「入学三日目にして、早くも猫の皮が剥がれてしまったか……」
第三演習室の前で、達也がそんなことを洩らした。
生徒会長印の捺された許可証と引き換えに受け取ってきたCADのケースを片手に、心底うんざりしたような声だった。
その背へ、今にも消え入りそうな声が追いかけた。
「申し訳ありません……」
「お前が謝ることじゃないさ」
「ですが、わたしの所為でまたお兄様にご迷惑が……」
達也は振り返り、一歩だけ深雪との距離を詰めると、その頭へそっと手を置いた。
触れられた瞬間、深雪の肩が小さく跳ねる。
それから恐る恐る顔を上げた瞳には、今にも涙が零れそうな水気が浮かんでいた。
「入学式の日にも言っただろう?
怒ることの出来ない俺の代わりに、お前が怒ってくれるから、俺はいつも救われているんだ。
……すみません、とは言うなよ。今、相応しいのは別の言葉だ」
「はい……頑張ってください」
深雪は目元を拭い、どうにか笑顔を作ってそう言った。
達也もまた、同じように頷いてみせる。
その少し脇で、雄馬は何とも言えない顔をしていた。
こういうやり取りに茶々を入れるほど空気が読めないつもりはない。だが、目の前で見せられれば、それなりに居心地は悪い。仲が良いのは結構だが、傍で見ている側としては少々やり場に困る、と雄馬は思った。
もっとも、その程度のことを考えられるくらいには、さっきまで張り詰めていた空気も少し和らいでいた。
達也が演習室の扉を押し開く。
雄馬も気持ちを切り替えるように、小さく息を吐いて後に続いた。
◇
「意外だったな」
「何がですか?」
中で待っていたのは、審判役の摩利だった。
服部たちはまだ来ていない。
深雪と雄馬は達也の後ろへ回る形になったが、雄馬としてはその方が助かった。今ここで何かを問われても、答えようがないからだ。
「君が案外好戦的な性格だったということが、さ。他人の評価など余り気にしない人間だと思っていたからね」
言葉は意外と言いながら、その目は面白い玩具でも見つけた子供のように明るい。
達也は軽く肩をすくめた。
「……こういう私闘を止めさせるのが風紀委員の仕事だと思っていましたが」
「私闘じゃないさ。これは正式な試合だ。
真由美がそう言っただろう?
実力主義というのは、一科と二科の間にのみ適用されるものではないんだよ。寧ろ、同じ一科生の間にこそ適用されるものだ。
もっとも、一科生と二科生の間でこういう決着方法がとられるのは初めてだろうがね」
口で収まらなければ、力で白黒をつける。
学校というより、妙な流儀を持つ集団だな、と雄馬は受け止めていた。だが、その流儀がこの場では誰にとっても分かりやすいのも確かだった。
「先輩が風紀委員長になってから、『正式な試合』が増えたんじゃありませんか?」
「増えているな、確かに」
何のてらいもなく肯定され、達也だけでなく深雪まで苦笑を浮かべる。
雄馬は苦笑というより、半ば本気で引いていた。入学してまだ数日なのに、既にこの学校の常識を疑い始めている。
と、不意に摩利の表情が変わった。
さっきまでの飄々とした空気を引っ込めて、すっと達也へ顔を寄せる。
「それで、自信はあるのか?」
囁くような声だった。
傍から見ていても距離が近い。雄馬は思わず視線を逸らしかけたが、達也は特に動じた様子もない。
「服部は当校でも五本の指に入る遣い手だ。どちらかと言えば集団戦向きで、個人戦は得意とはいえないが、それでも一対一で勝てるヤツはほとんどいない」
「正面から遣り合おうなんて考えていませんよ」
「落ち着いているね……少し、自信を無くしたぞ」
「はぁ」
「こういう時に赤面するくらいの可愛げがあった方が、力を貸してくれる人間が増えると思うがね」
言い捨てるように笑って、摩利は中央へ歩いていく。
達也はため息をひとつ漏らした。
「困った人だ……」
雄馬もそれには同意だった。厄介事を収める側の人間が、どう考えても厄介事を呼び込む性質をしている。
そんなことを考える間にも、達也はCADケースを開いていた。
中から現れた拳銃形態のCAD二丁に、室内の視線が自然と集まる。
そのうち一丁を取り、達也は慣れた手つきでカートリッジを抜き換えた。
雄馬には何をしているのか半分も分からなかった。だが、分からないなりに、動きに無駄がないことだけは見て取れた。
「お待たせしました」
「いつも複数のストレージを持ち歩いているのか?」
摩利の問いに、達也はあっさり頷く。
「ええ。汎用型を使いこなすには、処理能力が足りないので」
正面に立った服部が、その返答へ露骨な冷笑を向けたが、達也は気に留めた風もなかった。
「よし、それではルールを説明するぞ。
直接攻撃、間接攻撃を問わず相手を死に至らしめる術式は禁止。回復不能な障害を与える術式も禁止。
相手の肉体を直接損壊する術式も禁止。但し、捻挫以上の負傷を与えない直接攻撃は許可する。
武器の使用は禁止。但し、素手による攻撃は許可する。蹴り技を使いたければ靴を脱ぐこと。
勝敗は一方が負けを認めるか、審判が続行不能と判断した場合に決する。
双方開始線まで下がり、合図があるまでCADを起動しないこと。
このルールに従わない場合は、その時点で負けとする。
あたしが力づくで止めさせるから覚悟しておけ。
以上だ」
五メートルの間を置いて、両者が向かい合う。
達也は拳銃形態の特化型CADを右手に。
服部は左腕の汎用型CADへ右手を添えて。
空気が静まる。
深雪は祈るように兄を見詰め、真由美は楽しそうに、鈴音は計測するように、あずさは興奮を押し隠せないまま、その開始を待っていた。
雄馬だけは少し違った。
魔法戦がどうこうという以前に、純粋に達也という人間が何を見せるのか、それを見ようとしていた。
「始め!」
摩利の声と同時に、服部の右手がCADを走る。
迷いの無い動作。速い。
さすがに優等生、と言うべきなのだろう。素人目に見ても、無駄がない。
起動式の展開が完了し、服部が発動へ移った、その次の瞬間。
雄馬は思わず目を見開いた。
達也が、近い。
さっきまで五メートル離れていたはずの相手が、ほとんど一足で懐へ潜り込んでいた。
服部が座標を修正しようとする。だが、それより早く、達也の姿が視界から消えた。
認識の外へ抜けられた魔法は、宙で霧散する。
そして、服部の側面を見えない「何か」が三度、打った。
波。
そうとしか表現できない衝撃が、連続して服部を揺らした。
次の瞬間には、勝負は終わっていた。
服部の膝が折れ、身体が崩れ落ちる。
あまりに短い。速いというより、何が起きたか理解する前に終わっていた、と言う方が近い。
雄馬は遅れて息を吐いた。
昼休みの口論だけ見ていれば、達也は皮肉屋で面倒事を避けたがる変わり者だ。だが、今目の前で見たのは、それとは別のものだった。
「……勝者、司波達也」
摩利の宣言は、勝者よりもむしろ周囲に現実を確認させるためのもののようだった。
当の達也は何事もなかったように一礼し、CADケースの置かれた机へ戻る。
勝って気分がいい、といった顔ではない。やることを済ませた、ただそれだけの顔だった。
「待て」
その背を摩利が呼び止める。
「今の動きは……自己加速術式を予め展開していたのか?」
真由美も鈴音もあずさも、そこで初めて、何が起きたのかを頭の中で繋ぎ直し始めたらしい。
「そんな訳がないのは、先輩が一番良くお分かりだと思いますが」
「しかし、あれは」
「正真正銘、肉体的なものですよ」
「わたしも証言します。あれは、兄の体術です。兄は、忍術使い・九重八雲先生の指導を受けているのです」
その名に摩利の表情が変わる。
雄馬もまた、その反応を見て、八雲という名がただの師匠自慢ではないと理解した。
「じゃあ、あの攻撃も忍術ですか?
私には、サイオンの波動そのものを放ったようにしか見えなかったんですが」
真由美の問いに、達也は淡々と答える。
「正解です。あれは振動の基礎単一系統魔法で、サイオンの波を作り出しただけですよ」
以降の説明は、雄馬にはほとんど分からなかった。
錯覚だの、サイオン波だの、振動数の異なる波を重ねただの。
分からないなりに分かったのは、目の前で起きたことが単純な力押しではなく、かなり面倒な理屈の上に成立しているらしい、ということだけだ。
そして、それを聞いている上級生たちの反応からして、達也のやったことが普通ではないのも間違いなかった。
あずさがCAD談義に火をつけ、鈴音が多変数化の話へ踏み込み、服部までもが半身を起こしてそれを聞いている。
その流れを、雄馬は一歩引いた位置から眺めていた。
置いていかれている、とは思わなかった。むしろ当然だろう、と妙に納得していた。今ここで食らいつける方がおかしい。
ただ一つ、確かなことはある。
司波達也が、試験の数字だけでは測れない人間だということだ。
それだけは、雄馬にもはっきり分かった。
やがて、服部は深雪に向かって頭を下げた。
「さっきは、その、身贔屓などと失礼なことを言いました。
目が曇っていたのは、私の方でした。許して欲しい」
「わたしの方こそ、生意気を申しました。お許し下さい」
深雪もまた、きれいに頭を下げる。
立場も性格も違う二人が、妙に大人びた形でやり取りを収めるのを、達也は背中越しに聞いていた。
ケースのロックを確かめて、ゆっくり振り返る。
一瞬だけ、服部の顔が揺れた。
だが、それもすぐ消える。
結局、服部は達也と視線をぶつけ合っただけで、何も言わずに踵を返した。
その途中、服部の視線が雄馬へも流れる。
短い、品定めのような一瞥だった。
歓迎はしていない。かといって、今ここでどうこう言うつもりもない。そんな目だった。
雄馬もまた、その視線を受け止めるだけに留めた。ここで張り合っても意味がない。
隣で深雪が僅かに空気を硬くしたので、達也は軽く肩へ手を置いた。
それだけで深雪は落ち着きを取り戻す。
雄馬はその様子を見て、やはりこの兄妹はこういうところまで完成しているのか、と妙なところで感心した。
「生徒会室に戻りましょうか」
真由美が、やれやれと言いたげな顔でそう言った。
鈴音とあずさ、そして服部がその後ろに続く。
さらにその背後で、達也の視線に気づいた摩利が、他の連中に悟られぬ程度に肩をすくめてみせた。
それだけなら、ただの合図だったかもしれない。
だがその次に、摩利の目が達也の隣へ立つ雄馬へ向いたことで、別の意味が生じる。
比較対象としてここまで連れて来られた一年生。
まだこの場では何もしていないし、何も問われてもいない。
それでも摩利の目は、ここで終わりだとは言っていなかった。
「……ところで、達也くん」
「何ですか」
「あたしはまだ、君が言っていた“もう一人の適任者”の実力を見ていないんだが」
向けられた視線の先に自分がいると気づいた瞬間、雄馬は露骨に嫌そうな顔をした。
「嫌な予感しかしないんですけど」
「安心しろ。達也くんと同じことをやれとは言わない」
「その台詞のどこに安心できる要素があるんですか」
真由美が小さく笑い、あずさは目を瞬かせる。鈴音は何も言わなかったが、興味を引かれたらしく、静かな視線を雄馬へ向けていた。
深雪は兄を見上げた。
止めるのかと雄馬は思ったが、達也は一瞬だけ考えるような間を置いただけで、口を挟まなかった。
その沈黙が、却って雄馬には恨めしかった。
「司波」
「何だ」
「お前、止める気ないだろ」
「先輩が見たいと言っているんだ。俺に止める理由はない」
「巻き込んだ張本人が、よくそんな他人事みたいに言えるな」
「比較対象として名前を出したのは事実だが、過大評価はしていないつもりだ」
「それ、全然フォローになってないからな」
達也は肩をすくめただけだった。
「条件は?」
諦め半分で問うと、摩利は満足そうに頷いた。
「達也くんと服部の時と同じでいこう。
CADの使用は認める。魔法も使っていい。
ただし、致死性のある術式、後に残る障害を与える術式、肉体を直接損壊する術式は禁止だ」
雄馬は眉をひそめた。
「……それ、俺に有利な条件じゃないですよね」
「有利不利の話じゃない。見るなら同じ土俵で見るべきだろう」
「こっちはまだ入学して三日目なんですけど」
「だから面白いんだよ」
さらりと言い切られ、雄馬は口をつぐんだ。
真由美が面白そうに口元を押さえる。
「摩利、本気だねぇ」
「当たり前だ。中途半端に見ても意味がない」
鈴音が静かに口を挟む。
「服部君との試合と同条件、ですか。
それなら単なる手合わせではなく、実力確認としては妥当ですね」
「あ、あの……」
遠慮がちにあずさが手を挙げた。
「無理だと思ったら、すぐ負けって言っていいんですからね?」
「始まる前からその心配をされると、こっちも複雑なんですけど」
「でも、渡辺先輩相手ですし……」
「それは否定できないですね」
素直に頷くと、あずさはかえって困ったような顔になった。
深雪は少し迷ったように視線を泳がせてから、雄馬へ向き直った。
「佐藤さん、どうかご無理はなさらないで下さい」
「善処はするよ」
そう答えてから、雄馬は苦笑した。
「……と言いたいところだけど、ここで逃げる方が後々面倒そうだから」
「賢明だな」
摩利が面白そうに言う。
「褒められてる気がしないんですが」
「褒めているよ。
逃げないのと、無茶を履き違えないのは別だからな」
その口調が、ほんの少しだけ柔らかいものへ変わっていた。
「一つだけ確認していいですか」
「何だ?」
「武器は無し、ですよね」
「ああ。武器は禁止。素手は可だ。
蹴りを本気で使いたいなら靴は脱げ。
もっとも、そこまでやるかは任せる」
「……完全に試合ですね」
「今さら何を言う。達也くんがここまで連れて来た時点で、半端に済ませるつもりはないよ」
そこで初めて、達也が口を開いた。
「嫌なら断ってもいいぞ」
今さら何を、と雄馬は思った。
そう思いはしたが、その一言が達也なりの線引きなのだということも、何となく分かった。
雄馬は小さく鼻で笑った。
「ここまで来てそれ言うか」
「確認だ」
「律儀だな、お前も」
達也はそれ以上言わなかった。
止めないということは、少なくともやれるだけのものがあると見ているのだろう。
それが励ましになるかと問われれば、微妙だった。
ただ、腹は少し据わった。
「……分かりました」
観念したように、だが声は思ったより静かだった。
「やります」
「よし」
摩利の口元がわずかに緩む。
「始める前に言っておくが、手加減はする。
だが、容赦はしない」
「違いが分かりにくいんですが」
「やってみれば分かるさ」
真由美が吹き出し、鈴音が小さくため息をついた。
服部だけは複雑そうな顔をしたまま黙っている。達也に敗れた直後、その比較対象とされた一年生が今度は摩利に試されるのだから、面白いはずもない。
雄馬は最後に一度だけ、達也を見た。
「司波」
「何だ」
「後で一発殴らせろ」
「一発で済むなら考えておく」
「考える余地があるのが腹立つな」
それでも、ほんの少しだけ気分は軽くなった。
雄馬はゆっくりと前へ出た。