深い水底から浮かび上がるような感覚をシアンは覚えた。やがて意識が覚醒してくると共に、彼は肌寒さを感じる。シアンはゆったりと目を開けると、視界に見知った天井が入ってきた。
掛け布団をずらさぬように身体を捻り、古時計を見るシアン。時刻は午前六時を指しているようだ。既に障子に貼られた紙からは薄っすらと光が入ってきており、夜が明けていることを察する。しかし、屋根を叩く雨音が聞こえており、今日の天気もまた彼は察したのだ。
うぅん、とうめき声を上げ、シアンは体を起こした。彼の耳に入ってくるのは規則的な古時計の音と、ザーッと流れ落ちる雨の音。
ひとまず立ち上がったシアンは洗面所へ向かい、顔を洗った。次に、ヘアオイルを使って寝癖を直す。彼の髪は肩ほどまであるために手入れが必要なのだ。
手鏡を覗き納得するまで髪を整えると、シアンは再び居室に戻り、今度は障子を開けた。そこには分厚い雨雲に覆われた空と、瓦屋根から滴り落ちる雫のカーテンが広がっている。
「今日は雨が続きそうだな」
寝間着である木綿の浴衣を身に纏ったシアンは一人呟いた。その後、彼は肌寒さを覚えたため、すぐに普段着へ着替えることにしたのだ。
朱色の番傘を差し、シアンは濡れた石畳の上を歩いていた。彼が向かっているのはとある店である。
東地区を歩いてしばらくすると、彼は『たまご屋』という店へ辿り着いた。そこは親しみを覚える日本家屋であり、店名の通り卵を主に取り扱っている店だ。
シアンは幾人かが店に入っていくのを見送ると、番傘を畳み、彼もまた同じように入店をした。
店内には疎らに人が居り、殆どの人が朝食を食べているようだ。シアンも例に漏れず朝食を食べに来たため、店員の指示に従い、席につく。
料理を注文してしばらく。シアンの元に朝食のセットが届けられた。溌剌とした女性店員の「おまたせしました!」の声と共に置かれたのは、木製のトレイに載せられた卵かけご飯と味噌汁、そして、小皿に置かれた温泉卵だ。
シアンは手を合わせると「いただきます」と呟き、早速とばかりに食事を始めた。
テーブルに用意された醤油を卵かけご飯へ掛ける。すると、つるつると黄身の表面を滑り落ち、真っ白な白米へと醤油が染み込んでいった。
次にシアンは箸で黄身を割り、軽くかき混ぜると、茶碗を口元へ持っていく。そして、思いっきり口の中へと掻き込んだ。
茶碗に箸が当たりカッカッと音を立てるが、シアンは気にもせずに大口を開けて掻き込み、咀嚼する。
彼の口内に広がるのは黄身のほのかな甘味や、コク、まろやかさであり、これでもかと旨味に満ちた一品だった。また、塩味の利いた醤油のおかげで次の一手が止まらない。
シアンは思う存分卵かけご飯を味わうと、一旦他の料理へ手を伸ばすことにした。
日本人に馴染みのある味噌汁。どうやら赤味噌のようだ。
シアンは茶碗を手に持ち軽く啜ると、これまた濃厚な旨味の暴力に晒された。やや濃い味付けではあるが味噌汁に浮かぶいちょう切りにされた大根や、人参、綺麗な表面を見せる絹豆腐、味噌汁の定番であるワカメ、おまけにひょっこりと顔を覗かせる油揚げのおかげで、飽きもせずに食事を楽しむことができた。また、湯気が立つほどに温かい味噌汁は冷えた身体に染み渡り、思わずほっと息をついてしまう魔力があったのだ。
終始無言で卵かけご飯と味噌汁を堪能したシアンは完食をし、食事の余韻を楽しむように目を瞑る。しかし、まだ温泉卵が残っている。シアンはお冷で一度口の中を洗い流すと、小皿に置かれた温泉卵を自身の近くへ引き寄せた。
白玉の卵を割り、小皿に落とす。そして、温泉卵用のタレをその上から豪快に掛けた。
小皿に沈んだ温泉卵はとろりとしており、心なしか甘い香りを漂わせている。シアンはゴクリと喉を鳴らすと、小さなスプーンで温泉卵を一欠片掬い、口の中へと運んだ。
その瞬間、シアンの口内で爆発が起こった。蕩けるような食感と濃厚が過ぎるコクが、瞬く間に口の中に広がったのだ。
シアンは一瞬目を見開くが、すぐさま手を動かし、温泉卵を口に運ぶ。その一連の動作は誰かに追い立てられるかのようだったが、それは彼自身なのか、はたまた温泉卵なのか。シアンには分からないことであったが、温泉卵が至高の一品であることに間違いはなかった。
やがて、朝食を食べ終えたシアンは満足げな表情で勘定をし、店を後にする。外は相も変わらず雨模様であり、差した番傘からは雨音が鳴り続けていた。
シアンは懐中時計を確認すると、一度自宅へ帰ることにした。今日は迷宮十階層の攻略日であり、それなりに大所帯となるため入念な準備をしておきたかったのだ。
午前八時五十分。番傘を差すシアンは、時計塔の下で今日のメンバーを待っていた。彼の服装はいつも通りの和装であり、バンカラマントに馬乗り袴、そして草履である。
そんな彼の隣にはチェック柄のディアストーカーハットと、インバネスコートを身に纏った女性がいた。彼女はいつぞやの取材でお世話になったシャーロットだ。
「楽しみですねぇ、迷宮十階層攻略。ワタシ、先ほどからワクワクが止まりませんよ!」
「シャーロットは、迷宮が好きなのか?」
「どちらかというと、探索者でしょうか。泥臭い剣戟シーンや、派手な魔法が炸裂するシーンを是非とも、このカメラに収めたいんですよ! そこに物語性があると、なお良しですね!」
「なるほど、バトルシーンに心が踊るタイプか」
「ええ。それに、今回は秘密兵器を用意しました!」
迷宮十階層攻略の取材へやってきたシャーロットは、魔法のリュックより手のひらほどの大きさの四角い物体を取り出した。それはレンズと思われる円柱形の突起が生えており、手で持つためのグリップがある。なんとも古めかしさを覚える外観だが、シアンはなんとなく予想をつけながらシャーロットへこれは何なのかと問いかけた。
「手持ちのフィルムカメラです! 石版通販でのお値段は、なんと100万ポイント! ですが、魔法道具の一種でして、最大五分間の映像を撮影できます!」
「フィルムなら、現像しなきゃ見れないんじゃないか? あと、映写機とかを用意しなきゃ駄目だと思うが」
「フッフッフ。シアンさん、ワタシはしっかりと用意しました。フィルムカメラを合わせて、計200万ポイントの出費です……!」
「凄いな、いろんな意味で」
シアンが詳しく話を聞くと、全て魔法道具であり、初心者にも優しい仕様になっているとか。だが、石版通販が割高とはいえここまでボッタクリなのはキツイな、と彼は思った。
「石版通販は便利だが、些か高くないか?」
「仕方ありませんよ。女神様が、生産職の転移者に配慮をした結果でしょうから」
「なるほど、そういうことか」
ため息をついたシャーロットをシアンが見つめていると、雨音に混ざって話し声が聞こえてきた。シアンがそちらへ振り向くと番傘を差したマルとジェイ、そして、洋傘を差したディアベルとツムギ、ローズがいたのだ。
「おはようでよ〜!」
「おはようやでぇ!」
「おはよう、今日はよろしくね」
「おはよう、二人とも!」
「おはようですわ!」
朝からテンションの高いメンバーにシアンとシャーロットは挨拶を返す。そう、今回の迷宮探索のメンバーは黎明隊の三人に加えて、ディアベル、ツムギ、ローズを足した六人編成である。なお、シャーロットは戦闘に加わらないためメンバーには入れていない。
「じゃ、迷宮へ行くか」
「せやな!」
「行くでよ!」
時刻もちょうど午前九時を指しており、特に大きな問題もない。そのため、シアンはパーティーメンバーと共に迷宮のある噴水広場へと向かった。
迷宮十階層。通称、地下墓地。そこは岩壁を綺麗にくり抜いた地下空間が迷路のように続く、薄暗い階層であった。その様はまさしく迷宮と呼ぶに相応しく、それに見合うように多くの罠が仕掛けられている。また、アンデッドと呼ばれる魔物が犇めいており、数で持ってして探索者たちへと襲い掛かってくるのだ。
迷宮五階層は探索者の最初の壁と謳われている。だが、迷宮十階層はそれを越え、探索者を殺す第二の壁と謳われていた。そもそもとして、十階層へ到達した探索者の数は少なく、彼らをより選別するかのように危険度が高い階層なのだ。もしも十階層を踏破できたのなら、中級探索者を自称しても誰も咎めないことは明白であった。
入り組んだ地下墓地には等間隔に松明が飾られていた。しかし、大小様々な部屋がいくつも存在し、分岐も多い。シアンたちは迷宮ガイドを片手に進んでいるが、物陰が多く何処からアンデッドが出てくるのかと常に気を配っていた。
シアンは後方にてローズと共に歩く。前方にはディアベルとマル、ジェイとツムギが簡易的なバディを組み、周囲を警戒しながら歩いていた。
「不気味な場所ですわね。ですが、案外静かでもありますわ」
「そうだな。ちなみに、十階層は序盤、中盤、終盤と分けられているらしい。ここは序盤に当たるんだろうな」
シアンたちが今いるのはやや大きめな部屋の中だ。そう聞くと比較的安全に思うかも知れないが、実態は少し異なる。というのも部屋の中央には太い石柱があるため、予想以上に部屋が狭いのだ。また、その柱には人骨と思われる物体が幾重にも重なっており、ちょうど目線の高さに綺麗に横並びにされた頭蓋骨がある。加えて、四隅の壁にも石柱と同様に人骨が積み上げられており、所々にアクセントとして取り入れられた横並びの頭蓋骨が主張をしてくるのだ。
シアンは部屋の装飾をやや不気味に思うが、それ以上に不安要素があった。それは、どの部屋も天井が低いことだ。
ちらとマルを見やったシアンは、彼女が大太刀ではなく刀を腰に差していることを確認した。これは事前に情報を集めていたがために変更できた事柄だ。この狭い迷宮内で大柄な武器は満足に扱えないと判断したのである。
しばらくの間、シアンたちは順調であった。部屋はいくつかの道に分岐をするが、迷宮ガイドのおかげで迷うこともなく進んでいく。また、足元から槍が突き出てきたり、からくり仕掛けの床を踏むと毒矢が飛んでくるなどの罠があったが、幸いにもツムギとジェイのおかげで回避をすることができていた。
だが、危機とは唐突に訪れるものである。
比較的広い部屋へと辿り着いたシアンたちは突如として出入り口を防がれた。巨大な岩扉が、派手な音を立てて閉じてしまったのだ。
即座に周囲を警戒するシアンたちの耳に、カタカタという音が入る。やがて、多くの石柱が等間隔に並んだ部屋には大量の動く骸骨、スケルトンたちで溢れ返っていた。
「僕とマルちゃん、ツムギちゃんで前衛を張るよ!」
「ワイはディアベルはんたちを援護するで!」
「ローズ、俺たちは遠くの敵を倒すぞ」
「了解ですわ!」
事前に決めていた陣形を素早く取ったシアンたちにスケルトンたちがなだれ込んでくる。その様はまるで荒波のようであり、これから起こる波乱を予兆させていた。
次から次へと迫るスケルトンたちを長剣で持ってして砕く。そして、乱雑に振るわれた白骨化した腕を盾で防ぎ、下半身へ掴み掛かろうとするスケルトンの頭部を踏み砕く。
ディアベルはスケルトンたちの猛攻を冷静に凌いでいた。しかし、彼らの数が予想以上に多い。
ディアベルがちらと左右へ視線を向けると、流麗な太刀筋でスケルトンを処理するマルと的確な打撃でスケルトンを打ち砕くツムギを捉えた。彼は頼もしい限りだと笑みを浮かべて、眼前のスケルトンへと横薙ぎを繰り出す。
「マルちゃん、ツムギちゃん! 武器持ちが来るよ! 気を付けて!」
「へえ! 楽しそうでよ!」
「おっけー!」
彼女たちの軽い返答に笑ったディアベルの前方には、錆びた曲刀を持ったスケルトンたちが大勢いた。しかし次の瞬間、目にも止まらぬ速さで翔けた矢が数体を貫通しながら通り過ぎ、その後を追うように眩い火球が放たれたのだ。
ある程度の広さがあるとはいえ、天井が低い地下空間。そこで高密度の爆炎が炸裂し、武器持ちのスケルトンたちを木っ端微塵に吹き飛ばした。それにより、既に倒れたスケルトンたちの残骸と魔石へと変わっていくがために発生する黒い霧が、熱風に追いやられて散っていく。その様子を見ていたディアベルはこれはいけそうだなと妙な安堵に包まれていた。
「あ〜⁉ シアン、それはわたしの獲物でよー‼」
「そんなこと言われても」
マルが狙いをつけていたであろう武器持ちのスケルトンが、シアンの『破砕』によって粉々に砕かれたようだ。マルが抗議をするがシアンは聞く耳を持たず、次々と魔法を放つ。
やがて、不穏分子であった武器持ちスケルトンは後衛組に駆逐され、無手のスケルトンたちもディアベルたち前衛組の奮闘によって殲滅されたのだった。