“こんにちは”
貴重な、それでいて重大な休日である日曜日の午前十時頃に私はチャイムの音で叩き起こされた。
停滞した埃まみれの頭を小学生の時分に作成した手回し懐中電灯の如く無理矢理回転させれば。今現在、小さな平屋の我が家には自分一人である事を思い出して、ほんの少し絶望した。
反抗期を終えたスプリングの入ったベッドから何とか身体を引き摺り出して寝癖も寝顔も寝巻きも直さず、起きたてほやほやの姿のままに乱雑にメガネを何時もの定位置に固定させ、力の無い細い脚でもってなるべくして足音がするように、来客が留守だと思って帰ってしまわぬように、努めて暖かなベッドから離れた哀れな自分が報われるように、ふらふらふらふら、寝室から出て、廊下を通り、居間を通り過ぎて、再び廊下を進み、何とかかんとか玄関まで無事に辿り着けた。
そして、扉を開く。
「今日は」
私の歓迎していた良き友人の眠気君は何処かにマッハの速度で遥か彼方まで吹き飛んでしまった。
その代わりに腐れ縁のストレス君が、ずがずか、と我が心に土足よりも不潔な素足で上がり込んで制圧した。
ストレス君はいつだって私の胃腸を材料にして編み物をしてくれやがる。
そんな私の苦しみなど何の事かしらんと言わんばかりに一ミリも変わらぬ澄まし顔で立ち続けている元凶の女。
女の、名前は、初子。
私の学生時代の後輩だ。だった。
そして、私の最初で最後の初恋の相手であった。当たり前だが。
「お久しぶりですね。先輩。ご機嫌いかがでしょうか?」
「……見たままだよ」
「相も変わらず苦学生みたいなお顔ですね。お似合いです」
灰汁の強い嫌味な台詞を吐き飛ばしてくる。
が。彼女は悪意を持って話す事は無い。善意と好意を持って話す。それ故に、何か好ましい表現であるのだろう。と信じたい。
彼女はお喋りではあるが、自らがどう言う性質かは一言も。一単語も。一文字も。話した試しが無いのだ。
「学生の時以来だね。君も健康そうで良かったよ」
「そう見えますか。眼鏡越しにも、そう見えるのならばそうなのでしょうね。きっと」
眼鏡だろうがサングラスだろうが裸眼だろう複眼だろうが、関係あるものか。
学生の時分から時が止まったような人が目の前にいれば、最低限の表現でも健康的と言うだろうに。
「それで、だ………何の御用かな?」
「突然に晴天の霹靂でした。それ故に私は先輩に会わなくてはならなくなりました。だから、来ました」
「説明になってないよ」
「こんな所ではなんですから、お茶でも頂きましょう」
「少なくとも君が発する台詞ではないかな。でも、まぁ、こんな所で良ければ上がってくれ」
「失礼いたします」
我が家、我が仕事場には気の利いた応接間など作る費用も余白も無かった。なので、書斎にて私達は向き合ってお話をする事にした。
「お茶を淹れてくる」「お構いなく」
今更、何を遠慮するのか。この子は変わらず理解が難しい。
妻の陣地であるキッチンに頭を低くして入る。
ガスコンロに乗っかったままの先週購入したばかりのピカピカの薬缶は未だほんのり温かった。今朝方、妻か娘か或いは二人共が珈琲か紅茶でも飲んだのだろう。
少し迷ったが残り湯は流しへ捨てた。柔らかな湯気がキッチンに登る。
冷蔵庫から五百のミネラルウォーターを取り出して薬缶に注いでコンロのつかみを捻る。チチチチ、と何度か頼りなく鳴いた後にボォとガスをなぞって火が点いた。炎の円が繋がるのを目視してから、つかみを少し絞って弱火にする。
細やかな時間稼ぎのつもりであった。
頼りのない青い炎を見つめながら埃の被った思い出をひっくり返す為に。
たしか。
彼女、初子と出会ったのは大学の時分であった。
その時の私はきっと人生で一番、体調も精神衛生も最低最悪であった。
しかしながら、心は満ち足りていた。気がする。
勉学は最低限。スポーツなど目の片隅にも入れず。世に言う青い春などはすっかり追い抜いて、友情も恋愛も全く相手にしていなかった。いや、相手にもされなかっただろうが。
そんな私が一体何に心を砕いて砕いてコーンフレークの最後の一皿の底の様に粉微塵にしていたかと言うと。
アニメーション。その時は皆、ごちゃ混ぜも良い所だがマンガと言っていた。兎に角、闇雲に、ただただ、その作業にのめり込んでいた。
たった一人で。
アニメ創りは一人でやれるもの。時間がエレベスト程あれば。少なくとも私はそうであった。幸運な事に。しかし、幾らやる気の無い学生であれど時間は有限であり貴重である。故に私は人間が活きて生きていく為の諸々の責務、もしくは義務をドブに捨てて作業に没頭していた。そんな無謀な事をすれば、ああ言う搾りかすの様な有様になってしまうのだろう。
それでも、その時の私は確かに楽しかったのだ。他のどんな事柄より。
何よりも。
塵山の上にて私は自らの思い描く作品を一年を賭けて完成させる事に成功、或いは失敗した。もう、その完成した時の、私、の、有様、は、酷かった。もしその瞬間に赴き若き自分と相対したのならば荒れ狂う極寒の海原に叩き込むか、誰からも忘れられた廃病院に閉じ込めるかである。執行猶予無し。永久終身刑。
悲しいかな、そんな風に慈悲を持った処刑人は私の周りには存在してくれなかった。
浮き足だった哀れな大馬鹿野郎は完成したその拙いアニメ未満のパラパラ動く無音の静止画を、あろうことか誰かに見せたくなりやがった。
欲望に突き動かされブレーキもクラッチもハンドルさえもへし折った若き日の自分は必要以上に行動的であった。三人の教授にヘリウムガスが詰められた頭を一回転する勢いで下げて、空き教室を借り、機材を借り、大学の掲示板にミミズがのたうち回った様な文字で書かれた上映会の案内状を掲載した。
今にして思えば、その三人の教授は何と心の広い仏様の如くの方々であった事か。掌の上の蜘蛛を潰さずに放ったらかしにしてくれたのだから。
待ち侘びた上映会の日。
久方ぶりの食事やら風呂やらを念入りに終えた私は薄暗く存在さえ知り得なかった空き教室の隅っこで震えていた。
武者震いなんて勇ましいものでなく。
漸く。取り返しがつかなくなってから。自分がなんて事をしたのかを大後悔していたのだった。後悔の海にて遭難していたのだった。頭の中であ行の叫びが錯乱し錯綜していた。
ああ、狭く見窄らしい下宿が恋しい。ああ、更に狭く見窄らしい部屋が恋しい。更に更に狭く見窄らしい、幾日も出したままの薄っぺらい布団が何よりも恋しかった。
怖気と寒気もしてきた気がする事にした私は体調不良、という事で自らが仕立て上げた処刑場から堂々退場しよう、と思い顔を上げた。
「今日は、先輩」
視界と世界が狭く見窄らしい私の前には、初子がいたのだった。
「偉く見窄らしい監督さんですね」
二言目には手酷い一撃を喰らわせてきた。正常な人間ならば、やい!失礼な事を言うんじゃあない!と反撃をするのだろうが、お生憎様、その時の私は正常からはかけ離れた人間であったので、うすら笑いで誤魔化す以外に方法も手札も無かった。豚野郎であった。
「上映時間は残り五分ですが準備はいいのですか?随分と余裕があるのですね」
再び笑って誤魔化して上映の準備を始めた。心内では脱走計画を頓挫させてくれた彼女に対して恨み言を呟いていたが準備の手際は前の晩に何度も何度も何度も想定していた為に上々であった。
「何か手伝いますか?」
フェルマーの最終定理並みに理解不能な思考回路を持つ後輩(仮)はひよこみたいに私に続いて作業を覗き込みながら質問をぶつけてきた。
正常な人間ならば、いえいえご心配に及びません。どうか席にてごゆるりとお待ち下さい。と躱すのだろうが、再三言う様にその時分の私は正常の一欠片も残されていなかった為に曖昧に中途半端に頷いて歪んだ笑みらしきものを浮かべた。
「OKです」
????????????????????????
断りを入れたつもりの私は目の前でテキパキと準備する彼女の姿に困惑し混乱した。
自分の声が小さかったのだろうか。言葉を噛んでしまったのだろうか。彼女の第一言語は日本語ではないのだろうか。阿呆みたいな理由になっていない屁理屈を頭に並べながら彼女の隣で準備を進めた。
「完了ですね。では席につきます」
驚くべき速度で準備を終えた途中から私に指図した下克上先輩(仮)はそう言い残して教室のど真ん中の鑑賞に適した席に座った。上映開始まで残り三分前の事である。その時教室のドアが開いた。一体何処の物好き二号だろうか、と目を向けて見れば。なんとなんと蜘蛛のごとき私にお慈悲を下すった三人の教授達であった。年貢の納め時と言う言葉が真っ白な頭に浮かんで爆発した。直角のお辞儀をした後に私は教授達が座するのを待ってから電灯のスイッチを消して機材の電源を入れた。
上映中、私は一番後ろの席にて薄目でスクリーンを睨みつけていた。
今更、脳髄の一番大事な部分に焼きついた映像を見る気も必要も勇気も無かった。それよりも私は広い教室の中に現存している絶滅危惧種である観客四人の姿をちらちら、と盗み見していた。
四人とも映像の起承の部分を真面目な顔をしてつぶさに観察していた。欠伸を噛み殺して片目で観てくれた方が私としても大いに助かったのだが。残念ながら四人とも常識を諳んじれる大の大人の大人物であった為に私の視線を掻い潜って欠伸をしているのだろうと、その時の私は邪推していた。そうではない事が分かるのはその数分後であるのだが。
私の矮小な心臓の鼓動の万分の一の速度でチカチカ、と流れるアニメーーーーーションは時空を歪めて私の魂を痛ぶった。頭蓋骨を開いて解剖されている気分だった。人生の失敗全集を無断で放送されている気分だった。鍵を掛けて貸金庫に預けた日記帳の片隅に書いた相合い傘を日本全国の看板に引き伸ばされて掲載されている気分だった。
胃腸がねじくれてひっくり返って猫の毛玉の形になった頃に(比喩だ)上映中の物語は転結へと突き進んでいた。
物語には起承転結があり殆どの閲覧者は転結に注目する。怒涛の展開。先が読めない展開。きっと貴方は騙される。衝撃の結末。感動の結末。きっとこの結末に貴方は涙するなどなど。謳い文句も殆ど転結に注目させる。しかし、至極当然の言うまでもない明白な事実として起承なくして転結なし。たとえどんな結末であっても。大団円であれど。悲劇喜劇であれど。凄惨であれど。衝動的であれども。その物語の世界の何気ない一日の一刹那の積み重ねの結果発表が物語に値され拾い上げられるのだ。何一つ劇的でなく。何一つ不可思議でなく。何一つ超常的でなく。何一つ空想でなく。なんでもない事が。なんでもない日が。なんでもない思いが。なんでもない一言が。なんでもない自分が。なによりも大切で取り返しがつかない。起承を真面目に観れば見るほどに転結の、どうしようもなさに閲覧者は心動かされるではないのでしょうかここまで長々と講釈垂れたがそんな資格が私にあるはずもごぜぇませんどうか命だけはどうか命だけはお助けくだせぇ…!!
などと。
自らの心証を捏ねくり回しながら起承を真面目に観てくれていた四人の顔を監視した。
そこで!本日二度目の困惑と混乱が私を急襲した!!!
その原因は四人。四人の表情であった。
最初。最初に私は四人の顔に光る物を錯覚だと思った。寝不足の所為で自らの都合の良い幻覚を見てしまったのだと本気で思った。けれどけれども
幾ら眼を擦ろうとも。幾ら、存在する最低限の重さの頭を振ったり叩いたりしてみたって。四人の顔から、きらりと光る物は消えはしなかった。そればかりか、その輝きは増すばかりに。
次に私が押っ立てた推察はこうであった。
あ、欠伸だ。そうに違いない。と。
うん。実に理に適っている推察ではあった。何せ、ご観覧の皆様の四分の三は教授なのだ。先達なのだ。先生なのだ。常日頃から頭脳と魂と老いた身体に百叩きをして自らの命題を研鑽に研究に発表に授業している方達なのだから、そりゃぁ、それはそれは疲労困憊満身創痍であろうに。そんなお身体を支えているお足をお運びになさって薄暗く静かな暑くも寒くもない適温な部屋にじ、と座ってりゃあ、欠伸の一つや二つや三つ出るだろう。誰がそれを責めれるものか。むしろ私が責められる。欠伸の出る物を作り出した無責任な私に全責任が御座いますので腹でも首でも剃刀の様な蹴りをお見舞いしてくだせぇ。一思いに。一つ重めに。人だと思うならば。
などなどと。
聞き苦しい自虐的自罰的マゾヒズム的な妄想をみっともなく垂れ流しにしていた私に論理的反論もしくは感情的カウンターをぶち込んできたのは、初子であった。
しかし、彼女にその自覚はないだろう。
彼女は何一つ特別な言葉を発していない。
彼女は何一つ特別な行動を起こしていない。
彼女は。彼女、初子は、人として当たり前の感情を持っていただけなのだから。それを私は今でも嬉しく思う。眩しく思う。
私は感情に、自分の感情に鈍いところがあるからだ。
だから、羨ましくも思う。自らに正直に生きている彼女を。
彼女は、初子は、涙を流していた。
欠伸などと言う、卑怯な妄想を溶かしてしまうほどに熱い涙を延々と流していた。
号泣。
僕は女の人が感動して号泣している姿を、その時初めて見た。
腹の底が冷える様な迫力が、そこにはあった。
背筋が震える程の興奮が、そこにはあった。
僕は、そんな静かに泣く初子を観て。
なんて綺麗だろう、と思ったんだ。
……まぁ、その、あれだ。初子の涙を目撃してしまった私は観念するしかなくなったのだ。自らの作り出した作品は確かに人の心を動かした事実に。認めたくなかっただとか。そんな筈がないだとか。もっと面白いモノを作れた筈だとか。そんな事を思っていた訳では断じて無い。認めていた。認めてほしかった。そんな筈である。これ以上面白いモノはこの先作れる気がしない。自信も自負も十二分に持っていたのだ。けれど、一つだけ自らの内に引っ掛かりがあるとすれば。私は楽しかったのだ。ずっときっと楽しい。アニメを物語を創っている時、私はずぅぅと楽しんでいたのだ。そして、そんな自分が少し好きだった。自己に満足しながら自己を満足させる作品を自己満足するまで作り上げてしまっていた。だから。
正直な所、この上映会も
誰一人も観客が居なくとも良かった。
観客が欠伸をしていたって微睡んでいたって熟睡していたって構わない。
つまらなくて良い。
だって、これは私から私への物語なのだから。
私だけの。
なので、観客の四人の大小様々な涙を見てしまった私は困ってしまったのだ。何一つ苦労も苦悩もしていないと言うのに、お他人様の感動を受け取る資格なぞ私にあるのだろうか?と。
そんな尊い想いは私には到底、受け止められる自信がなかった。
けれど、そんな私の卑屈に傾く魂を揺り動かしたのは、また彼女だった。
手を伸ばしても届かない速度で転結を終えて幕を引いた私のアニメーションは黙ってフィルムの中に帰っていった。
お疲れ様と、自分の物語を労ってから私は立ち上がり窓に近付いて、カーテンを開き優しい自然光を部屋の中に招き入れた。そして、白くぼやけた陽の光を背中に浴びながら私は深々と頭を下げた。最後まで見届けてくださった四人に最大限の敬意を示す様に軽い頭を稲穂みたいに深く深く下げた。そんな私に、私の作品に四人は拍手で賞賛してくれた。優しい掌の音と背中の温もりで私は些か眠くなった。
後片付けに取り掛かろうとした私に三人の教授は近寄り口々に語彙の限りを尽くして私に感想と感嘆を告げた。私は直立して、はぁ、へぇ、どうも、ありがとうございます、いえいえ、まさかそんなそんな、かんげきです、を適宜発音するオウムに成り果てていた。
三人共、最後に握力自慢か疑うくらいに強い握手をしながら、これからも頑張って下さい、と言い残して空き教室を後にした。
その時、初子は何をしていたのかと言えば、自らの席にて猛烈な勢いで万年筆を動かしていた。何故に?と私は疑問を持つ事もせずに後片付けを開始した。一向に落ち着かない心臓の鼓動を感じながら。
「あのぅ…そのぅ…」
ものの十数分で後片付けが終わり、後は教室の消灯と施錠の義務を遂行せんとしていた私は初子の席の近くで頼りないにも程がある呼びかけを何度か繰り返していた。そんな私の存在に(恐らく)本気で気づいていない初子は机の上のノートを何度も捲っては猛烈に万年筆を動かしていた。瞳から落ちる涙もそのままにしているので折角の書いている文章も所々滲んでしまっていた。一体何を書いているのだろか、このタイミングでこの後輩(仮)は。気になって仕方なかったのだが泣きながら文章を書き綴り続ける初子の気迫に気負いして、内容を覗きこむことなどは私には不可能であった。すごすごと初子の傍から去り、三つ離れた席に座って待機する事にした。変わった人だなぁ。と、その時の大学一番の変わり者の私は心内で独白した。
暫く、空き教室には万年筆がノートの上を滑る音だけがあった。
私は着席してから子供の頃から得意で特異な想像遊びをしていた。十五を過ぎてからは、ずっとこんな遊びをしている己を寂しい奴だな、と自嘲していたのだが作品創りにおいては随分と役に立った。何せ頭の中だけで出来るのだから何時何刻だって練れるのだ。まぁそんな事をするのは人としてどうか、と言う問題はあるにはあったが。身に染みた悪癖を改める気は全く無かった。それにアイデアと言うものは悪戯に閃く。更に意地悪な事に閃いた瞬間にしっかり捕まえて拘束しなくては残滓を残して光速で過ぎ去ってしまう。例え残滓を何とか物語に落とし込めたとしても言語化が難しいところだが……味が薄くなってしまうのだ。これじゃあないんだよなぁ。こんなもんじゃないんだよぁ。と、影も形も思い出せなくなってしまう。そうなってしまえば、もう二度とは思いつかない。会心の閃きは、その一つ一つが…たとえ一言の台詞であっても…一回きりだ。その一回きりの好機をモノにするのは難儀な事。で、あれば数打ちゃ当たるを実践するしかない。だから私は頭の中で想像を垂れ流しにしていた。創造の為に。流れ星を逃さぬ様に。
(これらの行為は暇つぶしとも言い換えれます)
口を半開きにして阿呆面を晒していた私に突然誰かが話しかけてきた。
誰かというか。初子だ。それ以外に誰がいるものか。
「先輩。留年でもなさるのですか」
「へ……しないです、よ?」
「そうですか。失礼いたしました。破滅した様な顔でしたので」
「あ、そ、そう」
「ええ。はい」
「…………」
私が何をした。
動機の解らない会話を女性とするのは気まずいなんてものでなく、呼吸が滅茶苦茶に乱れそうであった。しかし我慢した。ここで呼吸を乱してしまえば通報ものである。自暴自棄ではあったがお縄になるのは御免だった。
御免を下さい。を一秒でも速く後輩(仮)に言いたかった。
「…ふぅ……あのぅ、そろそろ此処は…閉めなくてはいけなくてね」
一息吐いて、まずは言うべき台詞を吐いた。
「そうでしょうね」
「そうでしょうね?」
人間は余りにも突発な事を言われると繰り返すしか出来ない事を、この時に知った。こんなのはこの時だけだったが。
「では、出ましょう。先輩」
「……あ、そうだすな」
故郷の言葉が出た。どっかの。私のではない故郷の訛りが。
貴方様をお待ちしていたのですが、と言う意味の英国紳士に倣った嫌味は私の語彙では再現出来なかった。
頭の上のつむじから爪先まで理解不能な後輩(謎)に急かされて(?)、私達は上映会場から退出した。扉を閉めて、鍵を掛ける。そうしてしまえば上映会場は再び空き教室に戻った。次はちゃんと教室として使用されればいいな、と一抹の寂しさを感じながら空室から離れた。
大学の適度に清潔で活気のある廊下を後輩と並んで歩く。私は鍵の返却という義務の為に進んでいた。脚の運びはぎこちなかった。それも仕方ないと言える…だろ…う。隣の後輩が気になって仕方ないのだから。貴女は何の御用で自分の隣を歩き続けているのでしょうか?そんな疑問がだらしのない口元から少し、パ、と声未満の音になって漏れた。
「鍵を返した後なら、お時間ありますね?」
それを聞いたか聞いていないかは分からないが後輩が私の予定を気にした。いや……今になって思い返せば気にしたのではなかった。
「鍵を返した後なら、お時間ありますね」
疑問系ではなく断定の物言いだった。
然るべき所に鍵を返却して直ぐに後輩は私を先導し始めた。一体何処に連れていかれるのだろうか、なんて小学生の時の家族旅行以来の思考に懐かしさに浸りながら歩いた。ボーー、としながら。中々に広い構内を歩き回るのは入学以来初めての経験であったので目新しく新鮮であった。へぇ、ほぉ、なんて溜め息を溢しながら私は雛鳥の様に後輩に近付いては離れて、近付いては離れてを繰り返しながら進んだ。慣れない道筋を十分程歩いて運動栄養管理不足の私の身体は早々に疲労を訴えてきていた。丁度その時に後輩(先)は足を止めた。どうやら目的地に着いた様子だった。其処は大学構内の端っこ。キャンパスの裏手の林に隣接した広場であった。美術に詳しくないが何だか西洋絵画にピッタリの風景に見えた。広場には一脚のベンチ以外には何もなく只管緑色を晒していた。後輩は木製ベンチに座った。緑の世界に紅一点。否応でも目につく配色であるのに違和感はなく調和が取れていた。ベンチに静かに座る後輩の姿を見てみれば、常日頃から此処で過ごしている事が容易に察せられた。良い趣味の持ち主だな。健康的な。とか、何とか、己と比較して素直に後輩の生活態度に感心してきていた。
「座らないのですか」
緑の中の女生徒が私に声をかけて、ベンチの空いている片方のスペースを、ポンポン、と叩いて空席である事を示してきた。
「…あ、失礼…」
「どうぞ」
ここまで良い子について来た私は最早、何の躊躇もなく後輩の隣に座った。ベンチは狭くはなかったが居心地が悪かった。
「……それで…さ、何の御用なのかな?」
絞り出せる量もない勇気の一滴で唇を濡らした後に後輩に疑問を呈した。
「言いたい事があるので」
言いたい事がある。十中九九、不満の前置きの台詞を言われて私は固まった。私は裏切られた気持ちに勝手になった。あの涙は感涙ではなく義憤のものであったのか。おぉ、自惚れるとは情けない。墓穴を掘れ。
「……なにが、気に入らなかった…のか、な?」
空の胃袋に鉛を突っ込まれた様な気分で更に後輩(怒)に問うた。
「気に入らなかった。ですか。ふむ。そうですね。一つあるとすれば心に傷がついたくらいですかね」
「そんなに!」泣きそう。
「一週間は引き摺ります」
「そんなに…」吐きそう。
「一生忘れないでしょうね」
「そんなに!?」死にそう。
「よいものを拝見させていただきました。ありがとうございます」
「そん…………………なに?」……………違いそう。
「感動しました。ですので、感想をノートに認めましたのでお伝えさせていただきます。まずは物語の登場人物の名前から「あ、え、ま、まって…」まさか、ご予定が?」
まさかって何だ。どんな人間に見えたのだ。それに初対面の人間に言う事か。等々。
余りにも突飛なド失礼な発言にぼやけた頭に酸素が回り始め、私はほんの僅かに冷静になれた。
「えっと、言いたいことって…」
「勿論。作品の感想です。あったかいうちに先輩にお伝えしたく」
感想をパンみたいに言っていた。
「ぁあ、はぁ、そうなんだ」
「それ以外に何が出来るのですか。他愛ない雑談を交わす仲ではないでしょう。私達」
「無遠慮に訂正を伝える仲でもないのでは…」
するり、と思った事が言葉になった。
この時には、かなり私は後輩(強)に絆されていた。
「初子です」
「……ごめん。一つ二つ、言葉が聞こえなかったみたいだ」
「恐ろしく耳が悪いのですね。いいですか?よく聴いてて下さい先輩」
「初子、うぶなねずみで、初子です」
「君の名前かな?」
「人の名前を言う流れだと思うのですか?」
「いつ、自己紹介の流れになったんだい?」
「先輩が言ったのではないですか。そんな仲ではない、と。だから一つ仲を深めました」
「展開が早すぎるよ」
「急いでますので」
初子は、いつの間にか取り出していたノートの表紙を私に見せて来た。品も質も良いノートだったのが嬉しかった。新聞紙の日付の横の辺りにでも書いた方が似合う自作の感想をこのノートに書かれているのは、とても嬉しい事だったし誇らしくも思えた。鼻頭がツンとした。
「聴いてくれますか?先輩」
観てくれた後輩の頼みを聞かぬ様な恥知らずではなかった。
傘に弾む雨粒が陰湿な雰囲気の中に唯一ある軽やかで楽しげなリズムである様に彼女の声は
ぽつりぽつり、と留めなく紡がれる言の葉の響きは蠱惑的いや、いやいや、嫌だな。この表現は違う。…彼女の言葉が響いた己の心が溢した感情は郷愁であった。遠く愛おしく気恥ずかしい思い出。母親の子守唄の響きが彼女の言葉の響きとよく似ていた。
「おい、聴いてますか?」
「……いや失礼…大丈夫、聴いてるよ。拝聴しているとも」
……………いや、おいって言った?この子?
ま、まぁ、いい、そもそも論として惚けた自分がいけねぇんだから仕方ねぇってんだ。…だけども、それを言っちゃあおしめえになっちまうんじゃあねぇのか?他所のまともな素面の方々ってぇのは?ガタガタ言うのではないのでしょうか?身震いしながらではありますが自分はそう思います!後輩(大佐)!!
こんな馬鹿な事を頭の中で繰り広げなくてはやっていけないのですよ。貴方の甘い言葉は心臓を焼いてしまうのですから。後輩さん。
大熱量の出来立てほやほやの感想を耳を介して脳味噌に流し込まれた私は、きっと…鳩が…通称豆鉄砲と呼ばれる暗殺用の拳銃で信頼していた十年来の友であり部下であり義理の弟であった鳩に後ろから撃ち抜かれた様な顔をしていただろう、と思う。
「打倒した鬼が父親だったみたいなお顔をしていますが、大丈夫ですか?」
「どんな顔かな?それ?」
「今のまま鏡の前に立てば理解は容易ですよ。先輩」
「言葉にならない程かい……こんなにも言葉を尽くしてくれた君が」
「まだまだ。現在進行形で言語化不可の電気信号は尽きていないですよ」
「あぁ、そう……そんなに…面白かった?」
「………そんなの、あなたが一番お分かりでしょうに」
一瞬だけ不服そうに唇を結んだ初子の表情は可愛らしかったと、今は思える。素直に。正直に。