第一話【コスモスの憂鬱】
エデン国とラヴド国。
かつて鉄の奔流が衝突し、血の代わりにオイルが大地を濡らしたその国境線の上に、今は一軒の教会が静かに佇んでいる。
吹き抜ける乾いた風が、簡素な木造の尖塔を揺らす。教会の名は「聖・ヴァレン教会」。
二年前、自らを賭してメダロットを無へと還そうとした「死神」の名を冠した場所だ。
この教会の創設者であるナギサは、かつてエデン軍最強の戦闘集団『十二使徒』の一角として戦場に詩を奏でていた。
そして、彼と共に教会を支えるシスター、ワンダ。
彼女もまた、ラヴドの一級兵士として最前線を駆け抜け、世界を救った「最後の戦い」の生き証人である。
二人は今、軍装を脱ぎ捨て、かつての宿敵同士という垣根を越えて、祈りと共にこの地を守っていた。
この二年で、教会は路頭に迷う者や心に傷を負った者たちの寄り代となっていた。
ある者は救いを求めて膝をつき、ある者はただ行き場のない夜を越すために扉を叩く。
ナギサの奏でる穏やかな言葉と、ワンダの時に厳しくも温かい献身は、荒廃した人々の心を静かに癒やし続けてきた。
空が夕刻の朱に染まり始めた頃、一台の軍用車が音もなく教会の前で停車した。
重厚な外套を深く纏い、周囲を警戒するようにして降り立った一機の女性。
彼女の足取りは、平和を象徴するこの場所にはそぐわないほどに硬く、そして微かに震えていた。
教会の扉が、重い音を立てて開く。
出迎えたワンダは、フードに深く隠されたその顔を一目見るなり、すべてを察したように柔らかく微笑んだ。
ワンダ:「あ、またアノ人に会いに来たのね?」
その言葉は、シスターとしての包容力と、かつて死線を共にした戦友としての慈愛に満ちていた。
ワンダは招かれざる客ではなく、迷える友を導くようにして、その女性を優しく教会の奥へと迎え入れた。
―
教会の平穏な空気の下、その地下深くには、一般の信徒はもとより、ラヴドやエデンの政府高官でさえ預かり知らぬ「聖域」が存在している。
迷宮のように入り組んだ通路の最果て。
そこに鎮座する鋼鉄の扉は、現代の最新技術を以てしても容易には破れぬ厳重な電子ロックによって封じられていた。
外側からの解除がなければ、内部から抉じ開けることは不可能。
ここは紛れもなく「檻」であった。
だが、その冷徹な防壁に守られた部屋の主――カヲスは、二年前から一度として、外の世界を欲する素振りを見せたことはない。
かつて反人間組織『エデン』の頂点に君臨し、世界を震撼させた白い龍。
表向きは戦死したと告知された彼が、今、この地下室で何に心血を注いでいるのか。
それを知る者は極僅かである。
部屋に入った当初、そこはコンクリートに囲まれた無機質な空間に過ぎなかった。
しかし二年の月日は、元・天才科学者である彼の執念によって、死の檻を生命の揺りかごへと変貌させていた。
微かな土の匂い。滴る水の音。そして、部屋の八割を埋め尽くしているのは、可憐なキク科の植物――『コスモス』の鉢植えである。
太陽の光さえ届かぬはずの地下三千メートルで、何故これほどの花が咲き誇るのか。
その答えは、天井から降り注ぐ極彩色の光にあった。
カヲスは、ナギサやワンダに発注した僅かな機材から、わずか一ヶ月で、本物の太陽に等しい全波長を再現する『人工太陽ユニット』を組み上げてしまったのだ。
科学の粋を尽くしたその光は、植物を慈しむように部屋の隅々までを照らしていた。
カヲスは、自身の巨大な白い腕で、繊細なじょうろを器用に操りながら水をやる。
装甲の隙間から漏れる微かな駆動音が、規則正しく部屋の静寂を刻む。
カヲス: 「……もうすぐ……花が開くな…………」
かつては『DISAPPEARANCE』という消滅兵器に注がれていたその鋭い知性は、今や、土から芽吹く小さな命の拍動にのみ向けられていた。
白やピンク、あるいは深紅の花弁がいつ開くのか。我が子の成長を見守るような慈愛。
そんな彼の穏やかな瞑想を、唐突な機械音が破った。
―――ウィ、ィィィィィン……。キィィィィィィン……。
電子ロックが幾重にも解除され、重厚な金属音が地下通路に反響する。
光の向こうから現れたのは、現在の『エデン国』を統治する若き女王であり、カヲスにとってこの世で唯一の「心残り」である女性、コスモスの姿であった。
分厚い外套を脱ぎ去り、一国の長としての威厳を纏いながらも、彼女の瞳にはカヲスの前にだけ見せる、一人の女性としての光が宿っていた。
コスモス: 「相変わらずお元気そうで何よりです」
コスモスは上品に微笑むと、足元の愛らしい花々を傷つけぬよう、細心の注意を払いながら室内へと足を踏み入れた。
その姿はかつての冷徹な副官「ハードネステン」ではなく、一国の運命を背負う女王の気高さに満ちている。
コスモス: 「もうすぐ、咲きそうですね。来るのが明日であれば、美しい花々が見られたかもしれませんね。」
彼女は努めて穏やかな声で、花の成長を称えた。
だが、その言葉とは裏腹に、カヲスの視覚センサーは彼女の僅かな変調を逃さなかった。
普段の彼女であれば、この密やかな逢瀬に僅かな高揚を隠せず、装甲の表面に熱を帯びた淡い桃色の光を宿しているものだ。
しかし、今日の彼女は違う。笑顔の裏側にあるのは、電源を落とされたかのような、生気のない蒼白な光沢だった。
何かを必死に押し殺し、震える意志でここに立っている。
カヲスは手にしていたじょうろを置き、彼女の瞳を真っ直ぐに見据えた。
カヲス: 「……コスモス……何か……悩み事でも……あるのか……?」
その問いは、かつての絶対的君主の命令ではなく、一人の男としての案じる声だった。
コスモスは一瞬、弾かれたように肩を揺らしたが、自分の内面の揺らぎを彼に見抜かれた事実に、切ないほどの安堵を覚えた。
コスモス: 「特別に、何かあったという訳では無いのです。ただ……」
コスモスは言い淀み、視線を自身の足元に咲く小さな蕾へと落とした。
カヲスは急かさなかった。地下室を満たす人工太陽の微かな駆動音だけが、二機の沈黙を繋いでいく。
やがて、彼女は覚悟を決めたように、胸の奥に燻っていた毒を吐き出した。
コスモス: 「カヲス様。私と白メダリアが接触すれば……N・G・ライトが復活して、私は消えてしまうのでしょうか?」
彼女の出自。
N・G・ライト復活実験の『失敗作』として生み出された新人格。
本物の「神」が戻れば、代替品である自分という意識は上書きされ、歴史の塵に還るのではないか。
その根源的な死への恐怖。
カヲスは、一切の虚飾を排し、科学者としての冷徹な結論を口にした。
カヲス: 「可能性は高い……。しかし……それが起きないように……白メダリアは……ラヴドで……厳重に保管されている……だろう?」
カヲスの言葉は事実だった。だが、コスモスの震えは止まらない。
コスモス: 「そうですね……どうも最近、いたずらに胸騒ぎがしてしまったので……すいません」
自嘲気味に息を吐き出すコスモス。そのうなだれた姿を見つめていたカヲスは、白い指先を伸ばした。
逃げ場を塞ぐように、彼女のあご元へ指を添え、強引に、けれど壊れ物を愛でるような優しさでその顔を上向かせる。
視線が、至近距離で交差した。
カヲス: 「仮に……そんな事態になっても……ライトを説得するなり……最悪……倒すなりして……私が……戻してやる。……だから……心配するな……。」
その誓い。たとえかつての「親友」を敵に回してでも、目の前の女を守り抜くという、混沌の龍の傲慢なまでの愛。
コスモスのアイセンサーが激しく明滅し、一気にオーバーヒートしたかのような桃色の光が頬を染めた。
彼女はあたふたと、己の機能を正常に保つのに精一杯といった様子で声を絞り出す。
コスモス: 「は、はい……。」
ようやく戻った彼女らしい表情に、カヲスは満足げな排熱音を漏らした。
だが、二機の甘い静寂を、無遠慮な足音が踏みにじる。
『さて、いちゃついてる所申し訳ないが、そろそろ時間なんでな。戻ってもらうぜ女王さん』
扉の縁に寄りかかり、わざとらしくニヤニヤと笑っているのは、青い装甲のクワガタムシ型――トゥルースのセルヴォだった。
エデン国の影を守る諜報員は、その鋭いセンサーで室内の空気を読み取り、楽しそうに肩をすくめている。
相棒のビートが別任務で不在なのをいいことに、その態度はいつにも増して不遜だった。
コスモス: 「そ、そうですか。では、カヲス様……またお会いしましょう」
コスモスは慌ててカヲスの手から逃れると、外套の襟を正し、女王の仮面を被り直した。
カヲス: 「あぁ……また来るのを……心待ちに……している」
コスモスとセルヴォが部屋を後にし、再び重厚な機械音が鳴り響く。
幾重もの電子ロックが、二つの世界を再び分断した。
人工太陽の下、再び独りとなったカヲスは、コスモスの名を持つ花々に囲まれながら、彼女が遺していった「胸騒ぎ」という言葉の重みを、静かに反芻していた。
第一話【コスモスの憂鬱】終わり