によってのみ得られるものだ。

 そして相互理解には心をを開き、耳を傾け、互いを認め合わなければならない。

 人間とはこれまでの歴史の中でも常に暴力と共にある。

 暴力は時には必要になる。力には力でしか解決できない問題もある。

 しかし、それが全てではない。

 本当の人と人との繋がりは暴力によるものでは無く、

 感情や意志、願いと言った不安定で不完全なものによって行われている。

 目には見えない感情……人の心とも言うべきもので文明は存続している。

 不安定で不完全、だからこそ人は他者を求めるのだろう。

 完璧な存在は人の繋がりの中では必要ない。

 人は完全な世界では息が出来ないのだから。

 

 すまない、少し難しい言い方になってしまった。

 

 私の考える”優しい世界”がどんな世界か? 

 簡単だよ、私の様な人間が作戦指揮をする必要が無くなる事。

 そして……私の罪がこれまでの実績や温情によって左右される事なく……

 私を裁く権利を持つ者達によって正当に裁かれる世界さ。

 数億の命を救ったとしても、数億の命を犠牲にした事実は消えない。

 例え記憶の忘却があろうとも……過去のあらゆる罪は清算しなければならない。

 そうなって初めて……私はこのテラの大地が優しくなったと思うだろう。

 ……なんてね。

 

 ……悪い事をしたなら、ちゃんと謝ったら皆許してくれる? 

 そうだな……そうかもしれないな。

 ただ私のやった事は、本当に取り返しのつかない事だったんだ。

 もしも、皆が私を許してくれるとしても……きっとは私は自分を許せないのだろう。

 

 だが安心して欲しい、君の思う神様(フェデリコ)は……

 きっと君が願った優しい世界を作ってくれる筈だ。

 彼はとても……優しいからね。

 

 

 

【扇動者の回答】 終

 

 

 




別サイト(Pixiv)に投稿していたもの
友人からこっち向きじゃないかと言われたのでお試しです。
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