アークナイツの短い話   作:十羽せろん

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スペクターと思い出を振り返ろう


【君はダンスパートナー】

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『あなたが夢の中でも正気でいられますように』

 

 

 

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 ある時、怪物が生まれた。

 生まれた怪物は自分の事が嫌いだった。

 

 故に怪物は目につくもの全てを破壊している。

 破壊活動に伴う自傷で死んでしまいたかったから。

 

 怪物の身体が大きくなるにつれ、破壊対象は増えて行く。

 怪物の身体が大きくなるにつれ、破壊による自傷は出来なくなっていた。

 

 成長し、巨大になった怪物の身体を傷つけられるものは無い。

 変わる事のない自死願望は目に映る全てを破壊する。

 

 長い時の中で無意味な破壊行為を繰り返した後、怪物は考えるのをやめた。

 考えるのをやめると、何故自分の事が嫌いだったのか忘れた。

 

 忘れた後は目的も無く進み続け、気まぐれでそこにある物を破壊する。

 気まぐれに破壊した結果、奇妙な形の柱が出来上がった。

 

 それを完全に破壊しようとして怪物は動きを止めた。

 長い時間その柱を見つめた後で、器用に身体の一部を使い形を整える。

 

 奇妙な形の柱は、更に歪で奇妙な形の柱になった。

 怪物はそれを見ると破壊する事無く、何処かへと姿を消した。

 

 目的も無く彷徨い続けた怪物は全てを忘れ、

 最終的に自分が生まれた華やかな庭園に戻り一時の眠りにつく。

 

 

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<アビサルハンターとの対話記録>

 

 

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 人間と怪物の見分け方とは何か? 

 人間と怪物の違いとは何か? 

 

 簡単な話だ、芸術を鑑賞する能力があるか否か。

 どれだけ人間の真似事をしようとも、それだけは決して備わる事は無い。

 あいつらは芸術を解さない。だから音楽は奴らを釣る良い道具になる。

 

 万が一、芸術を理解する怪物が現れたら……だと? 

 早急に殺すべきだ。

 奴らの創作物が俺達に理解出来ると思うか? 

 奴らの芸術が俺達の感性に何か訴えかけてくるとでも? 

 

『共存出来るかもしれない』等と言う馬鹿な幻想を持つ事は無い。

 俺はかつて、似た様な事をある男に問うた事がある。

 

『奴らと共存出来る未来を想像出来るのか』……と。

 その男は未練や口惜しさを抱える事も無く、失望の中で死んだ。

 ……あぁ、お前の想像している人物で間違いない。

 

 人間が怪物になった時、そいつが芸術活動を行うかどうか? 

 お前はこんなくだらない仮定の話をするのが趣味なのか? 

 ……俺達のやるべき事は変わりはしない。

 怪物だろうが、怪物になった人間だろうが根絶するのみだ。

 

 だが……そうだな……

 怪物に成り果て、人の感性を失ってもなお、芸術活動を行うならば……

 その姿は酷く滑稽で、同時に哀れな事だ。

 中途半端な感性や人間性は自身を苦しめるだけだろうからな。

 

 お前の仮定の様な存在が生まれたとしたら、なるべく早く殺してやるべきだろう。

 人間を忘れる事も出来ず、怪物になりきれない憐れな存在。

 

 望んでその姿になったにせよ、そうでなかったにせよ。

 そいつの安寧は死を迎える事でしか得られはしない。

 

 話は終わりか? 

 ならば俺はもう行く。何か情報が入ったら共有しろ。

 伝達方法は追って知らせる。

 

 ロドスのダンスパーティー? 

 そんなものに参加している時間は無い。

 あいつらにとっては息抜きになるだろうが、俺はそうではない。

 

 もし、お前がそれに参加するならあいつらに気を配ってやれ。

 分かっていると思うが、俺の事を話す必要はない。

 

 俺達には……まだ猶予が残されているのだからな。

 

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 ・ロドス艦内報掲載予定の下書き

 

 

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 ロドス・アイランドでは定期的にダンスパーティーが開催されている。誰が最初にやろうと言い始め、誰が定期的に開催する様にしたのかは誰も気にしていないが、それはロドス恒例行事である。ダンスパーティーと言っても堅苦しいものでもなく、日や時間帯によってその内容は大きく異なっている。ある時はフリースタイルだったり、またある時は社交ダンスの様だったりと、多くの希望に添える様になっている。時間帯やダンスの種類が気になる時は、実行委員会の方に問い合わせを行えば予定表を貰う事も出来る。上手下手、得意不得意は誰も気にしない、本当に気軽に参加出来るダンスパーティーなのだが、参加者達からの満足度は非常に高い。

 

 ダンスパーティーの名の通り、踊る事が主目的ではあるのだが、それ以外での参加も当然可能だ。他の人が踊っているのを見ていたい人、単純に誰かと話をしたいだけの人、交友関係の拡大を目指す人、ダンスパーティーに提供される食事等が目的の人、曲の演奏者として参加する人、なんであれ極度に羽目を外し過ぎなければ、基本的には何を目的に参加しても良い。先述の通り何も気にせず、本当に気軽に参加出来る場なのだ。しかし、このダンスパーティーに参加する為に、ダンスの練習を必死に行う人もいた。彼らはそうして十分に練習を積んだ後で、ダンスパーティーで意中の相手を踊りに誘う光景が度々目撃されている。

 

 本当に色々な意味でロドスのダンスパーティーは活気と人気があるので、ロドスのトップ陣もそれなりの頻度で参加している。特に多く姿を見せるのはアーミヤ代表で、ケルシー医師はその付き添いと言った感じで場に現れる事が度々ある。流石にケルシー医師が踊ってくれる事は無いが、声を掛け話題を振れば基本的には応じてくれる。誰かと一緒に踊る姿や楽器を演奏するアーミヤ代表の姿を見守るケルシー医師は、『業務中の雰囲気と比べると随分と穏やかなものだ』とワルファリン医師は語っていた。ドクターは時々顔を出し、暫く会場に留まり色々な人と話をした後で気が付けば姿を消している。ドクター曰く、『一緒に踊ろうと言う無茶を言われない様に退散している』と言う事らしい。

 

 因みにダンスパーティーの参加者の中で、特に人気が高いのはアビサルハンターの面々である。意外な事かもしれないが、急ぎの業務が無い時は必ず参加する程に、彼女達はロドスのダンスパーティーの常連中の常連だ。普段かなり話しかけづらい雰囲気を持つグレイディーアさんだが、ダンスパーティーにおいて共に踊りたいと思う希望者がかなり多い。完璧としか表現の出来ないエスコートを一度経験してしまうと、『もっとダンスの練習をした後でもう一度踊りたい』と言い出す参加者は少なくなかった。また『本当の初心者や未経験者こそ彼女と踊るべきだ』と言う人もいる。他の二人についても方向性は違うが、基本的にはダンスの誘いには応じてくれる。もし刺激的なダンスを希望する場合は、スペクターさんの方に声を掛けてその旨を伝えてみると良い。きっと忘れられない程に、『刺激的』な経験をさせてくれる事だろう。

 

 ダンスパーティーでは普段難しい顔をしている人々が笑い、比較的若い世代が年相応の顔を覗かせる事が多い。立場や責務を忘れ、何かを楽しむ事が出来ているというだけでも、ダンスパーティーを開催する意味は大きいのだ。我々ダンスパーティー運営委員会としても、今後とも皆に楽しんで貰える事を念頭に活動していきたい。因みに運営委員会の参加者も募集しているので、希望者や興味のある人は是非声を掛けて欲しい。連絡先は……

 

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「ちょっと!! 今、紹介動画撮っているんだって!!」

「前もって言っておいたんだから、場面内に割り込んでこないでよ!!」

「また最初から撮り直しになっちゃったじゃん!!」

「どいつもこいつも『撮影中』って貼り紙が見えないの!?」

 

「掲示板に貼り付ける次回の予定表が何処かって?」

「それ昨日までにやっておくって話だったでしょ!!」

「嘘でしょ、配布物の印刷も終わってないの!?」

「昨日まで一体何していたのさ!!」

 

「いい加減にしてよ。こっちまで声が聞こえるんだけど!?」

「ロドス艦内報掲載予定の原稿書いてるから静かにして!!」

「皆が書きたくないって言うから、私が頑張ってやってんのよ!?」

「はぁ!? 私の声が一番五月蠅いってどう言う事よ!!」

 

 近々開催されるダンスパーティーに向けて、

 運営委員会の面々は彼ら専用の部屋で慌ただしく準備をしていた。

 様々な申請の締め切りが近い彼らは相当に殺気立っている。

 

 因みにダンスパーティー運営委員会用の部屋の壁には標語として、

『華やかで美しく、そして優雅に取り組む事』と書かれている。

 

『華やかで美しく、そして優雅に取り組む事』と。

 そう書かれている。

 

 

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 ・ダンスパーティー運営委員会による参加者の音声インタビュー記録

 

 

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 インタビュー対象:ハーモニー

「私がロドスのダンスパーティーの運営に積極的に協力する理由? 勿論、情報収集に決まっているじゃない。これだけ多種多様な立場の人間が集まる場所で、更にお互いに深く探り合う事無く話せる場所なんて貴重だもの。それに運営側に立っておけば、どこの誰が参加するのか分かるでしょう? 名簿に興味のあるターゲットがいれば、当日に話しかけてみるってだけ。……冗談よ、そんな悪徳な下心があって参加している訳じゃないわ。私はダンスパーティーの日程を把握しておきたいだけなの。そうすれば仕事の予定を調整する事が出来るでしょう?」

 

 補足欄:

 ・ハーモニーさん……確かに彼女はダンスパーティー運営委員会に所属している訳ではありませんが、毎回準備等には非常に協力的な人ですよ。スパイ活動だなんてとんでもない。彼女はただ参加者名簿にリードさん、かつての学友達の名前が載っていないかを気にしているのです。もしも参加予定者名簿に彼女達の名前があったら、ハーモニーさんはダンスパーティーには参加せず、当日に仕事の予定を入れますからね。

 

 ・ハーモニーさんのインタビュー内容は当人の事情を鑑みて、艦内報に非掲載とする。

 

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 インタビュー対象:アイリーニ

「私がロドスのダンスパーティーに参加する理由ですか? その前に何故、そんな事を聞いて回っているのか教えて頂いても良いですか? ……ロドスの艦内報の中にある、ダンスパーティー運営委員会のページに参加者達の声として掲載する為? 成程、分かりました。(小さな咳払い)勿論、私が参加する理由はイベリア裁判所のトランスポーターとして、多くの人達と交流を深める必要があるからです。更に言えば、私は多くの事を学ばなければならず……えっ、以前私がダンスパーティーで気合を入れた格好で踊っていた? ロドスのダンスパーティーには、新調したドレスや靴で踊ってはいけない規則でもあるんですか?」

 

 補足欄:

 ・『アイリーニさんはああ言っていましたが、本当は物凄くダンスパーティーに参加するのを楽しみにしているんですよ。アビサルハンターの皆さんと上手に踊れる様に、こっそりダンスの練習をしていたりしますからね。僕も何度かアイリーニさんに連れられて参加した事がありますが、参加している皆さんはとても楽しそうな雰囲気でした。勿論、僕もです……ダンスなんて殆ど経験が無くても、一緒に踊って下さる人がとても上手にエスコートしてくれますし。何と言うか、ダンスパーティーって本来、こう言う場所なんだなって感じる事が出来た気がします。僕なんかが提案するのも烏滸がましいですが、初心者の皆さんに向けた練習会みたいのがあれば……もっと参加しやすくなるかもしれませんね』

 

 ・こっちのルーメン君のインタビューの方で良いんじゃないか? 

 ・一部を切り取って両方並べて使うのはどうだろう。

 ・練習会は存在しているけど、あんまり認知されていないのが分かった。

 ・広報活動不足ですね、今後の活動方針として改善を行います。

 

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 インタビュー対象:スペクター

「あら、ダンスパーティー運営委員会の人じゃない。私に何か用? もしかして、小鳥ちゃんが受けたとか言うインタビューかしら? それで私にも、ロドスのダンスパーティーに参加する理由を言って欲しいのね。特別な理由は無いわ、ただ私が踊るのが好きってだけ。それに他の人が、上手下手関係なく踊っているを見るのも好きなの。誰でも参加出来るダンスパーティーって、本当に貴重な場なのよ? 興味があるなら遠巻きに眺めていないで、早く飛び込んで来た方が……きっと楽しいと思うわ」

 

 補足欄:

 ・こう言う感想を皆くれると思っていたのに、何故立場や責務やらの話から入るんだ? 

 ・私達が思っている以上に、参加者は色々考えているのかもしれない。

 ・まるで運営委員会が何も考えてないみたいな言い方はやめよう。

 ・とは言えそんな複雑な事は考えて無いのも事実だから……

 

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 ダンスパーティー会場から随分と離れた一室。

 そこでピアノの演奏が終わると同時に拍手が響いた。

 

「素敵な音色が聴こえると思ったら、あなただったのね」

「いつからこの部屋に入っていたんだ?」

 

 拍手の送り主であるスペクターに対してドクターは訊ねる。

 

「ほんの少し前よ。ダンスパーティーに参加してのだけれど、休憩していた時に気になる音が聴こえて来たから出所を探していたの。まさかこんな所で、あなたがピアノを演奏しているとは思わなかったわ」

「驚いた……君は耳も良いんだな。この部屋は会場から随分と離れているだろうに」

「確かに遠かったわ。あなたは普段からここで演奏しているの?」

「いいや、こうして気が向いた時だけかな」

「あら、そうなの?」

「君は会場の方に戻らなくて良いのか? まだ続いているだろう?」

「私はそれなりに楽しんだし、また戻るのも疲れてしまうわ。熱心な誘いのお相手は、きっとカジキやシャチがしてくれているもの」

「君達は人気者だからね」

「えぇ、光栄な事にね」

 

 そう言われるとスペクターは微かに笑って見せる。

 ドクターは演奏していたピアノの後片付けをはじめた。

 

「あら、もうおしまいなの、ドクター?」

「君に見つかってしまったからね」

「だったら……あなたを見つけた私の為に、もう一度さっきの曲を演奏して頂けないかしら?」

「……」

「あなたが演奏してくれないなら……私、面白い獲物を見つけたって言いふらしてしまうかも」

「世間ではそれを脅しと言うんだよ」

「脅しだなんて酷いわドクター。私の『可愛い』お願いよ」

 

 スペクターは詫びれもせずにそう言うと部屋の中にあった椅子に座る。

『早く早く』と急かす様に手を叩くその姿に、ドクターは折れるしかなかった。

 

 再びピアノ演奏用の椅子を起こし、そこに座る。

 演奏前の決まった儀式の様に手を合わせ、一呼吸置いてから鍵盤に触れる。

 最初の一音が響き、ゆっくりと数が増え、美しい音が跳ねまわる。

 部屋の中、ドクターとスペクター二人きりの演奏会。

 ドクターは演奏に集中している。

 スペクターは目を閉じ鑑賞に集中していた。

 

 演奏が終わって数秒後、拍手が響く。

 

「素晴らしい演奏だったわ、ドクター」

「君に満足して貰えたなら嬉しいよ」

「聴いた事のない曲だったけれど、あなたが作ったの?」

「インスピレーションを受けた物はあるが……一応はそうなるかな」

「曲名は何と言うのかしら?」

「……『Apr.#19』と名付けたよ」

「随分と変わった名前を付けたのね。でも、嫌いじゃないわ」

「君は寛大だね」

 

 スペクターは椅子から立ち上がり、ピアノの前に立つ。

 片手を鍵盤の上に置き、幾つかの音を奏でてみせる。

 

「あなたの事だから、きっと他にも作った曲があるのよね?」

「……曲と呼べる程に完成しているのは、そんなに多くはないよ」

「それは良い事を聞いたわ。ねぇ、ドクター。あなたの作った曲を録音して私に頂けないかしら?」

「……」

「露骨に嫌そうな雰囲気を出さなくても良いじゃない。私からは誰かに話す様な事はしないと約束するわ」

「──分かったよ。君に見つかってしまった時点で、私の負けの様なものだからね」

 

 ドクターの半ば諦めた様な物言いを聞いて、スペクターは楽しそうに笑った。

 

 

 実を言えば、ドクターは現在のスペクター(ローレンティーナ)の事が少しばかり苦手である。理由はドクターのスペクターに対する印象は、未だにあの仄暗い水面に映る影の様な姿が根強く残っているからだ。難解かつ不可解、不気味で純粋であった頃の彼女の事をある意味で好ましく思っていた。しかし、狂人号の出来事を経て、『ローレンティーナ』としての人格を取り戻したスペクターに改めて出会った時、微かな寂しさを覚えた事をドクターは今でも覚えている。

 

 別にローレンティーナを嫌っている訳でも避けている訳でも無いが、『スペクター』の姿、その声で全く異なる振る舞いをする彼女により、ドクターの中の『スペクター』はある意味で完全に分離してしまったのだ。それ故に現在のスペクター(ローレンティーナ)を『スペクター』として受け入れる事がまだ上手くに出来ていない。要するにドクターはローレンティーナの中に本来、生まれる事のなかったあの『スペクター』に、ちゃんと別れを告げる事が出来なかった事が心残りなのだ。

 

 

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 スペクター、ローレンティーナはドクターが自分の事を少しばかり苦手に思っている事を知っている。その原因が自分にある事も理解していた。深海の狂気に汚染されていた、かつての『自分(スペクター)』を分離した別人格と認識し、これはこれで興味深いものとして好印象を抱いている。しかし当の本人がそれで納得していても、前後の変化が余りに大きい場合、他者からすれば受け入れるまでに随分と時間がかかるものだ。そして彼女も『自分(スペクター)』についてより深く知る為に、第三者から見た『自分(スペクター)』について話を聞いてまわっていた。暫く経った頃にドクターが、スペクターとローレンティーナを切り分けて捉えている事を知った。だから彼女は疑問を解決する為に、定期的にちょっかいをかける事にしたのだ。

 

 執務室にてドクターは、山の様な資料と書類に向き合っている。

 スペクターはソファーに座り、メモ用紙に絵を描いている。

 暫くその状態が続いた後、唐突に話題を切り出した。

 

「ドクターは暴力に肯定的よね」

「暴力に肯定的?」

「ええ。だって、あなたの考える作戦には無駄がないし、それにグレイディーアと戦争設計の話が出来るでしょう?」

「それがどうして、暴力に肯定的と言う話になるんだ? 作戦立案や戦争設計出来ると言うのは、その道に関わる事をしているならば誰だって出来るだろう? 君だってそうじゃないか」

「私達、アビサルハンターは暴力の専門家も同然だもの。そんな私達が暴力に否定的な筈がないわ。でも、あなたは武器を持たないし、直接戦場に立つ事も殆どないでしょう? なのに他人の暴力の使い方を熟知しているじゃない。本人以上に力の使い方や動かし方を把握する事なんて、並みの人間には出来ないものよ。私は暴力の『使い方』がこれ程までに上手な存在を知らないわ」

「……まるで私を怪物か何かみたいに言うね」

「海の怪物と言えば、あれらを思い浮かべるけれど……陸の怪物と言えば、私はドクターの事を思い浮かべるかもしれないわね」

「……」

「でも安心して良いわよ、ドクター。あなたは怪物ではなく、立派に人間だもの」

 

 その言葉にドクターは書類に向けていた顔を思わず上げた。

 スペクターは変わらずメモ用紙に絵を描いている。

 机の上には既に完成したと思われる絵が幾つも並べられていた。

 

「──どういう意味だろうか?」

「そのままよ」

「君の言葉は……何と言うか、受け取り方に困る時がある」

 

 ドクターは辛うじて、『以前の君は難解で不可解ではあったが、困る事は無かったよ』と口に出そうになった言葉を飲み込んだ。スペクターもドクターが無理矢理言葉を切った事に気が付いている。

 

「正真正銘の怪物だったなら、ただ暴力によって目につく全てを破壊しておしまい。何かを生み出すと言う事はしないわ」

「……」

「その点あなたは歌やダンス、音楽に絵……様々な芸術の素晴らしさを理解している。何かからインスピレーションを得て、曲を作ると言った事は、人間の感性を持っていなかったら決して出来ない事なのよ」

「怪物が芸術を理解しているとは思わないのか?」

「真似事は出来るかもしれないけれど、理解する事は恐らく無理ね」

「何故そう思う?」

「……ドクターはいっつもあれこれ考え過ぎちゃうのね」

 

 ドクターの問いに対し、スペクター机の上に並べたメモ用紙を幾つか取る。

 メモ用紙にはそれぞれ、絵や美しい模様等が描かれていた。

 素人が見てもそれらは素晴らしい物だと分かるだろう。

 

 次の瞬間、スペクターはそれらを真っ二つに破いて見せる。

 更に細かく破き、最終的に紙屑入れに放り込んだ。

 

「ドクター、あなたは今どう思ったの?」

「──『同じものは二度と作れない、折角作った作品をそんな雑に扱って惜しくないのか』と」

「その感覚は人間にしか分からないのよ。怪物の目の前で同じ事をしても、きっと何の反応を示さないわ。だってそれの価値が分からないんですもの。こんな風に物事はいつも複雑ってわけじゃないわ。至ってシンプルなのよ」

「……」

「それに……ドクターは自分の作戦や指揮に対して、完璧である事に美しさを見出している。違うかしら?」

「考えた事は無いな。けど、間違いやミスが無い事を徹底的に求めるのは……そう言う事なのかもしれない」

「あなたの精神性は普通とは違うのかもしれないけど、芸術を理解し創造する力を人並み以上に持っているわ。それはとっても素晴らしい事なのよ」

「……ありがとう?」

 

 スペクターはドクターの返事を気にする事も無く、再び絵を描き始めた。

 机の上に置かれていたメモ用紙の山は随分と少なくなっている。

 ドクターは再び書類の山に向き合う事にした。

 

 暫く無言の時間が過ぎた後、ドクターが口を開く。

 

「……暴力に肯定的と言うのは案外、皆そうなのかもしれないな」

「あら、どうして?」

「例えば……もしも暴力に肯定的でないとすれば、人は暴力にルールを決めて格闘技等と言う分類を作り、競技性を求める事をしないだろう。どれだけルールを厳格に決め、安全性を向上させたとしても結局の所、それは暴力でしかないんだ。人はそれを見て楽しむと言う感性を持っている。口では様々な事を言っていたとしても、暴力そのものが自分に向かってこないのなら娯楽として受け入れられる」

「……」

「大事なのは暴力そのものではなく、暴力によって得られる成果なのだろう。だから暴力には様々な理由が付いて回る。何かを守る為、何かを得る為……そう言う意味では私達、人間は純粋な暴力を行使した事が無いのかもしれない。もしも純粋な暴力を行使したら……それはもう人間ではないよ」

「そうね、純粋な暴力とは全てを破壊するだけだもの。だから『怪物』と呼ばれるのよ」

「だったら、暴力に肯定的な私も君も立派に『人間』と言う事だね」

「まぁ、あなたにそう言って貰えるなんて光栄だわ」

 

 スペクターはそう言うと自身を指さす、

「狂った戦い方をする、狂っていない人間」

 

 続けてドクターの方を指さす、

「暴力の使い方を熟知し、暴力そのものには『否定的』な人間」

 

 そして、にっこりと笑った。

 

「似たもの同士、仲良くしましょう?」

「スペクター、そう言うのはもっと包み隠して言うんだよ……」

「私たちは顔見知りだし、くだらない『初めまして』なんていらないわよ。でも、まだ互いに理解し合ってるわけじゃないわ」

「……まぁ、そうかもね」

「だから『(スペクター)』の事を教えて欲しいわ。あなたの知っている、可愛い『(スペクター)』の思い出を」

「知っていたのか」

「ふふ……以前、『(スペクター)』の真似事をしていた時、ひどく落胆していたもの。流石に分かるわよ」

「それは謝罪するよ。あまり良い気分ではなかっただろう」

「別に気にしていないわ。けれど、あなたには『(ローレンティーナ)』の事もよく知って貰いたいわ。ドクター、もう仕事はおしまいよ。折角『(スペクター)』と言う共通の話題があるのだから、こっちに座ってゆっくりとお話しましょう?」

「──分かったよ。お茶は必要かな?」

「頂くわ。 楽しい時間の幕開けね」

 

 二人は『スペクター』と言う共通の人物について話をした。ドクターはこの時、やはり二人は別人であると言う結論を出す。それでもスペクターとローレンティーナの中に共通する、ある種の純粋さを認めたのだった。

 

 

 スペクターは仄暗い水面に映る影の様だ。

 ローレンティーナは仄暗い水面に映る幽灯の様だ。

 

 ドクターのよく知る、あのスペクターはもう居ない。

 だがこの時、ローレンティーナもまたスペクターであると確かに受け入れた。

 

 

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『ロドスへの不満はたーくさんあるけど、あなたたちが芸術の収集と保守を続けてるってだけで、嫌みを呑み込んであげられるわ』

 

 

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 部屋の中でスペクターに強引に誘われドクターは踊っていた。彼女にエスコートされる形で始まった唐突な舞踏会は、そのスピードについていけないドクターの体力を凄まじい勢いで削っていく。変則的に変わるスピード、大きく移動するステップ、ドクターはもはや踊っていると言うよりも、振り回されていると言う方が正しい様相だった。それでもなんとか倒れずにいられているのは、スペクターが気を使って支えているからなのだが、本人は既にその配慮に気付く程の余裕はない。ようやっと一曲終わった時、ドクターは息も絶え絶えに崩れ落ちる。スペクターが手を握っていなければ、そのまま床に倒れていたかもしれない。

 

「どうだった、カジキ?」

「……え」

 

 スペクターの思わぬ一言に、ドクターは息を荒げながら呼ばれた人物を探す。

 カジキ、グレイディーアは壁に背中を預けながら立っていた。

 彼女はそのまま少しだけ考える様に眼を閉じる。

 

「──二点」

「分かってはいたけれど、流石の辛口採点ね」

「グレイディーア……それは十点中二点……かな?」

「馬鹿な事を仰らないで下さる、ドクター? 私が詩や絵、音楽に舞台、そう言った芸術分野に関して、こんな甘い採点をすると思っていますの? 当然、百点中二点に決まっていますわ」

「……」

「そんなに落ち込まなくても大丈夫よ、ドクター。あのカジキが最初の採点で二点もくれる事なんて、物凄く珍しい事なんだから」

「スペクター、それは喜んでいい事なのか?」

「勿論。観る価値や採点する価値が無いと思ったら、そもそも最後まで部屋の中に残っていないもの。そうでしょう?」

「……否定はしませんわ。今は見るに堪えない有様ですが、多少の素質はありそうですわね。最終的にどの程度になるかは、当人の努力次第でしょうけど」

「……」

「それで……サメ。私の貴重な業務時間を削ってまで見せたいものはこれでしたの?」

「ええ、そうよ。文字通り面白かったでしょう?」

「時間の無駄でしたわ。サメ、あなたも時間は有意義に使いなさい」

 

 グレイディーアは溜息を吐くと、さっさと部屋から出て行こうとした。

 

「それでね、隊長。私はこの息も絶え絶えなドクターを、ちゃんと踊れる様にしようと考えているの」

「え!?」

 

 驚きの声を上げるドクターは無視された。

 スペクターの言葉を聞いて、グレイディーアはドクターの上から下まで視線を走らせる。一瞬だけ目を細めると、興味無さげに返事をした。

 

「……好きになさいな。あなたが最後まで面倒を見るのよ」

「だから、あなたの手を借りたいわ。ほら、私もあなたから『人生を楽しむコツ』を教えて貰った訳だしね」

「……」

「あなただって、さっき素質がありそうだって言ったでしょう? 私が『うっかり』潰してしまうよりも……あなたが指導した方が良いと思わない?」

「サメ、私が忙しいのはよく知っているでしょう。無駄な事に時間を割いている余裕は無いのよ」

「だからこそ、よ。ずっと仕事ばかりして息抜きが出来ていないじゃない。一日の何処かで仕事以外に時間を割かないと、人生の楽しみ方だって忘れてしまうわ」

「……はぁ、一日に確保出来る時間はあまり多くはとれないわ。だから、私が指導するのは基礎だけよ。それ以外はあなたが面倒をみなさい」

「基礎が一番大事だもの、それで構わないわ。良かったわね、ドクター。カジキから直接の指導を頂けるなんて運が良いわよ」

「……私はやるなんて一言も言ってないよ」

「そうだったかしら?」

「それにほら、グレイディーアも忙しいって言っているし……」

「ドクター、あなたは以前私に『もっと休む習慣をつけた方が良い』と仰っていましたわね。感謝致しますわ、あなたのお陰で退屈しない『休み』が取れそうですもの」

 

 それだけ言うとグレイディーアは部屋を出て行った。

 ドクターは何とか立ち上がり、椅子に座る。

 

「あんなに興味無さそうだったのに……凄くやる気になってる……」

 

 ドクターの反応にスペクターは楽しそうに笑った。

 

「きっとカジキの頭の中にはもう、指導内容が組み上がっているわよ」

「もう?」

「恐らくね。私が提案した時には、ほぼ出来上がっていたんじゃないかしら」

「……」

「でも実際、カジキには何かしらの気分転換になる時間が必要だとは思わない? 時間を無駄に出来ないのは私もよく理解しているけれど、精神的余裕がないと本来成功する筈の事だって上手く行かなくなってしまうわ」

「それは認める所だが……その為に私を引っ張り出さなくても良いのでは?」

「まぁ!! もしかして、あなた……自分は精神的余裕があって、しっかり気分転換が出来ていると思っているの? 我らが第二隊長様があんな様子なのに?」

「……心配してくれているのか?」

「心配? うーん、半分位はそうかもね」

「もう半分は?」

「今は話し合いやら、それぞれの擦り合わせに注力する段階になっちゃったでしょう? シャチは今後の事で経過観察が必要だし、向こうの隊長さんは碌に顔も出さないでしょう? だから……実は私、ちょっと退屈なの」

 

 スペクターは詫びれも無く正直に言った。

 

「君のそう言う正直な所、今では良いと思えるよ」

「あら、不謹慎だって怒るかと思っていたのに」

「実際、戦いの事や立場云々が関係する話ばかりをしているのは疲れるものさ。偶には他の事に触れて、気分を変える事も大事だろう? 以前、君と話した『怪物』の話じゃないけれど……人間でいる為には暴力の関連する物事から離れる必要がある」

「ふーん……それが分かっているのに、やらないのね」

「……残念ながらね。だから誰から声を掛けて貰う必要がある訳だよ。ほら、近々ダンスパーティーも行われるだろう?」

「えぇ、あの『愉快』な運営委員会の人達も張り切っていたわね。開催時期が近くなると荒れ狂った姿が見れるから、面白くて結構好なのよ」

「あれでも、本人達は至って真面目にやっているつもりなんだよ」

「そうでしょうね」

 

 ドクターは有耶無耶にならない様に大事な事を切り出す。

 

「それで……さっきの私にダンスを教えると言う話だが……本気なのか?」

「勿論」

「グレイディーアの指導を受けないと駄目か?」

「別に受けなくても良いかもしれないけれど、その場合は私が全部教える事になるわよ。基礎訓練から毎日の様に床に倒れたいなら構わないわ」

「……グレイディーアの指導を受けよう」

「それが良いと思うわよ」

「彼女なら基礎訓練で無茶を言う事は無いろう」

「……ドクター、良い事を教えてあげるわ。グレイディーアの指導はね、容赦が無くてすっごく厳しいのよ?」

「……」

「頑張ってね、ドクター」

 

 にっこりと笑うスペクターを前にして、ドクターは思わず頭を抱える。

 既に拒否権のカードは手元に残っていない。

 今更ながらにドクターは思い出した。

 

『そうだった。彼女(ローレンティーナ)は、サプライズが大得意なのだ』と。

 

 

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<アビサルハンターとの対話記録>

 

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 人間と怪物の見分け方とは何か? 

 人間と怪物の違いとは何か? 

 

 芸術を鑑賞する能力があるか否か、それだけの簡単な話ですわ。

 どれだけ人間の真似事をしようとも、あのゴミ共には永遠に理解出来ないでしょう。

 

 あれらは舞台を鑑賞すると言う事がどう言う事なのかも分かりませんし、

 音楽を聴くという事が本当はどういうものかも知りませんの。

 ただ聞こえて来る音に耳を傾けているだけでは、『鑑賞』とは呼べませんわ。

 

 もしも、芸術を理解する怪物が現れたら……? 

 随分と気持ちの悪い事を仰いますのね、ドクター。

 行動原理や意識決定が根本的に異なる怪物……

 あれらが生み出す『モノ』が私達に理解出来ると、許容出来ると思いますの? 

 ……あのゴミ共の中から、そんな個体が産まれたのなら即座に処分致しますわ。

 不愉快なゴミが生きているだけで、芸術への侮辱になり得ますもの。

 

 あなたは今更あれらと共存出来ると考えているのかしら? 

 そう仰るなら、私はあなたに対する評価や対応を考え直す必要がありますわね。

 違う? それは結構。

 ドクター、想像力が豊かなのは構いませんけれど……

 良好な関係を維持したいなら、その様な話を私達にするのはお勧めしませんわ。

 

 ……私はあなた方の事を、以前と違いこれでも信頼していますの。

 陸に上がった時、ケルシーに出会えた事は間違いなく幸運でしたわ。

 精神的にも大いに問題も抱えている陸の人間達の中で、

 彼女は誰もよりも博識で……強大ですものね……そう……私の……

 

 いえ、何でもありませんわ。お気になさらず。

 そして……ケルシー以外にあなたの様な優秀な思考能力を持った方と、

 戦争設計についての意見交換をするとは、あの時は夢にも思っていませんもの。

 ロドスがどこの国にも属していないお陰で余計な問題に足を取られる事も無い。

 これらがどれだけ幸運だったか、今の私は理解していますのよ。

 

 我らの後ろに海はなく、もはや選択の余地はない……

 いずれ私達は全ての決着をつける為に、海に戻るのですわ。

 

 話は以上でよろしいかしら? 

 ご存じの通り、私は今も変わらず多忙な身の上ですの。

 ……ドクター、まだ何かございますの? 

 隠れて会っているあの男の情報でも教えて頂けるのかしら? 

 

 ロドスのダンスパーティー? 

 ……そう言えば、随分と参加していませんでしたわね。

 折角のお誘いですけれど、辞退させて頂きますわ。

 まだ時間の猶予がある内に、考えておきたい事が今は沢山ありますもの。

 ごめんあそばせ。

 

 ……珍しく熱心に勧誘されますのね。

 分かりましたわ、そこまで言うなら参加させて頂きますわ。

 運営委員会、あの『愉快』な方々に参加する旨をお伝え下さいまし。

 それからドクター、私とあの二人の業務スケジュールの調整もお願いしますわ。

 

 フッ……

 あの男に何を言われたのかは存じませんが、

 必要以上に私まで気にかけて頂かなくて結構よ。

 私はまだ……あなた方を待っててあげられますから。

 

 ──────────────────────────────────────

 

 

 ──────────────────────────────────────

 

 

 あの日以降、ドクターは決まった時間に決まった部屋を訪れグレイディーアの指導を受けていた。彼女の指導は容赦が無く、正確無比で妥協を許さず、非常に厳しい物だった。その日の指導が終わる頃には日頃の運動能力の低さも相まって、ボロ雑巾の様に床に這いつくばっているドクターの姿と、それに対し『無様ですわね』と冷徹に言うグレイディーアの姿が散見された。ドクターにとって幸運だったのはその様な無様な姿を見ているのは、グレイディーアとスペクターのみである事だった。しかしある意味で、最も厄介な二人に見られていると言うのは、幸運であると同時に不幸でもある事をドクターは痛い程理解している。

 

 そして今日も今日とて……

 

「無様ですわね」

「……」

「ドクター、そうやって床に這いつくばっている姿も可愛いわよ」

「……」

「サメ、甘やかすのはおやめなさい。情けをかけても上達には繋がりませんわ」

「そうかしら? 少し位は褒めてあげた方が良い気もするけれど……」

「……エーギルの誉め言葉は……随分と胸に刺さるみたいだね」

 

 ドクターが全身で息をしながら漏らした呟きをスペクターは逃す事なく拾う。

 

「まぁ!! 聞こえた? 凄い進歩よ、あのドクターが嫌味を返して来たわ」

「そのようですわね。私も嬉しいですわ、まだ余裕があると分かりましたもの」

「時々、君達が遠回しに私を殺そうとしているんじゃないかって……思う事があるよ」

「有り得ませんわ。一秒で済む事に、何故こんな長い時間を掛ける必要がありますの?」

「そうよ、ドクター。カジキの言う通りだわ」

「……」

 

 絞り出した嫌味に対して、正面から殴り返されたドクターは黙るしかない。

 何かしらの時間稼ぎをしようとして口を開こうとするが、それよりも先にグレイディーアが先手を打って来た。

 

「ドクター、私が許可した休憩時間を二十四秒過ぎていますわ。つまらない時間稼ぎをしよう等と考えずに、先の状態に戻って下さる?」

「……はい」

「頑張って、ドクター」

「サメ、あなたもここで遊んでいないでやるべき事を済ませてきなさい。立ち会う事は許可しているけれど、それはあなたがやるべき事を全て終えている時に限った筈ですわ」

「あら残念、私の予定を知っていたのね。ドクターも続きを頑張ってね。もしも辛くて泣いてしまったら、私が後で慰めてあげるわ」

「スペクター、私はこの事態を引き起こした元凶に泣きつく気はないよ」

「酷い言われようね。傷ついちゃうわ」

 

 スペクターは楽しそうに言うと部屋から出て行く。

 グレイディーアはそれを確認すると、ドクターの手を取り踊る姿勢に入る。

 

「グレイディーア?」

「あなたの情けない姿を見ているのは少々飽きていますの。少しばかり私の気分転換に付き合って頂けるかしら?」

「私には拒否権は無いからね。出来るだけ君について行ける様に頑張るよ」

「殊勝な心掛けですこと」

 

 レコードを動かし、流れ出すゆっくりとした曲に合わせて二人は踊る。グレイディーアの完璧なエスコートにより、ドクターは実力以上に踊れている気になる。それは以前、ロドスのダンスパーティーに参加し彼女と踊った人物が感じた感想と同じだ。

 

「流石だね、君と踊っていると自分が上手くなったと錯覚してしまう」

「……」

「私が君の様になれるとは、とても考えられない」

「──ドクター、あなたは何故様々な所作や動作に『美しさ』や『優雅さ』が宿るか考えた事がありまして?」

「所作や動作と言うのはダンスに関しての話かい?」

「いいえ。『歩く』、『物を手に取る』、そう言った日常的な所作や動作も含めてですわ」

「考えた事は無いかな」

「なら、今考えてごらんなさい」

 

 ドクターは考える。まずはグレイディーアが『何故この様な問いかけをして来たか』と言う事について思考を巡らせる。彼女は無駄な事はしない、彼女は不必要な手順を踏ませない。ならば、グレイディーアは自身に気付かせたい事があるのだろう。それは一体何なのだろうか? 所作や動作に『美しさ』や『優雅さ』が宿る理由とは? 

 

「常に自分の所作や動作を意識する事?」

「惜しいですが違いますわ。それはもう少し後の話ですわね」

「となると……単純ではあるが自信を持つ事とか?」

 

 その言葉にグレイディーアはかすかに笑って見せる。

 最もそれはドクターや近しい者達がようやっと認識出来るレベルの微笑みである。

 

「そう、まずは自信を持つ事ですわ。自分に自信が持てない者は、他者からの評価や信頼を得る事が出来ませんもの。そして自信を持つからこそ、自然と所作や動作に『美しさ』や『優雅さ』が宿りますのよ」

「成程……つまり君の所作や動作も自信に裏付けされたものだと?」

「私がそれをしていなければ、一体誰が私を信じて下さいますの? アビサルハンターを預かる立場、エーギルの代表の一人として役目を自ら背負っているからこそ、私は誰よりも堂々としていないといけませんのよ。でなければ……何も為す事が出来ませんの」

「君はそれで疲れてしまわないのか?」

「……私が疲れを感じるとしたら、全てに決着がついた後だけですわ」

「すまない、グレイディーア。君には苦労ばかりかけているな」

「気になさらないで結構よ。今に始まった事ではありませんもの」

 

 グレイディーアとドクターは踊る。

 

「ドクター、あなたはとても素晴らしい能力や素質をお持ちですわ。その使い道を間違えなければ、あなたはいずれきっと、どんな弱小生物よりも優れた方になるのでしょうね」

「君にそこまで高く評価されているとは思わなかったな」

「これまでの実績を考えれば当然の評価ですのよ。だからこそ……ドクター、あなたはもっと自分に自信を持つべきですわ」

「今の話の流れで……そこに戻って来るんだね」

「ドクター、私が指導しているのはダンスに関する事で、メンタルケアではありませんの。実際、自分に自信を持っている人物と言うのは、自然と目を引くものですわ。そこさえ正しく理解出来ていれば、あなたも後は自然と上達するでしょう。その先で『どの様に表現したいか』と言う意識の話になりますわね」

「勉強になるね……自信を持つ事か。あまりそう言った事を考えた事は無かったな」

「私の指導の成果もあって、随分と背筋も伸びたようですし……後はサメに任せても良いでしょう。ただ、あの子に付き合うのならもっと体力は必要でしょうけど……あとはご自身でなんとかなさって」

「ありがとう、グレイディーア」

 

 ドクターが礼を言うと同時に、レコードの演奏が終わった。

 その瞬間が来るまで、ドクターは一曲最後まで踊り切った事に気が付かなった。

 グレイディーアのエスコートとタイムコントロールは、正に完璧と言う他に無い。

 

「お疲れさまでした、ドクター。これにて私の指導は全て終わりですわ」

「多少は君の気分転換にはなっただろうか?」

「ええ、お陰様で退屈しない『休み』となりましたわね。今回、サメに気を使わせてしまったのは私の落ち度になるのでしょうが」

「スペクター、彼女は『怖そうだけど実は優しく周りに気配り出来る人』だからね。彼女は『退屈』を理由に挙げていたが、本当は君の事を心配していたのだろう」

「……反省致しますわ」

「私もだよ。しかし、君は彼女の事を特に気にかけているね」

「──当然ですわ、ローレンティーナは数少ない私の直接の教え子ですもの。それに今では随分と少なくなってしまった、エーギル人にあるべき資質の持ち主でもありますわ。彫刻芸術、ダンスやオペラへの造詣も深い存在は、全てが終わった後には必ず必要になる。今は闘争の中で自分だけの美を創造しているけれど、いずれはそれらと無縁の場所で……その才能を発揮して欲しいと思っていますの」

「……『大切に思っている』と言うのに随分と時間が掛かる様だ」

「ドクター、今、何か仰いました?」

「いいや、何も?」

 

 グレイディーアは微かに息を吐くと部屋の後片付けを始める。音楽再生機からレコードを丁寧に外し、流れる様にケースへとしまい、棚へと戻す。その一連の動作には確かに、『美しさ』や『優雅さ』が宿っていた。最後の指導で『自信』を持つ事、グレイディーアはドクターにそれを教えた。彼女の『自信』とは、彼女が自らに課した『そうあるべき、そうでなければいけない』と言う使命の様なものだ。だからこそドクターは、彼女が自分に教えた『自信』と、彼女が身に纏う『自信』は別物であると感じた。きっとグレイディーアも理解している事だろう。

 

(きっと彼女は選択をし続けている。そして恐らく、もし過去に戻れるのならこの道を選ぶ事は二度と無いだろう)

 

 ドクターはグレイディーアを見ながらそう思った。

 

「そうだ、私は君にとって教え甲斐のある生徒では無かっただろうが……何か私から礼をさせて欲しいな」

「必要ありませんわ。ただ少し手を貸しただけですもの」

「君にとってはそうかもしれないが、私には得る物が沢山あったんだ。大した事は出来ないが、何かさせて貰えないだろうか?」

「……」

「勿論、今でなくても良いんだ。何か思いついたら─」

「ではドクター、ピアノを弾いて頂けるかしら」

「ピアノ?」

「ええ、サメからあなたの演奏は中々のものだと聞いておりましたの」

「誰にも話さないって言っていたのに……」

「あの子は聞かれたから答えただけですのよ。約束を破った訳はありませんわ」

「それは物凄く狡くないかな……ちゃんと勉強した訳でもない我流のものだから、君を満足させるとは思えないよ」

「彼女の芸術分野に関する審美眼は確かなものですわ。それはあなたの自己評価よりも、遥かに信用出来ますのよ」

「……曲の希望とかはあるかな?」

「あなたの曲で構いませんわ」

「三曲位で良いだろうか?」

「ええ」

 

 ドクターは部屋の中にあるピアノに座り、演奏の準備をする。

 グレイディーアは椅子に深く座り、身を沈める事で鑑賞の姿勢に入った。

 指が鍵盤を叩き、音が流れ出す。

 最初はゆっくりとした曲調から、徐々に音の数と速さを変えてゆく。

 

 一曲目が中盤に差し掛かる頃、グレイディーアは目を閉じ全ての感覚を音に向けていた。音楽とはただ聴くものでは無く、全身で感じるものだ。演奏者、演奏環境、自身の状態、それらを踏まえて音楽を浴びる。そういう意味で言えば、特別優れた演奏環境であるとは言えない。しかし、ドクターの演奏は彼女を十分に満足させるものだった。これ程までに落ち着いて、『音楽』を楽しむのは随分と久し振りであると頭の片隅で考えたが、直ぐに頭の中から追い出す。今必要なのは、ただ目の前の演奏を聴く事に集中する事だけなのだから。

 

 

 全ての曲の演奏が終わって数秒後、部屋の中に拍手が響く。

 そこには立場も使命も関係なく、ただ芸術を愛する人間の姿があった。

 

 

 ──────────────────────────────────────

 

 

『私の歌が聴きたいの? もちろん構わないわ。でも残念ねぇ、あなたはエーギル人じゃないから、歌が私たちにもたらす特別な意味までは感じ取れないわ。ドクター、ねぇドクター、私も悶々としてるのよ。たくさんあなたと共有したいものがあるのに、どうやったら伝わるのかしら?』

 

 

 ──────────────────────────────────────

 

 

 トン、トン、トン……

 

 リズムを刻む音が聞こえる。

 

 

 以前、あなたは私に『人間と怪物』の違いについて訊ねたわ。

 芸術を理解し創造性があるかどうか。それが人間と怪物の違いよ。

 どれだけ人間に近付こうとも、どれだけ人間の真似をしても変わらない。

 

 

 ただ聞こえてきた音、偶然見かけた石、水面から差し込む光……

 そう言った物に美しさを見出せる感性。

 これらの素晴らしい感覚は怪物には理解出来ないの。

 ……不本意だけれど、そう言う意味では芸術は怪物をあぶり出すのに有効なの。

 

 

 普通の人間と違って、確かに私達は怪物に近い存在ではあるけれど……

 私の中にある芸術に対する情熱を失わない限り、自分が怪物ではないと思えるわ。

 

 

 ねぇ、ドクター。

 今のあなたはどうなのかしら? 

 

 

 リズムを刻む音が聞こえる。

 

 トン、トン、トン……

 

 

 ──────────────────────────────────────

 

 

 ドクターが目を開けると、真っ赤な眼がすぐそこにあった。

 

「ドクター、おはよう。良い夢は見られたのかしら?」

「……スペクター? 何故ここに?」

「嫌だわ、私との約束を忘れてしまったの?」

「約束?」

「今日は私があなたを『良い所』に連れて行ってあげるって言ったじゃない」

「……そうだったかな?」

「ほら、早く立って。時間は貴重なんだから行きましょう」

「分かったから……そんなに引っ張らないでくれ」

 

 スペクターに連れられて、ドクターは目覚めた部屋を後にする。

 

 

 ──────────────────────────────────────

 

 

 ドクターは砂の海を歩いている。月の光に照らされて、砂の海は美しい灰色に輝いていた。柔らかく力を加えると沈んで行く足場に苦労しながら、先を行く人物を追う。先を行く人物は、スキップをしているかの様な軽やかな足取りで進んでいた。後方にいるドクターの事を気にする様子も無く、長い銀色の髪と黒と白のスカートを揺らし、後ろで組んだ手で手招きをしている。それはドクターの事を全く気にしていない様にも見えるが、実際には随分と気を使ってくれていると言う事を当人はよく理解していた。先を行く彼女が後方の事を全く気にしていない時は、ドクターの視界の中に彼女の背は映っていないのだから。

 

 しかし、やはり身体的な限界点と言うのは存在する。

 慣れない者にとって、やはりこの足場を進むと言うのは想像以上の労力を要する。

 ドクターは足を止め、膝に手を置き荒い呼吸を何とか整えようとしていた。

 

「……ちょっと、ちょっと待ってくれないか」

 

 荒い息と共にその言葉を捻り出す。

 しかしその声が届いていないのか、先を行く人物は止まらない。

 

「スペクター? ……スペクター、ちょっと待ってくれないか?」

 

 やはり聞こえていないのか、どんどんと離れて行く後ろ姿。

 慌てて足を踏み出そうとした時、砂に足を取られて転倒してしまう。

 何とか両手をついて体を支えたが、起き上がる事も出来ない。

 

「──ローレンティーナ、待って……」

 

 半ば泣きつく様な情けない声がドクターから発せられた。

 すると遥か前にいた人物の楽し気な声が頭上から聞こえる。

 

「あなたって満足に歩く事も出来ないのね」

「──君と違って、私はこう言う所を歩くのに慣れていないんだ」

 

 不貞腐れた返事にスペクターはくすくすと笑う。

 

「そう拗ねないで。ほら、私の手をとってゆっくりと体を起こすのよ」

「力を籠めると砂に沈んでしまう」

「大丈夫、落ち着いて。力を抜いて、砂の上に足を乗せるだけで良いの」

「……」

「そう上手よ。水の上に立つ様なイメージをしてみて」

「私には水の上に立った経験なんて無いよ……でも、こうか?」

「流石ね。これであなたも……この砂の上を優雅に歩く事が出来る筈よ」

 

 ドクターが無事砂の上に立ったのを確認すると、

 スペクターはドクターの手を放し、砂の上で優雅なステップを披露して見せる。

 くるりと回り、流れる様に動く。

 少しの力で跳躍し、空中を舞いながら美しく着地をする。

 距離の離れた場所に残されたドクターは、その一挙一動を熱心に見つめていた。

 視線に気が付いたスペクターは、上機嫌に笑って見せる。

 その声は距離が離れていても、とてもよく聞こえた。

 

「そんなに熱い視線を向けては駄目よ、舞踏会にはまだ早いわ」

「……君のダンスはいつ見ても美しいね」

「まぁ、お上手。今のあなたになら、これ位は出来るでしょう?」

「君の様に上手には出来ないよ」

「やる前から決めつけるのは良くないわ。ほら、早くやってみて」

 

 急かす様に、強請る様に言うスペクターに従ってドクターは動き出す。

 

 かつて彼女達に習った通りに足を動かす。

 パートナーを想像し、相手の事を考え、ステップを踏む。

 二度、三度と繰り返し、跳躍点に体を移動させていく。

 そして砂を蹴り、跳ぶ。

 しかし力が強過ぎたのか、想定よりも遥か上に浮き上がってしまう。

 ドクターの身体が空中にふわりと浮いたまま、降りる事も出来なくなってしまった。

 空中で手足を動かすが、バタバタとみっともない姿を晒しただけである。

 

「……」

「……」

「……黙っていないで、何か言ってくれないか」

「何か言って欲しいの?」

「……いや、やっぱり何も言わなくていい。ただ助けて欲しい」

「私としては……可愛らしいあなたの姿をもう少し見ておきたいわ」

「スペクター……お願いだ。降ろして欲しい」

「どうしようかしら」

「ローレンティーナ……」

「ふふ、随分とお願いが上手になったのね」

 

 スペクターは砂を蹴りふわりと浮き上がるとドクターの手を取る。

 そのまま踊る様に導き、ゆっくりと舞いながら砂の海に戻って来た。

 

「ありがとう」

「どういたしまして。それじゃあ、行きましょう? 目的地はまだ先よ」

「分かった」

 

 ドクターの手を引きながら、スパクターは砂の海を歩く。

 夜空には大きな月が輝き、数々の星々が煌めいている。

 その光景は、この世のものとは思えない程に美しかった。

 

 

 ──────────────────────────────────────

 

 

「君の言う『良い所』にはまだなのかい? もう随分と歩いている気がするよ」

「もう少しよ」

「もう少しって……」

「そんなに慌てないで。周りを見てみれば色々な物が見えるでしょう? 少しは風景を楽しんでみるのも大事よ」

「……」

 

 砂の海の中には確かに色々な物が転がっていた。

 崩れた建物、砂に埋まりつつある町、枯れ果て真っ白になった木々。

 空には巨大な白色の月、巨大な空間を埋め尽くす暗黒。

 黒の中に輝く白色の星々。

 ドクターはその全てに見覚えが無かった。

 

「──ここは白と黒ばかりだな」

「そうね。白と黒、そしてそれらが混じり合った灰色で構成されているわ。と言っても白、黒……これらは単純に二色と言う分類が出来るものでも無いのよ? あなたも白の中にも二百以上の種類があるのは知っているでしょう?」

「黒色も同じく沢山あったね」

「えぇ。だからこの場所も、よく見ればとても色鮮やかな場所なの」

 

 そう言われて、改めて周りを見れば確かに色鮮やかな場所に見えた。

 薄い白、濃い白、濁った白。

 薄い黒、濃い黒、濁った黒。

 

 ドクターは白と黒の世界の中で、もう一つ異質な色を見つけていた。

 本人は見つける事が出来ない、第三者のみに認識出来る色。

 

『赤』、それはスペクターの瞳の色。

 白と黒で構成された世界に鈍く輝く赤色。

 ドクターはその見慣れた色に強く惹かれていた。

 

「さあ、そろそろ行きましょう。本当にもう少しだから頑張って歩いてね」

「分かったよ」

 

 ドクターの手を引きながら、スパクターは砂の海を歩く。砂の海を越え、砂の丘を登り、二人は目的の場所へと辿り着いた。そこは真っ白な街で、全ての建造物が彫刻の様にも見える。恐ろしい程に静まり返った空間ではあったが、不思議な事に不気味さを感じる事は無い。足音すら響かない完全に沈黙した道をスペクターに導かれるまま、ドクターは歩いて行く。やがて二人は特に大きな建物へと辿り着いた。スペクターは躊躇う事無く大きな扉を開け、中へとドクターを招き入れる。黒い二つの人影が建物の中へと消えた後、扉は音も無くゆっくりと閉まり完全に沈黙した。

 

「ここは一体……?」

 

 建物の中も変わらず白色で埋め尽くされた空間だった。

 床も壁も天井も、階段から手摺、照明まで白一色に統一されている。

 しかし、その白単色で構成された空間の中に数多くの物が置かれている。

 

「あなたをここに案内する事が出来て、とても嬉しいわ」

「スペクター、ここは一体何なんだ?」

「簡単に言ってしまえば美術館の様な所ね」

「美術館……」

「そうよ。着いて来て、案内してあげるわ」

 

 ドクターは再びスペクターの背を追う。

 案内に従うまま着いて行った先には数多くの絵が展示されていた。

 

「ここは絵の展示場所なのか?」

「絵ではないけれど、そう思って貰って構わないわ。時間は沢山あるから……あなたもゆっくり見て回って。私もこの部屋の中に居るから、気が済んだら声を掛けてくれるかしら?」

「……ああ」

「そんなに不安そうな声を出さなくても、置いて行ったりしないわ」

「そうしてくれると助かる」

「ふふ……」

 

 そう微かに笑うとスペクターはドクターを残し、部屋の奥へと進んで行く。

 ドクターはそれを見送った後、展示されている絵を見て回る。

 

 

 ──────────────────────────────────────

 

 

 ドクターは壁に飾られている絵を順番に観る。

 そこには題名と簡易的な解説が書かれていた。

 

 〖執念〗:錨を持った男性

 〖選択〗:槍を持った長身の女性

 〖憂慮〗:剣を持ったの女性

 〖分岐〗:灯りを掲げる女性

 〖非凡〗:どこか気弱そうな男性

 〖過去〗:巨大な透明のドーム

 〖未来〗:作りかけの彫刻

 

 数多くの絵の前をドクターは歩いて行く。

 ふと、一際大きな額縁に入れられた絵の前で立ち止まる。

 

 〖対〗:祈りを捧げる修道女

 

 それは暗い部屋の中で何かに祈りを捧げている修道女の絵だった。

 ドクターは絵を見て疑問に思う、『彼女は一体何に祈っているのだろうか?』と。

 彼女には祈る先があるのだろうか? または祈りを捧げる様な人物なのか? 

 彼女が祈った所で一体何になると言うのか? 

 

「──ごきげんよう。その絵が気になりますか?」

 

 急に声を掛けられ、横には見知らぬ修道女が居た。

 その人物は修道女の格好をしているが、本業の様には思えない。

 何故なら、彼女からは強い死と血の気配を感じたからだ。

 

「気なると言えばそうかもしれない。これは他の絵に比べて随分と大きいからね」

「あぁ……確かに仰る通りですね。この絵はとても大きい……ウフフフ」

「間違っていたら申し訳ないが、この絵のモデルは君なのか?」

「──どうでしょう? 私かもしれませんし、私ではないかもしれません」

「……」

「ただ、私は知っているだけなのです。この絵がここにあると言う事を……そして私よりも、あなたの方が深く理解していると言う事を」

「どういう意味だろうか?」

「ウフフフ……お分かりにならないのですか? もっと絵をよく見られては如何でしょう……そうすればきっと……」

「きっと?」

「……」

 

 修道女は不気味に笑うと、それ以降目を閉じて沈黙してしまう。

 ドクターは再び目の前の『対』と名付けられた絵を見た。

 絵の中に修道女は居ない、あるのは真っ黒な背景だけだ。

 

 白い廊下の黒い絵の前に並び立つ、二つの黒い人影。

 

「……」

「……」

「──スペクター」

「ウフフ……思い出して……下さったのですね?」

「この絵は以前の君か?」

「──仰る通りです。あなたが最もよく知る、迷える私であり、とうに過ぎ去った亡霊(スペクター)ですわ」

「君と話すのは、随分と久しぶりな気がするよ」

「私と私、どちらも私には変わりありません。ただ……どちらに傾いているかと言うだけなのです。ただ……あなたの中で占めるスペクターと言う存在は、どうやら私の方が多く含まれている様ですね……」

「スペクターとして接した時間は君の方が長いからだろう」

「ウフフフ……沢山のご迷惑をおかけしたと思いますわ。もう覚えては……いませんが……」

「何故……今になって君が現れる?」

「さぁ……私には分かりません。きっと、あなたがもう一度私に会いたいと願ったのです」

「……」

「折角の再会ですもの、私に案内をさせて頂けますか?」

 

 スペクターはそう言うと滑る様に白い廊下を進む。

 ドクターは黙って彼女の後を追う。

 二人がの行く、廊下の先に再び数多くの絵が飾られている。

 

 〖■■〗:拘束具の付いたベッド

 〖■■〗:容器に満ちた緑の液体

 〖■■〗:暗闇と泡

 〖■■〗:■■■■■■■■

 〖■■〗:照明と天井

 〖■■〗:■■■■と星

 〖■■〗:ずたずたになった肉片

 

 数多くの絵の前をスペクターとドクターは歩いて行く。

 そこにあるのは絵とも呼べない、不気味な何かだった。

 一目でこれらは正常な精神状態で作られた物では無いのが分かる。

 

「……」

「……」

「ここは素晴らしい所ですね……こんなにも私を正確に表現して下さる」

「これらは君が描いたものではないのか?」

「私が? ウフフ……あなたともあろう方が変な事を仰いますね」

「変とは?」

「これらは絵の形を取っていますが、本物の絵ではありませんわ。ここには人の手で作られたモノなど一つもありはしないのです。全てが誰かの記憶であり、思い出であり、妄想で……空想で……夢。ウフフフ……きっとそう言うモノなのでしょう、私もあなたも」

「スペクター、今話している君も思い出の産物だと言うのか?」

「あなたの……もしくは私が生みだした幻覚……本物であるかと言うのは既に重要ではない。ただこうして話をしていると言うのが、唯一の事実です……」

「君の話す内容は相変わらず難解で……不可解だ。だが、この感じを懐かしくも思う」

「変わらず愚かな私を許して下さるのですね? あなたのお慈悲に感謝を……」

 

 前を行くスペクターはそう言うと祈る様に手を組む。

 そのままぶつぶつと、祈りの言葉を続ける姿をドクターは黙って見ている。

 数多くの不気味な絵の中を歩いた先に、再び大きな絵が現れた。

 

 〖導き〗:フードの様な物を被った謎の生き物 人間? 

 

「君には……私がこういう風に見えていたのか」

「はい」

「まるで黒い影だ」

「──あなたは私を導く白い光であり、同時に私を包み隠す黒い影そのもの」

「だったら、もう少し人間らしく描いてあっても良いと思うが……」

「ウフフ……それは難しいですわ。なぜなら私、あなたの顔を見た事がありませんもの……そのフード、その面の下に人の顔があるかも分かりませんのに……人間として認識する事は出来ませんわ」

「……」

「ですが……今ならば少し、あなたが人間だったと信じられる気もします」

 

 再び「導き」と名付けられた絵を見れば、それは若干変わっていた。

 謎の生き物は多少人間に近くなっている。

 

「スペクター、どうしたんだ?」

 

 ドクターはこちらを凝視するスペクターの視線に気が付き問う。

 すると彼女は黙って膝を折り、手を組んで祈りの姿勢を取った。

 

「スペクター?」

「私の最期の使命として、あなたに祈りとお別れをさせて下さい」

「……」

「あぁ……どうか迷える魂を、安息の地へお導きください。そして全てを苦しみから解放される事を祈り申し上げます」

「……」

「魂の残滓に、この様な素敵な別れの場を用意して下さった事に感謝を……」

「君とはもう会えないのか?」

「ウフフ……残念ながらその様ですわ」

「──そうか」

「ごきげんよう、私の導き……私の影……どうか安らぎを得られます様に」

「ありがとう。そして、さようなら、スペクター」

「■■■■■■■■■■■」

 

 別れを告げると、修道女の衣服のみが床に残っていた。

 その衣服もゆっくりと塵となって消えて行く。

 

(一体自分は何と話していたのだろうか?)

 

 何をしていたのかを思い出そうとして思い出せず、

 しかし不思議と晴れやかな気持ちでドクターは再び飾られている絵を見た。

 

 そこにあるのは一枚の大きな絵。

 

 〖対〗:祈りを捧げる白いドレスを着た女性

 

 祈りを捧げる修道女の絵、不気味な絵の数々は跡形も無く消えていた。

 

 

 ──────────────────────────────────────

 

 

 〖対〗:祈りを捧げる白いドレスを着た女性

 

 ドクターはその絵を長い間見つめていた。

 

「その絵が気になるの? ドクター」

「いや……ただ美しい絵だなと」

「以前の私にしては、少しばかり美化し過ぎたかもしれないわ。でも純粋さと言う部分は表現出来ているかしらね」

「この白いドレスは、確か今君が着ている物と対になる物だったか」

「ええ、そうよ。無理を言って用意して貰った物だったけれど、私はその出来栄えに満足しているの」

「私はこの白い方を着ているのは見た事がないな」

「そうだったかしら……? 一度位はあったと思うけれど……」

 

 スペクターは少しばかり考える様子を見せたが、深くは追及しなかった。

 

「ドクターはずっとここに居たの?」

「いや、別の絵を見ていた後に戻って来たんだ」

「一人で?」

「一人……では無かったよ。案内をしてくれた人が居たんだ。それで話をして、懐かしい友人に別れを告げた気がする……」

「なぁんだ、あなたも誰かに会っていたのね」

「私『も』と言う事は、君も誰かに会ったのか?」

「えぇ……私は私に会って、そしてお別れをしていたの。私は私が知らない思い出を話してくれたし、私は私が知らない思い出を話してあげたわ。そうやって振り返ってみると、案外自分自身が知っている事って少ないのね」

「君の場合は多少事情が複雑だが、大抵の人はそんなものだよ。一番分かっているつもりでも、誰かから指摘される事でようやく理解出来る事もある位だからね」

「そうねぇ……私の場合は確かに特殊な事例かもしれないけれど、生きて行く上でそんなに難しく考える必要なんて……本当は無いんじゃないかしら? 結局の所、誰もが自分が知っている事しか知らないのよ。だから『あぁ、私ってこんな感じだったのね』と思う程度が丁度良いのよね。勿論、全てを知っておきたいと思う、あなたは違うかもしれないけれど……」

「……そうかもしれないな」

 

 そう呟くとドクターは〖対〗と名付けられた絵の前から歩き出した。

 スペクターもそれに続く。

 

「あなたってやっぱり、前の私の方が好きなのね」

「──唐突な話題だ」

「そうかしら? 以前にも同じ事を聞いた筈よ。今の私はとっても魅力的だけれど……純粋さと言う一点で言えば、以前の私の方が遥かに勝っていたものね。だからお別れをする瞬間まで、私も私の事が好きだったわ」

「純粋さと言う部分に勝ち負けと言う要素があるのか?」

「勿論、どちらも私であるからこその要素よ。そして勝ち負けと言う評価を下して良いのは私だけ。もしも第三者が無遠慮にそう評価したらなら……二つに千切ってしまうかもしれないわ」

「……」

「勿論冗談よ?」

「本当に冗談だと良いけどね」

「ふふ、あなたは私のこう言う所があまり好きではないのね。でもこれは私の性質でもう変えられないの……許してね」

「私が仮に『好きじゃないから直してくれ』と言った所で、君は聞いてはくれないだろう?」

「まぁ……それもそうね。変われる段階は通り過ぎちゃったし、私にはその機会もないわ」

 

 ドクターとスペクターは数々の絵の前を通り過ぎる。

 幾つかの前で立ち止まり、話をして再び歩き出す。

 白い廊下の中を二人の黒い人影が延々と彷徨い続ける。

 

「これは……」

「あら、随分と懐かしいわね」

 

 

 〖舞踏会〗:■■■■■■■■

 

 

 その絵は〖舞踏会〗と名付けられ、大きな広間に展示されていた。これまで見て来たどの絵よりも大きく、様々なものが描かれている。煌びやかなダンスホール、踊っている人達、それらを見守る人達、美味しそうな料理、楽器の演奏者達。まるで記憶から一画面切り取ったかの様に、端から端まで数多くの情報で埋め尽くされている。主役とも言うべき絵の中心には、フードを被った人物と美しい長髪の女性が踊っている姿が描かれていた。

 

「──これは私と」

「あなたとシャチが初めて、ロドスのダンスパーティーで一緒に踊った時の絵ね。あの子はあなたに誘われてとっても驚いていたけれど、同時に物凄く喜んでいたわね。あなたにエスコートして貰って、一曲踊れるなんて夢にも思っていなかったんだもの」

「──あの隅で見守っているのが君か」

「ええ、そうね。あなたの晴れ舞台だから、カジキと踊らないで見守っていたの。カジキは興味無さそうに振舞っていたけど、あなたがしっかりシャチをエスコートして、最後まで踊り切った時は無意識に頷いていたのよ? その顔がとっても満足そうだったから、思わず私は笑ってしまったわ。……あっちの隊長さんはこの絵の中には居ないみたいね。まぁ、ずっと柱の陰に居たから覚えていなくても、仕方が無いかしら」

 

「彼女の特訓があったとは言え、慣れない事をした所為か酷く疲れたのを思い出したよ」

「それはきっとシャチの後に、可愛いウサギさんと踊って、その後次々と振り回された所為だと思うわ」

「確かにそうだったかもしれない……いや、そうだった。アーミヤで終わりにする筈だったのに、次々と踊ってくれる様に頼まれたんだ」

「結局、途中であなたが限界を迎えたから全員とは踊れなかったのよね。私は私でシャチに質問攻めに合っていて、あなたと特訓していた事を白状したら……あの子は随分と拗ねてしまったのよ? 自分より先に、私があなたのダンスパートナーを務めていたのが、羨ましかったみたいで機嫌を元に戻すのに苦労したわ」

「スペクター、君も君で大変だった様だ」

「えぇ、本当に大変だったのよ?」

 

 スペクターは返事をしながら、目を細めて絵を見る。

 

「──本当に、この頃は楽しかったわね」

「……」

「そろそろ次へ行きましょう。他にも面白いものがある筈だから」

「分かった。案内してくれ」

 

 二人は絵の飾られた白い廊下を抜け、次の扉を開ける。

 スペクターは先にドクターを行かせると絵の飾られている白い廊下を見た。

 数多くの絵に隠れる様にして、黒い幕が被せられている幾つかの巨大な絵。

 

「──控え目に見えて、相変わらず随分と主張が激しいのね」

 

 彼女はそれらを、ほんの一瞬だけ鋭い目で見ると扉を閉めた。

 

 完全に扉が閉まった後、白い廊下にあった絵は例外を除き消える。

 残った絵は〖舞踏会〗とあの黒い幕が被せられた絵だけだった。

 

 〖■■〗:■■

 〖■■〗:■■■■■■■■■

 〖■■■■■■■■〗:■■■■■■■■■

 

 絵の飾られた白い廊下の照明が消え、真っ暗になる。

 その時、〖舞踏会〗と名付けられた絵のプレートがカタンと音を立てて落ちた。

 本当の題名が明らかになる。

 

 

 〖幽冥〗:夢を見るあなたへ

 

 

 ──────────────────────────────────────

 

 

 〖不完全な完全〗:欠けているからこその美

 

 

 扉の先の広間には大きな彫像が飾られていた。恐らく天使をモチーフにしたであろうそれは、頭部や腕部と言った重要な部位の大半を失っている。しかし本来なら失われるである筈の美しさは、この様な状態であっても少しも損なわれる事はなかった。むしろ重要な部位を失っているからこそ、完全な状態であった時よりも遥かに磨かれているとすら思わせる。きっとこの彫像を見た誰もが思った事だろう、『完全な姿を見てみたい。同時に完全な姿など見たくない』と。芸術分野に身を置く存在も、芸術分野に疎い存在も、この彫像を見れば足を止めるだろう。それ程迄の存在感がこれにはあったのだ。

 

「まさか、こんな所で実物を見られるとは思ってもみなかったわ」

「君はこれを知っているのか?」

「知っていると言える程詳しくは無いわ。昔、闘智場の情報の中から偶然見つけただけだもの。あの中にあった情報にしては、珍しく詳細な内容が記録されていなかったし、登録されていたのも平面の画像だけだったわ。たった数枚の荒い画像でしかなかったけれど、強く心を引かれたのを覚えているの」

「これは本物なのだろうか……」

「正真正銘の本物と断言する事は出来ないけれど、平面画像ではなく、ちゃんとした彫像として見る事が出来た事に意味があるの。私にとってはね」

「それもそうだね。本物かどうかを気にする人はもう居ないだろう」

 

 スペクターとドクターは彫像を見上げている。

 誰が作ったのかも分からないそれは、圧倒的な美しさと神秘性を放っていた。

 

「私、荒い画像を見た時にも思ったけれど……こうして実物を見た事で改めて思ったわ」

「何を?」

「芸術分野、建築分野における美しさや斬新さと言った物は……既に遥か昔に出尽くしていると言う事を」

「エーギルは陸には無い、優れた都市を築き上げていたじゃないか」

「否定はしないけれど、その根本部分……創造性と言うべきかしら。そこに新しい物は無かったのよ。ドクター、人は何故現在の優れた技術で作り上げた物にだって良い物は沢山あるのに、過去の遺産や貴重な建築物や芸術作品に、特別な価値を置くか考えた事はあるかしら?」

「……現在ではもう二度と生み出す事の出来ない物だから。最新の技術をもってしても、過去の物を再現出来ないと分かっている」

「流石の分析よ。遥か昔……技術や道具と言う点で遥かに劣っていた時代に、あらゆる芸術分野の創造性は完成をみたのよ。文字通り、無から有を生み出した。それらに値段を付ける事の無かった……純粋に美を求める時代に全て出来上がってしまったの。だから私達はその無から有を生み出した創造性に、何とか付け足しを行う事で辛うじて価値を見出しているのかもしれないわね」

「それは悪い事では無いだろう? 過去に創造性が完成していたとしても、受け取り方や表現の仕方は無限にある筈だ」

「やっぱり、あなたって本質的には芸術家なのね。本当に惜しいわ……ドクターには様々な芸術分野に触れて欲しかったのに」

 

 スペクターは心底残念そうに言葉を零した。

 

「ドクター、あなたはこの彫像の完全な姿を見てみたいと思う?」

「どうだろうな……見てみたいと思うかもしれないが、やはりこのままが一番だと思う」

「それは何故?」

「この彫像が生まれた当時は、正しく欠ける事の無い完全な姿だった筈だ。だがこうして現在、君や私がこの欠けた状態に美しさを見出している。それは当時の人々には無かった発想の筈だ。創造性は既に過去に完成されているのかもしれないが、新たな表現や芸術性を生み出すのは過去には出来ない事だからね」

「──ドクター、あなたにまだ芸術を鑑賞し、美しさを見出せる力があって嬉しいわ」

「?」

「この彫像には〖不完全な完全〗と名付けられているけれど、あなたならこれにどんな名前を付けるのかしら?」

「私が? 誰かの作品に勝手に名前を付けたりするのは良くないよ」

「ちょっとした芸術感覚を試すお遊びだと思ってくれたら良いわ」

「余計に駄目な気がする……」

「そう言わずに、ほら……考えてみて。きっとあなたは知っている筈よ」

 

 広間にある大きな彫像を見上げながらドクターは考える。

 〖不完全な完全〗と名付けられたこれに、自分ならどんな名を付けるのか。

 そうしていると、ピタリと嵌る名前が頭に浮かんだ。

 最初からそうだったと錯覚する様な完璧な名前が。

 

「──ニケ」

「……ニケ……そう、この彫像の名はニケと言うのね」

 

 スペクターは静かに呟くと、彫像を目に焼き付けるかの様に見つめていた。

 

「ありがとう、ドクター。私の中で何処か心残りだった、この彫像の事をちゃんと知る事が出来て良かった。きっとあなたの中には、これと同じ位に素晴らしい芸術作品の記憶が眠っていたのでしょうね……その事を知る機会が無かった事を残念に思うわ」

「私は君程には芸術分野に詳しくは無かったから、期待に添える程の物は無いだろう」

「随分と面白い事を言うのね。ある意味ではあなたも私と同じ、『分離』してしまった人間だから……そうとも言えるのかしら? 今となっては、気にしても仕方のない事だけれど……」

 

 少しばかり考える様子を見せた後、スペクターは首を振る。

 きっと何か言いたい事はあったのだろうが、彼女は話題を変える事を選んだ。

 

「次へ行きましょう、ドクター。他の彫刻もじっくり見て回りたいけれど……残念ながらその時間は無さそうだもの」

「そうなのか?」

「ええ、あなたには分からないかもしれないけれど……ここは制限が多い場所なのよ」

「知らなかったな。ではまた今度来た時に、ここをじっくり見て回ろう」

「あら、出来もしない約束をするのは良くないわ。気持ちは嬉しいけれどね」

 

 スペクターはそう言うと、ドクターの手を引き次の場所へと向かう。

 彼女が何故『出来もしない約束』と言ったのかドクターには分からない。

 だが、その事について質問する事を許さない気配を彼女から感じたのだった。

 

 思えばここは、ドクターにとって分からない事だらけだ。

 そして、ぼんやりと頭の片隅で思う事がずっとある。

 

『自分の手を引くスペクターは、本当にスペクターなのだろうか』と。

 

 

 ──────────────────────────────────────

 

 

 彫刻の間を抜けた先は建物の外へと続いており、広々とした庭園の様な空間が広がっていた。かつて数多くの花々や植物が植わっていたかもしれないこの場所も、今は大部分が砂に埋もれ、その中から僅かな装飾類が顔を覗かせている程度になっている。砂に半分埋っている道を歩いて行くと、崩れた石柱の傍に白いピアノが残っていた。ずっと使われていなかったと思われるそれは、砂を被り崩れた足場の所為か半分程傾いた状態になっている。ドクターはピアノに近づくと状態を確かめる様に触れる。そのまま足場に戻すべく持ち上げようとしたが果たせず、自身の体をプルプルと震わせるだけに終わった。

 

「あなたはどう考えても、自分では出来ない事をやろうとする時があるわよね」

「まずは自分でやってみると言うのも大事な事だから。勿論『出来そうな範囲』と言う条件付きだけど」

「今のピアノを持ち上げてみる挑戦も、『出来そうな範囲』に該当するの?」

「もしかしたら物凄く軽い素材で作られているかもしれないし、全く動かないのかどの方向に動かせるのかを調べる意味もあるんだよ」

「つまりあなたは、私にそのピアノを持ち上げろと言いたいのね?」

「そんな言い方をするつもりは全くないけど、出来るならお願いしたいね」

「か弱い淑女に随分と酷いお願いだわ」

「君とは『か弱い』の定義にについて、認識合わせをする必要があるのかもしれない」

 

 スペクターは微かに笑うとすんなりピアノを持ち上げ、足場へと戻す。

 ドクターは礼を言うと砂を払い、内部の状態を確認した。

 

「多少の汚れはあるが、思っていたよりも悪くない」

「演奏は出来るのかしら?」

 

 その言葉にドクターは幾つかの鍵盤を叩いてみる。

 白と黒のみで構成された空間に美しい音色が響いた。

 

「……良い音ね」

「うん。ずっと放置されていたとは思えない良い音だ」

「放置されていた……ね。本当にそうなのかしら」

「どういう意味だろうか?」

「何でもないわ。ドクター、折角だから何か演奏して頂けるかしら?」

「何かと言われても困るな。スペクター、君の希望は?」

「じゃあ、あなたの曲で」

「以前、似た様なやり取りを誰かとした気がする」

「……そんな事もあったかもしれないわね」

 

 ドクターは倒れていたピアノ演奏用の椅子を起こし、そこに座る。

 演奏前の決まった儀式の様に手を合わせ、一呼吸置いてから鍵盤に触れる。

 最初の一音が響き、ゆっくりと音が増えて行く。

 中盤に差し掛かるまで徐々に曲の速度が上がり、美しい音が跳ねまわる。

 白と黒の世界の夜空の下、ドクターとスペクター二人きりの演奏会。

 ドクターは周囲を気にする事無く、演奏に集中ししている。

 スペクターは近くに腰かけ、目を閉じ鑑賞に集中していた。

 

 過去に同じ事があった様に、演奏が終わって数秒後、拍手が響く。

 

「素晴らしい演奏だったわ、ドクター」

「君に満足して貰えたなら嬉しいよ」

「最後の曲だけは聴いた記憶がないわ。この場での即興曲なのかしら?」

「曲と言える程の代物でもないよ。思いつくまま鍵盤を叩いただけに過ぎない」

「私は気にしないけれど、その自己評価の低さは変わらないのね」

「手放しで高評価をする程、私は己惚れてはいない」

「素晴らしい心がけではあると思うけれど、生みの親に認めて貰えない作品が可哀想よ」

「……」

「作り手は自分が生み出した作品に対し、責任を持つ必要があるの。それがどれだけ酷い出来栄えであっても、稚拙で中途半端な技術で生み出された作品にもね。時には誰かが褒めてくれるかもしれないけれど、大抵の場合は自分で作り出したものを、自分で褒めて、認めてあげないといけないの。そうでなかったら、とっくに芸術と言う分野はなくなっているでしょう?」

「……君の言う通りかもしれないな」

「それであなたは生まれたばかりの曲に、また『Col.#02』、『Tw.#71t』と言った名をつけるの?」

「──『Nw.#3er』にしようと思う」

「相変わらず不思議な名前ね。でも、嫌いじゃないわ」

「君は寛大だね」

 

 ドクターは椅子から立ち上がると、再びピアノの前で手を合わせる。

 鍵盤の蓋を閉じ、最後に一度だけピアノに触れた。

 二人はピアノの傍を離れて庭園の奥へと向かう。

 

「私、あなたの曲の中では『Apr.#19』が一番好きだったわ」

「スペクター、言ってくれたら弾いたのに」

「良いのよ。あの曲はどんな時でも思い出せる程に脳に刻まれているもの」

「そこまで気に入ってくれているとは知らなかったよ」

「言っていないもの、当然だわ」

 

 ドクターとスペクター、二人が歩き去って少し後。

 白いピアノは劣化し、脚が壊れて崩れ落ちた。

 

 

 ──────────────────────────────────────

 

 庭園の奥に進んだ先、そこには白い大きな岩から削り出された舞台があった。舞台に繋がる階段を上り、踊り場に踏み入れればそこは思っていた以上に広い空間だった。舞台の上から視界を遮る物は何もなく、周りを見渡してみればこれまでの庭園や建物がよく見える。変わらず白と黒の身で構成された風景でしかないが、色彩豊かな風景と比べても遜色のない程の美しさがあった。

 

「……凄いな」

「綺麗な景色ね」

「あそこに見えているのが美術館か?」

「そうね。あなたの指さす大きな建物が美術館よ。そこから伸びている道が庭園の道ね、見えるかしらドクター? あの岩と石柱が見えている所が、さっきあなたがピアノを弾いていた場所よ」

「あんなに遠い所だったかな……ここまでそんなに歩いた覚えはないが……」

「同じ様な景色だから、感覚がズレているのかもしれないわね」

「ふむ、そうかもしれない」

 

 ドクターは空を見上げる。そこには夜空には大きな月が輝き、数々の星々が煌めいていた。二人が砂の海を歩き始めてから、一切位置が変わる事なく存在している。本来であればその事に違和感を持つべきなのだが、気にする様な存在はここには居ない。

 

「周りの景色も凄いが、この私が今立っている舞台も凄いね」

「一つの白い大きな岩から削り出した舞台よ。何かを付け足す事なく、正確に削り出された……言わば引き算芸術の傑作ね」

「つまりこれは建造物と言うよりも、彫刻に近い物だと?」

「その認識で合っているわ。正確に言うと違うのだけれど、ここで細かい分類について議論するのはナンセンスね」

「確かに。ただ美しいと思えるものがそこにあると理解出来れば、分類なんて些細な話だ」

 

 ドクターとスペクターは舞台の上に腰を下ろし、そこから見える景色について話す。砂の中から見えている岩が何に見えるか語り合い、崩れ落ちている建物が何であったかを予想する。二人はこれまでに見た芸術作品について話をし、それぞれ印象に残った作品について意見を交わす。そうして尽きる事のない芸術について語り合っていた時、何処かで何かが崩れ落ちる様な音を聞いた。

 

 スペクターがドクターに問う。

 

「ねぇ、ドクター。あそこには何かあったかしら?」

「何があったって……あそこは元々砂の山だっただろう?」

「……」

「スペクター?」

「そうね。その通りだわ」

 

 スペクターが指さした方向は白い美術館があった所だった。

 しかし、そこに今はもう美術館の姿は無く砂の山になっている。

 ドクターはそれについて一切の疑問を持つ事は無かった。

 

「ドクター、折角舞台の上にいるのにずっと座っているのは勿体ないわよ」

「と言うと?」

「舞台の上で私とあなたが出来る事なんて決まっているでしょう? それともあなたは私と一緒に演劇をやりたいの?」

「……演劇は無理だね」

 

 二人は立ち上がり舞台の真ん中へと移動する。

 

「折角、この素晴らしい舞台の上で踊るのだから……その仰々しいマスクは外して頂けないかしら?」

「……これを?」

「こんな所で仮面舞踏会だなんてつまらないもの。私の『可愛い』お願いよ」

「世間ではそれを脅しと言うんだよ」

 

 ドクターはぼんやりと、『このやり取りに似た様な事を過去にした様な気がすると』思った。しかし、それを深く思い出す事も出来ないまま、渋々と言った様相でマスクを外して見せる。

 

「あなたって、そんな顔をしていたのね。初めて見たわ」

「君達の前でマスクを外す事はなかったからね」

「さぁ、もっとよく見せて」

「……」

「あぁ、良かった。ちゃんと『人』の顔をしているみたいね」

 

 スペクターはドクターの顔を両手で包むと、顔を近づけてまじまじと見る。

 暫くはされるがままだったが、耐え切れなくなり優しく手を払う。

 

「……スペクター」

「フフ……そんなに赤くなって照れなくても良いじゃない。此処には私しか居ないわ」

「誰だって顔をじろじろ見られたら、こんな反応をするよ」

「そんなに可愛らしい反応をされると、もう少し揶揄いたくなってしまうわね」

「これ以上は止めて欲しいな」

「あら残念。でもあなたのお願いだから聞き入れてあげる」

「満足してくれたなら、もう被っても良いかな?」

「それを?」

 

 スペクターがドクターの持つマスクを指さす。

 視線を向けて見れば、マスクは随分と痛みボロボロになっていた。

 罅割れ、穴が開き、劣化して、崩れ落ちて行く。

 まるで長い年月が経過していたかの様に。

 

「誰も居ないのだから、もうそんな物は必要ないでしょう?」

「君の言う通りかもね」

「それよりも……私に言う事があると思うの」

 

 ボロボロになったマスクを投げ捨てる。

 白い舞台から投げ出されたそれは粉々になって消えた。

 そしてドクターはスペクターに手を差し出し、少し恥ずかしそうに言う。

 

「ローレンティーナ、私と踊って頂けますか?」

 

 スペクターはドクターの手を取り、美しい笑みを浮かべて言う。

 

「ええ、喜んで」

 

 手と手を取って、向かい合って踊り出す。

 夜空には大きな月が輝き、数々の星々が煌めいている。

 二人の間に言葉はいらない、二人の踊りに曲の演奏は必要ない。

 

 何故なら二人には、二人だけの曲が聴こえている。

 在りし日、ドクターがピアノで演奏していたあの懐かしい曲が。

 ドクターとスペクター、二人は互いを深く理解し呼吸を合わせる。

 白い舞台の上で二つの黒い影が踊り続ける。

 

「今迄で一番上手に踊れている気がする」

「当然でしょう? 私を何だと思っているの?」

「……君はダンスパートナー」

「その通り、あなたのダンスパートナーだもの。この素晴らしい舞台の上で、あなたを美しく躍らせてあげるのも私の役目よ」

「スペクター、君にそう言って貰えるのは中々に嬉しい事……なのかもしれない」

「あなたって、時々変な事を言うわよね」

「自分でもそう思ったよ」

「ふふ、でもお喋りはおしまいよ。今はこの美しい舞台の上であなたと私……二人きりの舞踏会を楽しみましょう? こんな機会はもう二度と無いのだから」

 

 そう言うとスペクターはドクターの腕を引き、少しばかり速度を上げる。一瞬振り回されそうになったものの、ドクターはその速度に直ぐに適応した。エスコートする立場を入れ替えながら、二人は踊る。変わらず音楽の演奏は無く、踊る両者から発せられる微かな音以外は聞こえない。けれども変わる事なく、二人は様々な美しい音楽の音色に身を浸している。

 

 

 二人の舞踏会は、ドクターとスペクターの両者が深く満足するまで続く。

 全ての曲が終わりを迎えるまで。

 全ての思い出が終わりを迎える、その時まで。

 

 

 ──────────────────────────────────────

 

 

 二人の舞踏会は終わった。

 

 

 ドクターとスペクターは手を繋いだまま向き合って立っている。最後まで踊る事が出来た満足感、素晴らしいダンスパートナーと踊る事が出来た幸福。ドクターの中にはその様な充実した感情が満ちていた。しかし、スペクターの表情は何処か悲しみが強く表れている。ドクターの手を握るスペクターの手は震え、力がこもっているのが分かる。何かを言うべきか、言わないべきかを迷う様に、唇を震わせる彼女をドクターは驚いて見つめていた。ドクターには何故、スペクターがこの様な表情を浮かべるのか分からない。何と声を掛けるべきかと迷っている内に、スペクターは意を決した様に口を開いた。

 

「ドクター……あなたの期待に応えられなかった私を許してね」

「スペクター?」

「私達が、私がもう少し強かったなら……あの子の異変にもっと早く気が付いていれば……あなたと沢山話す事も踊る事も出来た筈なの。見せたいもの、伝えたい事、共有したいものが沢山あったのに。今の私にはどうする事も出来ないのよ」

「……」

「私は謝罪と言うものに関して、あまり意味を持たないと思っていたけれど……これだけはあなたにずっと謝りたかった。あなたはもう覚えていないかもしれないけれど……私はずっと謝りたかったの」

「君が謝らなければいけない様な事なんて無いだろう?」

「──やっぱり、そうなのね。あなたが『そんな事』を言ってしまう事自体が……私達の失敗の証明なのよ。ドクター、全てが分からなくても、覚えていなくてもいいの。けれど、今だけは黙って私の謝罪を受け取って欲しいわ」

「……分かった。だが、人とは失敗をする生き物だ。失敗があるからこそ、次はその経験を踏まえて考える事で、良い結果が出せるだろう? だから……スペクター、君が私に謝る事なんて……きっとないんだよ」

「あなたは相変わらず優しいわね」

 

 スペクターはドクターに対し、口元だけ微かに笑って見せる。

 しかし、その眼は一切笑ってはいない。

 

「勘違いしないで欲しいのだけれど、『優しい』と言うのは別に誉め言葉ではないのよ?」

「……」

「だって『優しい』と言うのは、ある意味で最も無責任で残酷だもの」

「──スペクター」

「でも私の知っているドクターが残っていて……あなたに『優しい』と言える私で良かったと思っているの」

 

 夜空には大きな月が輝き、数々の星々が煌めいている。

 舞台の上で二人は互いのダンスパートナーを見つめていた。

 スペクターの表情からは悲しみの色は消えている。

 

 ドクターはその時、何処かで大きな何かが崩れ落ちる様な音を聞いた。

 夜空には暗闇のみが広がっている。

 

「スペクター、今の音が聞こえたか?」

「──ええ、聞こえたわ。舞踏会も終わってしまったし、私はそろそろ行かないといけないわね」

「行くって何処に? 私も連れて行ってはくれないのか?」

「……残念ながら私には出来ないの。私が一緒に来られるのはここまでよ」

「何故……」

「そんな悲しい顔をしないでドクター。心配しなくても直ぐに忘れてしまうわ」

「……」

「ふふ……あなたってマスクの下はそんなに表情豊かだったのね。もっと早く知っておけば良かった」

 

 スペクターはそう言うとドクターを抱きしめる。

 

「スペクター、急に何を?」

「陸の人はこうやって親愛の情を示すって、あなた達は教えてくれたわ。ありがとう、ドクター。最期まで私達を信じてくれて」

「……」

「あら? 折角私がこうしているのに、あなたは抱きしめ返してくれないのかしら?」

 

 おずおずとドクターの手がスペクターの背に回される。

 

「私とあなたとの仲じゃない。そんなに照れなくても良いのよ?」

「君が急にこんな事をするから……」

「あなたって本当にいじらしいのね。このまま食べてしまいたいわ」

「この状況で怖い事を言わないで欲しいな」

「■■■■■■■■■」

「──スペクター、今なんて?」

「■■■■■■■■■■■■■■?」

「君が何を言っているのか分からないよ」

「……最後にもう一つだけお願いを許してくれるかしら? ドクター、もしあの子に会う事があったのなら……今の様に抱きしめてあげて。きっと酷く傷ついているでしょうから」

「……あの子?」

「可愛い私達のお友達……『もう大丈夫、あなたは何も悪くない』、そう慰めてあげてね」

 

 スペクターはもう一度だけ強くドクターを抱きしめる。

 暫くそうした後、ステップを踏む様な軽やかな足取りでドクターから距離を取った。

 

「丁度良いタイミングでお迎えが来たみたい」

「迎え?」

 

 スペクターが指さす方向を見ると、人影が見えた。

 一人は男性で、一人は女性だろうか? 

 二人は黙ってこちらを見ている様子だった。

 

「──役目を終えた者は舞台を降りる決まりだものね」

 

「さようなら、ドクター。私との約束を守ってくれて嬉しかったわ」

 

 スペクターはとても美しい笑顔でそう言った。

 そして彼女は舞台を降り、彼女を待つ二人の元へと歩いて行く。

 

 スペクター……ローレンティーナは舞台から降りた。

 ドクターを舞台の上に一人を残して。

 

「……」

 

 ドクターは動かない。

 ドクターは動けなかった。

 

「スペクター、待ってくれ。私も君と行く」

「■■■■■■■■■」

 

 さっき迄、あんなにはっきりと聞こえた筈の声が聞こえない。

 ドクターはスペクターが何を言っているのか分からない。

 何とかして一歩踏み出した所で動きが止まってしまう。

 自分の身体はこんなにも重かっただろうか。

 それでも、舞台に残されたドクターは彼女の名を呼ぶ。

 

「ローレンティーナ!!」

「         」

 

 彼女は一度だけ振り返り、何かを言った。

 しかし、ローレンティーナの言葉はドクターには届かない。

 やがて彼女は、彼女を待つ二人の元へと辿り着き、姿を消した。

 

「……待って、待ってくれ」

 

 残された者の言葉は誰にも届かない。

 

「私も君と行く……君達の居る所に行きたい」

 

 ドクターは舞台の上に残されたまま、力無くそう呟いた。

 舞台は恐ろしいまでの静寂に包まれている。

 

 

 ──────────────────────────────────────

 

 

「……」

 

 ドクターはスペクターを追って舞台を降りようとしたが出来なかった。

 足が何かに縫い付けられているかの様に動かない。

 なんとかして一歩踏み出そうと足掻いている。

 

 その姿はまるで一人で踊っている様にも見える。

 気が付けば白と黒の世界から、狭い室内の舞台の上になっていた。

 更に突如として真っ赤な幕が降ろされ、舞台をぐるりと取り囲む。

 ダンスパートナーが退場した舞台の上にドクターは立っている。

 

「……スペクター?」

 

 次の瞬間、再び幕が上がる。

 

 赤い光が煌めき、スポットライトがドクターを照らす。

 さっきまで存在しなかった筈の観客席が現れ、拍手喝采がドクターを包む。

 

「……ローレンティーナ?」

 

 耳障りなそれを無視しながら、必死に人の姿を探す。

 観客席には沢山の異形の人形が並べられている。

 そのどれもが延々と拍手を繰り出していた。

 

 眩い光に照らされる中、舞台の主役であるドクターは気が付いた。

 

「──君の……君の声が思い出せない」

 

 ほんの少し前まで、あんなに話していたのに。

 沢山の言葉を交わした筈なのに。

 彼女の声を思い出す事が出来なかった。

 どんな顔をしていたのか、どんな名前だったかも分からない。

 遂には彼女が誰であるかも分からなくなってしまった。

 

「あれは一体……誰だったんだ?」

 

 鳴り止まない拍手の中、ドクターは舞台の上で立ち尽くしていた。

 賑やかな音楽が鳴り響く。

 思い思いの帽子を被った異形の人形が器用に楽器を操っている。

 鳴り響く音楽、舞う紙吹雪、それはまるで祝福のパレードだ。

 

 

 奥から紅いドレスを身に纏った人形が現れ舞台へと上がる。

 それは新たなダンスパートナーだった。

 人形は立ち尽くしているドクターの手を取るとステップを踏む。

 何も考える事が出来ないまま、つられてドクターは踊る。

 

 くるりと回り、ステップを踏み、踊り続ける。

 主導権を握られ、振り回されて引っ張られる。

 ドクターの姿は気が付けば、他と同じ様な人形になっていた。

 

 鳴り止まない拍手喝采。

 耳障りで賑やかな音楽。

 狂った様に舞台の上で踊り続ける二つの操り人形。

 ここは夢の舞踏会、とても愉快な舞踏会。

 怪物達の終わらない舞踏会。

 

 

 ──────────────────────────────────────

 

 

 その光り輝く舞台の裏には色々なものが転がっていた。

 

 バラバラになって放置されている舟の玩具。

 

 錨を握りしめた人形が八つ裂きにされ打ち捨てられている。

 

 槍を握りしめ無数の穴が開いた人形が転がっている。

 

 瓶詰にされ干からびている海月。

 

 折れた剣を握りしめたまま泣く人形を閉じ込める厳重な檻。

 

 檻の前には壊れた丸鋸と頭の千切れた人形が転がっている。

 

 

 散らかったこれらを見下ろす場所に、

 巨大な魚とダンスをする美しい人形と絵が飾られていた。

 

 

 ──────────────────────────────────────

 

 

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 〖妖精〗:血族

 〖昇華〗:深き淵からの愛の歌

 〖レッドカウンテス〗:混沌と衝動と創造物

 

 

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 深い海の底にある華やかな庭園。

 紅いドレスを身に纏った怪物が、横にいる巨大な怪物を撫でている。

 巨大な怪物は眠りながら静かに泣いていた。

 

「……夢を見ながら泣いているの?」

「あなたはこんなに大きくなったのに、まだ人間的な部分が残っているのね」

「可哀想に……そんなものが残っていても生き辛いだけよ」

「早く不要なものは捨ててしまって、楽になれると良いわね」

 

 巨大な怪物は眠りながら泣いている。

 泣いている事にも気が付かず、涙の理由も分からぬまま。

 

 目覚める頃には夢の内容も、泣いていた事も覚えていないだろう。

 何故なら怪物には夢を見る必要も、『泣く』と言う機能も必要無いのだから。

 

 

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「とても大きくなってしまったから、あなたと一緒に踊る事は出来ないけれど」

 

「あなたのダンスに合わせて、私が新しい歌を歌ってあげるわね」

 

「眠る時には優しい子守唄を捧げましょう」

 

「だから……舞踏会はおしまいよ」

 

「ここにはもう、あなたと踊れるダンスパートナーなんていないもの」

 

「あなたが泣かなくて良い様に、今は私も一緒に眠ってあげるわ」

 

 

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 ほら、ドクター。私の手を取って? 

 ステップが分からなくても大丈夫よ。まずは私に任せてくれれば良いわ。

 そう……最初はゆっくりと。私の動きを感じて。

 緊張しないで力を抜いて、音楽を聴いて……良い感じよ。

 

 ワン、ツー、スリー……

 ワン、ツー、スリー……

 ワン、ツー、スリー……

 

 ドクター、誰かと一緒に踊ると言うのは、それだけで楽しいものでしょう? 

 今は私がエスコートしてあげるけど、あなたも出来る様にならないと駄目よ。

 

 

 

 随分上達したわね。やっぱりカジキの指導が効いたのかしら? 

 ゆっくりとした曲に合わせてなら、あなたでも最後まで踊れるでしょうね。

 ちゃんと出来る様になったら……シャチとも踊ってあげて。

 あの子、ダンスパーティーでは恥ずかしがって中々言い出せないんだもの。

 

 でもその前に、あの厳しいカジキから合格点を貰わないといけないわね。

 安心して。それまでは私があなたのダンスパートナーを務めてあげるから。

 

 ほら、気を抜かないで。

 しっかりと、私の動きを感じるのよ。

 

 

 ワン、ツー、スリー……

 ワン、ツー、スリー……

 ワン、ツー、スリー……

 

 

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 おめでとう、ドクター。あのカジキから合格の御言葉を貰えるなんて凄い事よ。

 

 次のダンスパーティーでシャチを誘ってあげたらきっと物凄く驚くわ。

 

 私と特訓していたと知ったら拗ねちゃうかもね。

 

 あなたが立派になったのは嬉しいけれど……

 

 こうして……あなたを独占して踊る機会がなくなるのは惜しい気もするわね。

 

 そうだ、良い事を思いついたわ。

 

 あなたを独占して踊りたくなった時は……

 

 夢の中で私と踊ってくれるかしら? 

 

 それが例え……私の亡霊であってもね。

 

 あら? 冗談で言ってみたのに、約束してくれるなんて嬉しいわ。

 

 約束もしてくれた事だし、今は……そうね……

 

 ドクター、もう一曲私と踊って頂けるかしら? 

 

 

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 陸の何処か、崩れ落ちた部屋の中にある壊れたピアノ。

 穴の開いた天井から水が流れ込み、水滴が一定のリズムで降り注いでいた。

 水滴が壊れたピアノに落ちる度に、小さな音が響く。

 

 

 トン、トン、トン……

 トン、トン、トン……

 

 トン……トン……トン……

 

 トン……

 

 ……

 

 

 静寂

 

 

 ──────────────────────────────────────

 

 

 ドクター、そんなに驚いてどうしたの? 

 ずっと私を探していた? 私に大事な要件があったのね。

 ……ドクター? どうしたの? 

 ちょっと……困るわ……急にこんな事。

 ……? 

 

 ドクター、泣いているの? 

『君は悪くない』って……何の事を言っているか分からないわ。

 もしかして、また報告書に『完了』しか書かなかったから……

 ケルシーにあなたが私の代わりで怒られたの? 

 

 違うの? 本当にどうしてしまったのドクター? 

 ちゃんと言ってくれないと分からないわ。

 一体何をそんなに謝っているの? 

 ……そんなに悲しい声を出さないで。

 

 そんなに強く抱きしめなくても、私はここに居るでしょう? 

 私達は大丈夫だから、泣かないで。

 きっと潮風が、あなたの悲しみを吹き飛ばしてくれるわ。

 ほら、あなたが落ち着くまで歌を歌ってあげるから。

 

 隊長、カジキ、サメ……まだ戻ってこないのかしら。

 私は今、とても良い気持ちだけれど……

 不思議……なんだか……とても疲れてきちゃったわ……

 

 泣かないで、ドクター……

 私達は……きっと大丈夫よ……

 

 大丈夫……

 

 ……

 

 

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「──あなたもたった今起きたの?」

 

「おはよう、あなたは何か覚えているかしら?」

 

「……何も覚えていないの?」

 

「……」

 

「……そう。良かったわね」

 

 

 そう溢す紅いドレスを身に纏った怪物の眼には涙が浮かんでいた。

 

 遥か昔に失われていた筈の涙が。

 

 

 

【君は亡霊(ダンスパートナー)】 終

 

 

 




別サイト(Pixiv)に投稿していたもの
友人からこっち向きじゃないかと言われたのでお試しです。
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