剣の型が、ようやくそれらしいものになってきた頃だった。
朝食の席で、アルトリアが静かに茶器を置いた。
「シロウ。雄馬の剣ですが、基礎の型はかなり安定してきました」
その一言で、食卓の空気が少しだけ引き締まる。
「重心の置き方、踏み込み、構えの維持。まだ粗さはありますが、次へ進ませてもよい頃合いかと」
エミヤは配膳の手を止め、短く視線を上げた。
「……そうか」
アルトリアは小さく頷く。
「そろそろ、刀を教えてもよいのではないでしょうか」
その瞬間だった。
「はい!」
がたっと勢いよく立ち上がったのは沖田だ。
「ついにですね! ついにです! 雄馬さん、今日は早く食べてください! すぐ行きましょう!」
「いや、今言われたばっかだろ」
「今だからです! こういうのは勢いが大事なんです!」
身を乗り出す沖田を、後ろから伸びた腕があっさりと止めた。
「待て、沖田」
「はっ!? エミヤさん、何を――!」
「何を、ではない。朝食中だ。訓練は逃げないが、料理は冷める」
「ですが刀ですよ!? 刀なんですよ!?」
「分かっている。分かっているが、だからといって雄馬を急かしていい理由にはならない」
見事な羽交い絞めだった。
じたばたする沖田を見て、アキレウスが声を上げて笑う。
「ははっ、相変わらず元気だな」
クー・フーリンも口元を吊り上げた。
「朝っぱらから飛ばしすぎだろ、沖田。飯の前に気合だけ全開にしてどうすんだ」
「だって待ってたんですよ!」
「そりゃ顔見りゃ分かる」
ジャンヌが小さく笑って、雄馬へ向き直る。
「雄馬さん、どうか気にせず。ゆっくり食べてください」
「鍛錬の前だからこそ、きちんと食べるべきです」
アルトリアも落ち着いた声で続けた。
「急いて喉に詰まらせては意味がありません」
「シロウの料理を雑に扱うのも感心しませんしね」
そう言われ、エミヤは肩をすくめる。
「そこまで言ってもらえるなら助かる。ほら、沖田。少し落ち着け」
「うぅ……分かりました……」
ようやく解放された沖田は、しぶしぶ席に戻った。
だが戻ったあとも落ち着きはしない。箸を動かす雄馬の様子を、ちらちらと見ている。
急かしたい。
だが急かせばまた捕まる。
その葛藤が妙に分かりやすくて、雄馬は少しだけ笑った。
「……そんなに楽しみなのか」
そう尋ねると、沖田はぴたりと動きを止めた。
「もちろんです」
今度の声は、先ほどより少しだけ落ち着いていた。
「剣を教えるのも大事ですけど、刀はまた違いますから。足運びも、間合いも、斬る意識も。ずっと教えたかったんです」
まっすぐな言葉だった。
「……そっか」
「はい! ですので食べ終わったら――」
「だから急かすなと言っているだろう」
エミヤの一言が飛ぶ。
「うっ」
食卓に笑いが広がった。
その中で、アキレウスがパンをちぎりながら言う。
「まあ、順番としては悪くねえ。身体の土台はだいぶ出来てきたし、剣の基礎も形になってきた。その上で刀に入るなら、ちゃんと繋がる」
雄馬はその言葉を聞いて、少しだけ背筋を伸ばした。
この一年で徹底的に叩き込まれたのは、ただ剣だけではない。
踏み込み、重心移動、崩れない軸、間合いの出入り。アキレウス仕込みのパンクラチオンで培った土台が、ずっと身体の芯に積み上がっている。
クー・フーリンは茶を啜ってから、軽く鼻を鳴らした。
「最初の頃と比べりゃ、だいぶマシにはなったな。立ち方も、踏み込みも。得物持たせてもすぐ転びそうって感じじゃなくなった」
「その言い方だと、前は相当だったみたいだな」
「相当だったぞ」
クー・フーリンは即答した。
「けど今は違う。そういう意味じゃ、刀に入るのは悪くねえ」
「腹ごなしの時間くらいは取るぞ」
エミヤが淡々と告げる。
「その後なら好きにしろ。ただし初日から昼食に響くほどやるな」
「大丈夫です! 私、加減はできます!」
「君の加減は少し信用しづらい」
「失礼ですね!?」
また笑いが起こる。
そんなふうに騒がしく、けれど穏やかに朝食は終わった。
◇
少し休憩を挟んだあと、中庭へ出ると沖田はすでに待っていた。
手には一本の木刀。
「はい、雄馬さん」
差し出されたそれを受け取り、雄馬は小さく息を呑んだ。
木剣と近いようで、しかし違う。
重心も、握った時の収まりも、わずかに別物だった。
「……違うな」
「気づきましたか?」
「ああ。似てるけど、同じじゃない」
沖田は嬉しそうに頷いた。
「そうです。剣は剣、刀は刀です。もちろん繋がっている部分はありますけど、同じつもりで扱うと必ずずれます」
「一番違うのは?」
「斬る感覚です」
沖田は自分の木刀を軽く構えた。
「押し込むのではなく、通す。力任せではなく、流れで斬る。身体ごとぶつかるのではなく、必要な線だけを通すんです」
「線、か」
「はい。刀は、その線が乱れるとすぐに変になります」
言いながら見せた構えは綺麗だった。
アルトリアの剣とは違う。張り詰めた強さとは別の、抜けるような鋭さがある。
「ただし、です」
沖田は木刀を下ろした。
「だからといって、土台まで別物になるわけではありません。足も腰も死んでいたら、刀だって死にます」
「そこは同じなんだな」
「同じです。ですから、今までやってきたことを切り離して考えないでくださいね」
少し離れた場所では、アルトリアたちが見守っていた。
口を開いたのはアキレウスだった。
「足、見とけよ雄馬。剣の時より、半歩の置き方がずっと細けえ」
「そこは大事だな」
クー・フーリンも頷く。
「刀だからって急に別の脚になるわけじゃねえ。今まで身につけたもんを、勝手に捨てんなよ」
「はい!」
沖田が元気よく返してから、雄馬へ向き直る。
「では、まず構えからいきます。肩の力は抜いてください。握り込みすぎない。ですが、抜きすぎても駄目です」
「……こうか?」
「少し良いです。ですが今度は手首が固いですね」
「難しいな」
「難しいですよ。だから基礎からやるんです」
声音はやわらかい。
だが逃がしてくれるやわらかさではなかった。
「一歩、踏み込んでください」
言われた通りに動く。
「違います」
即答だった。
「今のは剣です」
「やっぱりか」
「やっぱりです。身体ごと前へ突っ込みすぎています。もっと狭く、もっと鋭く」
「もう一回」
「はい」
やり直す。
「今度は腕が先です」
またやる。
「遅いです。考えて止まっています」
さらにやる。
「足が少し重いな」
アキレウスが言った。
「慎重になりすぎてる。もっと素直に出ろ。お前、普段の踏み替えはもう少し自然だろ」
その言葉で、雄馬ははっとした。
確かに、正しくやろうと意識しすぎている。
「肩も上がってるぞ」
クー・フーリンが続ける。
「斬るって考えた途端に固くなるな。力みで殺すな」
「分かった」
短く返し、もう一度構える。
今度は足から。
踏み込むためではなく、通すために前へ出る。
「……そこです」
沖田が言った。
「今のは悪くありません」
その一言に胸が少し熱くなる。
だが次の言葉は予想できていた。
「では、その形を百回繰り返しましょう」
「百回」
「基礎ですから」
「やっぱりそうなるのか」
「なります!」
晴れやかな笑顔で言い切られた。
そこからは、ひたすら反復だった。
踏み込み。
振り下ろし。
戻す。
また踏み込み。
振り下ろし。
戻す。
「膝が流れています」
「今のは肩です」
「呼吸を止めないでください」
「速さだけで振らないでください」
「振り抜いたあとで終わらせないでください。次に繋げる意識を」
何度も、何度も繰り返す。
最初はぎこちなかった。
足幅、腰、握り、手首、視線。考えれば考えるほど身体は固くなる。
それでも回数を重ねるうちに、少しずつ繋がり始めた。
刀は押し切るものではない。
流れに乗せる。
通す。
その感覚を支えるのは、結局この一年で叩き込まれた足だった。
崩されても立て直す足。半歩ずらして入る足。相手との距離を読む足。
アキレウスに転がされながら身につけた土台が、ここへ来て別の形で噛み合い始めている。
「……いいですね」
ふいに、沖田が言った。
「今の一太刀、ちゃんと刀でした」
その一言に、雄馬は息を飲む。
「本当か?」
「はい。本当です」
沖田は嬉しそうに頷いた。
「まだ荒いですし、基礎の基礎ですけど。でも今のは、ちゃんと通っていました」
「……そっか」
「ですので」
にこりと笑う。
「次はその形を崩さずに、二百回です」
「増えてるじゃないか」
「気のせいです!」
「絶対違う」
アキレウスが声を上げて笑い、クー・フーリンも肩を揺らした。
だがそこからも、反復は続いた。
気づけば日は高くなり、朝の冷たさは消え、汗が額を伝って落ちる。
腕も脚も重い。肺も熱い。
それでも、まだ立てる。
剣で絞られ、魔術で神経を削られ、そしてパンクラチオンで徹底的に鍛えられてきた身体が、以前よりずっと先まで動いてくれる。
まだ一歩出せる。
まだ振れる。
そうして積み上げた結果、気づけば五時間が経っていた。
「――今日はここまでです」
沖田の声が聞こえた瞬間だった。
張っていた糸が、ぶつりと切れる。
「あ」
自分でも情けない声だと思った。
次の瞬間には、雄馬の身体はその場に前のめりに倒れ込んでいた。
「雄馬さん!?」
真っ先に駆け寄ってきた沖田が膝をつく。
「だ、大丈夫ですか!? どこか痛めましたか!? 息は!? 視界は!?」
問いかけられても、返事をする気力がない。
痛いというより、もう動けない。
本当に、指一本動かすのも面倒なくらい、全部使い切った感覚だった。
雄馬はかろうじて片手をひらひらさせる。
――無理。もう動けない。
「ほ、本当に限界ですか……!? すみません、少し熱が入りすぎましたか……?」
沖田の声が目に見えてしおらしくなる。
「だろうな」
アキレウスがしゃがみ込み、苦笑した。
「足が完全に売り切れてる。最後までよく保った方だぜ」
「初日から五時間もやりゃ、そりゃそうなる」
クー・フーリンも肩をすくめる。
「怪我って感じじゃねえ。単純に使い切っただけだな」
「大丈夫ですか、雄馬さん」
落ち着いた声とともに、ジャンヌがすぐそばへしゃがみ込んだ。
やわらかな手つきで額の汗を拭い、様子を確かめる。
「ひどい怪我はなさそうですね。ただ、完全に力を使い切っています」
「私、やりすぎましたか……?」
「少しだけ、ですね」
やんわりしているのに、きっちり刺さる言い方だった。
ジャンヌは雄馬の顔を覗き込み、小さく微笑む。
「歩けますか?」
雄馬は沈黙した。
答える元気もない。
それだけで十分伝わったらしい。
「では、失礼しますね」
「え」
短く漏れた声の次には、もう遅かった。
ジャンヌは慣れた手つきで雄馬の腕を取り、自分の背へと回す。
「ちょ、ジャンヌさん」
「動けないのでしょう?」
「……それは、そうだけど」
「でしたら、今は甘えてください」
有無を言わせない、けれど優しい声だった。
そのまま持ち上げられ、気づけば雄馬はジャンヌの背中に収まっていた。
柔らかい。
近い。
それに、ほんのりといい匂いがした。
石鹸みたいな、日向みたいな、落ち着く匂い。
危うく口に出しかけて、雄馬は全力で呑み込む。
そんなことを言ったら、さすがにあとが怖い。
ジャンヌは困るだろうし、アルトリアは無言で見てきそうだし、エミヤは深いため息をつくだろう。沖田はたぶん大騒ぎする。アキレウスは笑い、クー・フーリンは確実に面白がる。
だから、その感想は心の中にしまった。
◇
リビングへ運ばれると、そのまま大きなソファーへ横にさせられた。
身体が沈む。
そこでようやく、もう本当に限界なのだと実感した。
「無茶をしたな」
呆れたように言いながら、エミヤがすぐそばに立つ。
「沖田、反省はあとだ。まずは水だ」
「は、はい!」
慌てて差し出されたコップを、エミヤが受け取って雄馬へ向けた。
「起きられるか」
「……少しなら」
腕だけでは起き上がれず、背を軽く支えられてようやく上体が持ち上がる。
コップを受け取り、一口だけ飲む。
冷たすぎない水が、乾いた喉にすっと落ちていった。
「あ……」
そこで、視界がふっと揺れた。
息をついた瞬間、張っていたものが完全に切れたような感覚が来る。
身体の力が抜ける。瞼が一気に重くなる。
「雄馬さん?」
沖田の声が、少し遠い。
「だいぶ来てますね」
ジャンヌの声も、どこか霞んで聞こえる。
「無理に起こすな。飲めただけで十分だ」
エミヤの落ち着いた声が最後に聞こえた。
もう一口飲もうと思ったところで、その前に意識が沈んだ。
眠る、というよりは、ほとんど気絶に近かった。
◇
次に目を開けた時、天井の見え方が少し変わっていた。
ぼんやりしたまま瞬きを繰り返し、そこでようやく気づく。
まだソファーの上だ。
「……起きましたか、雄馬さん」
すぐ近くでジャンヌの声がした。
視線だけ動かすと、傍らの椅子にジャンヌが座っている。
その向こうでは、リビングの窓から差し込む光の角度が、さっきとはだいぶ違っていた。
「どれくらい……寝てた?」
「二時間ほどです」
穏やかな答えだった。
「そんなに」
「はい。途中で一度だけエミヤさんが様子を見に来ましたが、起こさない方がいいと」
その言葉に、ぼんやりした頭で納得する。
たしかに、今でもまだ身体は鉛のように重い。
だが、さっきの完全に動けない感覚よりは少しだけましだった。
「水、もう少し飲みますか?」
「ああ……頼む」
身体を起こそうとすると、すぐにジャンヌが支えてくれた。
「まだ無理はしないでください」
「……情けないな」
「初日から五時間も刀の基礎をやって、そのあと倒れたのですから、仕方ありません」
やわらかな声音だった。
差し出された水を、今度はゆっくり飲む。
喉がようやく人心地ついた。
すると、どこからともなく声が飛んでくる。
「お、起きたか」
ソファーの背越しに顔を覗かせたのはアキレウスだった。
「見事に落ちてたな」
「二時間きっかりだ。なかなか綺麗な沈み方だったぞ」
クー・フーリンまでいた。
「綺麗な沈み方って何だよ……」
「そのまんまだ」
クー・フーリンが笑う。
そこへ、キッチンの方からエミヤがやって来た。
「気分はどうだ」
「さっきよりは……だいぶ」
「ならいい。水を飲んだら少しして昼にする。もっとも、君の場合は昼というより遅めになったが」
「……すみません」
「謝る必要はない」
エミヤは淡々と答える。
「倒れるまでやったのは褒められたものではないが、初日で潰れるほどやり込んだというのも事実だ。今日はもう、そこまでだ」
その後ろから、しょんぼりした沖田がそろそろと顔を出した。
「その……本当にすみませんでした」
先ほどまでの勢いはどこへやら、すっかりしおらしい。
「つい、楽しくなってしまって……」
「それは分かるけど」
雄馬は水を飲みながら、少しかすれた声で言った。
「本当に、加減は頼む」
「はい……」
返事だけは素直だった。
だがその目の奥には、まだ消えていない熱がある。
きっと次も同じように、嬉しそうな顔で木刀を差し出してくるのだろう。
そう思うと、不思議と嫌ではなかった。
剣の先に刀がある。
その新しい入口に、今日、自分は立ったのだ。
ソファーの背にもたれながら、雄馬は小さく息を吐く。
身体は重い。
腕も脚もまだ鈍く痛む。
けれど、その疲労の奥には確かな手応えが残っていた。
「……次は、もう少し保つようにする」
その一言に、沖田の顔がぱっと明るくなる。
「はい! では次回は今日の続きを――」
「だからまず加減を覚えろ」
エミヤの声が即座に飛んだ。
アキレウスが笑い、クー・フーリンも肩を揺らす。
ジャンヌも小さく口元を緩め、アルトリアは静かに息をついた。
賑やかだった。
それでも、その賑やかさが今は心地いい。
水の残りをゆっくり飲み干しながら、雄馬はまだ少し重い瞼を細める。
今日からまた、新しい鍛錬が始まる。
その実感だけは、眠りのあとでも消えていなかった。