転生
その日、佐藤雄馬は本屋で真剣な顔をしていた。
学校帰り。制服のまま立ち寄った駅前の大型書店で、彼は棚の前に腕を組み、人生でもそうそうないくらい悩んでいた。
(賭ケグルイにするか……いや、ぐらんぶるも捨て難い)
財布の中身は千円ちょっと。
どちらも一冊六百円前後。片方なら買える。二冊は無理だ。
しばらく悩んで、雄馬は深々と息を吐いた。
(……いや、金ないなら買うべきじゃないな、これ)
我ながら堅実な判断だ、と思いながら店を出る。
欲望に勝った達成感はあったが、心はちょっとだけ負けていた。
自動ドアを抜け、信号待ちの列に並ぶ。夕方の空はまだ明るく、人通りも多い。どこにでもある、平凡な一日の終わり――のはずだった。
ふいに、反対側の歩道が騒がしくなった。
(なんだ? 祭りか何かでもあったっけ)
青信号が点滅し始める。
その直後、悲鳴が上がった。
空気が変わった。
ざわめきではない。もっと切羽詰まった、皮膚を粟立たせる音だった。
顔を上げた雄馬は、そこで男を見た。
黒のパーカー。黒のズボン。深く被った帽子の下、のぞいた目だけが異様に爛々としている。右手には鈍く光るコンバットナイフ。
男は、まっすぐこちらへ走ってきていた。
(……は?)
頭は理解した。
だが、身体がついてこない。
逃げろ、と脳は叫んでいる。
けれど足は、路面に縫い付けられたみたいに動かなかった。
(嘘だろ、おい。動けって。動けよ……!)
恐怖が全身を掴んでいた。
呼吸が浅くなる。心臓が暴れる。視界だけが不自然なくらい鮮明だった。
ようやく足に力が入った時には、もう遅い。
男の影が目の前に迫り、次の瞬間、腹に灼けるような痛みが走った。
「――っ」
声にならない。
何かが体の内側に入り込んで、熱いものが一気に零れ出していく感覚。膝から力が抜け、雄馬はその場に崩れ落ちた。
遠くで悲鳴が聞こえる。
誰かが逃げる足音。
誰かが通報しろと叫んでいる。
男はまだ止まっていなかった。雄馬を刺したあとも、なおナイフを振り回しながら次の獲物を探している。
(……止め、ねえと)
痛みで意識が霞む。
息を吸うたび喉が詰まる。けれど、ここで倒れていたら、誰かがまた刺される。そんな考えだけが、妙に鮮明だった。
理解できない。
正義感なんてたいそうなものを持っていた覚えもない。喧嘩だってしたことがないし、自分がヒーローの器だとも思わない。
それでも、身体は動いていた。
雄馬は血に濡れた手で地面を押し、ふらつきながら立ち上がる。近くの電柱にもたれ、息を整える間もなく、男の背中へと歩き出した。
足が重い。
一歩ごとに、命が抜けていくみたいだった。
それでも距離を詰める。
三メートル。二メートル。もう少し――
その気配に気づいたのか、男が振り返った。
一瞬だけ、目が合う。
その目には驚きはあっても、躊躇いはなかった。
再び、刃が雄馬の腹に突き立った。
「が……っ」
今度こそ、足が折れそうになる。
けれど雄馬は歯を食いしばり、男の右腕を両手で掴んだ。
「捕まえた、ぜ……!」
渾身の力で捻る。
男が呻き、ナイフが地面に落ちた。
そのまま顔面へ拳を叩き込む。喧嘩慣れなんてしていない、素人の一発だ。派手に吹き飛ばすことなんてできない。それでも、怯ませるくらいはできた。
「てめぇッ!」
次の瞬間には殴り返され、雄馬の身体は軽々と吹き飛んだ。背中からアスファルトに叩きつけられ、肺の空気が全部抜ける。
男が馬乗りになろうとした、その時。
「動くな!」
怒号とともに、警官が横から男に飛びかかった。周囲にはいつの間にかパトカーが停まり、何人もの警官が駆け寄ってきていた。
「大丈夫ですか!? 聞こえますか!?」
女性警官の声が近くでする。
だが雄馬は返事をする気力もなく、首をわずかに振るだけで精一杯だった。
「救急車が来ます、もう少しだけ頑張って!」
その言葉を最後に、意識は闇に沈んだ。
◇
次に目を開けた時、そこは真っ白な空間だった。
病院ではない。
天井も壁も床も、あるようでない。ただ白だけがどこまでも続いている。
そこにぽつんと椅子が一脚。
そして、いつの間に現れたのか、見覚えのない男が立っていた。
「お目覚めですか、佐藤雄馬さん」
「うぉっ!?」
反射的に飛び退き――かけて、腹の痛みがないことに気づく。
制服は刺された時のまま。なのに、穴も血も傷もない。
雄馬は自分の腹を触り、何度か瞬きをした。
「……夢?」
「残念ながら、夢ではありません」
「じゃあ病院?」
「でもありません」
「となると……あれか。よくある死後の世界的な」
「はい。皆さんの言うところの“神”と呼ばれる立場の者が、今あなたの前にいます」
雄馬は数秒、黙った。
「……紙?」
「神です」
「ですよね」
軽口を返しながらも、頭の中は妙に冷えていた。
こういう時、人間は逆に冷静になるのかもしれない。
「俺、死んだんすか」
「はい」
あっさりと告げられた。
思ったよりショックはない。いや、ないわけではない。けれど実感が追いつかない。さっきまで本屋で漫画を悩んでいたはずなのに、次の場面で死後の世界なのだ。感情が追いつく方がおかしい。
「……で、なんで神様がそんな申し訳なさそうな顔してるんです?」
「本来、あなたはあの場で死ぬはずではありませんでした」
「はい?」
「こちらの手違いです。正確には、あなたの死期は九十年ほど先でした」
雄馬は目を見開いた。
「九十年!? じゃあ百歳超えコースだったの、俺!?」
「ええ。かなり健康に長生きする予定でした」
「それを通り魔で雑に回収したと」
「……返す言葉もありません」
神は本当に申し訳なさそうに頭を下げた。
ここまで神様らしさのない神様もどうなんだ、と思ったが、土下座されると逆に困る。
「いやまあ、やっちまったもんは仕方ないですけど」
「許していただけるのですか?」
「許すも何も、今さら殴っても生き返るわけじゃないでしょ」
そう答えると、神は少しだけ表情を和らげた。
「その代わり、償いとして別の人生を用意しました」
「……別の人生?」
「転生です」
思わず目が輝いた。
「マジで? それって、異世界?」
「厳密には、あなたの知る創作世界の一つです」
「おお……」
「転生先は『魔法科高校の劣等生』の世界になります」
そこで雄馬の顔が少し引きつった。
「うわ、よりにもよってバトルものか……」
「危険な世界ではあります。ですから、相応の補填も用意しています」
神が指を鳴らすように手を振ると、白い空間に淡い光が浮かんだ。
「一つ、あなたには強い“縁”を持たせます。あなたがよく知る英霊たちとの縁です」
「……サーヴァント?」
「はい」
「それ、かなりデカいですね……」
雄馬は腕を組み、真剣に考え込んだ。
最強の力を一つ貰う。
確かにそれも魅力的だ。だが、いきなり自分が万能になれる気はしない。なら、自分よりずっと強く、しかも背中を預けられる相手がいる方が生存率は高い。
(ギルとかヘラクレスとかは扱い切れる気がしない。だったら――)
「扱いやすいサーヴァントを、六騎くらいお願いできます?」
「こちらで選定して構いませんか?」
「そっちの方が安心です。俺の趣味で選ぶとたぶん偏るんで」
神は苦笑して頷いた。
「では、そのように」
「あともう一個あるんですよね」
「ええ。身体能力の底上げを」
「最初から最強、じゃなくていいです。ちゃんと鍛えた分だけ伸びる感じでお願いします。どうせ行くなら、置いていかれるだけってのは嫌なんで」
それは雄馬の本心だった。
強い仲間に守られるだけの人生は、たぶん楽だ。けれどそれでは、いざという時に誰も守れない。
神は少しだけ目を細めた。
「……あなたらしい願いですね」
「俺らしい、ねえ」
自分ではよく分からない。
ただ、死ぬ間際に身体が動いた理由と同じものが、きっと今も胸の奥に残っているのだろう。
神は最後に、事務連絡のような口調で続けた。
「なお、英霊たちと縁を結ぶ以上、あちら側の神秘に触れるための素地はこちらで整えておきます」
「素地?」
「気にするのは、向こうで学ぶ時で構いません」
「雑だなあ、チュートリアル」
「そこは、第二の人生のお楽しみということで」
神がそう言った直後、雄馬の足元に光の輪が広がった。
幾何学模様が重なり、複雑な紋様を描いていく。いかにも“転生します”と言わんばかりの魔法陣だった。
「それでは、良い第二の人生を」
「……はい」
雄馬は一度だけ、深く息を吸う。
もう元の世界には戻れない。
家族も、友達も、学校も、本屋の棚も、もう手の届かない場所にある。
寂しさがないわけじゃない。
怖くないわけでもない。
それでも。
「行ってきます」
その一言を合図に、光が弾けた。