どうか、君の逝く先が極楽浄土でありますように 作:ブァッファイ小五郎
漂白されたような純白の壁が続く廊下には、ツンとした消毒液の匂いと、等間隔に配置された蛍光灯の微かな稼働音だけが漂っていた。命の灯火が明滅するこの場所において、静寂は時として重苦しいほどの緊張感を孕む。だが、その一角だけは、まるで春の陽だまりのような温かな空気に包まれていた。
「ねえ、お願い。少しだけだから」
ナースステーションのカウンターにちょこんと顎を乗せ、上目遣いで懇願する一人の子供がいた。年の頃で言えば、中学生の半ばか、あるいはもう少し下に見えるかもしれない。
しかし、その顔立ちは「可愛らしい」という言葉の定義をそのまま具現化したかのように整いすぎていた。大きな瞳は純真そのもので、色素の薄い柔らかな髪が窓からの光を透かして輝いている。何より特筆すべきは、その声だった。何の変哲もない、ただの子供の喋り方。だが、その声音には、聴く者の心を根底から撫で下ろし、一切の不安や苛立ちを霧散させてしまうような、不思議な波動が宿っていた。
「駄目よ。いくらあなたでも、一人で外出なんて許可できないわ。先生に怒られちゃうもの」
中堅の看護師は、必死に厳しい表情を作ろうとしていた。職務上の責任感と、目の前の存在が放つ抗いがたい魅力との間で、彼女の理性がギリギリのせめぎ合いを見せている。
「遠くには行かないよ? すぐ裏の山を散歩するだけ。最近、ずっとベッドの上だったから、足が萎えちゃいそうなんだ」
子供は少しだけ首を傾げ、困ったように眉尻を下げた。その瞬間の破壊力たるや、並の人間であれば即座に財布の紐を解いて全財産を差し出しかねないほどだった。無意識のうちに放出されているその愛らしさは、もはや一種の暴力ですらある。
「……うぅ」
看護師の表情が崩れた。鉄壁を誇ったはずの彼女の決意は、いとも容易く決壊した。
「……わ、わかったわ。でも、本当に少しだけよ? 危ないことには絶対に近づかないこと。それから、もし何かあったら、すぐに大きな声で私を呼ぶこと。約束できる?」
「うん! 約束する!」
パァッと花が咲いたような笑顔を見せた子供に対し、看護師はたまらなくなり、カウンター越しに身を乗り出して彼を力強く、キツくハグした。細く、折れてしまいそうなほど華奢な身体を抱きしめながら、彼女は「気をつけてね」と何度も念を押した。
「ありがとう! 行ってくるね!」
軽やかな足取りで病院のエントランスへと向かうその後ろ姿を見送りながら、看護師は小さくため息をつき、ひどく満たされたような、それでいてどこか胸を締め付けられるような不思議な感情に浸っていた。
自動ドアを抜け、外の空気を胸いっぱいに吸い込んだ彼は、病院の裏手にそびえる鬱蒼とした山へと視線を向けた。その瞳の奥には、先ほどまでの無邪気な子供のそれとは異なる、底知れぬ深淵が垣間見えた。
「……なんだか、すごく面白いことが起こりそうな予感」
楽しそうに、歌うようにそう呟くと、彼は鼻歌交じりに山の中へと足を踏み入れた。足裏で枯れ葉が擦れる音が、微かな鼓動のように静かな森に響いていった。
◆◆◆
一方、その山の中腹では、常人の理解を遥かに超えた次元の死闘——いや、一方的な蹂躙が繰り広げられていた。
「どうした? さっきまでの勢いは」
夜の闇を切り裂くように、軽薄な声が響く。声の主は、黒いアイマスクで目を覆い、高身長に細身の黒い服を纏った男——現代最強の呪術師、五条悟であった。彼の口元には、余裕という言葉すら生ぬるい、絶対的な強者としての笑みが浮かんでいる。
対峙するのは、頭頂部が富士山のような形状をした異形の特級呪霊、漏瑚。その一つ目は血走っており、頭頂部からは怒りに呼応するように激しい蒸気と熱が噴き出していた。
「舐めるなよ、人間がァ!」
漏瑚が咆哮と共に腕を振るうと、周囲の空間が爆発的に発火した。木々は一瞬にして炭化し、岩はドロドロに溶け出す。大地を焦がす圧倒的な熱量が五条へと襲い掛かる。しかし、五条は避けるそぶりすら見せない。炎の津波は五条の身体に触れる寸前で、見えない壁に阻まれたかのようにピタリと停止し、両脇へと割れていった。彼の持つ「無下限呪術」により、五条に近づくものはすべて無限の距離を強いられ、永遠に到達することはできないのだ。
「熱い熱い。まぁでも、当たらないんじゃ意味ないよね」
五条は右手の指先を漏瑚へと向けた。指先に収束していくのは、反転術式によって生み出された正のエネルギー。それを無下限呪術に流し込むことで発現する、極小の真空と反発の力。
『術式反転「赫」』
轟音と共に、赤い閃光が放たれた。それは単なる破壊の光ではない。空間そのものを弾き飛ばす圧倒的な反発力。漏瑚の身体は反応する間もなく、その力に真正面から弾き飛ばされた。
「グォアアアアッ!?」
凄まじい衝撃波が森を薙ぎ払い、何十本もの大木をへし折りながら、漏瑚の巨体は遥か後方へと吹き飛ばされた。そのまま放物線を描き、山裾にある巨大な湖の湖面へと激しく叩きつけられる。水柱が天高く舞い上がり、深夜の静寂に爆音が轟いた。
湖に沈んだ漏瑚は、全身の骨が砕けるような痛みに顔を歪めながらも、呪力によって強引に身体を再生させ、水面から飛び出した。
「クソッ、あの男……! どこへ行った!?」
荒い息を吐きながら辺りを見回す。視界に入るのは、波立つ湖面と、削り取られた森の残骸だけ。五条の姿はどこにもなかった。先程までの余裕ぶった態度からして、逃げるはずがない。上か、背後か――。漏瑚が警戒を最大まで引き上げたその時。
「ごめん、待った?」
すぐ背後から、ひどく場違いな、間延びした声が聞こえた。
漏瑚が驚愕と共に振り向くと、そこにはつい先程まで対峙していた五条悟が立っていた。しかし、驚くべきは彼が瞬時に移動してきたことではない。その小脇に、ジャージ姿の少年を抱えていたことだ。
少年――虎杖悠仁は、突然の状況変化に目を白黒させていた。つい数秒前まで、彼は呪術高専の地下室で映画鑑賞の修行をしていたはずだった。それが突然、目の前が歪んだかと思えば、夜の湖畔に立たされているのだ。
「え? な、なんだここ? 先生、ここどこ!?」
混乱する虎杖だったが、すぐに目の前に立つ異形の存在に気がついた。
「うおっ!? なんだアイツ! 頭富士山!頭富士山!!」
虎杖の率直すぎる感想に、漏瑚の顔面がピキリと引きつった。
「悠仁、見学の授業だよ。さっきまで高専にいたよね? 僕がちょっと連れてきたんだ」
五条は事も無げに言う。空間を跳躍して高専まで戻り、虎杖を拾ってから再び戦場へ帰還する。その間、わずか数秒。神業という他ない離れ業を、彼は散歩のついでであるかのようにこなしていた。
「自ら足手まといを連れてくるとは……愚かだな」
漏瑚はギリッと牙を鳴らしながら低く唸った。相手の不可解な行動は気に食わないが、足手まといがいるならそれを利用するまで。そう計算する漏瑚に対し、五条は心底おかしそうに笑った。
「大丈夫でしょ。だって君――弱いもん」
その一言は、漏瑚のプライドを粉々に打ち砕く最後の一撃だった。
「舐めるなよ小童がァァァ!!」
漏瑚の怒りが臨界点を突破した。頭頂部の火口から、これまでとは比較にならないほど濃密でドス黒い炎が噴出する。周囲の温度が急激に上昇し、湖の水が凄まじい勢いで蒸発し始めた。
「そのニヤケ面ごと、飲み込んでくれるわ!!」
その様子を見ていた虎杖は、背筋に氷柱を突き立てられたような悪寒を感じていた。これまで彼が戦ってきた呪霊――少年院で遭遇した特級呪霊ですら、今の目の前の存在と比べれば児戯に等しかった。次元が違う。これが、本物の呪いの頂点。恐怖で足が竦み、呼吸が浅くなる。
(ヤバい……本能が、ここから逃げろって叫んでる……!)
漏瑚は両手を合わせ、呪力の頂点とも言える奥義を発動させようとした。
『領域展――』
その言葉が紡がれようとした、まさにその瞬間だった。
「わあ、なんだかすごく熱いね。お祭りでもやってるの?」
その声は、爆音と炎が支配する戦場において、あまりにも場違いなほど澄み切っていた。
漏瑚の動きが、ピタリと止まった。
印を結ぼうとしていた両手は硬直している。
「……何?」
漏瑚が視線を向けた先。焼け焦げた大地の端に、一人の子供が立っていた。
病院で看護師と話していた、あの可愛らしい子供だった。
身の丈に合わない大きめのパーカーを羽織り、不思議そうに首を傾げている。
普段の漏瑚であれば、このような場違いな人間が迷い込んできたところで、気にも留めずに周囲ごと焼き殺していただろう。だが、今この瞬間、漏瑚の本能が警鐘を鳴らし、領域展開という最大の手札を止めてしまっていた。
(なんだ……? なんだ、この異常な呪力量は……!?)
漏瑚の一つ目が、信じられないものを見るように見開かれていた。
子供の細い身体から立ち上る呪力は、視認できるほど濃密であったが、その性質が全く理解できなかった。圧倒的な総量でありながら、呪霊が持つようなおぞましい「負の感情」を一切感じないのだ。むしろ、あまりにも澄み切っていて、底が見えない。
「……誰だ、貴様」
漏瑚は警戒を露わにし、低く唸った。
「僕? 僕はね、病院のムードメーカーの
蓮音と名乗った子供は、殺気立つ戦場にあって、お日様のような無邪気な笑顔を向けた。
その光景に、何も知らない虎杖が焦燥に駆られて叫んだ。
「おい、バカ! 危ねえぞ、早く逃げろ!! そいつはヤバい!!」
一般人が巻き込まれる。虎杖は飛び出そうと膝に力を込めたが、それを五条の手が制した。
「心配いらないかもよ、悠仁」
五条のアイマスク越しの「六眼」は、蓮音という存在の異常性を正確に捉えていた。呪力の流れ、肉体の構造、そして魂の形。そのどれもが、現代の呪術界の常識から逸脱している。
(……へえ。面白いね。あの呪力、ただの呪力じゃない。反転術式の正のエネルギーに極めて近いけど、もっと根源的な……言わば『肯定』の力か)
五条の口角が、興味深げに釣り上がる。
一方、漏瑚は迷っていた。この不気味な子供を前に、これ以上隙を見せるのは危険だと直感した。相手が何者であろうと、術式を発動される前に塵にする。それが最適解だ。
「気味の悪い小童だ……消えろ!!」
漏瑚は一瞬で蓮音の眼前にまで肉薄し、最大火力の炎をその小さな身体に叩き込んだ。
爆炎が巻き起こり、蓮音のいた場所は一瞬にして紅蓮の業火に包み込まれた。大地が融解し、煙が天高く立ち昇る。
「あっ……!!」
虎杖が絶望の声を上げた。どう見ても助かるはずのない直撃。子供が炭化する映像が脳裏をよぎる。
漏瑚は舌打ちをした。
(ただの人間か……拍子抜けだ。脅威に感じたわしの直感も鈍ったか。まあいい、さあ、今度こそ五条悟を……!)
再び五条へ向き直り、領域展開の印を結ぼうとした漏瑚の背後から。
「あー、びっくりした。死にかけたよー」
一切の緊迫感を欠いた、ひどく呑気な声が鼓膜を揺らした。
「……!?」
漏瑚は自身の耳を疑った。振り返った彼の視界に飛び込んできたのは、燃え盛る炎の中心で、無傷のまま立つ蓮音の姿だった。
だが、漏瑚を驚愕させたのはそれだけではない。
蓮音の身体の周囲——正確には、漏瑚の炎によって傷を負ったであろう箇所から、眩いほどに美しい光を放つ「蓮の花」が咲き誇っていたのだ。
金と白が混ざり合ったような、神々しい光の粒子を振り撒く蓮の花。それは、この凄惨な戦場において、不気味なほどに美しかった。花がハラリと散るごとに、光の粒子が蓮音の身体に吸い込まれていく。そして、傷一つ、火傷の痕一つない、完全な状態へと「回帰」していた。
「なっ……!?」
漏瑚は言葉を失った。反転術式による治癒ではない。細胞が再生する過程が全く見えなかったのだ。傷ついたという「事実」そのものが、蓮の花の開花と共に消し飛んだとしか思えない現象。
「『極楽浄土』——僕の術式。痛いのは嫌いだから、痛みを感じる前に治っちゃうんだよね」
蓮音はニコッと笑うと、一歩、漏瑚の方へと足を踏み出した。
「君、すごい熱だったね。お返しに、少しだけ触らせて?」
蓮音の白く小さな手が、漏瑚に向けてゆっくりと伸ばされる。
――その瞬間。
漏瑚の全身の細胞――呪いとしての本能が、かつてないほどの最大音量で警鐘を鳴らした。
【死】。
その手が自分に触れた瞬間、自分が「祓われる」のではない。自己という存在そのものが、圧倒的な「光」によって強制的に浄化され、消滅させられる。一滴の闇も許さない、暴力的なまでの純白のエネルギー。
「ヒッ……!!」
呪いである漏瑚の口から、情けない悲鳴が漏れた。彼は一切の躊躇なく、全力で後方へと跳躍した。数百メートルを一瞬で後退し、さらにその足で空を蹴り、森の奥深くへと逃走を図る。
「おい五条悟!! 今日のところは引いてやる! だが、次会った時は絶対にその首を取る!! そしてそこの小童! 貴様はいつか絶対に焼き殺してやるからな!!」
捨て台詞を残し、漏瑚の気配は夜の闇の彼方へと消え去った。
伸ばした手を宙に浮かせたまま、蓮音は「ありゃりゃ」と間の抜けた声を出し、ポリポリと頭を掻いた。
「逃げられちゃった。ちょっとだけ、残念だなあ」
その横顔は、本当にただの悪戯を失敗した子供のように無邪気だった。しかし、特級呪霊を「触れようとしただけで」恐怖させ、逃走させたという事実は、彼が規格外のバケモノであることを如実に物語っていた。
「……すっげえ」
一部始終を見ていた虎杖は、腰を抜かしたまま呟いた。五条先生が強いのは知っている。だが、あの圧倒的な強さを誇っていた火山頭のバケモノが、自分より小さな子供に触れられることを恐れて逃げ出したのだ。
「あははっ! 傑作! あの火山頭、尻尾巻いて逃げちゃったよ」
五条は腹を抱えて笑いながら、ゆっくりと蓮音に近づいた。その蒼い瞳は、アイマスクの下で鋭い観察の光を放っている。
「いやあ、助かったよ。君、名前は?」
「蓮音だよ! 病院から抜け出してきたの」
「蓮音くんね。さっきの術式、おかしいねぇ。僕の六眼でも、一瞬何が起きたか分からなかったよ。反転術式の上位互換……いや、魂の在り方そのものを『無傷の状態』に書き換えてるのか……?しかも、相手の呪力をトリガーにして回復力を上げてるね?」
五条の的確すぎる分析に、蓮音は少しだけ目を丸くしたが、すぐに笑いながら肩をすくめた。
「さすがだね、目隠しのお兄さん。僕の術式は『極楽浄土』。僕の身体には、怪我も病気も存在できないんだ」
「なるほどなるほど。そりゃあ呪霊からすれば天敵だ。触られただけで、強引に『成仏』させられちゃうわけだもんね。そりゃ逃げるわ」
二人の高度な会話についていけない虎杖が、恐る恐る口を挟んだ。
「あの、五条先生……。この子、何がどう凄いんスか? 俺には全然わかんないんだけど……」
「んー? そうだねぇ」
五条は顎に手を当てて少し考えると、ポンッと手を叩いた。
「言葉で説明するより、実際に見てもらった方が早いね。悠仁にとっても良い勉強になる」
そして、五条は蓮音に向き直り、ニヤリと挑戦的な笑みを浮かべた。
「ねえ蓮音くん。僕と、少し手合わせしてよ」
その提案は、常軌を逸していた。現代最強の呪術師と、正体不明の特級クラスの術式を持つ少年。二人がぶつかれば、この一帯の地形が変わるかもしれない。
だが、蓮音は少しも怯むことなく、ふわりと微笑んだ。その瞳の奥には、15歳の少年のまま悠久の時を過ごしてきた者の、静かな熱が宿っていた。
「いいよ。でも僕、人を傷つけるのは苦手なんだ。だから――」
蓮音は両手を胸の前で軽く合わせ、静かに言った。
「お手柔らかに、ね」
夜風が、二人の間を吹き抜ける。
現代最強の呪術師と、極楽浄土を現出させる不可侵の少年。
規格外の二人の手合わせが、今、静かに幕を開けようとしていた。