2006年4月16日。曇り空のもと、ここ中山競馬場ではG1レース“皐月賞”が開催されていた。
競走馬にとっては一生に一度のクラシック。その始まりを告げるこのレースは、毎年多くの注目を集める。今年も例にもれず、スタンドは観客でひしめき合っていた。
現在時刻は15時30分。発走時刻まで残り僅か10分ということもあり、既に購入した馬券を握り締めてその時を今か今かと待つ観客も少なくない。これから馬券を購入しようと鉛筆を持つ者も大勢いる。その中に、異様な雰囲気を持つ男が一人。
服の上からでもわかるほどの筋骨隆々の肉体。口もとの傷跡。武の心得がある者なら、彼の立ち姿を見ただけでわかるだろう。只者ではないと。
男の名は禪院―――否、伏黒甚爾。禪院は既に捨てた名だ。そんな甚爾は現在、どの組み合わせを購入すべきかを考えていた。
(やっぱここは手堅く上位人気の複勝、3連複でいっとくか? それだけじゃ負け分は埋まらねえ。大穴狙いで単勝と、3連単を買っとくか。ここが勝負所だしな)
甚爾は天与呪縛によって一切の呪力と引き換えに、強靭な肉体と人知を超えた身体能力を持って生まれた。それは
暗殺だ。呪力のない甚爾を捕捉することは、呪力探知に頼る呪術師にとってはほぼ不可能に近い。偶然手に入れた「物を格納する呪霊」に禪院家から奪ってきた特級呪具を隠し持ち、綿密な計画のもと数多の呪術師を屠ってきた。そんな彼はいつしか裏社会で“術師殺し”の異名で呼ばれるまでになっていた。
今日も暗殺依頼の成功報酬を軍資金に競馬に勤しんでいた。ちなみに、同日に中山競馬場で行われるレースは全部で12。皐月賞は第11レースだ。これまでの10レースにおける収支はマイナス。それなりの高級車を買える程度の額が既に紙屑へと変わっていた。暗殺の報酬に比べれば大した金額ではないが、仕事にも何かと金が要る。これ以上の負けは避けたかった。皐月賞という大一番で、今日の収支をプラスに変える。そう意気込んでマークカードを塗り潰していく。
ちょうどマークし終えた瞬間、人波に煽られてカードが飛んでいく。カードはやや離れた床に落ちた。もう購入締め切りまで僅かな猶予しかない。甚爾は軽く舌打ちしてカードを拾いに行く。
そこを、通りがかった小さな人影がカードを拾い上げて甚爾に差し出した。
「落としましたよ、コレ。あなたのですよね」
「おう、わりいな」
カードを受け取った甚爾は、急いで馬券を購入する。締め切りに間に合わせるため、画面をよく確認しないまま精算し、レース観戦のためにいい位置を確保する。
甚爾が席に着いたのとほぼ同時に、全馬がゲートインを完了する。いよいよ出走だ。
ここで、競馬における馬券の買い方を一通り解説しておく。
まず、馬券とは「勝馬投票券」の略称である。その名の通り、勝利すると予想する馬に投票する券なのだ。馬券に関係があるのは基本的に3着までの馬だ。その中で、買い方には以下の組み合わせがある。
1着になる1頭のみを当てる「単勝」。3着以内に入る1頭を当てる「複勝」。1、2着を着順通りに当てる「馬単」に、順不同の「馬連」。1、2着の枠番号を順不同で当てる「枠連」。3着以内の2頭の組み合わせを順不同で当てる「ワイド」。3着以内の3頭を順番通りに当てる「3連単」、順不同の「3連複」だ。
現在はほかにも「応援馬券」や「WIN5」なる券種も販売されているが、2006年春の時点ではまだだ。
こうした券種と各馬の人気(オッズ)によって払戻金が決まる。1番当てやすい「複勝」が最も払戻金が低く、1番当てにくい「3連単」が最も高くなる。
今回甚爾は、大穴狙いで
ゲートが開き、全馬が走り出す。2000mというこのレース、競走馬なら2分程度で走り切る。勝負はわずか120秒の間に決するのだ。
瞬く間に最終直線。本命の馬は…来ない。馬群に沈み、実況からもその名を呼ばれることはない。最後は先頭に躍り出た5番を追う2番が差し切れずワンツーフィニッシュ。3着は6番と、甚爾が買っていない馬だけが馬券に絡む結果となった。
露骨に不機嫌になる甚爾。負けた以上この馬券もただの紙屑。持って帰る意味もないのでその辺に投げ捨てようとしたのだが―――
「……あん?」
馬券には、甚爾が選んだ組み合わせのほかに「5-2-6」という数字の組み合わせも記されていた。
「…どうなってやがる」
この組み合わせの購入金額は100円。ざっと計算してみたが、払戻金は30万はいかないだろう。だとしても万馬券。ここにいる多くの敗北者たちが羨むような代物だ。
甚爾にはこの組み合わせを購入した覚えなどない。競馬場側の手違いというのであれば素知らぬふりをして払戻金を受け取るつもりだが、いかんせん妙だ。
「的中、おめでとうございます」
背後からのその声に、甚爾はすぐさま振り向く。
幼い子どもの声だ。この声には聞き覚えがある。それほど前ではない。つい先ほど、どこかで聞いた声―――
『コレ、あなたのですよね』
「お前が何かしたってわけか」
「その通りです。流石に気づきますか」
甚爾が記入したマークカードは、一度だけ他者が触れる機会があった。床に落ちたカードを拾い上げた少年。このタイミングで声をかけてきたことといい、少年が何か細工をしたと見るのが自然だろう。
無論、この少年は城崎丈である。
城崎丈は前世において、19歳で死亡した。当然だが、「二十歳から」とされる馬券購入など一度もしたことがない。だが、単純にスポーツとしてのレース観戦は好きだったのである。自身が幼い頃や生まれる前のレースも、有名なG1レースであればその結果もある程度覚えている。
城崎がカードに触れていたのは時間にして3秒もなかった。カードそのものを物理的にすり替えていれば、強化された動体視力を持つ甚爾が見逃すはずはない。
つまり、細工は単なるトリックではない。人知の及ばぬ超常の力によってなされたということだ。
「呪術師か」
「…俺は昔から触れたものを直すことができました。それを使って、あなたのマークした鉛筆の粉を部分的に直しました」
甚爾の抱く疑問は1つ解決した。
城崎は甚爾のマークカードを拾った一瞬で、甚爾が記入した内容に加えて的中する組み合わせも買えるように術式で細工をしていた。
甚爾がマークや発売機の画面を確認すればすべてが水の泡になるが、購入締め切りギリギリであればそれもなおざりになる可能性が高いと踏んだのである。
「いや、待て。術式でマークを書き換えるのはいい。だがどうして結果を的中させられた?」
そう、それが残る疑問。
だが、城崎に答えるつもりはない。少なくとも今は。「自分は転生者で、前世の知識でレースの結果をあらかじめ知っていた」などと言ったところで、頭のおかしいガキだと思われるのがオチだからだ。
そもそも、ここでも城崎は危ない橋を渡っている。呪術廻戦の世界における歴史的事実が現実と全く同じである保証などない。レースの結果が城崎の知るものと同じであったことは完全に幸運だった。
物語の内容も既に変わりつつある。庵歌姫が死にかけるという、本編では存在しなかったであろう出来事が起こっている。
バタフライエフェクトという言葉があるように、些細な違いが大きな異変を引き起こす可能性がある。
だから今日、城崎は“賭け”たのだ。
レースの結果が、自身の知るものと同一である可能性に。伏黒甚爾が、内容を確認せず馬券を購入する可能性に。
全ては、甚爾に自分の存在を印象付けるためだけの賭けだった。やろうと思えば「5-2-6」の一点買いにすることもできた。そうすれば払戻金は億単位だっただろう。だが、城崎は博徒(ギャンブラー)の気質を考慮した。勝ちが見えている賭けなど、享楽に冷や水を浴びせるようなものだ。
「なんで俺が当てられたのかは…そういう能力持ちが知り合いにいるんです」
(嘘だな。話す気はねえってか)「…まあ、そういうことにしといてやる」
明らかな嘘。だが甚爾も深く追及するつもりはない。原理は分からないがこの少年には利用価値がある、そう判断したからだ。
(おそらくコイツは何らかの方法で未来を知り得ている。それに触れたものを直す術式……、鉛筆で書いたモンでも直して内容を改竄できるくらいには応用も利く。コイツは使えるな)
甚爾はレース予想よりもむしろ城崎の術式に利用価値を見出していた。たとえば、仕事で用いる呪具。甚爾の持つ特級呪具はいずれもそう簡単に欠けたりするような代物ではないが、万が一ということもある。
それに、仕事で常に特級呪具ばかり使うというわけではない。特級呪具は抜群の性能を誇るが、使いすぎてその術式効果が知られても拙い。その対策として、よほどの案件でない限りは数打ちの呪具を使うことも多い。そうした呪具は耐久力も低いため、甚爾の膂力についてこられず損耗する。そのたびに買い替えていれば出費も馬鹿にならない。
ものを直す術式なら、それを一気に解決できるかもしれない、と踏んだわけだ。
甚爾は獅子を思わせる獰猛な笑みを浮かべた。
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「それで? 何が目的で俺に接触してきた?」
ファミリーレストランのテーブル席。そこに城崎と甚爾は向かい合って座っていた。
テーブルの上には、皿が所狭しと並んでいる。ほとんどが甚爾の注文したものだ。ちなみに城崎はハンバーグとドリンクバーを頼んだ。
運ばれた料理を平らげ、一息ついたところで単刀直入に質問する。甚爾に接触してきたということは彼が“術師殺し”であると知っているということ。いくら城崎が利用価値のある存在でも、目的が不明のまま側に置いておくリスクを抱える気はなかった。
「……殺してほしくない人がいるんです」
「あん? どういうことだ?」
「殺してほしい」ではなく「殺してほしくない」。意外な言葉に甚爾は面食らう。
今までにも、殺しの依頼を請けたことは何度もある。しかし、殺さない依頼とは初めての経験だ。
「知ってますよね、天元様の同化」
「そりゃあな」(同化周期は500年に一度。そろそろか)
「天元様に同化する“星漿体”は、おそらく命を狙われるでしょう。あなたにも暗殺の依頼が回ってくるかもしれない。それを請けないでほしいんです」
「断る。俺にメリットがねえな」
嘘である。
既に請けた依頼を途中で放棄すれば信頼に傷がつくが、現時点で暗殺依頼はされていない。今後星漿体暗殺依頼を断ったとて、少なくともデメリットはない。
城崎の頼みを聞く対価として仕事道具を無条件で直させる縛りを結べば、甚爾にとってはメリットしかない。
星漿体暗殺依頼の報酬は億はくだらないだろうが、別にそれに固執する意味もない。なぜなら、呪術師の護衛を掻い潜ってまで星漿体を殺すのは甚爾にとっても少なくないリスクがあるからだ。
甚爾は自身が徹底的に暗殺向きであることを理解している。1級呪術師が護衛についたところで、確実に殺せる自信はある。だが、懸念すべきは五条悟。六眼と無下限呪術を併せ持つ青年。その五条悟が護衛につけば、正攻法での暗殺は不可能と言っていい。やりようはいくらでもあるが、金と手間がかかる。
御三家の繋がりで一度だけ見に行ったことがあるが、呪力のない甚爾の気配に気づかれたのは後にも先にもあの時だけだった。
メリットとデメリットを天秤にかける。城崎と組むほうがメリットが大きいのは確かだ。しかし、それでは相手の思惑通りに事が運ぶだけ。できるだけ条件をつり上げて、自身に有利な縛りを結ばせる。それが甚爾の狙いだ。
だが、城崎も甚爾がそういう人間であることは織り込み済み。主導権を渡すつもりはない。
「メリットならあります」
「へえ。何だ?」
「星漿体暗殺依頼を請けなければ、あなたが死ぬことはない」
「……あ?」
その一言は、甚爾の逆鱗を掠めた。
伏黒甚爾
例え子ども相手でも男に奢るつもりはないので、ファミレスを出る際には別々で会計した。親子だと思っていた店員からは驚きの目で見られたが、「これが我が家の教育方針です」みたいな面をして乗り切った。
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