駅から学校までの道は、朝の冷たさをまだ少し残していた。
第一高校前駅から校門までは、それほど長い距離ではない。だからこそ、顔見知りと自然に合流し、気がつけば同じ流れに乗って歩いていることも珍しくなかった。
今日もそうだった。
達也と深雪が改札を抜けて少し進んだところで、美月とエリカとレオが加わり、更にその少し後で雄馬も追いついてきた。誰が決めたわけでもないのに、昨日よりもずっと自然な形で一団が出来上がっている。
もっとも、それ自体は悪いことではない。
ただ――
「達也くーん」
後ろから飛んできた弾んだ声に、達也は内心だけで溜息をついた。
振り向けば、やはり七草真由美だった。軽い足取りで追いついてくる辺り、朝から元気が有り余っているようにも見える。
「おはようございます、会長」
「おはようございます、七草先輩」
達也と深雪がそれぞれ挨拶を返し、続いてエリカたちも頭を下げる。雄馬は一歩引いた位置から、周囲より半拍遅れて会釈した。
真由美の視線が、その雄馬の方へほんの一瞬だけ流れる。だが、そこで何かを言うことはなく、すぐに深雪へ戻った。
「深雪さん、ちょっとお話ししたいことがあるんだけど、お昼はどうする予定かしら?」
「食堂でいただくことになると思います」
「じゃあ、生徒会室で一緒にどう?」
案の定というべき誘いだった。
話の内容をわざわざ確認するまでもない。深雪を生徒会へ勧誘するつもりなのだろう。
達也が黙っている間に、深雪が一瞬だけこちらを見た。
「お兄様もご一緒でしたら、ぜひ」
その答えに、真由美の笑みが少し深くなる。
「もちろん。達也くんも一緒で構わないわよ?」
断れば断ったで角が立つ。しかも相手は生徒会長だ。入学早々、余計な波風は立てたくない。
「分かりました。深雪と二人で伺います」
「ええ、待っているわ」
軽やかな足取りで去っていく真由美の背を見送りながら、達也は昼休みの気重さを思った。
「朝から濃いな……」
レオが率直な感想を漏らす。
「生徒会長って、もっと近寄りがたい方かと思っていました」
美月が困ったように笑い、エリカが肩をすくめる。
「近寄りがたいっていうか、距離の詰め方が独特なのよ」
そこで雄馬がぼそりと口を開いた。
「司波」
「何だ」
「今の時点でもう嫌な予感しかしないんだけど」
「多分、気のせいじゃない」
「だろうな」
深雪はそんな二人のやり取りを見て、わずかに表情を和らげた。
◇
足が重かった。
たかが二階分の階段を上がったくらいで音を上げるような鍛え方はしていない。重いのは身体ではなく気分で、足取りの鈍さは比喩に過ぎない。だが、前へ進みたくないという意味では、十分すぎるほど現実味があった。
達也とは対照的に、深雪の足取りは軽い。
四階の廊下の突き当たり。見た目は他の教室と大差のない引き戸だが、中央の木彫りのプレートと、脇に設置されたインターホン、それに目立たない位置へ組み込まれた認証装置が、この部屋だけが別格であることを示していた。
プレートには、生徒会室、とある。
招かれたのは深雪で、達也はその添え物だ。
淑やかに入室を請う深雪の声に、明るい歓迎の辞が返る。微かな作動音と共にロックが外れ、達也は取っ手に手を掛けた。別段、警戒すべきことは何もない。そう分かっていても、妹を庇うように身体が半歩前へ出るのは、ほとんど癖のようなものだった。
もちろん、何も起こらない。
「いらっしゃい。遠慮しないで入って下さい」
奥の席から、真由美が手招きしていた。
深雪を先に通し、その後に達也が続く。深雪が手を揃え、目を伏せ、見本のように一礼すると、真由美だけでなく、同席していた二人の女子生徒まで一瞬言葉を失ったように見えた。摩利だけは平静を装っていたが、その無表情が完全な平静ではないことくらいは達也にも分かる。
「どうぞ掛けて。お話は、お食事をしながらにしましょう」
勧められた席に深雪を座らせ、達也はその隣へ腰を下ろした。
壁際の機械へ向かった小柄な女子生徒が、手慣れた様子で操作を始める。生徒会室にダイニングサーバーまで備え付けられていることにはさすがに驚いたが、ここならあってもおかしくないと思えてしまうのが何とも言えなかった。
「入学式で紹介はしましたけど、改めてね」
料理が揃ったところで、真由美が明るい口調で言った。
「こちらが会計の市原鈴音。私の中ではリンちゃん」
「……その呼び方をなさるのは会長だけです」
低めで落ち着いた声だった。眼鏡の奥の視線は冷静だが、突き放した響きはない。切れ長の目と整った顔立ちは、美少女より美人という言葉の方が近い。
「こっちが書記の中条あずさ」
「よろしくお願いします……」
小柄で童顔、上目遣いになりやすい顔立ちのせいか、ただ挨拶しただけでもどこかおどおどして見える。先ほどサーバーを操作していたのも彼女だ。
「それから、知ってるとは思うけど」
真由美が視線を横へ流す。
「風紀委員長の渡辺摩利」
「私は生徒会役員ではないがな」
そう言った摩利は、短い返答のわりに圧があった。引き締まった身体つきと、隙の無い座り方が、いかにも対人戦に慣れている人間のそれだった。
「あと一人、副会長の服部君がいるんだけど、お昼は別行動が多いの。だから今日はこの四人でお相手します」
服部がこの場にいないことに、達也はひとまず安堵した。あの副会長と昼食を共にして、気詰まりにならずに済むほど自分は社交的ではない。
深雪が改めて丁寧に頭を下げる。
「司波深雪と申します。本日はお招きいただき、ありがとうございます」
「司波達也です」
達也も簡潔に名乗る。
最初のうちは、料理や学校生活の話といった当たり障りのない話題が続いた。とはいえ、共通の話題などほとんどない以上、いずれ本題に入るのは分かっていた。
やがて真由美が箸を置く。
「そろそろ本題に入りましょうか」
達也と深雪は揃って頷いた。
「当校は生徒の自治をかなり重視していて、生徒会には学内で大きな権限が与えられています。その中でも第一高校の生徒会は、伝統的に会長へ権限が集中する形を取っているの。会長が副会長、書記、会計を選んで、必要なら交代させることもできるし、各委員会の委員長にも一部を除いて任命権がある」
「私が務める風紀委員長はその例外だ」
摩利が口を挟む。
「風紀委員長は、生徒会、部活連、教職員会の三者がそれぞれ選んだ風紀委員たちの互選で決まる」
「という訳で、摩利はある意味で私と同格の権限を持ってるのよね」
真由美はそう言ってから、少しだけ居住まいを正した。
「その上で、新入生総代を務めた一年生には、毎年、生徒会へ入ってもらっているの。趣旨としては後継者育成ね」
「会長も主席入学だったんですね」
達也が一応訊いておくと、真由美は少しだけ視線を逸らした。
「……まあ、そういうことになります」
そして改めて、深雪を見た。
「深雪さん。私は、貴女に生徒会へ入っていただきたいと思っています。引き受けていただけますか?」
一呼吸。深雪は一度目を伏せ、それから達也へ視線を向けた。
達也は小さく頷く。
それを受けて顔を上げた深雪の眼差しは、しかし、素直に承諾を告げる時のものではなかった。
「会長は、兄の入試成績をご存知ですか?」
達也は危うく声を上げかけた。何を言い出すつもりなのか、この妹は。
「ええ、知っていますよ。凄いですよね。正直に言うと、答案を見せてもらった時は少し自信を無くしました」
「成績優秀者、有能な人材を生徒会へ迎え入れるのでしたら、わたくしよりも兄の方が相応しいと思います」
「深雪」
達也が短く制したが、深雪は引かなかった。
「デスクワークであれば、実技成績は本質ではありません。知識や判断力の方が重要なはずです。わたくしを加えていただけるというお話は、とても光栄に思います。喜んで末席に加わらせていただきたいと存じますが、兄もご一緒という訳には参りませんでしょうか?」
天を仰ぎたい気分だった。
答えたのは真由美ではなく、鈴音だった。
「残念ですが、それはできません。生徒会役員は第一科の生徒から選出すると規定されています。これは慣例ではなく規則ですから、覆せません」
淡々とした声音だったが、その中にある苦味を達也は聞き逃さなかった。
「……申し訳ありませんでした。分を弁えぬ差し出口、お許し下さい」
深雪は素直に頭を下げた。
「その上で、わたくしでよろしければ、お受けいたします」
真由美は満面の笑みで頷く。
「ありがとう。じゃあ深雪さんには、今期の生徒会で書記をお願いしたいと思います」
「もし差し支えなければ、今日の放課後から来てもらってもいいかしら?」
深雪が答えるより先に、達也は短く声を掛けた。
「深雪」
強くはないが、勧める響きを含んだ一言だった。深雪は兄の意図を汲み取り、真由美へ向き直る。
「分かりました。放課後、こちらへ参りましたらよろしいでしょうか」
「ええ、お待ちしています」
これでひとまず話は終わった――ように見えた。
だが、摩利がそこで手を挙げた。
「昼休みが終わるまで、まだ少しあるな。ちょっといいか」
真由美が、いかにも嫌な予感がするという顔になる。
「風紀委員会の生徒会選任枠のうち、一枠がまだ空いている」
「それは今、人選中だと言っているでしょう」
「確認したいだけだ。生徒会役員の選任規定は、副会長、書記、会計を第一科生徒から任命しなければならない、で合っていたな?」
「そうですけど」
「つまり、風紀委員の生徒会枠に第二科生徒を選んでも規定違反にはならない訳だ」
鈴音とあずさが揃って言葉を失う。どうやら、これも予定された筋書きではないらしい。
ところが真由美は、一拍置いた後でぱっと顔を輝かせた。
「それ、いいですね。摩利、生徒会は達也くんを風紀委員に指名します」
「……はあ?」
素で、間の抜けた声が漏れた。
「ちょっと待って下さい。俺の意思はどうなるんですか。第一、風紀委員が何をする委員なのかも、まだ説明を受けていません」
「妹さんにも詳しい説明はしていませんでしたが?」
鈴音のもっともな一言に、達也は一瞬言葉を詰まらせる。
「あ、あの……当校の風紀委員会は、校則違反者を取り締まる組織です」
あずさが、ようやく説明に入る。
「服装違反や遅刻などの取り締まりは自治委員会の週番が担当します。風紀委員の主な任務は、魔法使用に関する校則違反者の摘発と、魔法を使用した争乱行為の取り締まりです」
「すごいじゃないですか、お兄様!」
「いや、深雪……そこでそういう目を向けるのは少し待ってくれ……念のため確認させてもらいますが」
達也は摩利へ向き直った。
「今の説明だと、風紀委員は喧嘩が起こればそれを力ずくで止めなければならない、ということですね?」
「まあ、そうだな。魔法が使われていなくても、それは我々の任務だ」
「そして、魔法が使用された場合、それを止めさせなければならない、と」
「出来れば使用前に止める方が望ましい」
「あのですね! 俺は、実技の成績が悪かったから第二科なんですが!」
達也はとうとう大声を出してしまった。
だが、難詰された摩利はあっさりと言った。
「構わんよ」
「何がです!?」
「力比べなら、私がいる」
ここで押し切られれば、そのまま話は終わる。ならば、話の筋そのものをずらすしかない。
「……少なくとも、自分一人に話を絞られる理由はありません」
「何だと?」
「適任者なら、他にいます」
「君がそう言うのか?」
「言います」
「誰だ?」
達也は、わざと一拍置いた。
「同じE組の佐藤雄馬です」
場の空気が、今度は別の意味で止まった。
「……雄馬くん、ね」
最初に反応したのは真由美だった。意外そうではあったが、全くの初耳を聞いた者の反応ではない。
「ええ。気になっていたんです、雄馬くんのこと。入試成績もそうですし……昨日の放課後の件もありますから」
達也は内心で一つ頷いた。やはり、知っている。
「少なくとも、自分よりは適任です。周囲を見る目があります。状況判断も速い。無用に前へ出ず、必要な時だけ動く。感情に流されにくい」
摩利が口の端を僅かに上げる。
「君がそこまで言うのは珍しいな」
「評価している相手を挙げただけです」
「だとしても、君が不適任だという理由にはならない」
「それは承知しています。ですが、比較対象も無しに自分だけを指名されても納得はできません」
真由美が頬に指を当てたまま、楽しそうに笑った。
「それで、放課後は雄馬くんも一緒に来てもらいたい、と?」
「はい。比較対象くらい揃えていただきたい」
「達也くん、意外としたたかね」
「不本意な役職を押し付けられそうになっているので」
摩利が小さく笑った。
あずさは困惑し、鈴音は半ば呆れたように眉間へ手を当てている。だが真由美は、すっかりその気になっていた。
「いいですね。私も雄馬くんとは、今度はちゃんと話してみたいと思っていたんです。放課後は深雪さん、達也くん、それから雄馬くんも一緒に来て下さい」
そこで、昼休みの終わりを告げる鐘が鳴った。
こうして、生徒会室での昼食は終わった。だが、話の本番はどうやら放課後に持ち越されたらしい。
生徒会室を辞した後、達也は深雪と別れて二組の教室へ戻った。
予鈴は既に鳴っている。廊下を急ぐ生徒の足音がまだ残っていたが、教室の中は、昼休みのざわめきから授業前の空気へ移り変わりつつあった。
その中で、雄馬は自席に座ったまま、机の上を片付けていた。
達也に気付くと、手を止めて顔を上げる。
「戻ったか」
「ああ」
達也は短く答え、自分の席へ向かった。
雄馬はそこで追及しなかった。
だが、それで話が終わるはずもないと分かっている顔だった。
達也は席に着き、鞄を脇へ寄せてから口を開いた。
「深雪は生徒会へ入ることになった」
「それはまあ、そうなるだろうな」
「書記だそうだ」
「順当だな」
そこまでは、雄馬も特に意外ではないらしい。
だが、達也がそこで一拍置いたのを見て、僅かに目を細めた。
「……まだ続きがあるのか」
「ああ」
「嫌な予感しかしないな」
「風紀委員の生徒会選任枠が一つ空いているらしい」
その一言で、雄馬は露骨に嫌そうな顔をした。
「もう聞きたくないんだけど」
「まだ途中だ」
「だろうな……」
達也は構わず続ける。
「その話が出て、七草先輩が自分を指名した」
「へえ」
短い返事だった。
感心ではなく、呆れに近い響きだった。
「それで?」
「断った」
「うん」
「自分より適任がいると言った」
「うん」
「雄馬の名前を出した」
そこで、教室の空気が一瞬だけ遠のいたように感じられた。
雄馬は何も言わなかった。
何も言わないまま、じっと達也の顔を見る。
数秒。
やがて、ひどく静かな声が返ってきた。
「司波」
「何だ」
「ちょっと本気で訊くけど、何してるんだ」
「必要な対応だった」
「どこがだ」
「自分一人で押し切られるよりはましだ」
「その理屈で俺を巻き込むの、わりとどうかしてるぞ」
雄馬は片手で額を押さえた。
怒鳴る訳ではない。
だが、怒鳴らない分だけ、本気で呆れているのが分かる声音だった。
「……順番に確認するぞ」
「ああ」
「深雪さんが生徒会入り。ここまではいい」
「ああ」
「で、風紀委員の枠が空いてる」
「ああ」
「そこで司波が指名される」
「ああ」
「それを避けるために、俺を横に並べた」
「少し違う」
「どこが」
「比較対象にした」
「もっと悪いな、それ」
達也は否定しなかった。
その無反省さに、雄馬は本気で一度、拳を見る。
殴る。いや、殴らない。殴ったところで状況が好転しないことは分かっている。むしろ自分が短気だと証明するだけだ。
だが、それはそれとして。
――一回くらい殴った方がいいんじゃないか。
そう考える程度には、納得がいかなかった。
「……何で俺なんだ」
「少なくとも、自分よりは適任だと思った」
「だから、その言い方なんだよ」
「事実だ」
「事実でもだ」
雄馬は小さく息を吐く。
「理由は」
「周囲を見る目がある。状況判断も速い。無用に前へ出ない。必要な時にだけ動く」
「面接じゃないんだぞ」
「聞かれたから答えただけだ」
「真顔で他人を推薦するな」
そこまで聞いたところで、前の席から椅子を引く音がした。
振り向けば、エリカが面白そうにこちらを見ている。
その隣ではレオが露骨に笑いを堪えていて、美月は心配そうに眉を寄せていた。
「何か凄い話が聞こえたんだけど」
エリカが言う。
「達也君、雄馬君を巻き込んだの?」
「そうなるな」
「そうなるな、じゃないでしょ」
エリカは呆れたように肩をすくめた。
「何でそうなるのよ」
「自分より適任だと思ったからだ」
「言い切った……」
レオが苦笑する。
「でも、雄馬なら確かにやれそうではあるよな」
「レオ君まで……」
美月が小さく目を丸くする。
「いや、だってさ。司波より前に出ないし、変に熱くならないし」
「褒めてるのか押し付けてるのか分からないな、それ」
雄馬がぼやく。
達也はそこで、淡々と付け加えた。
「両方だな」
「最悪だな、司波」
今度こそ、雄馬は本気で一歩だけ踏み出した。
拳は握っていない。
だが、握っていないから安全とも言い切れない距離だった。
教室の空気が一瞬、止まる。
「……雄馬君?」
エリカが半分面白がり、半分警戒する声を出す。
「大丈夫だ。まだ殴ってない」
「“まだ”って付いたわよね今」
「付いたな」
レオが肩を震わせる。
美月は本気で心配したらしい。
「あ、あの、雄馬さん、落ち着いて下さい」
「美月、俺はかなり落ち着いてる方」
「これでですか?」
「これで」
真顔で言い切られ、美月は逆に少し困ったようだった。
雄馬は視線を達也の顔に戻す。
「今ちょっとだけ、本気で考えたからな。一回殴った方がいいのかって」
「やめてくれ」
「やらない。やらないけど、考えはするだろ普通」
「それはそうかもしれない」
「そこは即答するんだな……」
エリカが吹き出した。
「駄目だこれ。達也君、悪気なく人を追い込むわよね」
「あるな」
レオも即答する。
「本人が全然悪いと思ってないのが厄介なんだよな」
「でも……」
美月が遠慮がちに言った。
「達也さんが、ちゃんと雄馬さんを見ているのは分かります」
雄馬がそちらを見る。
「美月、そういうまとめ方はやめてくれ」
「え……ご、ごめんなさい」
「いや、責めてる訳じゃない」
言いながら、雄馬はもう一度息を吐いた。
怒っていない訳ではない。
むしろ十分に怒っている。だが、怒りの向け先が達也に定まりすぎていて、ここで本当に殴るのも違う気がした。
それに、殴ったところで。
――どうせ面倒事は消えない。
それが一番、腹立たしかった。
「……で。結局、放課後も続きがあるんだろ」
「ああ」
「俺も来いって?」
「そういうことになる」
「断ったら?」
「七草先輩が残念そうな顔をするかもしれない」
「情に訴えるな」
「事実の予測だ」
「司波のそういうところだよ……」
少しの沈黙。
雄馬は、そこでようやく完全に観念した。
一回殴ったところで解決しない。
逃げたところで、どうせ後で呼ばれる。
だったら、最初から付き合った方がまだましだ。
とばっちりを受けた身としては、どう考えても納得の行く結論ではない。
だが、納得の行かないまま動かなければならない場面など、今さら珍しくもなかった。
「……分かった。行く」
「助かる」
「だから、その即答なんだよ」
「本心だ」
「分かってるから困る」
そこで本鈴が鳴った。
教室の空気が、昼休みのそれから授業前のものへと切り替わる。
教師が入って来る前に、雄馬は最後にぼそりと呟いた。
「放課後までに、一回殴った方がいいんじゃないかって考えが薄れてるといいんだけどな」
「物騒だな」
「考えてるだけだ」
「それでも十分物騒よ、雄馬君」
エリカが笑い混じりに言い、レオも肩を揺らした。
達也はそれ以上何も言わなかった。
少なくとも、放課後に向けて話は通った。
もっとも――
自分が無傷でそこまで辿り着けるかどうかまでは、まだ保証できそうになかった。