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『ニェンからすでに聞いていると思うけど、私はシュウよ。長兄と長姉に、妹二人までここにいるから、まるで家に戻ったみたい。大したものね、司歳台のあの男の子、まだあなたたちのとこを嗅ぎつけてないの?』
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サーミの雪の大地、その奥で巨大な謎の建造物が鎮座している。その巨大な建造物の付近に、ロドスのマークを付けた調査車両や研究スタッフが集まって作業を続けていた。元々この雪の大地の調査と探索に際して、ロドスは数多くの勢力に協力や助成を求めたが、どこからも良好な返事を得る事が出来なかった。結局ロドス単独による調査が開始される事なる。更にはこの雪の大地を案内をしてくれる筈の狩人は姿を見せる事は無く、未来を予見する筈だったサイクロプスの力も失われていた。不幸な事にサーミの英雄たる樹痕の部族の長は既に倒れており、ロドスと協力関係を築けていたサンタラも居ない。彼女は暗闇の中、亡霊将校を単独で追いかけた後に戻って来る事は無かった。当初の予定よりも大きな犠牲やトラブルに見舞われながらも、この場所に辿り着いたのはロドスの努力の賜物だった。
「これ本当になんなんだろうな」
「聞く所によると門らしいけど、何の門なんだ?」
「それを確かめる為に、こうして現場で修復作業をしてるんだろ」
「ここに来るまでに色々と在り過ぎて、この先どうなるか怖くてしょうがないぜ」
「未知の建造物ってのは、大体古い骨董品みたいな扱いの筈だが……こいつはどちらかと言うと、近代技術に近いって感じがするよな。だから妙な不気味さを感じるよ」
「近代って言うか、もっと先進的じゃないか? 『時代錯誤遺物』ってやつかもしれん」
「あー、そっち系か。あり得る話だ。ともあれ、ゆっくりではあるが修復作業も進められているし、現状生きている部分から情報を引っ張り出しているらしい。そっちに期待しよう」
「そっちは確かドクターも参加してるって話だし、割と早く何か分かるかもな」
そう話す修復スタッフ達の頭上で、門は不気味に鎮座している。
同じく『門』の近くで辛うじて生きている操作端末を発見し、ロドス研究スタッフが機器を接続し情報の収集を行っている。今の時代の機材が、この遥か昔に作られた筈である『門』に対して有効である事がそもそもの謎だった。誰もが感じたその疑問を何とかしまい込み、作業を続ければ驚く程簡単に情報を引き出す事が出来た。更に操作端末に施されていた一部の暗号や情報保護の為の障害は、ドクターの手によってあっさりを破られている。主だった障害は取り除かれた事により、多くの情報を引き出されてはいるのだが、その内容の殆どはロドス研究スタッフには理解出来ない物だったのだ。
「駄目だ。この端末から引っ張り出した情報に含まれる、単純な数字の意味さえ分からない」
「この言語構造は今この世界にあるどれとも一致しない」
「図形やら構造情報なら、感覚的に理解出来なくもないが……」
「取りあえず、ある程度の分類別に分けて保存していこう。念の為、バックアップも多めに確保しておこうか」
「分からない事があったら、ドクターに聞いてみると良い」
「そのドクターは今どこに?」
「メイン端末っぽい奴を調べている。ほら、向こうに居るよ」
研究スタッフが指さす先に、ドクターが端末を操作している姿がある。
ドクターが『門』の端末に触れた時、一番最初に感じた事は『自分はこれを間違いなく知っている』と言う事だった。正しい扱い方やどの様に機能していたかどうかは分からない。だが、間違いなく自分はこれを知っていると感じる。端末に表示されている文字列、表示されている数値の意味も読み取れる。一番の問題はこの『門』の正しい使い方について、思い出す事が出来ない事だった。読み取れる情報を繋ぎ合わせれば、星と星を行き交うのに使われていた事になる。とても信じられる話ではないが、既に信じられない様な経験をしてきた以上認めない訳にもいかない。
『■■■■■■:起動コード』
ドクターは目に触れたその内容、求められる起動コードを無意識的に入力する。
動く筈が無いと思っていた『門』は当然に動き出しす。
『門は』その場にいる全ての存在の眼を釘付けにした。
薄い水の膜が広がる様に円の中を満たしていく。
薄紫に濁るその扉にドクターは左腕を伸ばし、
触れた。
──────────────────────────────────────
ドクターは雪の大地に立っていた。
目の前には不気味な『門』が鎮座している。
しかしそれは先程の光景とは違い、円の中に紫色の膜を張り鈍く発光していた。
周りを見れば誰もおらず、展開されていた筈の調査拠点も無くなっている。
人がいた筈の痕跡は全て無くなり、紫色の不気味な花が咲き誇る。
黒と白の雪が舞い、人の手に似た何かが生えていた。
遠くの空には混沌とした雲の様な物体が忙しく移動しているのが見える。
そして『門』から黒い靄が溢れ出し、扉の向こうから何かがやって来る。
うっすらと影が見えた時、ドクターは慌てて近くの岩に身を隠した。
数え切れない程の悪魔達、正しく認識出来ない怪物達。
そして異形の悪魔がテラの大地にやって来る。
脳が理解を拒むかのように正確な形を認識出来ない。
そこに居るのに靄が掛かった様に濁って見える。
無尽蔵に溢れて来る悪魔達は、雪の大地を踏みしめ進軍した。
ドクターは見た。
サーミの雪の大地が、一瞬にして悪魔に蹂躙される様を。
雪の大地の外側にまで進軍する悪魔達を。
無限の軍勢と未知の特性に粉砕される文明を見た。
全てを黒に塗り潰し、焦土へと変えるそれは正に悪魔の『国土』そのもの。
あらゆるものを崩壊させ、あらゆるものを汚染する。
人々に対抗する手段等ある筈も無く、ただ消えて行く。
大地を覆いつくした悪魔達の向かう先は……海。
悪魔と怪物の終わらない争いの始まり。
信じられない光景をドクターは見た。
夢でも無く、恐ろしい程の現実感。
『これ』がこれから起きる事なのだと理解出来た。
『異物』を見つけた悪魔達が向かってくる。
ドクターは懸命に走って逃げる。
走って、走り続けて、やがて追いつかれて捕まった。
そして悪魔達は捕まえた得物の左腕を引き千切った。
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「ドクター!!」
その声によってドクターの意識は現実に戻って来た。
同時に凄まじい激痛を感じ、とっさに左腕を抑える。
抑えようとして、左腕が無くなっている事に気が付いた。
急に足に力が入らなくなり、その場に蹲る。
「ドクター、大丈夫ですか!? 医療班を、早く!!」
「……何が起きたんだ?」
「喋らないで下さい。血は……出てない……どういう事だ?」
「……教えてくれ、私はどうなっていた?」
激痛に耐えながら、ドクターは周りに問う。
「正直に言うと分かりません。唐突にこれが起動したと思ったら、ドクターが水の膜みたいのに触れて……嫌な音がしたと思ったら、その……腕が……」
「時間にしてどれ位だった?」
「ほんの数秒です。本当に一瞬でした。誰も声を上げる暇も無かった位に」
「……一瞬? 本当に一瞬だったのか?」
「嘘ついて何になるんですか!! 兎に角、ここから離れましょう」
「……」
ドクターは激痛に耐えながら、沈黙する『門』を睨みつける。
自分が見た物は一体何だったのか、とても一瞬とは思えない出来事。
あれらはこの先本当に現実に起こる事なのか。
駆け寄って来た医療班に連れられて、ドクターは『門』の傍から引き剥がされた。
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あの一件以降、各地で崩壊体の活動が活発になったと言う報告が増え、未知の汚染についての報告も多数寄せられている。それに伴い『門』の修復作業は中断となり、調査拠点も安全確保の為に引き払われる事が決定された。辛うじて『門』を観測出来る位置に前哨拠点を建設、ロドスによる雪の大地の調査は事実上停止状態となってしまった。ドクターはロドス本艦へと帰還し、状況整理と今後の展開について考えると言う名目で執務室に籠っている。現時点でロドス内でドクターと直接会う事が出来るのは、あの一件を知っている者達に限られていた。
『ドクターの左腕ですが……正直に言って酷い状態です。物凄く強い力で引き千切られたと表現するしかありません。しかし、出血の類は一切無く、断面も何かで固められた様に硬化しています。こんな状態は見た事がありません。まるで……』
『まるで左腕だけ別の所に置いてきた様だ』
『……そうです。ドクターの仰る通り、その表現が一番しっくりきます。あの後『門』の付近をくまなく探しましたが、左腕は見つかっていません。文字通りに消えてしまったと言うほかありませんね。医療に関わる身としては悔しい限りなのですが、ドクターの身に起きた事について分からないと言うのが現状です。何がどうなっているのか……ケルシー先生が居てくれれば、何か分かるかもしれませんが……』
『彼女達にはこの事はまだ伏せておいてくれ。余計な負担を遠い場所にいるあの二人に掛けたくない』
『……ロドスに戻って来る前にもそう言って、サーミ調査部隊の皆さんに箝口令を出したそうですね。ドクターがいずれご自身で報告すると言う事で今は従いますが、ドクターのその姿を見れば知らない人達も何かあったと気が付くのは時間の問題です』
『それについては上手に誤魔化すつもりだ』
『……医者としてなるべく早く、ケルシー先生に相談する事をおすすめします。それに……皆さんもとても心配していますよ』
『分かっている。もう少しだけ待っていて欲しい』
『あまりに長引くようだったら、こちらで勝手に報告しますからね』
『私にも整理する時間が欲しいんだ』
『……分かりましたよ。それとドクター、あの時本当に何も無かったんですね?』
『ああ、何も無かった。だから困っているんだよ』
ドクターの身に起きた事は徹底的な箝口令により、現在はロドス全員が知る様な事にはなって居ない。あの場に居たサーミ調査隊に所属していた者達の殆どが知っているが、彼らの協力によりロドスに滞在していた者達や別件で離れていた者達は知らないままだ。特に長期間ロドスを離れる事になってしまっている、ケルシーやアーミヤの耳に入る事だけは現状一番避けたい事なのだ。彼女達は彼女達で大きな問題に対面している以上、負担を増やす訳にもいかないと言うのがドクターの考えであり決定だった。最終的には彼女達の耳に入り酷く怒られるだろうが、それはある程度解決してからであれば問題無い。
最も『その問題が解決出来る』と言う前提が通る場合の話だが。
ドクターは執務室に籠り、あの『門』に触れた時に見た光景について考えていた。あの様な世界の終わりは有り得ないと思う反面、あれはこの先に確実に起こる事なのだと理解している。そう遠くない内にあの『門』を通って悪魔の群れがやってくるのだ。全ての原因は『門』の修復作業をした事か、起動に成功した事か、はたまたロドス単独でサーミの大地を探索すると決めた事か。今となっては、どの選択が間違いだったのかも分からない。今出来る事はあの悪魔の軍勢を抑え込む方法を考える事、あの終わりを回避する方法を導き出す事だけだった。
ドクターは執務室に籠り続ける。
端末を操作し、情報を集め、あらゆる方法を模索する。
考えうるだけの戦略を用意し、起こりうる全てを想定した対処法を用意する。
これまでに収集した崩壊体のデータから、悪魔への有効手段を研究する。
あらゆる組織への協力要請を考え、出来る限り実行可能な内容を考案する。
自身の持てる全ての力を使い、完全な解決策を探す。
その全てをシミュレーションに叩き込み、結果を見る。
『シミュレーションエラーが発生しました』
何度試しても返される結果は無慈悲な物だった。
自分自身が考え出した、その全てが通用しない。
自分自身が考え出した、その全てが何処かで破綻する。
自分自身が考え出した、その全てが時間稼ぎにしかならない。
自分自身が考え出した、その全てが敗北を指し示す。
「……駄目だ、勝てない」
ドクターは独り、頭を抱えて絶望した。
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どれだけ考え直しても、どれだけエラーポイントを修復しても結果は変わらない。
逃げ道一つもない、完全な詰み状態。
この世界は既に抜けられない破滅の道に入り込んでしまった。
ドクターはふと何かを感じて鏡を見る。
不眠不休で考え続け、酷く絶望した顔の人間が映っている。
そしてその人間の左目の奥に光を見た。
崩壊体に宿る、あの忌まわしい白い輝きを。
ドクターはこの時になってようやく、自身が悪魔の汚染を受けている事を知った。
声にならない叫びが執務室に響く。
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訪問者が執務室の扉を叩く音がする。
しかし、ドクターがその音に反応する事は無い。
暗い部屋の中で終わりの無いシミュレーションを叩き続けている。
返される結果は同じなのに、延々とデータを入力し続けていた。
人の訪問に気が付く事無く、繰り返し続けている。
「ドクター、開けるわよ」
その言葉と共に扉が開き、訪問者が入って来る。無反応のまま作業を続けるドクターの横を通り抜け、一番近くのカーテンを開け窓を解放する。閉じ籠ってから闇に沈んでいた執務室に、暫く振りの光が差し込み空気の流れを感じさせた。訪問者の手によって部屋の中にある全ての窓が解放され、濁った空気が随分と薄くなった頃になって、ようやっとドクターは端末から顔を上げた。散らかり切った部屋を見まわし、しばし沈黙した後で訪問者に声を掛けた。
「……戻って来ていたのか、シュウ」
「そうよ。ほんの少し前にこっちに戻って来ていたわ。兄妹達はもう数日後に帰って来る予定よ。連絡も入れておいた筈だけれど、見ていなかったみたいね」
「すまない。此方も色々と立て込んでいてね。しかし、どうやってここに? 鍵は掛かっていた筈だが……」
「あなたが部屋に閉じ籠って出てこないって心配していたから、鍵を受け取って私が様子を見に来たのよ」
「……そう言う事か」
「ドクター、あなたちゃんと水を飲んでご飯を食べているの?」
「─それなりには」
「何時からそんな分かり易い嘘を付くようになったかしら? この部屋の惨状を見ればすぐ分かるわ」
「……」
シュウは床に散らかっていた物を一旦隅に寄せると、ドクターに近づく。
「ドクター、私の方を見なさい」
「……私はやる事が沢山あるんだ」
やんわりと出された拒絶の言葉を無視する。
シュウはドクターの身体を掴むと有無を言わさぬ力で自分の方に向ける。
そのまま両手で頭を掴むと、ドクターの顔をじっと覗き込んだ。
「─酷い顔ね。それに何か悪い物でも拾って来たの?」
「……シュウ、離してくれ」
「ずっと部屋に閉じ籠って、日の光も浴びていないんでしょう? 人間だって植物と同じで、ちゃんと日の光を浴びないといけないのよ」
「……」
「ドクター、お仕事は一旦おしまいよ。今すぐ顔を洗って、水を浴びて、清潔な服に着替えましょう。それらが終わったら、ちゃんとした食事を摂りましょう」
「……」
「そんな不満そうな顔をしても駄目よ。今すぐこれの電源を切って、私に言われた事をやりなさい。それとも力づくでやった方が良いかしら?」
シュウはニェンとシーに恐れられる笑顔を貼り付けた顔でドクターを詰める。
拒否する事を許しはしないその雰囲気に、ドクターは首を縦に振るしかなかった。
「……分かったよ」
「良し。私は部屋の前で待っているわ。慌てずゆっくりで構わないから、ちゃんとやるのよ」
それだけ言うとシュウは部屋を出て行って扉を閉める。言われた通りドクターは端末の電源を切り、椅子から立ち上がり改めて部屋の惨状を見た。書類や本は散らかり、元々の整えられた環境の面影は何一つとして残っていない。凄まじい程の荒れっぷりは、部屋中の物に当たり散らす様な事をしなければ起こりえない。シュウがそれついて触れなかった事のは彼女の優しさだ。失われた左腕、内に宿る『それ』についても触れなかった事に、ドクターは余裕が無い心情でありながら感謝をする。
日差しが差し込む窓に近寄り外を見る。
とても穏やかな日和で優しい風が吹いていた。
「こんなにも世界は……」
こんなにも世界は美しいのに。
私が無力なばかりにその全てが失われるのだ。
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ドクターは言いつけを守り身嗜みを整えた後で、シュウに連れられ食堂で随分と久しぶりな食事を摂った。執務室から引っ張り出して来たシュウに対し、多くのロドススタッフが感謝を伝えていたがドクターがそれに気が付く事は無かった。ただ目の前に出された料理を口に運び、作り手の込めた味を堪能する事も無く飲み込む。料理に添えられた水を何の感情も無く喉に流し込む。結局あの暗い執務室から出てきただけで、実際の意識はずっと今後の展開について考え続けていた。正に『心ここにあらず』と言う他に無い状態のドクターをシュウは黙って見守っている。
食事を摂った後、ドクターはシュウに手を引かれ農園に連れてこられたと思ったら、日の光が降り注ぐ場所に椅子を置いて日光浴をさせられている。何をする訳でも無くぼんやりと座り、農園の中を忙しく動き回るシュウを眼で追っていた。彼女は植えられた作物の様子を確認し、機材に表示されている数値を比較し記録帳に内容を追記して行く。自身が離れていた間に面倒を見てくれていたスタッフに礼を言い、何か特別な変化があったかどうかを聞いていた。
「シュウ、何か手伝おうか」
「あなたの仕事は、そこに座って大人しく日の光を浴びておく事よ」
「……私は植物では無いんだが?」
「人間だって朝起きて、日の光を浴びる事で体調が良くなるわよ。特にあなたみたいなひ弱な人はね、しっかり日の光を浴びる事がとても重要なの」
「まるで病人扱いだな」
「仕方が無いわ、病人みたいに脆いもの」
「……」
シュウはドクターの方を見る事なく、作物の様子を確認し続けている。
ドクターはシュウの言葉に返す事もなく、空を見上げた。
雲が流れ、羽獣の鳴き声が微かに聞こえている。
「─やっぱり、分かってはいたけれど試してみた作物は殆どが駄目だったわね」
「君が実験的に育てていたものか?」
「えぇ、そうよ。幾つかの種を掛け合わせて強い作物を作ろうとしてみたの。何処にでも、何処の大地でも育てる事の出来るものをね」
「夢のような話だな」
「物事の始まりは何だって夢の様な話よ。それが地道に積み重なって、偶然を呼び込み、偶然がやがて必然に変わる。最初から何もかも上手く行くなら、きっとここまで多種多様な存在は生まれていないでしょう?」
「……」
「あなた達の病気の治療の研究だって、これと似た様なものじゃない。医療の分野について私はそれ程詳しくはないけれど、医術の道に入った弟もきっと同じ様に言うと思うわ」
シュウはそう話しながら、死を迎えた作物を土から抜いて行く。一部は枯れ果て、一部は病になり、一部は成長する事なくその命を終えた。『手は尽くしたがどうにも出来なかった』と謝るスタッフに対し、シュウは自身が居ない間よく面倒を見てくれていたと感謝を述べる。彼女達は再び土を作り直し、新たな配合を考えて同じ事を繰り返すのだろう。これまでも、これからも、明日があると未来があると信じているから。
「……上手く行かないと分かっている事を続ける意味はあるのだろうか」
だからこそ、ドクターの口からそんな言葉が漏れた。
「……」
「あ、いや。すまない、失言だった」
「はぁ……ドクター、あなたちょっと会わなかった間に随分と後ろ向き思考になったのね。やっぱり部屋に引き籠っていたのが原因なのかしら? それとも……引き籠る原因になった方の影響なの?」
「これは……」
「無理に話さなくて良いの。ちょっとこっちにいらっしゃい」
シュウはドクターを手招きする。
足元に気を付けながら傍に来たドクターの右手を取り、共にしゃがみ込む。
土に触れながらシュウは言う。
「確かに私のやっている事は、先の見えない道なのは間違いないわ。でもこの道は、ここから現在まで多くの人が夢を見て進んで来たの。上手く行かないと分かっていながら、一掴みの成功を祈り、極小の偶然を経て間違いなく前に進んでいるの。本人達にとって全く前進が感じられなくても、他の誰かの眼から見れば新たな歩みになる事もある。そうやって、今では寒さに強い作物が生まれたり、暑さに強い作物が生まれたりしたのよ」
「……」
「失敗する事は悪い事ではないし、間違える事も悪い事ではないわ。ほら、この畑を見てドクター。今回はここから成功が産まれる事は無かったけれど、私の歩みの証明が確かに残っている。千年以上前から続く、私の歩みの証明がね。勿論、ここだけではなく私の居た事のある全ての場所に残っている。それらは私が受け継いできたものであり、誰かに受け継がれていくものよ」
「……もし、未来で失敗する事が確定してもか?」
「未来の事なんて誰にも分からないわよ。これまでの経験と知識から予測する事は出来るけれど、断定する事は出来ないわ。ただ……そうねぇ、もし失敗が決まっているのら、取り敢えずそこまで歩みを進めてみると思うわ。それでどうして失敗だったのか考えてみるの」
「道の先が無かった時は?」
「ドクター、あなたは私に何か諦めて欲しい願望でもあるの?」
「そんな事は無い……無いよ」
「……はぁ。どうしても駄目だってなった時は、一度全部やり直すしかないわね。何が駄目だったのかを考えて、最初から全部やり直す。無理に何かを継ぎ足すよりも、時にはこれが一番良い結果を招く事も有るでしょう。初心に戻って何も無い所からまた歩き出せば、見えていなかった道も見える様になるでしょう?」
シュウのその言葉に、ドクターは驚いた。
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「最初からやり直す?」
「何をそんなに驚いているの? この考え方はあなた達、人が最も得意としているじゃない。河の増水で田が流れてしまったら、他の場所を変えて新たに作る。時には河の流れに手を加えたり、堤防を作る事もある。一つの事象に対し、様々な視点から対応を試みるのはあなたの得意とする所でしょう?」
「……」
「ドクター、部屋に引き篭もり過ぎてこんな簡単な事すら忘れてしまったの?」
「……」
「ドクター? 大丈夫? もしかして、日の光を浴び過ぎてのぼせちゃったの?」
シュウの言葉は既にドクターの耳に入っていない。
ドクターの頭の中では、既に一つの仮説が組み上げられようとしていた。
余りにも馬鹿げた仮説だが、それを通せる理論はある。
『門』とは扉を開ける為の装置だ。
そして扉とは向こうから出るだけでなく、こちらか入る事も出来る。
何も無い所から悪魔が時空を超えてやって来る。
ならば、任意の場所へ時空を超えて行く事も可能な筈だ。
全てをやり直すならば、この先の敗北は関係ない。
全てが無かった事になるのなら、手段は問われない。
ドクターの前に道が見えた。
果たしてその道は進んでも良いのだろうか?
「ドクター、本当に大丈夫?」
全く反応が無くなったドクターを心配し、シュウがその体に強めに触れる。
完全に意識を思考に回していたドクターはその衝撃で後ろへと倒れた。
土の山に倒れ込み、特有の匂いに包まれた時になってようやっと意識が現実に戻る。
ドクターの視界には流れる雲と青い空が映っている。
更に視界の隅にあの、『門』と雪の大地が見え隠れしている。
起き上がる気配が無い事を心配し、シュウが覗き込む様に現れた。
「ドクター、怪我は無い?」
「─あぁ、大丈夫だ」
「ごめんなさい、こんなあっさりと倒れると思っていなくて」
「気にしないでくれ、私が考え事をしていたのが悪いよ。シュウ、すまないが手を貸してくれないか。まだ片腕のバランス感覚には慣れていないんだ」
「はいどうぞ、私の手につかまって」
シュウは腕の力のみでドクターを引っ張り上げる。
浮き上がったドクターの身体を苦も無く受け止め、しっかりと立たせる。
その細く薄い身体からは想像も出来ない力は、確かに彼女も人外のものである証だ。
「ありがとう」
「どういたしまして」
シュウの手を握ったまま、ドクターは礼を言う。
空いた手で土を払い落としながら、シュウは礼に応えた。
「シュウ、君のお陰で随分と気分が良くなったよ」
「なら良いけれど、まだ無理しない方が良いわよ」
「分かっている。だが、今すぐにでも確認したい事が出来たから……仕事に戻る事にするよ」
「……また閉じ籠るつもり?」
「どうかな……案外直ぐに結論が出るかもしれない」
「また部屋を閉め切ったりしては駄目よ。それからちゃんと毎日、日の光を浴びてお水を飲んでご飯を食べる事。それから……」
「分かった、分かったよ。そんなに心配しなくても、『次』からはちゃんとその通りにするとも」
「……」
「それじゃあ、シュウ。私は部屋に戻るよ。ここに連れ出してくれて感謝する」
ドクターは農園の出口へと向かって歩き出す。
その歩みは随分としっかりしたものになっている。
しかし、ドクターの後ろ姿には大きな迷いが残っているように見えた。
「ドクター」
「?」
「迷う事は悪い事では無いわ。時には上手く行かない事も有るでしょう。どんな物事だって、全てが自分の思い通りになる事の方が珍しいの。だから全てを一人で抱え込まないで、どんな些細な悩みでも構わないから誰かに相談するのよ」
「……」
「あなたは強い意志と信念を持っている……『人』として悪因に打ち勝つ事も出来るでしょう」
ドクターは頷くと出口から外へと消えた。
「……けれど、あなたもまた『普通の人間』なのよ」
「─穏やかで優しい風、雲の流れは緩く、悲しい程に良い日和ね」
シュウは寂し気にそう呟いた。
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ドクターは執務室で再びデータを入力する。
床に散らばった資料の中から必要な物を見つけ出し、理論の穴を埋める。
僅かな間違いを修正し、時間軸の特定を確立させた。
時空を超える『門』の使い方は無意識的に覚えている。
ならば、後は正確な数値させ分かれば良いのだ。
思考を積み重ね、余分な情報を切り捨てる。
汚染率を計算に入れ、自身の限界点を割り出す。
その全てをシミュレーションに叩き込み、結果を見る。
『シミュレーション:■■■■■■』
ドクターは遂に、『門』を開き扉の向こうへ行く方法を作り上げた。
全てを犠牲にし、全てを救う。
矛盾しているとも言える、禁じ手を生み出した。
チャンスは一度、練習も無く、保証も無い。
正に文字通りの捨て身の作戦。
「……」
この作戦とも呼べない物を作り上げたドクターに喜びは無い。
何故なら、これはある種の敗北宣言と同意だからだ。
そしてこれを本当に実行するべきかどうか。
最後の答えを下す事が出来ていない。
ドクターは長い時間、モニターに表示される結果を見つめている。
数多くの出来事を考え、数多くの人の事を考えた。
冒涜的で許される筈の無い行い。
日が沈み、そしてまた日が昇る頃になって、ドクターは一定の答えを出した。
その答えを強固にする為、そして覚悟の隙間を埋める為。
人の中で生きようとする、人でない者達に問う事に決めたのだった。
水を飲んだ後、ドクターは執務室を後にした。
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早朝、『武』に問う。
「おや、貴公がこの様な時間に現れるとは珍しい事だ。さてはようやく、朝練に参加する気になったのだな?」
「そうだ……と言いたい所だが、以前ですら厳しかったのだから、残念ながらこの状態ではね」
ドクターは右手で、かつて左腕があった空間を指さして見せる。
「……そうだったな」
「そんなに気にしないでくれ。こう見えても意外と不便は無い。むしろ以前にも増して思考速度が上がった気すらする」
「失われた体の機能を補う為、他の部位の機能が強化される。それもまた人の身の強さと言えるな」
「私の場合、大して活用していない部分だから当て嵌まるかどうかは疑問だね」
「─ふむ。してドクターよ、何か私に用があって来たのだろう?」
「あぁ、君に聞きたい事がある」
ドクターのその言葉を聞き、チョンユエは鍛錬を止めた。
そして服装を整えると柵に寄りかかり外の景色を眺めているドクターの横に立つ。
今日は程よい風の強さだった、何をするのにも心地良く感じる良い日和。
「それで私に聞きたい事とは?」
「特別難しい事では無いんだ。君はこれまで長い期間、炎国の戦場に近い場所で過ごしていただろう?」
「うむ。あの長い時間は私にとって多くの事を教えてくれた」
「その中で……勝てない戦いはあったか?」
「勝てない戦い……か。勝つ事が難しい戦いはあったが、前提として『勝てない』戦いと言うのは無かっただろうな。最も敗北が決まっている戦いをするなど、今の時代ではあまりにも愚策だろう。何らかの手段を講じ、抗う事は出来るだろうが最終的な結果は変わるまい」
「……うん、間違いないね。君の言うとおりだ」
「─ドクター、『負ける事が無い』と『負けた事が無い』は似ている様で全く異なる」
「……」
「貴公は今日まで負ける事が許されなかった。だからこそ、周到に石を置き、勝利を手繰ってきた。それは誰もが認める所だろう……勿論、私も含めてな。それは誰にも否定出来ない事実である」
「でも最終的に負けてしまっては、今迄の結果の意味を失ってしまうよ。確かにこれまで、私は大筋で見れば『負けた事が無い』のは事実だ。だが、今回は……」
ドクターはそこで言葉を濁すと手摺を握りしめる。
その姿を見るとチョンユエは言葉を続けた。
「……以前に話した事があると思うが、私は負けた事がある」
「玉門での決闘の事か? あれは確か、記録上は君の勝利となっている筈だ」
「その通りだ。あのワイ・テンペイとの決闘、あれは公の記録では私の勝利と言う事になってはいる。だが実際、かの者が『武』の鍛錬を積んだ四十年と言う時間と同等に絞ったならば、私は間違い無く敗北しただろう。更にあの最後の一撃、あれは私の積み重ねてきた長い時間をも踏み越え、私を凌駕したのだ。その事は、あの拳を受けた私にしか分かるまい」
「─君はあの敗北を誇りに思っているのだな」
「そうだ。私は私自身しか知りえない敗北を誇りに思っている」
「敗北を誇りに思えると言うのは、なんだかとても羨ましく思えるよ。多くの者にとって敗北を誇れると言うのは、まだ先に道が続いている者に限られるからね」
「貴公の道は続いていないと?」
「いや、続いていない訳では無い。続いていない訳では無いんだ……ただその選択をして良いのかを悩んでいる……と言うのが正しいのかもしれない」
「ふむ……」
少しばかりの沈黙の後、拳を正面に放った。
風が吹き抜け落ちていた葉が舞い上がる。
「ドクター、今のを見てどう思う?」
「君の鍛錬の積み重ねによる、洗練された一撃だ」
「うむ。正面に拳を突き出すと言う基本にして、最も単純な動作を長い時間の鍛錬により今の様な事が可能になった。これが意味する所は貴公ならば分かるだろう」
「相応の努力には、相応の結果がついてくるものだと?」
「数百年、数千年、数万年……欠かさず正面に拳を突き出す鍛錬を行ったとしよう。その結果として、この基本にして単純な一撃で山を崩せる様になった時、これは一体どう評価されるべきであろうか?」
「弛まぬ努力と時間の結果だろう」
「では、同じ様な結果を数百年の鍛錬で成し遂げた者はどうだろうか?」
「秀才や天才等と言われるかもしれない」
「最初の一回で山を崩した場合、人はそれを何と呼ぶ?」
「……奇跡、あるいは神の御業」
ドクターの答えにチョンユエは満足気に頷いた。
「そう、人はそれを『奇跡』と呼ぶ。また『奇跡』とは追い求める者の所にしか起こり得ない」
「……」
「貴公はこれまで数多くの事を成し遂げて来た筈だ。その中には困難な事も数多くあった筈だ。例え別の誰かがやったとしても、貴公と同じ結果にはならないだろう。これまでの成果は貴公がその勝利を追い求め、探求し、努力を怠らなかったが故の結果だと私は思う」
「……」
「そして今、貴公は『奇跡』を追い求め、手が届く所迄来ている。違うか?」
「─どうだろうな」
「ドクター、誤魔化すならばそれも良いだろう。悩み考え抜く事もまた貴公の強さだ」
「私の強さか……もしかしたら私は君の評価を裏切ろうとしているかもしれないのに?」
その言葉に少しばかり意外そうな顔をした後、微かにチョンユエは笑う。
「─ドクターよ。貴公は以前、我ら兄妹の前で話した事を覚えているか?」
「どの話の事だろうか?」
「『心』の持ちようの話だ」
「あぁ、それか。……覚えているよ」
──────────────────────────────────────
『君達は確かに並みの者では無く、人よりも上の次元に生まれた。そして『我は誰か』と言う問いに向き合い、長い時間を掛けて一定の答えをだした。その中で人と関わらず生きる事も出来たが、結果として人と関わって生きる事を選んだ。人よりも高い次元に生まれた君達は、時に人を見守り、時に人を評価し、時に人を見送ったのだろう。だがそれ程の視座を持ち、長い時間を過ごして来た現在でも、やはりまだ『生きる事』と言う点に関してはまだまだ未熟だ。人よりも高い次元に居る君達は、ある意味で現在に至るまで人によって育てられている』
『君達自身はそうは思わないかもしれないが、私から見れば成長途中と言えるだろう。『生きる事』とは、『我は誰か』とは、力も能力も関係無く、使命や立場に縛られる事無く、一つの命として自身の『心』に従って動けた時に本当の答えが見つかるものだ』
──────────────────────────────────────
「貴公がこの先何をしようとしているのか、何を考えているのかは分からない。恐らく分かった時には……全て終わっている頃だろうな。だからこそ、以前貴公より聞いた言葉をそのまま返そう」
チョンユエはドクターの胸に人差し指を当てた。
「何かを悩んでいるなら、心に従うと良い。己が行おうとしている事が、必要だと思うならば、他の選択肢が無いと判断したのなら躊躇わずにやるべきだろう。貴公が皆の為を思っての行動であるならば、尚更の事だ。為すべきと思った事を為し、己の目指す道を行け。そうであれば……非難の声を上げる者はそう多くはあるまい」
「そう……だと良いけどね」
「─急かすつもりは無いが、貴公がまだ貴公である内に結論を出すべきだ。体の内側から滲み出る『それ』は弱い者にとって、害になりえる」
「やはり君には分かるか」
「尋常ならざる精神力で抑え込んでいる事には敬服する。しかし、『それ』は本来、貴公の内にあってはならないのだ」
「……」
「かつて我らに『人』とは何かを説いた貴公が……『人』を捨て去る様な真似はしてくれるな。その結果の姿を私は見たくはない」
「忠告痛み入るよ。ありがとう、君との話はとても意味のあるものだった」
「貴公は常に様々な事を考えているのだろう。だからこそ、一度『本当はどうしたいのか』と言う事に向き合ってみると良い」
「─分かった。それじゃあ、私は行くよ。邪魔をしてしまったね」
背を向けて歩き出す。
「一つ言い忘れていた」
背を向けて去るドクターに声が届く。
振り返れば、真剣な眼差しを向けるチョンユエの姿があった。
「ドクター、『次』は貴公も朝練に来てくれると私も嬉しく思う」
「……分かった。出来れば私専用の簡単な内容を考えておいて欲しい」
「やれやれ……それはまた、随分と難儀な課題だ」
「私としても朝練で命を落とすのは避けたいからね」
「貴公は人並み以上に繊細だからな。だが、言ったからには何かと理由をつけて逃げるのは無しだ」
「勿論だとも、『友人』として約束しよう」
「あぁ、約束だ」
ドクターは手を振り、再び背を向けて歩き出す。
『負けを知り、そして再び勝つ為にあがく事もまた強さだ』
『そして貴公はまだ完全に負けた訳では無いのだろう?』
チョンユエはその姿を見送った後、普段通りに鍛錬を始めた。
──────────────────────────────────────
夕方、『詩』を飲む。
「ん……?」
「やぁ、リィン。お目覚めかい?」
「目覚めた時に貴君が傍に居るとは、珍しい事もあるものだね」
「私としては動き回っている君を見つけるのは苦労するから、こうして一所にじっとしていてくれて助かったよ」
「起きるまで待っていたのかい? 酒の入った杯を置いてくれれば、直ぐに目覚めただろうに」
「それも考えたが、昼酒は体に良くないからね。頃合いを見計らって待っていたと言う訳だ」
「……今の貴君はその様な些事を気にする体では無いだろうさ」
「元々飲まない身な事を差し引いても、手厳しいな。それはそれとして、どうだい?」
ドクターが手に持った酒瓶を見せると、リィンは寝ていた場所から起き上がる。
小舟の上で互いに向かい合うように座った。
二人を乗せた小舟は船着き場を離れ、霧の深い河の上をゆっくりと流れて行く。
「長兄の次は私と言う事かな?」
「分かっていたのに驚いたフリをしたのか?」
「夢で見ただけさ。今回はあまり愉快な話題では無いだろうが、貴君とこうして酒を酌み交わす事はあまりないからね。付き合おうじゃないか」
「感謝するよ、リィン」
ドクターは片腕で器用に酒瓶と杯を操り、酒を注ぐとリィンに手渡す。
そしてもう一方の杯を持つと、黙って杯を掲げ酒を飲んだ。
「─答えは出たのかな?」
「まだもう少しかかりそうだ」
「長兄の説教を受けてなお、まだ悩むとは案外貴君にも不断な所があるようだ。この河の流れの様に行きつく所まで行ってしまえば、後はもう選択する道すら残っていないだろうに。一体何が貴公をそこまで迷わせているのだろうね?」
「迷っていると言うのは少し違うのかもしれない」
「ほう?」
「恐らく迷いに対する答えは得ている。後は私の中にある隙間を埋めるだけだ」
「隙間を埋める……面白い表現だね。その隙間が埋まった時、貴君は何を得るのだろうか?」
「私は、私がやるべきだと思う手段を実行する確信を得る筈だ」
「何とも遠回りでありながら、人にとっては重要な事なのだろうね」
リィンは自身の杯に酒を注ぎ、ドクターに問う。
ドクターは空になった杯を弄びながら答える。
「貴君、私達はなんだろうか?」
「リィン、君達は舟だ。この河に浮かんでいるこの小舟の様にね」
「そうだとも、私達は舟だ。故に客人を乗せる事はあれど、客人を導く事は無い。舟の上に船頭は無く、ただ流れるままに進む。舟に乗った客人は時と共に入れ替わり、誰一人としてここに留まり続ける事は無い」
「だが互いの記憶には残るだろう。客人とっては一時の得難い経験として、舟には人を乗せた経験は刻まれる。初めは何もない質素な小舟は、経験を経て人を導く事は出来ずとも、休める場を提供し、旅を案内し、共に酒が飲めるようになるかもしれない」
「酒を飲む舟とは酔っぱらいの夢の様だ」
「舟が酒を飲まず、詩を読む事も無いと誰が決めたのか?」
「……これは手厳しい事を言うね」
リィンは杯に酒を注ぎ、ドクターに手渡しつつ再度問う。
ドクターは杯を受け取り、酒を飲みほして再度答える。
「では、人は何だろうか?」
「人は舟を浮かべる河の水だ」
「然り。人とは、人々の生活とは、人の体験しうる時間とはこの河の水だ。様々な者達が集まり、重なって大河の様になる。私達はそこに浮かび、流れに乗る事はあっても水に混じる事は無い。河の流れを変える事は出来ず、新たな流れを生み出す事も無い」
「舟は本当に流されるだけなのか?」
「……気紛れに舟の上から河を見下ろした時、河の底で何が起きているかを知る事は出来はしない。河の底で窒息する魚が居たとしても、それを助ける事もまた出来ないのだよ。客人として迎える事が出来るのも精々一人や二人、舟に出来る事は見えている僅かな範囲の流れを知る事だけ、掲げた僅かな灯では流れの先を見極める事も不可能だ。水の流れに抗う力は無く、故に舟は独り流されて行くだけさ」
「─それを寂しいとは思わないのか?」
「……どうだろうね。妹達なら寂しいと思うかもしれないよ」
「本当に何も思わないなら、酒を飲み詩を作り、飲み相手を求める事も無いだろうに」
「ふっ……少し酔いが回ったのかもしれないね」
「そう言う事にしておこう。君はまだ飲むだろう?」
「勿論だとも。貴君に酌をして貰える事は滅多にないからね」
舟は河の流れに任せるまま進む。
霧の深い谷を抜け、紅葉煌めく山々の間を通る。
時に滝を降り、時に渦に巻き込まれ、時に燃え上る船の間を流れて行く。
そして最後に雪の降る凍り付いた場所に辿り着いた。
水は濁り、完全に凍り付いた事で舟は進む事も出来はしない。
リィンは杯を置くと白い息を吐き出しながら、辺りを見る。
「どうやらここが終点の様だね。なんとも心の底まで冷える虚しい場所ではないか」
「……何故こんな所に来たんだ」
「これは異な事を言うね。ここは導いたのは貴君じゃないか」
「私が?」
「そうだとも。心当たりが無いとは言わないだろう? 気になるのならば、舟から降りて氷の上を歩いてみると良い。きっとよく知る光景が目に入るだろう」
「必要無い」
「怖いのかい?」
「……怖い?」
「先程から周りを見ようともしないじゃないか。それに随分と覇気を失い、小さくなってしまった様にも見えるね」
「……」
「それに……実物では無いとしても貴君の中の『それ』は随分とこの光景が好きな様だ」
ドクターは咄嗟に左目に当たる部分を抑える。
その姿をリィンは冷徹な眼差しを向けている。
「ご覧、ドクター。白い雪が終わり、黒い雪が降る」
「見たくない」
「だが、貴君は見なければならない」
「こんなものは見る必要もない。こんな事はあってはならないんだ」
「では、どうする?」
「私が止める」
「如何にして止める?」
「……『門』を使う」
「ははは。成程、確かに答えは出ている様だ」
ドクターの答えに対し、リィンは満足気に笑うと何時の間にか注いでいた酒を飲む。
すると河の氷は溶け、再び舟は動き出す。
「……リィン」
「いやはや、流石に意地悪が過ぎた様だね」
「何故この場で私を試す様な事を?」
「貴君の言う、『隙間を埋める』がなんであるかを知っておきたかったのさ」
「やり口が悪趣味だと言わざるを得ない」
「だが怖いと思う事、恐怖を感じる事は自然な事だ。己の成すべきと思っている事が、全てを呑み込むと言うならば尚更ね」
「……」
「それは人である事の証でもあり、貴君がまだ貴君のままであると言う証でもある」
「恐れは強さ……敗北は終わりではない、か」
「長兄の言葉かな?」
「彼から教えられた事だ」
舟は再び霧の深い河の上をゆっくりと流れて行く。
「無事に隙間も埋まった様だ。ならばこの旅も仕舞としようか」
「君は何も言わないのだな」
「貴君がやる事に対してかな? 私に何が言えると? 貴君はやるべきと思った事を見定め、己の中で答えを出している。なればそこに私が口を挟む事は何もあるまいよ。元より、我らが人に対し口を挟める事はそう多くは無いのだから」
「……君らもまた旅の途中か」
「我ら兄妹も『生きる事』の道半ばなのだろうさ。さて、ドクター。最後に私の杯に酒を注いでおくれ」
「─分かった」
リィンは酒を飲み、河の水に触れる。
ドクターは空になった杯を河にそっと流した。
杯は僅かな時間のみ流され、やがて河の底へと沈んで行く。
『舟』はぽつりと『旅人』に問う。
「現を知る者が居ぬならば」
「それ即ち夢と同義なり」
「世の終わりに時戻るは」
「全て一夜の夢の如く」
「門を通りて望み願うは」
「新たな河と舟の旅のみ」
やがて小舟は霧の深い船着き場へと辿り着いた。
残った酒瓶をリィンに渡すとドクターは小舟から降り、霧の向こうへと歩き出す。
「酒飲みの先達として一つ助言をしよう」
背を向けて去るドクターに声が届く。
振り返れば、杯を持ったリィンの姿が見える。
杯を持った腕がゆらゆらと揺れていた。
「貴君、私はね……別酒と言うのはもう少し刺激のある味の方が好みなんだ」
「……残念だ。それは気に入らなかったか?」
「いいや、これは間違いなく美酒だよ。ただ、この場には合わないと言うだけさ」
「酒と言うのは難しいな」
「─貴君が隙間を埋めるのに時間が掛かっている様に、酒飲みもまた一日にしてならずだ」
「……」
「出来るなら『次』にこの酒を持ってくる時は、もっと静かな時が良いね。その方が語り合うにも華が咲くだろう」
「そうしよう。ただ興が乗ったからと言って、以前の様に絡み酒になるのは勘弁して欲しいな」
「酒の席と言うのは勢いに任せて心の内を吐き出す場でもある。その中であまりにも包み隠している人物が居れば、多少の程度の差はあれどそうもなるさ」
「─分かったよ。リィン、『次』の酒の席では私も多少上手に飲める様に努力しておこう」
「期待しているよ」
ドクターは再び背を向けて歩き出す。
リィンはその背を見送る事はせず、手に持った杯を見つめている。
「貴君。貴君の思うままにやると良いさ」
人とは、人間とは、なんと我儘で愚かな生き物だろうか。
だが、それこそが好ましく映る理由なのだろう。
『人の身にして人と異なり、命を愛するが故に世を憂』
『旅の選択に幸あれ』
小舟は再び船着き場を離れ、河の流れに任せる様にゆっくりと動き出す。
杯に残った酒を呷るとリィンは再び眠りについた。
──────────────────────────────────────
夜、『炎』に触れる。
「……駄目だな」
「……駄目か?」
「駄目だ」
「何処が駄目だ?」
「ほぼ全部。これなら爆発研究教材や炎色反応実験動画と言われた方がまだ納得出来る」
ドクターはスクリーンを眺めながらそう言った。
あまりにもバッサリと切られてしまったニェンは不服そうな顔をする。
「なんでだよ、これでも予算の八割は爆発シーンに注いんだぜ。そんで出来たのがこの派手な爆発と舞い上がる炎!! これの何処が不満なんだ?」
「……その台詞を以前にも聞いた気がするよ。これでは映画では無く、ただの爆発シーンが映ってるだけの映像だ。物語性も無ければ主体性も無い。作り手が伝えたいものすら分からないじゃないか」
「私は結構楽しかったんだけどな……」
「君が楽しいのは結構だが、映画と言うのはそれだけでは成立しない。ニェン、君は数多くの映画を観たんだろう? それだけ参考になる物があるのに、どうして毎回こうなってしまうんだ?」
「あぁ~? そりゃ良い映画ってのは沢山あるが、真似すれば良いってもんでもねぇだろうよ」
「……君は一度、シーに映画の評論について、ちゃんと聞いてみた方が良いかもしれないな」
「あの引き籠りの方が私より、映画を観る目があるってのか? 言うにしても、そりゃねぇだろ」
「……感性やら好みの違いはあるにしても、聞いてみる価値は十分にあると思うよ」
「はー……私があいつの所に行った所で、勝手に怒り出すだけじゃねぇかな」
「そういう物言いだから、喧嘩になるのでは?」
「あれは私なりの気遣いってやつさ。今更『仲良くお話ししましょう』って間柄でもねぇし、そんなのお互い気持ち悪いだけだろ。だから……あいつと私はこれで良いんだよ」
「君達がそれで良いなら構わないが……」
そう話す二人の前のスクリーンには、変わらず爆発の映像が繰り返し流れている。
ニェンの言う通り、派手な爆発に舞い上がる炎。
試写室を明るく染め上げる赤とオレンジ。
「ま、実は今回の映画の感想ってのは重要じゃねぇんだけどな。私も何となく『前にも似た様なのやったな』って思ったし」
「じゃあ何故?」
「とぼけんじゃねぇよ。オメーとの付き合いは兄妹の中では私が一番長いんだぜ?」
「……」
「チョンユエ兄やリィン姉とだけ話して、私には何も無しってのは筋が通らないんじゃねぇか?」
「……」
「デカいもん抱えている癖に、周りには上手い事隠してやがるから……こうやって理由を付けて引っ張って来たって訳だ。それに妹ってのは兄や姉が思っている以上に、当人達の空気の変化ってのを感じ取ってんだ」
「─分かったよ」
ドクターとニェンは正面のスクリーンを見つめたままだ。
そこに映っている映像をちゃんと見ているのかは分からない。
「変に気を利かせるのも面倒くせぇし、手短に聞くぜドクター。オメーこの先どうするつもりだ? 『それ』だって何時までも抱えてらんねぇだろ」
「これに対する解決策は既に考えている。大人しくしている内に最大限に利用するつもりだ。その手段や道筋については……話すつもりは無い。ただ一番良い結果を出せる筈だと信じてはいる。とても褒められた手段では無いと思うがね」
「別に詳しくは聞きたかねぇよ。どうせ真っ当な方法じゃねぇだろうしな。けどまぁ、オメーが『人』してしっかり結論出したなら、それで良いと一応は思うぜ」
「……」
「なんなら、私が北の果てまで送ってやろうか?」
「─遠慮しておこう。移動の手段も考えてある」
「馬鹿正直に歩いて行こうとか考えてんだろ」
「……」
「なぁ、ドクター。オメーのやろうとしている事は、どうしてもそれしか選択肢がねぇのか? 私らが手を貸してやれば、解決出来たりするんじゃねぇか?」
「さっき私が決めたなら、それ良いと言っていなかったか?」
「茶化してんじゃねぇよ。こっちは真面目に聞いてんだ」
ニェンは身を乗り出し、コートの一部を掴んでドクターを自分の方に向けた。
その眼は一切の揺らぎも無く、ドクターの眼を射抜いている。
「……解決出来るかどうか、その一点だけで言えば解決出来ると言える。私も考えなかった訳では無いんだ」
「だったらよ」
「それでも君達の手を借りる事は出来ない。一度でも理の外にある力を借りてしまえば、人々はそれに頼りきりになってしまう。次に似た様な事が起きた時も、君達の手を借りたら良いと思う様になってしまうだろう。勿論私だけを特例として取り扱う事も同じだ。だから……君達の力を持って解決するのは駄目だ」
「オメーのやろうとしてる事だって、大差無いじゃねーか。私から見れば、他の連中はオメーに頼りすぎだって話になるぜ」
「これは私が責任を持ち、やらなければならない事だからだ。君達の手を借りる事とは……また違う話になるんだよ。後、君が思っているよりも彼らは十分に独力で生きている。私が手を貸している事の方が少ないよ」
「……そうかよ。オメーはやらないといけない事ばっかりで大変だな」
「役割や役目と言う点で言えば、本当は君も同じだろう? 君も私も、自分がやるべきと言う事をやっているに過ぎないんだ」
「……かもな」
コートを掴んでいた手を離すとニェンは座席に黙って座り直した。
ニェンを残しドクターは座席から立ち上がり、試写室の出口へと向かう。
その途中で思い出した様に座席に座ったままのニェンに声を掛ける。
「そうだニェン、見せて貰った君の映画。出演者達のドキュメンタリー部分は良かったよ、皆良い顔をしていた。内容はさておき、確かに君はある意味では優秀な監督なのかもしれないな」
「なんで若干疑問形なんだよ。断言したって良い所だろ? 今に見てろ。私の作った映画が、賞を総取りするのだって遠くない筈だ」
「君が本気でそれを狙うなら……そうだな……爆発や炎と言った部分から一度離れて、『人』に焦点を当てたドキュメンタリーが良いかもしれないね」
「あ~? オメー、それ無くしちまったら、私の映画じゃねぇだろ」
「さぁ、どうかな……ありがとう、ニェン。話せて良かった」
「おう、『また』な。後はシーの所にも行ってやれよ」
ドクターの方を見る事も無く、ニェンは手を振る。
やがて扉の閉まる音が聞こえ、試写室は静寂に包まれた。
「……」
ニェンは機材を操作し、ドクターが言っていたドキュメンタリー部分を再生する。
映画撮影中に気紛れで撮った、出演者達の休憩シーンや機材調整班の雑談場面。
画面の見せ方について相談する演出スタッフ、差し入れを持って来てくれた職員。
メガホンを握っている私をこっそり撮っていたサブカメラ担当。
爆発が施設の一部を吹き飛ばしたのを目撃し卒倒する監視員。
確かに映像に映る誰もが真剣で、笑って良い顔をしていた。
「……」
「最初は、ただの気晴らしだったんだ」
気が付けば、ただ楽しかった。
当初感じていた寂しさも随分と薄れたのだ。
誰の干渉も受けずに兄妹が集まり、話が出来る事が嬉しかった。
「……ずっとここで、こんな事してられたら良いんだけどな」
「……」
「はーあ、ドクターのやつ何も分かってねぇよな。何が『皆良い顔をしている』だ。当たりめーだろ。私の映画だぜ? 監督が優秀な映画ってのは、出演者も楽しくやれんだよ」
ニェンは積み上げてある機材の中から、手持ち型の映像撮影カメラを持ち上げる。
「爆発や炎じゃなくて、『人』に焦点を当てる……それもおもしれーかもな」
「よーし、『次』はロドス艦内をブラブラしてそこにいる連中でも撮ってみるか」
「ドクター、オメーも覚悟しとけよ。言い出した奴の事は絶対撮ってやるからな」
ご機嫌にそう呟くと、手持ち型の映像撮影カメラを大事そうに抱える。
『オメーだって大事な選択はしたことあるだろ? その結果は絶対に見届けろよ。見届けてやっと、円満ってもんさ』
「言いたい事や思う事が無いって訳でもねぇが……」
「やっぱり私は、お前ら人間の事が好きだぜ」
正面のスクリーンは映像の再生を終了し、試写室の暗闇にニェンの姿は沈んだ。
──────────────────────────────────────
深夜、『絵』と向き合う。
「帰って頂戴」
「……」
「何度も言った筈だけど、勝手に入って来ないで」
「ノックもしたし、扉も普通に開いたのだが?」
「……そんな筈ないでしょう。この私が扉の鍵を閉め忘れる訳ないわ」
「だろうな。鍵は閉まっていたよ」
「はぁ? それってどう言う……」
「どの様な鍵であれ、作り主の人となりを知っていれば開けるのは容易いものだ」
直後、ドクターの横を墨が凄まじい勢いで通過して行った。
「……シー、君は訪ね人を黒塗りにするのが挨拶なのか?」
「貴方、自分の家の中に無断侵入してきた相手を歓迎するわけ?」
「過去に、窓ガラスを突き破って入って来た暗殺者とお茶をした事はあるよ」
「何よそれ。はぁ……もう良いわ。今は好きにしなさい」
「それはありがたいね」
ドクターはそう言うとシーの傍まで歩みを進める。
ある程度の距離まで寄った時、椅子が突如として現れた。
どうするかを考えていると、ドクターの方を見る事も無くシーが言う。
「それ以上近づかない様に大人しくそこに座ってなさい。もし、一歩でもそこから動いたら強引に外に放り出すから」
「……分かったよ」
「ご丁寧に上から順番に話を聞いて回って、私に何を聞きたいの?」
「話を聞いてくれる気はあるのか」
「貴方をここから手早く放り出すには、貴方の目的をさっさと済ませるのが一番だって学習したのよ。ここから放り出しても、直ぐに入り口を見つけて戻って来るでしょうし、絵に閉じ込めても即座に見破って戻って来る……面倒でしょうがないのよ」
「無意識的な事かもしれないが、君の世界への扉は多少の法則性がある。それを君は理解しているだろうが、変える気も無いのだろう? だから分かってしまえば、君と会う事自体はそれ程難しい事では無いんだ。ロドス内での君の交友範囲は広くはないが、縁ある者とは話したりする事もある。彼らもまた法則性を理解している者達と言える。おっと……」
「……」
「君の絵の世界については……自分の世界が何であるかを正しく認識出来ているのなら、見破る事は非常に簡単だ。例え時間感覚を狂わされたとしても、夢の様な素晴らしい世界を見せられたとしても、求める結果は絵の中には存在しないんだ」
「当然でしょう。私の絵は夢や幻とは違うのよ。見破れないのは自分の根本や理想を忘れ、勝手に絵の中に魅せられて行く程度にしか己の芯が無いからに過ぎないわ」
そこまで言うとシーはちらりとドクターの方を見る。
ドクターはクヒツムを抱えながら、大人しく椅子に座っていた。
「……ちょっと、それ何処で捕まえて来たのよ」
「その辺を歩いていたのが、私の方に近づいて来たから抱えたんだ」
シーがさっと筆を動かせば、クヒツムは跡形も無く消え去った。
「別に消さなくても良かったのでは?」
「悪い影響が出たら嫌だもの。ただでさえ厄介なんだから、これ以上手間を増やさないで頂戴」
「抱えた位では何の影響も出ないと思うよ」
「それを決めるのは貴方じゃないの。今こうしてこの場に居られるのだって、私の情によるものだって理解しているかしら?」
「……私の配慮不足だった」
「……配慮、配慮ですって? 本当に配慮が出来ているなら、私の所に来ないでしょうね。貴方は自分の目的の為に、こうして押しかけてきているの。あまつさえ『申し訳なく思っています』と言った雰囲気を出せば、皆に許して貰えると思っているんでしょう? 他の誰も言ってくれないでしょうから、私が言ってやるわ。貴方のそう言う所、凄く嫌いなの」
「……」
シーは自分の領域を侵される事に嫌悪を抱くタイプである。
その彼女がここまで怒りにも似た感情を示すのは非常に珍しい事だった。
ドクターは彼女がこの様な態度を示す理由について理解している。
だからニェンに言われた後、迷った末にここに来たのだ。
「貴方は負けたくないから、認められないから全てをやり直すつもりなんでしょう? それがどれだけ歪で、無責任な事か理解している?」
「─本当に全てを理解しているとは言い切れない」
「私が絵を描いて、それを消すのとは文字通り次元が違うのよ。最もこんな方法で解決しようとしている時点で、貴方はとっくの昔に負けているんでしょうね」
「否定は出来ない。きっと私は何処かで道を誤ったのだろう。そしてそれに気が付くのが遅れてしまったが故に、こうして選択肢が無くなった状況に追い込まれてしまった。だがこのまま終わりを迎える事を……受け入れたくは無いんだ。巻き返しの一手が残されている以上、私はそれを実行しこの結末を回避したいと思っている」
「私達は所詮、画の中の登場人物に過ぎないわ。だったら、どんな終わりを迎えても良いじゃない」
「画の中の登場人物に過ぎないなら、最後まで抵抗する役持ちが居ても良い筈だ」
「……貴方それしか言えないの? 態を変え、言を変え、善人ぶって自分を誤魔化し続けている。また分かる様に、はっきりと言ってあげましょうか?」
シーは貫くような眼でドクターを見据える。
この時、ドクターは目の前の出不精で諦観的に振舞う存在に安心感を覚えた。
『シー、彼女もまた他と変わらず苛烈である』
彼女に対する、この印象はやはり間違っていなかったと。
「貴方……『誰かの為に、皆の為に』を言い訳にするのは、いい加減にやめなさい」
「……」
「そうやって、世界全部を人質にすれば自分の行いが正しい事だと思える訳? 貴方、自分が世界全てを握っていると思っているの? そうだったら大したものね。ドクター様は世界で一番自分が賢くて、世界で一番自分が未来を憂いているつもりだもの」
「─そんなつもりは」
「はいはい、これ以上は聞きたくないわ。出口は向こうよ、さっさと出て行って」
「シー、私は」
「聞きたくないって言ったでしょう」
「……私は人類だけでなく、君達の居場所も守りたいんだ」
「……」
「君達がこうして、誰とでも朝練をして様々な文化を学ぶ、詩を詠み誰かと賑やかに酒を飲む、農業を研究しつつも力を抜ける場と仲間、騒ぎを起こして誰かと一緒に映画を撮る、ささやかな交友関係を広げて芸術を楽しむ。君達がある程度腰を落ち着けて、生きる事の出来る場所を守りたいんだ」
ようやっと絞り出されたドクターの言葉。
シーはそれを聞いて呆気に取られる。
たかが人間の一個人が、我々の居場所を守りたい等と。
『この人間は何と愚かなのだろうか』、そう思わずにはいられなかった。
「貴方、本当に馬鹿ね。どうしようもない馬鹿よ。ニェンの映画と同じ位に」
「……」
「はぁ……出来損ないの絵は破り捨てるべきだわ。恥をかくだけだもの」
筆が一振りされると、全ての光景が消え去り、ただ白だけが残った。
絵の中にはシーと椅子に座ったドクターだけが残っている。
「─もうちょっとしたら、私が気にかけていた画家の画集が出るのよ。信頼出来る監督の映画だって公開される。押し付けられた絵巻……貴方達は漫画と呼んでいたかしら? それの新しいのが出るとも聞いたわ。きっとそのどれもが味わい深く、魅力的で好ましいものでしょうね。言葉では伝わり辛い程に……」
「……」
「花鳥風月、山川草木、梓匠輪輿、老若男女、好ましいと思ったもの。この世に生まれた全てが消え去ってしまう事に対して、私が出来る事は何も無いわ。変わらず絵の中に引き籠って見届けるだけよ」
「─シー」
「覚えておきなさい、ドクター。貴方のその素晴らしいお題目の為に、今日この日までに生まれた全てに泥を塗るって事を。……この先の終わりを迎えるまでに生まれたかもしれない、全ての権利と価値を殺して壊したと言う事をね」
「……本当にすまない」
「やっと素直に言えたじゃない。どいつもこいつも貴方に甘過ぎるわ」
消え入りそうな程の声で絞り出された謝罪の言葉。
ドクターが指揮官として『負けを認められない』のも本当だ。
同じくドクターが導く者として『居場所を守りたい』と言うのも本当だ。
酷く個人的な自己と献身的で自己満足な願望は両立する。
シーはドクターからどちらも聞き出せた事に満足した。
他者依存か、自己基準か。
前者だったなら許す事は無かっただろう。
筆が動き、ドクターの目の前に扉が現れる。
扉に隠れ、シーの姿は見る事が出来ず声だけが聞こえる。
「もう話す事は何も無いわ。今度こそ本当に出て行って」
「『次』ここに来る時は、君の気に入る物を持って来よう」
「はいはい、勝手にしなさい。私が気に入るかどうかは貴方の審美眼次第ね。それとさっき話した作品達が無くなっていたなら、貴方の事を許さないわ。二度と私の前に顔を出せないと思いなさい」
「……約束しよう」
ドクターは扉を開けて出て行った。
白い世界にシーだけが残っている。
「……」
「……画集に映画に漫画。これでも結構楽しみにしていたのね」
「はぁ……嫌になるわ。多少の情はあるとは言え、何で私がこんな事しないといけないのよ」
「人間と違うとは言え、根本は同じと言う事なのかしら」
『夢は人生の如くして、絵巻に描きつくるものなり』
「……ああもう、結局全部描き直しじゃない。本当に……心底嫌になるわ」
シーの姿は白い世界に溶けて消えた。
──────────────────────────────────────
激しい吹雪に見舞われた日、ドクターは静かにロドスから姿を消した。
自分が果たすべきと信じる願いと使命を抱えて。
ドクターがロドスを抜け出した暫く後、シュウは執務室の扉を開けた。
そして彼女は雪の大地を踏みしめる、最後の問いを抱えて。
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ドクターは『門』から離れた所にある、前哨拠点に向かうロドスの輸送車両に乗っていた。元々は単独かつ、無理矢理徒歩で向かう予定だったのだが、ゲート付近でロドス職員に見つかってしまった。丁度、前哨基地に物資を届ける所だった言う事で、そこまで乗せて貰う事にしたのだ。『門』付近にあった調査拠点はあの一件以降引き払われており、今回向かう前哨拠点こそが最も近い場所になる。前哨拠点から目的の『門』まではかなりの距離があるのだが、ドクターはその前哨拠点から単独徒歩で向かうつもりでいた。
「ドクター、寒くないですか?」
「大丈夫だ。何も問題は無いよ」
「今日は特に雪が酷いですからね。風も強いし前が見えませんよ。ナビシステム様様ですねぇ」
「前哨基地の皆には苦労をかけるな」
「あんな事があった以上は仕方が無いですよ。訳の分からない物の近くに、ずっと居るよりかは良いってもんです。観測隊の話によればあれ以降、時々不気味に発光したり音が鳴ったりしてるらしいじゃないですか」
「……私も報告書で確認しているよ。結局原因は分からずじまいだが」
「崩壊体も集まってるらしいですし……兎に角、嫌な感じですよ。やっぱり、調査拠点を引き払ったのは正解だったと思いますね」
「あの場所を調査するには、もっと時間と協力するパートナーが必要だったのかもしれないな」
「そうですねぇ、正直あれはロドス単独の手に余る代物な気がします。あ、灯りが見えてきました。もう直ぐ基地に着きますよ」
「……」
前哨基地の方では、ロドス職員が未知の事象や対象に対して調査を続けている。サーミにて遭遇する出来事は不可解かつ、重度の障害を引き起こす可能性が非常に高い。故にここで働いているロドス職員は、常にサーミの危険に晒されているとも言える。しかし彼らは決して折れる事なく、この不気味な雪の大地の調査を懸命に続けていた。ドクターは基地に到着した時点で車両を降りようとしたのだが、ロドス職員に押しとどめられ降りる事が出来ないままロドスへの帰路に着こうとしている。
「さてと……行きますよ、ドクター」
「いや、私は……」
「そう言えばこの車両、以前は調査拠点への物資運搬も行っていたんですよね。だからナビ情報に、あの『門』も登録されているんですよ」
「……」
「不具合か何か知らないですけど、ナビシステムはそっちへの案内をしていますね。ナビシステムが示すなら仕方がない……送って行きますよ」
「……何故」
「実を言うと、随分前にドクターをロドス内から出すなって医療部から通達が来てたんです。だからドクターがゲート付近でこそこそしていたので、声を掛けました。何かロドスの外であそこでやりたい事があるんでしょう?」
「君はそれで良いのか?」
「覚えてないかもしれないですけど、ドクターは命の恩人ですからね。まぁこれが、恩返しって事で」
「……すまない」
「こう言う時は素直に感謝の言葉の方が良いですね」
「ありがとう」
「どーいたしまして」
暗く先の見えない森の中を車両が進む。
止む事の無い雪と吹きすさぶ風。
進めば進む程に現れる崩壊体。
それらは人の恐怖心を煽るには十分過ぎるものだった。
「君は怖くないのか?」
「馬鹿言わないで下さいよ。滅茶苦茶怖いです、怖いに決まってます。正直今すぐ帰りたいです」
「……」
「ドクター、何も言わないで下さいよ。今『だったら、帰ると良い』とか何か言われたら心折れるかもしれないので。既に崩壊体とは言え、人を何度も車両で撥ねてるってだけでも心にくるものがありますからね……」
「何故君はこうまで手伝ってくれるんだ?」
「……ドクターって、時々人の話を聞かないですよね」
「こうなってしまったら、誰でも同じように問うだろう」
「……ドクターが何をしようとしているのかは知りません。聞いた所で自分には詳しく理解できないでしょうしね」
「……理解の前に説明が難しいな」
「でもドクターやろうとしている事って、結局誰かがやらないといけない事なんでしょう? それが偶々ドクターしかやれる人が居ないってだけで。だったら、自分達だってやるしかないじゃないですか。やるって決めた人の事を支えてあげるのが、その他の人達がしてあげられる唯一の事でしょう?」
「……」
「今更自分が言うのもあれですけど……きっと……皆、もっと相談して欲しかったと思いますよ。一人でこそこそ何かをやろうとする前に、相談して頼って欲しかったと思います。そりゃ自分達は、ドクターに比べれば大した事は出来ないですけど……少しも頼って貰えないってのは寂しいじゃないですか」
「─君の言う通りかもしれないな」
「今度はこんな事になる前に、しっかりと周りに助けてを求めて下さいよ。ドクターが自分達の事を助けてくれる様に、自分達だってドクターの事を助けたいって思ってますから。ほら皆、ロドスって一つのチームですし」
「……」
「ドクター? 大丈夫ですか?」
「─あぁ、大丈夫だ」
ドクターはこの時改めて、今回の敗北を受け入れられないと思った。
自分が彼らを助けたいと思っている時、また彼らも自分を助けたいと思っている。
彼らの未来を、悪魔に敗北する言う形で失う訳にはいかないのだ。
しかしその理想の為に、今回の未来を終わらせるのもまたドクターだった。
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あれから崩壊体の群れに遭遇し、ドクターはロドス職員によって車両から放り出された。彼は崩壊体の注意を引き付けるべく、無理を承知で群れの中に突っ込んでいったのだ。崩壊体を撥ね飛ばし、大きな音を出しながら森の奥へと走り去る車両を見送った後、ドクターは隠れていた場所から歩き出し更に北を目指している。長い間歩き続けているにも関わらず、不思議と寒さを感じる事は無く、更にはこの極悪環境の中で疲労を感じる事も無かった。吹き付ける雪と風の中、まるで向かう場所が分かっているかの様に、一切の道具に頼る事無く『門』を目指して歩き続けている。
『ドクター、自分が送れるのはここまでみたいです。あいつらの注意はこっちで引きつけます。あいつらが居なくなったら進んで下さい。こっちの事は何も気にしないで、ドクターはやるべきと思った事をやって下さい。大丈夫、きっと上手く行きますよ。皆ドクターの事を信じていますから』
雪を踏みしめながらドクターは彼がどうなったのかを考えた。
(……彼は無事だろうか)
それが限りなく不可能である事を理解している。
崩壊体の群れに突っ込み、更に案内も無い森の中に入るのは自殺行為と変わらない。
自分を降ろし声を掛けてきてた彼は震えていた。
きっと怖かったに違いない、逃げ出したかったに違いない。
それでも彼は果たすべき事と信じ、前に進んで行ったのだ。
こうして改めてドクターは自身がやろうとしている事の重さを認識する。
ドクターはサーミの雪の大地を歩いている。一度も道を間違える事無く進み続け、時に崩壊体と遭遇しながら着実に目的地に近づいている。近づけば近づく程に、自身の中の悪魔が活発になるのを感じた。既に多くの崩壊体にとって同類と認識されているのか、どの個体に遭遇しても何の反応を示す事も無い。棒立ちの崩壊体の横を通り過ぎ、時には崩壊体の群れに交じって歩く。ただただ前へと進んで行く。森を抜け川を渡り、何があろうと一度も歩みを止める事の無いドクターの姿は、ある意味で崩壊体とよく似ている。遂に本人は気が付く事は無かったが、ドクターの歩いた後にはうっすらと黒い靄が残されていた。
「……着いた」
遂にドクターは『門』へと辿り着いた。
中途半端に復元された状態は変わらず、不気味に雪の中に存在している。
『門』の周りには紫色の不気味な花が数多く咲いていた。
黒と白の雪が舞い、人の手に似た何かが生えている。
遠くの空には混沌とした雲の様な物体が忙しく移動しているのが見える。
ドクターは躊躇う事無く門の起動準備を行う。端末に残された情報を繋ぎ合わせ、向かうべき場所の扉を開くのだ。そして同時に向こうから大量の悪魔がやって来る。正しく認識出来ない悪魔達と入れ違う形で、ドクターの目的が達成される予定だった。計画とも作戦とも言えない、もはや捨て身とも言える選択に全てがかかっている。悪魔達がシーボーンの様に統一的思考の持ち主でない事は、既に自身の身で証明済みだった。だからこそ、この禁じ手は有効な手段となり得るのだ。この世界で自分は間違いなく負けた。しかし、全てに誓って『次』は負ける事は無い。
全ての設定が終わり、あとは『門』の完全な起動を待つだけ。
ドクターは近くの段差に座り、その時を待つ。
時間感覚は既に失われているが、座り込んでから暫く後。
雪の向こうから、誰かがやってくるのが見えた。
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「やぁ、シュウ。やはり君が来たか」
「……やっぱり、私が追いかけてくる事を分かっていたのね」
「正直に言うと、追いかけてくるかどうかは半々だと思っていた」
「私もどうするか悩んだわ。けど、ただ黙って行かせる訳にはいかないと思ったの」
「……君の問いにはまだ答えていなかったからね」
「ここへ来る途中、森の中でロドスのスタッフと会ったわ」
その言葉にドクターは思わず立ち上がった。
「彼は……無事だったのか?」
「─あなたの行き先を示した後、『人』として眠ったわ」
「……」
「もう既に崩壊体と何ら変わりなかったでしょうに……私の姿を見るなりこの方向を指さしたわ。彼はあなたの事を最後まで心配してたのよ。それこそ、私が眠らせるその瞬間まで」
「私は気が付かなかっただけで、本当は誰かに助けられてばかりだ」
再び座り込むドクターの横に、シュウも腰を下ろした。
そうしてポツリと話し始める。
「あなた達みたいな大きな願いを持つ人って、周りからどれだけ求められているか気づけないのかもしれないわね。あの人もあなたも、全ての人に満たされた杯を願わずにはいられない。その可能性があるならば、大地の果てにだって……世界の理の向こうにだって踏み出せてしまう」
「……」
「求めるものが大き過ぎるから、足を止められない。夢が大き過ぎるから、諦める事を知らない。与えるものが大き過ぎるから、周りもその影響を受けて行く。先行く人を見送るだけでなく、先行く人を支えられるようになりたい。果てない夢を見る人だから、共にその夢を見たい。そうやって多くの人々に影響を与えて行くのよ。たった一つの小さな舟は当人達が知らない間に、弘誓の船に変わっているの」
「今の有様では、私に夢を語る事は出来ない。今から行おうとしている事も含めれば尚更だ」
「たった一度の過ちが、その人の全ての評になる訳では無いでしょう? どれ程の名君だろうと、どれ程の聖人だろうと無罪の人なんていないわ。清廉潔白な人物だって、知っている範囲や見られている範囲の評に過ぎないのよ」
「─シュウ、君は怒っていないのか?」
ドクターの言葉に対し、シュウは呆れた表情を浮かべる。
「怒っているに決まっているでしょう?」
「……」
「でもこれはあなたに対してと言う事でもないの……私は結局あなたを止める事なんて出来はしない。私に出来るのは精々、無茶苦茶な事をしようとする一人の人間と話をして……それを見守る事だけよ」
「君の力をもってすれば、私を止める事だって容易に出来るだろうに」
「……『止める』事は出来ても『留める』事は出来ないわ。この理の外側にまで足を踏み出し、その全てを利用してでも結果を覆そうとするあなたは……とっくに私達の手の届く所には居ないのよ」
「─そうだな。ここに来た時点で戻れる線を踏み越えてしまっている」
「それに私だって二度も墓守になるつもりも無いの。長い時の中であの経験は一度で十分よ」
一度目の経験と言うのは、あの大荒城の騒動のきっかけとなった話に繋がるのだろう。その事についてドクターは詳しく聞こうとした事は一度も無かった。かの人物との関りは理の外にあった存在を、人としてここまで育てあげたのだ。当時の交流はシュウに大きな変化と方向性を与え、彼女の中で今なお枯れる事なく育っている。だからこそ、歳の代理人の中でシュウは『老い』に似た症状が発生する程に、最も人間らしいと言えた。
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シュウは雪の降る暗い雲を見ながら白い息を吐き出した。
「やっぱり長兄と長姉はともかくとして、妹二人もあなたを止めなかったのね」
「君はチョンユエとリィンが、私を止めないと分かっていたのか? ニェンとシーには二人とは別の事を言われたよ。特にシーには厳しく怒られた。私のやろうとしている事は、世界の全てに泥を塗り、全てを殺し壊す行いだと」
「えぇ。チョンユエ兄さんとリィン姉さんは、一時的に立場ある者として勤めた事があるから……あなたの背負う物に対する覚悟や意味が理解出来れば何も言わないでしょうね。詳しくは聞かないけど二人との問答は、あなたの心の行く道とその隙間についてだったでしょう?」
「その通りだ。彼らは私の行く道を押してくれた」
「ニェンはとても寂しがり屋だから、きっと自分が力を貸す提案をしたんじゃない? あの子はあなた達の事を、誰よりも気にかけているもの。シーがそんな事を言うなんて、私が会っていない間に色々な経験をしたようね。人付き合いは好まず馴れ合いを嫌い、避けてきたあの子が外の出来事について問うなんて……あの子を変えたのがどんな旅だったのか、何時の日か私に話して欲しいものね」
「……ニェンとシー、彼女達の大事にしている物、楽しみにしていた事を潰してしまった事はどうあっても許されないだろう。以前偉そうに『生き方』について述べたが、今の私にはそんな事を語る資格すらない」
「……ドクター、現在の状況になった事の責任はあなた一人だけのものでもないわ。本当に様々な事が積み重なって今を迎えているのよ」
「だが、最後にこの様な手段を選んだのは間違いなく私なんだよ」
ドクターもシュウも既にこの問答自体に大した意味が無い事は理解している。
既にドクターは理の外へと踏み出し、残る時間を潰しているに過ぎないからだ。
勿論シュウも自身が述べた通り、ドクターを止める気などありはしない。
彼女はただ見送りに来ただけなのだ。
「だから私はドクターを止めなかった。あなたがもしも全てを人質にして、彼らの為にやると言っていたなら……あなたはここに居ないわ」
「シーにも似た様な事を言われたよ。『誰かの為に、皆の為に』を言い訳にするのは、いい加減にやめろとね」
「誰かを導く立場にあったあなたが、自分本位に動くと言うのは難しかったとは思うわ」
「だが、私自身がそうやって言い訳をしていた事も事実だった。だからシーには感謝しているよ」
全ての命を悪魔に敗北するという形で終わらせたくない。
しかしそれは、皆の為と言う高尚なものでは無い。
結果的にはそうなのだが、起点となるのはドクター個人の自己だ。
たった一人の負けたくないという我儘。
その我儘を言い出したのが、ずっと導く立場の者だったからこそ。
彼らはその人間の選択を咎める事は無い。
「あなたはそうやって、もう少し我儘になった方が良いと思うわ」
「その方が良いと?」
「えぇ、きっとね。我儘になって、誰かに泣き言を言って、誰かに怒られる。そう言った事が必要よ。だってあなたは『普通の人』だもの」
「抱えている物を一度手放して、もっと『人』として生きてみると言う事だろうか?」
「そうねぇ……結局、個人で解決出来る事なんて殆ど無い。常に誰かと争ったり助け合ったり……そんな事を繰り返して前に進む。果てのない夢を見て、誰かと共有して、出来る事からやって行く……人ってそういう生き物でしょう?」
「君達の様な存在からそう言われるのならば、きっとそうなのだろうね」
「……」
「シュウ?」
ドクターのその言葉に対して、シュウは少しだけ考える様子を見せた。
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「あの人もあなたも私を上に位置付けて話すけれど、私からすれば……あなた達の方が遥か遠く届かない程上に居るのよ。単純な力や能力と言った領域ではない、人としての意志や思いの強さと呼べるもの。だから私達には眩しく尊いものに見える」
そこまで言葉を繋ぎ、シュウは自分の手を見た。
『神様はだいたい退屈で寂しくなっかたら俗世に降りてきていたわよ』
『もし違うのなら、どうしてあなたはわざわざ人に姿を変えて、ここにやってきたの?』
「歳が十二に分かたれた時、どうして私達が人の姿を選んだのか。何故、『我は誰か』と己に問うたのか。何故、人の中で生きて行く事を選んだのか。今ならより正しい形で分かる気がするわ」
「─答えを聞いても?」
シュウはドクターの方を見ると、少しばかり考えた後に悪戯っぽく笑う。
「そうねぇ……あなたが今度田植えをして、最後までやり遂げる事が出来たなら……教えてあげようかしらね」
シュウの答えにドクターは毒気を抜かれる様に脱力した後に笑う。
ドクターが笑ったのは随分と久し振りの事だ。
「ははは。それは答えを聞き出すのは随分と難しそうだ」
「チョンユエ兄さんに鍛えて貰う所から始めないといけないわね」
「実を言うと彼とはもうその約束はしてあるんだ。私でも出来る様な内容を考えてくれるとね」
「うんうん、心身の健康とは規則正しい生活からだもの。あなたはずっと気を張り詰め過ぎなのよ。時には緩め、時には新しく張り直す事も必要だわ」
「─そうかもしれないな。時に酒を飲み、映画を観て、芸術に触れる……そう言う事が必要だったのかもしれない」
「なんだかんだと言って皆、あなたがやり遂げられると信じているのね。チョンユエ兄さんにリィン姉さん、ニェンとシー……そして私。問いを投げて、覚悟を問い、責任を迫っても、それぞれ『次』の約束を取り付けているのだもの」
「……君達に相談して良かった」
「重要な選択をする前に、あなたはもっと周りの人と話すべきね。こんなにも沢山、あなたの事を思ってくれる人達がいるのだから……特に今は近くにいないけれど最も大事に思っている人にはね」
「君の説教は身に染みるよ」
「まだまだ、あなたは言いたい事はこんなものじゃないわよ。もしかしてドクター……もっと聞きたいの?」
「いいや、遠慮しておこう」
「残念ね」
サーミの雪の大地、黒い雪が降り根の無い花が咲く『門』のすぐ傍。
人とは異なる存在と既に人から外れた人間が肩を並べて笑った。
終わりが迫った世界でも人は笑う事が出来るのだ。
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「さて……名残惜しいが、シュウ。そろそろ時間だ」
「行くのね、ドクター」
「君が私に言った事は必ず忘れない。文字通り、『次』は無いのだから」
「出来る事なら、今回も無い方が良いわよ」
「それについては本当に、すまないと思っている。だが、これしかもうチャンスが無い」
「……」
「君には嫌な役目を押し付けてしまったな」
沈黙していた巨大な門が鈍い光を放つ。
不気味な音を立てて目覚めの時を、終わりの時を告げ始める。
空洞だった円の中に、濁った水の様な扉が現れる。
ドクターはそれを黙って見ている。
この未知の領域に飛び込むと言うのは中々勇気がいる。
本当なら一人で済ませるつもりだったと言えば、それはきっと強がりだ。
誰にも知られず、密かに死を迎え、悪魔の門を潜ると言うのは恐ろしい。
だが、ここには優しい見届け人が居る。
彼女に嫌な役目を押し付けてしまった事を心苦しく思っている。
彼女を含め、私が殺すこの世界の全ての人々の為に私は失敗する訳にはいかない。
ドクターの左目には、既に崩壊体特有の光が宿っている。
それは門の起動に合わせ、どんどんと大きくなりやがて溢れ出す。
そんなドクターをシュウは祭具を握りしめながら見ていた。
「そうだ、君に前から言いたかった事があったんだ」
「何かしら?」
「十二番の内、六番目のと言うのは姉では無く、妹だと思うよ」
「……ドクター、今言う事がそれなの?」
「今しか、言う時が無いさ」
「はぁ……あなたと言う人は、本当にどうしようもないわね。そんな所こそが、あなたがあなたである証明なのかも」
「さようなら、シュウ。また会おう」
「さようなら、ドクター。また会いましょう」
シュウは祭具を掲げ、ドクターに向かって言葉を放つ。
「あなたを土に植えるわ。生まれ変わりなさい」
次の瞬間、ドクターの姿は跡形も無く消える。
立っていた場所には、本来何処にでも生えている野花がぽつんと咲いていた。
その野花は過酷な雪風により、今にも吹き飛ばされそうな程に弱々しく見える。
シュウはそっと土から掬い上げると、持って来ていた小さな木箱に入れた。
葉が片方欠けた野花をそっと撫でると、蓋を固く閉じる。
これは棺だ。
ロドスのドクターは、このサーミの雪の大地で人として死んだ。
その事実を知る者はシュウだけで、この先誰も知る事は無いだろう。
この大地の物語は、今回はここで終わりを迎えるのだから。
不気味な音を立て、うっすらと光り出した門の前にシュウは立つ。
やがて門は完全な目覚めを迎え、異界の扉が開く。
濁った水の様に揺れ動く扉の中に、シュウは木箱をそっと入れる。
希望の箱舟は魂を乗せ、既に旅立った。
それが叶うかどうかを見届ける事は出来ない。
刻を戻れ、命よ還れ。
次は間違わない様に、次は全てを背負わなくていい様に。
願わくば『普通の人間』に幸多からん事を。
「そして、この大地に生きる人々に、良い時節が巡って来ますように」
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異界の扉から、黒い煙が溢れだす。
サーミの雪が真っ黒に染まり、根の無い花が咲き誇る。
そして異形の悪魔がテラの大地にやって来る。
数え切れない程の悪魔達、正しく認識出来ない怪物達。
これ■り■は悪■との■■■争、■に繋■る■■りな■■い。
<通信途絶>
<通信■■>
<通■途絶>
<■信■絶>
<■信途■>
<■■■■>
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<通信途絶>
シミュレーションエラー:ロドスは他の勢力と密接な協力関係を築けなかった
シミュレーションエラー:ロドスは門の起動を急いでしまった
シミュレーションエラー:ドクターは悪魔と接触してしまった
シミュレーションエラー:ドクターは勝ち筋を見つけ出せなかった
シミュレーションエラー:人々は勝利の為の分岐点に到達出来ていなかった
シミュレーションエラー:人々は必要な仲間に会う事が出来ていなかった
■■■■■■■■■■■■:ドクターは逆転の禁じ手を見つけた
■■■■■■■■■■■■:上位者達はその手段を咎めなかった
<探索失敗>
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<探索開始>
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サーミの雪の大地、その奥で巨大な謎の建造物が鎮座している。その巨大な建造物の付近に、ロドスのマークを付けた調査車両や研究スタッフが集まって作業を続けていたる。更にはクルビアマイレンダー探索協会、ライン生命科学考察課、タワーヒル・バイオテック北方研究所、ヴォルヴォート・コシンスキー極限環境設備試験部、ビーチブレラ大地科学考察所等々……錚々たる顔ぶれが勢揃いしていた。彼らはこのサーミの大地を調査する上での共同探索プロジェクトを立ち上げ、各々の得意分野をもって取り組んでいる。対外的にも内部的にも癖が強い集団ではあったが、未知への探求と言う一点において同じ方向を向いており、更にはロドスが各陣営間の調停役として上手くコントロールしていた。
ロドスは各陣営との調停役として十分以上に機能しており、大きな争いも抜け駆けじみたトラブルも発生する事無く、足並みをそろえてここまでやって来た。巨大な謎の建造物に対して、一刻も早く調査を行いたいと言う主張も当然あったが、サーミの環境自体が安定しない事から、まずは安全な調査環境の構築を優先するのが決定される。各陣営の最先端技術を集めた調査拠点の建設はゆっくりであるが、着実に進行しており既に長い間共に働き続けた彼らは一つのチームとして纏まりつつある。好奇心旺盛なスタッフ達が日夜巨大な謎の建造物の下で記念撮影を行い、真面目なスタッフに怒鳴り散らされる光景は、もはや見慣れた光景となっていた。
「これ本当になんなんだろうな」
「聞く所によると門らしいけど、何の門なんだ?」
「それを確かめる為に、こうして調査拠点を作ってる訳だろ」
「ここに来るまでに色々とあったけど、大体無事に済んで良かったよな」
「未知の建造物ってのは、大体古い骨董品みたいな扱いの筈だが……こいつはどちらかと言うと、近代技術に近いって感じがするよな。だから妙な不気味さを感じるよ」
「近代って言うか、もっと先進的じゃないか? 『時代錯誤遺物』ってやつかもしれん」
「あー、そっち系か。あり得る話だ。ともあれ……」
「おーい君達、ティフォンさん見なかったか?」
「さっき向こうのテントにアルゲスさんと一緒いるのを見たぞ」
「助かる。ありがとう」
礼を言い走りさるスタッフの向こうで、多くの人々が忙しく活動している。
「実を言うと、今回の探索不安しかなかったんだよね」
「分かるよ。参加している顔ぶれの癖が強過ぎる」
「まぁでも、こうして来たら分かったんだ。彼ら色々と飛んでいる所はあるけど、自分達の好きな物や分野に対して全力で取り組んでいるだけだってね」
「未知への解明に対して貪欲と言うか、あれだけのエネルギー何処から出て来るんだろうな」
「討論で顔を合わす度に罵り合ってたのに、今じゃ肩組んで記念撮影してる位だ。本質的には同じなんだろうさ」
「違いない」
「そこ、サンタラさんとマゼランさんが戻ってきたら、作業再開だからな」
「了解。近くの集落に行ってる筈だから、そろそろ戻って来る頃かね」
「そう言えばドクターは?」
「こっちがある程度落ち着いた時点で先にロドスに戻ってるよ」
「なんだ、そうだったのか。ここの調査拠点が本格稼働する頃にはまた来るのかな?」
「だと思うよ。確認したい事も沢山有るだろうしな」
そう話す修復スタッフ達の頭上で、門は完全に沈黙している。
修復作業が進み、動作試験中に幾人かのスタッフが巻き込まれる事件が発生し、
『砂漠の大地で諸王の王とハガンの王が激突するのを見た!!』等と
戻って来たスタッフ達が口を揃えて言い、騒ぎになるのはまだ随分と先の事である。
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サーミの調査拠点建設と同時刻、ロドス本艦の方では炎国北部の大荒城の騒動の報告を受けそれの事後対応に追われていた。ロドスとしては直接かかわる事は無かったが、今回の騒動が起きるきっかけとなった経緯、歳の代理人達の動向について詳しく知っておく必要があった。それが北の大地に通ずる内容であれば尚の事である。不確定な要素が多いからこそ、本人達に話を聞くべく出迎えの準備が進められていた。やがてニェンに連れられてロドスにやって来た歳の代理人は、騒動の事やこれからの事を相談するべく執務室でドクターと対面していた。
「初めまして、ドクター。ニェンからすでに聞いていると思うけど、私はシュウよ。長兄と長姉に、妹二人までここにいるから、まるで家に戻ったみたい。大したものね、司歳台のあの男の子、まだあなたたちの……あら?」
シュウは何かに気が付くと、驚いた様に言葉を切った。
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「……あなたのその『花』、一体いつ埋められた種なのかしら」
現在のテラの大地には、何処にでもある野花が何処にでも咲いている。
【何処にでもある野花が】 終
別サイト(Pixiv)に投稿していたもの
友人からこっち向きじゃないかと言われたのでお試しです。