どうか、君の逝く先が極楽浄土でありますように   作:ブァッファイ小五郎

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三話目

 ――本来、特級呪術師という存在は、その規格外の力ゆえに単独での任務が基本となる。国家を一人で転覆させうるほどのバケモノに、並の呪術師を同行させても足手まといになるだけだからだ。

 しかし、蓮音にとっては呪術界におけるすべてが初めての経験である。加えて、彼自身の戦闘スタイルが「完全な非致死性のサポート特化」という特異なものであるため、今回は特例として一年生の親睦会も兼ね、伏黒恵、釘崎野薔薇の二人と同伴で任務へ向かうことになった。想定される呪霊の等級は三級から二級程度。高専生としての基礎を学ぶには丁度いい小手調べの任務である。

 

「あ、ごめん! ちょっと忘れ物しちゃった! すぐ取ってくるから、先にお外で待ってて!」

 

 任務へ向かうため、高専の石畳を歩いていた矢先のことだった。蓮音は不意に何かを思い出したようにパタパタと足を止めると、二人にペコリと頭を下げて、元来た学生寮の方へとウサギのように駆けていってしまった。

 残された伏黒と釘崎は、その愛らしい背中が見えなくなるまで見送った後、ゆっくりと高専の正門前へと歩みを進めた。

 

 夏の初めを思わせるような、じっとりとした生ぬるい風が木々を揺らしている。

 蓮音という太陽のような存在がその場からいなくなった瞬間、二人の間に、目に見えない重苦しい空気がふわりと降り降りた。

 それは、どうしようもない喪失感だった。

 可愛らしい新入りが入ってきて、教室の空気は一時的に明るくなった。蓮音の持つ無自覚な癒やしの波動は、確実に二人の心を撫で下ろしていた。だが、根本的な事実が消えたわけではない。

 

 ――昨日、同級生である虎杖悠仁が死んだのだ。

 

 少年院での特級呪霊との遭遇。心臓を抜き取られた無惨な死。その記憶は、まだ彼らの脳裏に生々しく焼き付いている。たった一日で、その悲しみを消化できるはずもなかった。静寂が訪れると、どうしてもその事実が胸の奥から這い出してくる。

 

 伏黒が隣を歩く釘崎をふと見やると、彼女は俯き加減で地面を見つめていた。その気の強そうな横顔はどこか青白く、きつく結ばれた唇が、微かに、だが確かに小刻みに震えているのがわかった。

 気丈に振る舞ってはいるが、彼女もまた、突然の仲間の死という現実を前にギリギリの精神状態で立っているのだ。

 

「……暑いな」

 

 これ以上、この沈黙を続けさせるわけにはいかない。伏黒は空気を変えるため、あえて空を見上げながらぽつりと呟いた。

 

「……そうね。夏服の衣替え、まだなのかしら。五条のバカに言って、さっさと手配させなさいよ」

 

 釘崎も伏黒の意図を察したのか、少しだけ鼻をすすると、いつもの悪態をつきながら顔を上げた。その声には、まだ微かな震えが残っている。

 

「なんだ、お前ら。えらく空気が重いじゃねえか。お通夜かよ」

 

 その時、前方の階段からズバズバと遠慮のない声が降ってきた。

 見上げると、薙刀を肩に担ぎ、凛とした立ち姿を見せるポニーテールの少女――二年生の禪院真希が立っていた。その後ろには、どう見てもただの巨大なパンダである突然変異呪骸のパンダと、口元を隠した呪言師の狗巻棘が続いている。

 

「真希、ストップ! ストップ!」

 

 パンダが慌てた様子で真希の背中に駆け寄り、ヒソヒソと、しかし周囲に聞こえるような声で囁いた。

 

「ガチで同じ一年が死んでんだよ……昨日、少年院の任務でな」

 

「おかか……」

 

 狗巻も、深刻そうな表情で首を横に振る。

 その言葉を聞いた瞬間、真希の動きがピタリと止まった。ポニーテールが揺れ、彼女の顔からスッと血の気が引いていくのがわかった。

 

「なっ……お前、そういう大事なことはもっと早く言え! 私、今めちゃくちゃ血も涙もないサイコパスな先輩みたいじゃねーか!」

 

「いや、俺も今朝聞いたばっかだし! お前がズカズカ行くから……!ってか実際そうだろ!」

 

 冷や汗を流しながらパンダの首ぐりを絞め上げる真希と、ジタバタと暴れるパンダ。そんな先輩たちのやり取りを見て、伏黒と釘崎は呆れたようにため息をつきつつも、先ほどまでの張り詰めていた空気が少しだけ緩んだのを感じていた。

 

「お待たせー! ごめんね、病院の子供たちから貰ったお守り、忘れちゃってて」

 

 そこに、息を弾ませながら蓮音が戻ってきた。手には不格好な折り紙のメダルが握られており、それを大切そうにポケットにしまう。

 蓮音は階段の上にいる見知らぬ三人組を見つけると、不思議そうに首を傾げた。

 

「あれ? 伏黒くん、その人たちは?」

 

「ああ、同じ東京校の二年生の先輩たちだ。向こうから禪院先輩、パンダ先輩、狗巻先輩」

 

「へえ! パンダさんだ! 可愛い!」

 

 蓮音が目を輝かせていると、真希が怪訝な顔で階段を降りてきた。彼女の鋭い視線が、蓮音の小さな体を上から下まで値踏みするように舐め回す。

 

「……伏黒、誰だこいつ。高専に関係者以外のガキを入れるなよ。迷子か?」

 

「ガキって……まあ、そう見えますけど。今日から編入してきた同じ一年生の蓮音です」

 

「えっ、編入生?」

 

 真希は目を丸くした。呪術高専への編入など、極めて稀なケースだ。

 蓮音は姿勢を正すと、先輩たちに向かってペコリと丁寧なお辞儀をした。

 

「初めまして! 蓮音です。あの、僕、ずっと病院で暮らしてたんですけど、昨日目隠しのお兄さん……五条先生……?に誘われて、ここに来ることになりました! 階級は……えっと、たしか『とっきゅう』って言ってました! よろしくお願いします!」

 

 満面の笑みで放たれた自己紹介。

 その瞬間、真希、パンダ、狗巻の動きが完全にフリーズした。

 

「……は?」

 

「……しゃけ?」

 

「……とっ、きゅう?」

 

 三人は顔を見合わせ、それから信じられないものを見るような目で蓮音を凝視した。

 特級呪術師。それは、単独で国家を転覆させるほどの危険度と実力を持つ者にのみ与えられる、呪術界の最上位ランク。現在、日本に四人しか存在しない生ける伝説。この、どう見てもランドセルを背負っていても違和感のない華奢な少年が、その一人だというのだ。

 

「あの、とっきゅうって、そんなにすごいんですか?」

 

 ポカンとしている三人を見て、蓮音が不思議そうに伏黒に尋ねる。伏黒は頭を掻きながら、面倒くさそうに口を開いた。

 

「……すごいも何も、バケモノの代名詞だ。呪術界には階級があって、四級から一級まである。一級でも相当な実力者だが、特級はそのさらに上……というか、枠組みから完全に外れた規格外にだけ与えられる称号だ。……五条先生と同じって言えば、わかるだろ」

 

「えっ、目隠しのお兄さんと同じ!? わあ、なんだか嬉しいな!」

 

 キャッキャと無邪気に喜ぶ蓮音を見て、真希の顔つきがスッと険しいものに変わった。

 特級であるというなら、その実力は本物なのだろう。だが、この高専は、そして呪術師という生き方は、そんな無邪気な笑顔のまま生き残れるほど甘い世界ではない。つい昨日、彼らの同級生が一人、無惨に命を散らしたばかりなのだ。

 

 真希は蓮音の前にツカツカと歩み寄ると、その胸ぐらこそ掴まなかったものの、見下ろすようにして鋭い声で警告した。

 

「おい、新入り。特級だか何だか知らねえがな、ここは遊び場じゃねえんだぞ。呪いと殺し合う、血なまぐさい世界だ。そんなお花畑みたいな頭で、本当にやっていけると思ってんのか?」

 

「ツナマヨ!!(言い過ぎだぞ真希!)」

 

「そうそう、真希、相手はまだ来たばっかりの子供だぞ!」

 

 狗巻とパンダが慌てて宥めに入るが、真希の目は真剣だった。彼女は呪力を持たないというハンデを背負いながら、己の力一つでこの過酷な世界を這い上がってきた自負がある。だからこそ、覚悟のない半端者がどうなるかを誰よりも知っていた。

 しかし、蓮音は真希の凄みのある視線を正面から受け止めても、微塵も怯む様子を見せなかった。むしろ、その純真な瞳をまっすぐに真希に向け、にっこりと微笑んだ。

 

「うん、大丈夫! 僕は、誰も死なせないためにここに来たから。絶対に、やっていけるよ!」

 

 その言葉には、一切の迷いも、強がりもなかった。ただ純粋な事実として、己の役割を理解している者の響きがあった。

 真希は一瞬だけ毒気を抜かれたように目を見開き、やがてフッと息を吐いて口元を緩めた。

 

「……ふん。言うじゃねえか。その言葉、忘れるなよ」

 

「はいっ!」

 

 そんなやり取りをしていると、釘崎がハッとしてスマートフォンを取り出した。

 

「ちょっと! あんたたちダラダラ喋ってる場合じゃないわよ! 任務の時間が迫ってるじゃない! 伊地知さんが待ちくたびれて干からびちゃうわよ!」

 

「あっ、やば。行くぞ、蓮音、釘崎!」

 

 伏黒の合図で、三人は弾かれたように階段を駆け下りた。先輩たちに手を振りながら、彼らは待機していた黒いセダンへと乗り込んだ。

 

 

 ◆◆◆

 

 

 向かった先は、都心の外れにある古びたアーケード街だった。

 かつては地元民で賑わっていたであろう商店街は、今や大半のシャッターが下ろされ、薄暗く淀んだ空気が滞留している。アーケードの天井からはところどころ錆びた鉄骨が剥き出しになり、太陽の光を不気味な形に遮っていた。

 到着するなり、補助監督の伊地知が素早い手つきで帳を下ろす。

 

『闇より出でて闇より黒く、その穢れを禊ぎ祓え』

 

 空からドス黒いインクが滴るように、結界が街を包み込んでいく。昼間であったはずのアーケード街は、一瞬にして深夜のような不気味な暗闇に閉ざされた。

 

「――それじゃ、蓮音。あんたは絶対に私たちの後ろから離れないこと。前線には出ない。いいわね?」

 

「俺たちの後ろで、呪霊の動きと祓い方をよく見ておけ」

 

釘崎と伏黒が、それぞれ武器と呪力を構えながら蓮音に忠告する。

 

「うん、わかった! 二人とも頑張ってね!」

 

 蓮音は両手をギュッと握って応援のポーズをとると、二人の後ろをトコトコと可愛らしくついていった。

 シャッター街の奥深くに進むにつれ、空気の粘度が上がり、鼻をつくような腐臭が漂い始めた。

 

 ギギギ……、と不快な音を立てて、路地のあちこちから異形の影が這い出してくる。三級から二級程度の、複数の呪霊の群れだ。

 

「行くわよ、伏黒!」

 

「ああ」

 

 釘崎がトンカチを構え、釘に呪力を込める。「芻霊呪法『簪』」と叫びながら放たれた釘が呪霊の身体に突き刺さり、内側から爆発を引き起こす。

 伏黒は両手で影絵を作り、「玉犬『渾』!」と唱える。影から飛び出した一頭の巨大な狼が、呪霊たちの喉笛を次々と食いちぎっていく。

 

 二人の見事な連携の前に、呪霊の群れは悲鳴を上げる間もなく、次々と塵となって消滅していった。蓮音が出る幕など一切なく、わずか数分でアーケード街の淀みは晴れていった。

 

「ふぅ……。こんなもんね。楽勝じゃない」

 

「油断するな。残存呪力がないか確認しろ」

 

 釘崎が前髪を払いながら息を吐き、伏黒が周囲の気配を探る。だが、どこを探っても呪霊の気配は完全に消失していた。

 

「よし、終わったみたいだな。伊地知さんに連絡して帳を上げてもら――」

 

 伏黒がスマートフォンを取り出そうとした、その時だった。

 

 ゾワッ――!!

 

 伏黒と釘崎の全身の産毛が逆立ち、背筋に氷の刃を突き立てられたような圧倒的な悪寒が走った。

 空気が、一瞬にして凍りついた。いや、空間そのものが軋み、歪むような、とてつもなく重厚で不吉なプレッシャーが、三人の「背後」から膨れ上がったのだ。

 

「……ッ!! なんだ、これ!?」

 

 伏黒の声が裏返る。三人が弾かれたように後ろを振り向くと、そこには、先ほどまでは存在しなかったはずの巨大な異形が鎮座していた。

 

 それは、仏教寺院にあるような巨大な「梵鐘(ぼんしょう)」だった。

 しかし、ただの鐘ではない。青銅の表面には無数のひび割れが走り、そこからドロドロとした赤黒い血が絶え間なく滲み出ている。何よりおぞましいのは、鐘の内部が腐肉のような肉塊でびっしりと満たされており、下部の空洞からは、助けを求めるように無数の赤黒い手足が垂れ下がり、蠢いていることだ。

 

 特級仮想怨霊「無間鐘(むげんしょう)」。

 人々の「静寂への恐怖」や「閉鎖空間への恐れ」が長い年月をかけて澱み、極限まで圧縮されたことで生まれた呪いの権化。

 三級程度の任務などという事前情報とは完全にかけ離れた、絶対的な死の象徴が、そこにいた。

 

「嘘でしょ……なんでこんなところに特級が……!」

 

「釘崎! 蓮音を連れて下がれ!!」

 

 伏黒が絶叫し、新たな式神を召喚しようと印を結ぶ。釘崎も咄嗟に蓮音を庇うように立ち塞がった。

 だが、遅かった。

 無間鐘の内部の肉塊がうねり、鐘そのものが巨大な肺のように大きく膨らんだかと思うと。

 

 ――ゴォォォォォン…………ッッ!!!

 

 重く、低く、腹の底を直接抉るような鐘の音が、アーケード街に響き渡った。

 

 その瞬間。

 伏黒と釘崎の世界から、あらゆる「音」が完全に消失した。

 己の呼吸音も、心臓の鼓動も、風の音も、何も聞こえない。絶対的な無音。

 そして次の瞬間、脳を直接かき混ぜられるような激しい目眩と、内臓を吐き出したくなるほどの強烈な吐き気が二人を襲った。

 

「ガハッ……!? あ、が……っ!」

 

「う、ぅ……え……っ」

 

 二人は立っていることすらできず、その場に崩れ落ちた。地面を這い、必死に立ち上がろうとするが、天地の感覚が完全に消失しており、手足に力が入らない。

「音と平衡感覚の支配」。無間鐘の放つ呪いの音波は、対象の三半規管を完全に破壊し、方向感覚を狂わせ、呪力を練ることすら不可能な状態へと叩き落とすのだ。

 

(クソッ……身体が……動かない……!)

 

(吐きそう……なにこれ、最悪……!)

 

 伏黒と釘崎の意識が朦朧としていく。このままでは嬲り殺しにされる。絶望が二人の心を支配しかけた、その時だった。

 

「――許せないよ……」

 

 完全な無音の空間において、なぜかその声だけが、二人の鼓膜ではなく「心」に直接響き渡った。

 

 伏黒が霞む視界で顔を上げると、自分たちを庇って前に出た小さな背中が見えた。

 蓮音だ。

 彼は普段のニコニコとした笑顔を消し去り、純粋な怒りにその大きな瞳を燃やしていた。大切な仲間を不条理な苦痛に陥れた敵に対する、絶対的な怒り。

 蓮音は、一切の躊躇なく、特級呪霊である無間鐘に向かって真っ直ぐに走り出した。

 

 ――ゴォォン! ゴォォォォォォンッ!!

 

 無間鐘が蓮音の接近を察知し、狂ったように鐘の音を連打する。周囲の空間が波打ち、コンクリートの地面が音波の衝撃で粉々に砕け散る。

 鐘の音が響き渡る度、伏黒と釘崎にもがき苦しむ程の目眩や吐き気が襲う。

 しかし、蓮音には全く通用していなかった。

 彼の術式『極楽浄土』は、自身に降りかかるあらゆる「傷害」という事実を消し去る。三半規管が破壊されたという事実も、鼓膜が破れたという事実も、音波が彼に触れた瞬間に蓮の花となって散り、無効化されてしまうのだ。

 

「そんな嫌な音、もう鳴らさないでっ!」

 

 蓮音は呪霊の懐に飛び込むと、垂れ下がる無数の赤黒い手足など意に介さず、その巨大な青銅の鐘に、小さな両腕でギュッと抱きついた。

 

滅罪(めつざい)

 

 囁くような、甘く優しい声。

 その瞬間、無間鐘の巨大な身体から、眩いほどの金と白の光が爆発的に溢れ出した。

 呪霊の傷を癒すのではない。圧倒的なまでの「正のエネルギー」を、負の感情の塊である呪霊に直接流し込むことによる、強制的な浄化。

 無間鐘の表面のひび割れから、そして内部の肉塊から、光り輝く美しい蓮の花が狂い咲き始めた。

 

 ――ギ、ギャァァァァァァァァァッ……!?

 

 音を奪う呪霊自身が、声にならぬ断末魔の叫びを上げた。ドロドロとした肉塊は光に包まれて昇華し、ひび割れた青銅は砂のように崩れ落ちていく。

 そして数秒後。

 そこに特級呪霊の姿は跡形もなく消え去り、ただ一輪の、この世のものとは思えないほど美しい金色の蓮の花だけが、ふわりと宙に浮いて、そして光の粒子となって溶けていった。

 

 特級仮想怨霊、触れただけで完全祓除。

 常識ではあり得ない光景を前に、地面に倒れ伏したままの伏黒と釘崎は、ただ呆然とするしかなかった。脳が理解を拒んでいる。

 

「二人とも!! 大丈夫!?」

 

 呪霊を祓い終えた蓮音が、血相を変えて二人の元へ駆け寄ってきた。

 

「痛かったよね、苦しかったよね。ごめんね、すぐ治すから!」

 

 蓮音が二人の背中に、その小さな両手をポンッと触れた。

 それと同時に、伏黒と釘崎の身体から、先ほどと同じように光り輝く蓮の花が無数に咲き乱れ、そしてハラリと散っていった。

 同時に、二人の身体を縛り付けていた激しい吐き気も、狂った平衡感覚も、嘘のように完全に消え去った。聞こえなかった音が、蝉の鳴き声と共に一気に鼓膜へ戻ってくる。

 それどころではない。疲労も、昨日から引きずっていた精神的な重圧も、すべてが洗い流され、過去最高レベルに身体の調子が良くなっていた。呪力が、体の芯から泉のように湧き上がってくる。

 

「……えっ?」

 

「なに……これ……」

 

 跳ね起きるように立ち上がった二人は、自分の身体をペタペタと触り、信じられないものを見るように蓮音を見た。

 蓮音はホッと胸を撫で下ろし、いつものニコニコとした愛らしい笑顔に戻っていた。

 

「よかったぁ。二人とも無事で」

 

 伏黒と釘崎は顔を見合わせた。

 五条悟と同格の「特級」。その意味を、二人は身をもって、骨の髄まで理解した。この少年は、呪術界の根幹を揺るがすほどの、まさに「神の奇跡」そのものだと。

 

 

 ◆◆◆

 

 

 その直後。

 帳が上がり、日の光が戻ったアーケード街から少し離れたビルの屋上。

 そこから一部始終を見下ろしていた人影があった。

 五条袈裟を纏い、額に不気味な縫い目を持つ男。彼は薄い唇に弧を描き、ひどく楽しそうに呟いた。

 

「……なるほどね。反転術式による治癒じゃない。事象の強制書き換え。しかも、呪霊に対しては必殺の猛毒になり得る。……極楽浄土といったところか。五条悟の規格外とはまた違った、厄介なイレギュラーが現れたものだ」

 

 男は興味深そうに目を細め、蓮音の小さな背中をじっと見つめる。

 

「宿儺の器に、極楽浄土の少年。……ふふっ、千年前にもこんな面白い手駒はいなかったよ。さあ、どうやって私の盤上に組み込んでやろうか」

 

 男は愉悦に満ちた笑い声を残し、陽炎のようにビルの影へと溶けて消えていった。

 蓮音の存在は、すでに最悪の黒幕の目に留まっていた。彼の優しさと強大な力が、これからどんな運命を呪術界にもたらすのか、この時の蓮音はまだ知る由もなかった。

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