翌朝。
まだ空気に朝の冷たさが残る中庭で、雄馬は一本の木剣を手に立っていた。
握って最初に思ったのは、想像していたよりずっと“武器”だ、ということだった。
木でできている。刃もない。命を奪うためのものではなく、あくまで鍛錬用だ。頭ではそう分かっている。だが、実際に手に持てば分かる。これはただの棒ではない。振るための形をしていて、扱い方を間違えればそれだけで身体がぶれる。
その違和感と重みを確かめるように握り直したところで、正面から静かな声が飛んだ。
「まず、握りが違います」
即座だった。
雄馬は思わず顔を上げる。
正面にはアルトリア。いつも通り、背筋を真っ直ぐに伸ばし、隙なく立っている。じゃんけんに勝って剣を教えることが決まった日の、あの微妙に分かりやすい嬉しさはもうどこにもない。今ここにいるのは、完全に“教える側”のアルトリアだった。
「……まだ持ち直しただけなんだけど」
「持ち直した段階で分かります」
迷いのない返答だった。
「握り込まないでください。必要以上に固い。支えるように持つのです」
言われるまま、少し力を抜く。
「抜きすぎです」
「早いな」
「いまのは早いのではなく、明確に違います」
「容赦ないな……」
「基礎ですから」
それで全部片付けられてしまうあたりが実にアルトリアだった。
雄馬は息を吐いて、もう一度木剣を握り直す。今度は力を込めすぎず、かといって抜きすぎず。支える感覚を意識して、手の中へ収める。
するとアルトリアは、ほんのわずかに頷いた。
「それです。では次に、足を」
そこからだった。
本当の意味で、稽古が始まったのは。
足幅が違う。
重心が前に寄りすぎている。
膝が固い。
腰が浮いている。
肩に力が入っている。
肘がわずかに開いている。
視線が近い。
顎が上がっている。
木剣の角度が違う。
手首が硬い。
「いや、ちょっと待ってくれ。そんなに駄目か?」
「はい」
「そこも即答なんだな……」
「曖昧にしていいところではありません」
静かな口調なのに、一歩も引かない。
アルトリアは一本一本、容赦なく指摘してくる。怒鳴るわけではない。責め立てるわけでもない。ただ、違うものを違うと正確に告げてくるだけだ。
そのぶん、逃げ道がなかった。
「もう一度」
言われて直す。
「少し良くなりました。ですが、まだ腰が高いです」
直す。
「今度は肩です」
直す。
「手首が固いですね」
直す。
「足が開きすぎです」
直す。
「重心が逃げています」
直す。
延々と、それの繰り返しだった。
ようやく形になった、と思えた頃。
アルトリアは淡々と告げた。
「では、その姿勢を維持してください」
「……どれくらい?」
「まずは二時間ほど」
「二時間!?」
思わず声が裏返った。
木剣を落としかけたところで、すぐに視線が飛んでくる。
「落とさないでください」
「いや、驚くだろ!? 初日だぞ!?」
「初日だからです」
「そこ、“だから”で繋がるのか……?」
「正しい形を身体へ刻むには、必要です」
冗談ではないらしい。
本気だ。
本気でこの構えを二時間やらせるつもりなのだ。
雄馬は空を仰ぎたくなったが、視線をずらした瞬間にも指摘されそうな気がしてやめた。
結局、そのまま構えを維持することになった。
最初の十分は、まだよかった。
指摘された箇所を頭の中で並べ直し、重心を探り、呼吸を整える余裕もあった。
二十分が過ぎると、腕がじわじわ重くなる。
三十分で肩と背中が焼けるようにだるくなり始める。
四十分を過ぎたあたりで、脚が笑い始めた。
「……もう無理そうなんだけど」
「まだ一時間も経っていません」
「返しが冷静すぎるだろ……!」
「鍛錬ですから」
またそれだった。
その一言が、どこまでも強い。
そこへ、様子を見に来たらしい沖田が顔を出した。
「おお……」
雄馬の姿を見て、ぱちぱちと瞬きをする。
「これはまた、しっかりやってますね」
「しっかりっていうか、かなり容赦ないんだけど」
「アルトリアさん、何を?」
「まずは正しい構えを覚えさせています」
「なるほど!」
沖田は元気よく頷いたあと、雄馬の顔を見て苦笑した。
「でも、かなりきつそうですね」
「かなりどころじゃない……腕も脚ももう怪しい」
「そうでしょうね。構えるだけって、一見簡単そうに見えるんですけど、ちゃんとやると逃げ場がないんですよ」
「知ってるなら止めてくれ」
「止めませんよ?」
にこやかだった。
まったく助け舟にならない。
「むしろ初日にこれをやるなら、アルトリアさんはだいぶ加減してる方かと」
「これで!?」
「これで、です」
その会話の最中も、アルトリアの目はずっと雄馬の構えを見ていた。
「雄馬。左肩が下がっています」
「会話くらいさせてくれ……!」
「会話と姿勢は両立できます」
「理屈は正しいけど厳しすぎるだろ……」
「鍛錬ですから」
やはり、そこへ戻る。
時間が経つほどに、雄馬の身体から余裕が削れていった。
腕が重い。背中が痛い。脚は熱を持ち、指先までじわじわ痺れてくる。握力も怪しい。
木剣を持って立つだけ。
ただそれだけのはずなのに、逃げ場がない。
「雄馬さん」
今度はジャンヌが近づいてきた。
心配そうな顔をしているが、止めるつもりはなさそうだった。
「呼吸が浅くなっています」
「浅くもなる……」
「ですが、そこを乱すと余計に苦しくなります。ゆっくり、整えてください」
「……分かった」
息を吸う。吐く。
崩れそうになる構えをどうにか支えながら、呼吸だけを整える。
ほんの少しだけ楽になった。
その変化を、アルトリアがすぐに拾う。
「今のです。その感覚を覚えてください」
「褒めるならもっと早く褒めてくれ……」
「褒めるための鍛錬ではありません」
「知ってるよ……!」
結局、二時間が終わる頃には腕も脚もほとんど終わっていた。
だが、終わらなかった。
アルトリアは何でもないことのように続ける。
「では次に、振ります」
「まだあるのか……」
「当然です」
当然らしい。
雄馬は本気で空を見上げかけて、ぎりぎりで踏みとどまった。
そこから始まったのは素振りだった。
ただし、楽な素振りではない。
「違います」
振る。
「手だけで振っています」
振る。
「軸がぶれています」
振る。
「肘が流れています」
振る。
「振り下ろしが速すぎます」
振る。
「今度は遅すぎます」
振る。
「足が死んでいます」
振る。
「腰がついてきていません」
振る。
「剣先がぶれています」
「細かくないか!?」
「細かいのではありません。必要なことです」
「必要なのは分かるけど!」
「分かっているなら続けてください」
逃がしてもらえない。
半分どころではない。十分にスパルタだった。
アルトリア本人にそのつもりはないのだろう。きっと本気で、丁寧に基礎を教えているだけだ。だが、教わる側からすれば、相当厳しい。
少しでも振り方が違えば止められる。
軌道がぶれれば指摘される。
力みが出ればすぐに分かる。
雑に振れば当然やり直しだ。
「手首だけで斬らないでください」
「……はい」
「いまの返事は、分かっていない時の返事です」
「そこまで分かるのか……」
「分かります」
恐ろしいほど分かるらしい。
少し離れたところで見ていたエミヤが、呆れたように肩を竦めた。
「アルトリアの言う通りだ。いまの振りは形をなぞっているだけで、身体が繋がっていない」
「エミヤまで乗るのか……」
「乗るも何も、基礎が甘いのは事実だろう」
淡々とした口調だった。
「雄馬は魔術でもそうだが、理屈を頭で先回りさせる癖がある。だが、剣はそれだけでは動かない」
「耳が痛いな……」
「痛いうちに直した方がいい」
その一言があまりにも真っ当で、余計に刺さる。
するとアルトリアが、木剣を構えたままの雄馬から目を離さずに言った。
「シロウ」
「なんだ」
「余計な甘さは要りません」
「分かっている。だから余計なことは言っていないつもりだが」
「なら結構です」
短いやり取りだった。
だが、その温度の低さの中に、妙に噛み合った信頼がある。雄馬にはそれが少しだけ可笑しく見えたが、笑う余裕はもう残っていなかった。
結局、初日の稽古は、構えと素振りだけで終わった。
ただそれだけ。
ただそれだけなのに、終わった頃には全身が完全に空だった。
腕は上がらない。脚は棒のようだ。肩も背中も腰も、全部が熱を持っている。指先にまで疲労が詰まっている感覚があった。
中庭から部屋へ戻る頃には、もうまともに口を利く余裕すらなかった。
「……雄馬さん、大丈夫ですか?」
ジャンヌが隣から心配そうに声をかける。
「大丈夫じゃない気がする……」
「それはそうでしょうね」
沖田が妙にしみじみと言った。
「初日からあそこまで徹底するとは思いませんでした」
「沖田」
アルトリアが静かに名を呼ぶ。
「はい?」
「私は必要なことをしただけです」
「ええ、そうでしょうとも」
沖田は素直に頷いたあと、雄馬を見て苦笑した。
「でも雄馬さん、たぶん明日はもっと筋肉痛ですよ」
「やめてくれ……」
ようやく部屋へ辿り着き、扉を閉めたところで、雄馬の身体はそこで限界を迎えた。
数歩進んだだけで膝が抜ける。
「うわっ――」
どうにか受け身だけは取りながら、そのまま床へ倒れ込む。
大の字だった。
綺麗なくらい、見事な大の字だった。
天井が見える。
動けない。
腕を上げようとしても上がらない。脚を動かそうとしても重い。呼吸をするたび、身体のあちこちがじんじんする。
「……これを毎日続けるの、かなりきついな……」
誰に言うでもなく呟く。
返事はない。
けれど、その静けさの中で、雄馬は今日一日の重みを改めて思い知っていた。
剣を教わるというのは、もっと格好いいものだと思っていた。
華麗な動き。鋭い一撃。そういうものをどこかで想像していた。
だが、実際は違う。
地味で、細かくて、逃げ道がなくて、ひたすら身体へ刻み込む作業だった。
構え。
重心。
呼吸。
握り。
振り。
そのどれもが疎かにできない。
そして、それをアルトリアは一切妥協せずに求めてくる。
「……そりゃ、強いわけだよな……」
天井を見たまま、ぽつりと漏らす。
あの厳しさは、気分でやっているものではない。
強さのために必要なものを、必要なだけ、まっすぐ積み上げてきた者の厳しさだ。
きつい。
正直、かなりきつい。
けれど――
雄馬は重い腕をほんの少しだけ動かしてみる。ぴくりとしか上がらず、すぐに落ちた。
それでも、木剣を握った感覚はまだ手の中に残っていた。
あの構えを、少しずつでも自分のものにできるなら。
あの剣に、ほんの少しでも近づけるなら。
「……やるしかない、か」
そう呟いたところで、もう限界だった。
目を閉じる。
身体は空っぽだった。だが、不思議と胸の奥だけはまだ熱かった。
こうして、雄馬の剣の稽古初日は、体力を綺麗に使い切った大の字のまま終わったのだった。