雄馬はゆっくりと前へ出た。
達也が立っていた開始線の辺りまで歩を進めたところで、摩利もまた中央へ歩み出る。
さっきまで審判をしていた女が、今度は当事者として向かい合う。
それだけのことなのに、空気の張り方が変わった。
真由美は面白そうに目を細め、鈴音は眼鏡の奥の視線をわずかに鋭くする。あずさは心配そうに両手を胸の前で握り、深雪は兄の時とは少し違う、不安と期待が入り混じった顔で雄馬を見ていた。
服部だけは腕を組み、試すような目を向けている。
摩利は左腕のCADへ軽く手を添えた。
「君は出さないのか?」
雄馬は肩をすくめる。
「必要になったら出しますよ」
「必要になると思わないのか?」
「少なくとも、最初から縋るつもりはないです」
その答えに、摩利の口元が僅かに緩んだ。
「いいだろう」
言い終えるのと、動くのがほとんど同時だった。
摩利の身体が間合いを潰す。
速い。
達也のような認識の外へ滑り込む理不尽さではない。だが、人間の身体が出せる速度としては十分すぎるほど速い。しかも、その速さはただ前へ出るためのものではない。最初の一手から既に、相手の体勢を崩すための軌道を選んでいる。
右の牽制。
左の掌打。
返すように膝。
雄馬は半身になってそれを流し、肩を切り、足をずらす。
反撃はしない。
ただ、捌く。
「ほう」
摩利の目が細くなる。
最初の数手で、大体の質は見える。
何も出来ずに押し込まれる者。
見栄だけで前へ出て、自分から崩れる者。
反応はしても、受け方が雑な者。
雄馬は、どれでもなかった。
拳を受ける位置が正確だ。逃がす方向も悪くない。何より、次の一手が来る前に重心を立て直している。
だが、それだけだ。
この程度で、摩利は評価を決めない。
手数が増えた。
拳。
肘。
足払い。
崩しの布石を挟み込みながら、攻撃の連なりが濃くなる。
どれも一撃で決めるためではない。避けた先に次を置き、防いだ瞬間に軸を削る。対人制圧のための攻めが、呼吸をするように繋がっていく。
それでも、雄馬は崩れない。
受ける。
逸らす。
外す。
ほんの半歩ずつ位置を変え、摩利の圧を真正面から受け切らない。
真由美の笑みが深くなる。
「思ったよりやるねぇ」
あずさはもう口を挟めないらしい。
鈴音だけは無言で見続けていた。
それでも、雄馬は崩れない。
この程度の速度に目を奪われるほど、甘い鍛え方はしていなかった。
摩利の動きは見えている。
鋭い。重い。厄介だ。
だが、見失うほどではない。
「守ってばかりだな、雄馬君」
「そっちが前に出てくるんですから、仕方ないでしょう」
「それで凌げると思うか?」
「凌げる間は」
軽口の直後、摩利の左手がCADに触れた。
サイオンの光が一閃する。
次の踏み込みは、それまでとは明らかに違った。
自己加速。
それも単に脚を速くしたのではない。踏み込み、重心移動、打撃への繋ぎ、その全てを近接戦闘用に噛み合わせる短い補助魔法だ。
あずさが思わず息を呑む。
「渡辺先輩、もう……」
「見極めは終わったのでしょう」
鈴音の声は静かだったが、その視線は雄馬から外れない。
速くなった。
誰の目にも分かる変化だった。
拳の軌道が短くなる。
蹴りの入りが深くなる。
避けたと思った場所へ、もう次の一手が来ている。
普通なら、ここで崩れる。
だが、雄馬はまだ捌いていた。
頬を掠める拳を首だけで外し、返す肘を腕で流す。下段の蹴りには足を引くのではなく、重心だけをずらして逃がす。押し込みには肩を切って芯を外す。
深雪が小さく息を呑んだ。
真由美の笑みが、少しだけ薄くなる。
「……へぇ」
そして達也だけが、やはり動かない。
少なくとも、この程度で雄馬が処理し切れなくなるような身体ではないと分かっている顔だった。
摩利もまた、その事実を認めざるを得なかった。
速さを上げた。
圧も増した。
それでも雄馬はついて来る。
押されてはいる。だが、崩れない。守勢に回っているようでいて、実際には常に次の体勢を残している。
「そうか」
摩利の声が、少しだけ低くなる。
「その程度じゃ、まだ揺れないか」
次の瞬間、気配が変わった。
踏み込みだけではない。
間合いの作り方そのものが変わる。
虚実、崩し、誘い、その全てが一段上の密度を持つ。
今までが見極めなら、ここからは本気だ。
拳が来る。
雄馬は流す。
返しの蹴り。
捻って逃がす。
さらに肩から押し込む体当たり。
半歩のずれで芯を外す。
終わらない。
攻撃が途切れない。
摩利の強さは、速さそのものではない。速さの先で、どう崩し、どう勝つか、その組み立てにある。見えているだけではどうにもならない強さだ。
それでもなお、雄馬は捌き続けた。
攻めに転じる余地がないわけではなかった。
だが、雄馬は最初からそこに意味を見ていない。
狙うのは一つ。
一度だけ通せる、一瞬の隙だけだった。
鈴音がその気配に気づき、眼鏡の奥で目を細める。
達也もまた、何も言わない。
守っているのではない。
待っている。
摩利の攻めの中で、次へ繋ぐためにほんの一瞬だけ重心が戻る、その刹那を。
そして、それは来た。
摩利の右が上から落ちる。
雄馬は左へ流す。
返す膝を半身で外す。
その直後。
踏み込みが深い。
肩が、ほんの僅かに流れた。
雄馬の身体が、初めて前へ出た。
今まで後手に回っていた男が、そこでだけ間合いを奪いに行く。
「っ」
真由美が目を見開く。
右の掌底。
大振りではない。最短距離で、摩利の胴の芯だけを打ち抜く一撃。
狙いは良かった。
まともに入れば、一本だった。
だが、相手が悪い。
摩利は身体を捻って直撃をずらした。完全には避けない。威力だけを殺し、そのまま雄馬の腕の軸を取る。
次の瞬間には、足が払われていた。
視界が反転する。
雄馬は咄嗟に受け身を取ったが、その起き上がり際までは見逃してもらえない。
喉元すれすれで、摩利の手刀が止まる。
「そこまでだ」
喉元すれすれで止まった手刀を見上げ、雄馬は荒い息を吐いた。
数秒遅れて、ようやく肩の力が抜ける。
「……負けました」
「当然だ」
摩利はあっさりと言った。
だが、その口調に切り捨てる響きはない。
手を引き、二、三歩退いてから、改めて雄馬を見る。
「だが、悪くなかった」
真由美が僅かに目を丸くし、あずさはほっとしたように息を吐いた。鈴音は無言のまま、摩利の続きを待っている。
雄馬は肩を回しながら苦笑する。
「それ、褒めてます?」
「褒めている」
即答だった。
「それでも、勝ったのは私だ」
雄馬は鼻で笑った。
「否定はしません」
「だろうな」
摩利も笑う。
真由美が面白そうに口を挟む。
「へぇ。摩利がそこまで言うなんて、珍しいねぇ」
「珍しい相手だったんだよ」
服部は複雑そうな顔をしたまま黙っていたが、先ほどまでのような露骨な反発は見せなかった。少なくとも、何も出来なかった相手ではない。その程度には認めざるを得なかったのだろう。
深雪は安堵したように息をつき、達也は相変わらず表情を変えない。
「これで納得しましたか、先輩」
達也の問いに、摩利は肩をすくめた。
「ああ。感想を言うなら、二人とも思っていた以上だったよ」
軽いようでいて、冗談ではない声音だった。
真由美が面白そうに眉を上げる。鈴音は無言のまま、あずさはようやく詰めていた息を吐いた。服部だけが、まだ割り切れないものを顔に残している。
「だが、委員会に欲しいのはやはり達也くんの方だ」
場の空気が、静かに止まった。
真由美は驚かなかった。鈴音もまた、予想していたのだろう、ただ小さく目を伏せただけだった。あずさはほっとしたようでもあり、雄馬の方を気遣うようでもある顔になる。
雄馬は肩をすくめた。
「まあ、そうなるだろうとは思ってました」
「不満か?」
「別に。最初から、なりたくてやったわけじゃないですし」
その返答に、摩利は小さく頷いた。
「そうだろうな。だが、はっきりさせておく必要はある」
今度は服部へ向き直る。
「服部副会長。今のを見て、なお君は“実力に劣る二科生徒に風紀委員は務まらない”と言うか?」
真正面から問われ、服部は一瞬だけ言葉に詰まった。
達也に完敗した直後だ。しかもその比較対象として挙げられた一年生が、今度は摩利相手に最後まで崩れずに食らいついた。見たものを無かったことには出来ない。
「……その佐藤君の力を、軽く見るつもりはありません」
苦い顔のまま、服部はそう答えた。
「ですが、それと司波達也を風紀委員にする話は別でしょう」
「別だな」
摩利はあっさり認めた。
「だからこそ、私は達也くんを選ぶと言っている」
服部の眉がぴくりと動く。
「雄馬君は、力づくでねじ伏せる側の人材だ。無論、それだけではないだろうが、少なくとも現場で使える。だが、力づくで抑えつけるだけなら私がいる」
その言葉は、最初に服部へ向けて言った理屈と同じだった。
「今の委員会に足りないのは、そっちじゃない」
摩利の視線が達也へ移る。
「私が欲しいのは、展開中の起動式を読み、発動前の魔法を見抜ける人材だ。違反の現場で、何が起ころうとしているのかを判断できる目と頭脳だよ。そこは達也くんにしか埋められない」
雄馬は黙ってそれを聞いていた。
自分が達也の代わりではないことくらい、最初から分かっている。分かっているからこそ、その言葉は妙に素直に胸へ落ちた。
真由美が、わざとらしく感心したように息をつく。
「やっぱり、摩利は達也くんのことをちゃんと見てたんだねぇ」
「会長、お静かに」
今度は鈴音ではなく、摩利本人がぴしゃりと言った。
もっとも、その一言で真由美が黙るわけもない。口元に笑みを残したまま、しかし余計な茶々は差し挟まなかった。
服部はなおも硬い表情を崩さなかったが、反論のための言葉はすぐには出て来ないらしい。
その沈黙を、達也が引き取った。
「俺の意志はどうなりますか」
「そこは変わらないさ」
摩利ではなく、真由美が答えた。
「決めるのは達也くんだよ。受けるかどうかまでは、あなたにしか決められない」
そこまで言ってから、生徒会長らしく軽く背筋を伸ばす。
「でも、生徒会として誰を選ぶかという話なら、答えはもう出ている」
教室での、あの強引さとも違う、少しだけ厳かな口調だった。
「風紀委員会の生徒会選任枠として、私たちは司波達也くんを推す」
服部は唇を引き結んだ。
不満が消えたわけではない。だが、ここで真正面から否定を重ねれば、自分がさっき見た試合そのものを否定することになる。そこまでして押し通せる立場ではないことを、彼自身よく分かっているのだろう。
「……分かりました」
ようやく絞り出された声は、渋々であっても、先ほどまでのような断定ではなかった。
「副会長としての意見は留保します。ですが、生徒会長と委員長の判断がそこまで固いのであれば、これ以上は申しません」
「そうしてくれると助かるよ」
摩利は淡々と返した。
達也は小さく息を吐いた。
その横で、雄馬はようやく肩の力を抜く。
「司波」
「何だ」
「結局こうなるんじゃねえか」
「最初からそのつもりだったんだろう」
「お前がそれを言うの、ちょっと腹立つな」
達也は肩をすくめるだけだった。
真由美がくすりと笑い、あずさはようやく安堵したように表情を和らげる。深雪は、兄が少なくともこの場では押し切られず、正当に評価されたことにほっとしたのだろう、小さく胸を撫で下ろしていた。
摩利はそんな皆の様子を眺め、最後にもう一度だけ達也を見た。
「返事はすぐでなくていい。だが、こっちの答えは変わらない」
「そうですか」
「そうだ」
短い応酬だった。
だが、それで十分だった。
真由美が、今度こそ場を締めるように明るく手を打つ。
「じゃあ、今度こそ生徒会室に戻りましょうか」
その声に、ようやく空気が動き出す。
鈴音とあずさ、服部が後ろに続き、深雪は達也の隣へ戻る。雄馬もまた、その一歩後ろへ下がった。
結局、風紀委員に選ばれたのは達也だった。
そして雄馬は、選ばれなかった。
だが、それで終わりではないことだけは、振り返った摩利の目が十分に物語っていた。