放課後の校舎は、昼間とは別種の喧騒に包まれていた。
廊下のあちらこちらで、上級生が新入生に声を掛けている。部活動名を並べ立てる者。パンフレット代わりの電子データを送信している者。中には、実演と称してCADを操作し、短い起動式を展開して見せる者までいた。
今日から一週間は、新入生勧誘期間。
普段ならば学内での魔法使用として注意を受けかねない行為も、この期間に限っては、ある程度黙認される――そんな話を、昼の教室で耳にしていた。
だから、校内の空気がいつもより浮ついている理由は分かる。
分かるが、だからといって自分までその輪に加わる気はなかった。
「……帰ろ」
誰に聞かせるでもなく呟いて、雄馬は人の流れから外れた。
正門へ向かう表の通路は、勧誘する上級生と、それを物珍しげに眺める新入生で混み合い始めている。少し遠回りになっても、部室棟の脇を抜けた方が早いだろう。余計な声を掛けられる可能性も低い。
そう判断して角を曲がった、その時だった。
正面から人影が飛び出してきた。
「っ――」
肩がぶつかる。
雄馬は半歩だけ体勢を崩したが、倒れはしなかった。
ぶつかってきたのは、同じ第一高校の制服を着た男子生徒だった。左胸には八枚花弁のエンブレム。つまり一科生徒だ。息が上がっており、顔色も悪い。
何か言おうとしたようだったが、その前に背後を振り返った。
「いたぞ!」
追う声が飛ぶ。
続いて現れたのは二人。
こちらも第一高校の制服姿だが、左胸にエンブレムは無い。
その並びを見た瞬間、雄馬の眉がわずかに寄った。
ただの喧嘩の追い方ではない。
一人が通路の中央を押さえ、もう一人が植え込み側へ寄る。逃げる相手の進路を狭め、挟み込むための動きだった。
しかも、速いだけではない。
慣れている。
(……勧誘にしては、手つきが悪いな)
追われていた一科生徒が、舌打ち混じりに向きを変える。
だが、遅い。
追ってきた二科生徒の一人が、手首を返した。
短い起動。
CADを介した簡易な起動式だと分かったのは、薄い光が走ってからだった。
本来の狙いは、逃げる一科生徒の足だったのだろう。
だが、ぶつかった拍子に立ち位置がずれた。
薄い光の縁が、雄馬の右足首を掠める。
「……は?」
痛みは無い。
ただ、足裏が床を捉える感覚が一拍だけ薄れた。踏み込みの深さが、ほんのわずか狂う。
転倒するほどではない。
だが、だからこそ不快だった。
雄馬は右足を軽く踏み直した。
それを見た二人の目が、そこで初めて雄馬に向く。
「外したか」
「余計なのが混ざったな」
事故に巻き込んだ側の顔ではなかった。
最初から、そういう線引きしかしていない目だった。
ぶつかってきた一科生徒が、短く言う。
「悪い。巻き込んだ。下がってくれ」
「下がって済む状況か?」
「済まない。だから言ってる」
短いやり取りの間にも、二人は距離を詰めてくる。
雄馬は小さく息を吐いた。
右足の違和感は、もうほとんど消えている。まともに食らったわけではない。この程度でどうにかなるほど、柔な鍛え方はしていない。
だが、気に入らない。
掠った魔法そのものより、平然とそれを撃ってくる手つきの方が。
「随分と熱心な勧誘だな」
嫌味半分で言ってみせたが、二人は笑わなかった。
前にいた一人が、追われていた一科生徒へ顎をしゃくる。
「君はもう少し素直になった方がいい」
「何の話だ」
「分かっているだろう。選ばれた側にいたいなら、黙ってついて来いと言っている」
追われていた一科生徒の顔が、そこで初めてはっきり歪んだ。
雄馬は目を細める。
勧誘ではない。
売り言葉に買い言葉でもない。
言葉の端に、妙な選別意識がある。
個人への敵意というより、立場そのものへ向けられた濁り方だった。
「こっちは帰る途中なんだが」
雄馬は一歩前へ出た。
「今のがたまたま掠った。それなら、少しは悪びれるものじゃないのか」
二人の視線が揃ってこちらへ向く。
「二科生徒か」
「それがどうした」
「……別に。ただ、面倒が増えただけだ」
その言い方は、妙に冷たかった。
左胸のエンブレムが無いことなど、見れば分かる。にもかかわらず、わざわざそこを口に出す。
確認ではない。
分類だ。
ぶつかってきた一科生徒が低く言う。
「関わるな。こいつら、普通じゃない」
「見れば分かる」
雄馬は答えた。
普通ではないのは、追い方だけではない。
二人の周囲には、妙にざらついた空気がある。魔法の起動前に張るような、整った緊張ではない。もっと生っぽく、気分の悪い濁りだった。
それが、さっき足首を掠めた魔法式の感触と似ていた。
「最後に言う」
前の一人が言った。
「そこをどけ。君に用はない」
「だったら巻き込むな」
言い終わるより早く、相手が踏み込んできた。
速い。
だが、直線的だった。
雄馬は半身になり、振り抜かれた腕を外へ流す。そのまま肩を当てるように懐へ入った。
大きく崩す必要はない。
半歩で十分だ。
重心線の外へ押し出されただけで、相手の体勢は乱れる。
そこへ、もう一人が横から入る。
今度は拳ではなく掌だった。
接触と同時に何かを流し込むつもりの動き。
(それか)
雄馬は逆に踏み込んだ。
距離を潰す。
相手が術式を組み切る前に手首を払う。光が散った。
そのまま肘を返し、肩口を弾く。相手の呼吸が止まった。
「っ、が……!」
「勧誘なら、もう少し愛想よくやった方がいい」
二人の顔から余裕が消えた。
通路の向こうから、別の話し声が近づいてくる。
部活動帰りか、巡回か。
いずれにせよ、人目を避けたいなら長くは揉められない。
それを察したのは、向こうも同じだった。
「……引くぞ」
「ちっ」
切り上げの判断が速い。
そこも、感情任せの生徒同士の揉め事とは違っていた。
去り際、片方が追っていた一科生徒へ低く言う。
「次は今日みたいに済まない」
「逃げ切れると思うなよ」
二人はそのまま通路の奥へ消えた。
静けさが戻る。
しばらく、二人とも通路の奥を見ていた。
もう追ってくる気配はない。
だが、完全に気が抜ける空気でもなかった。
「……助かった」
先に口を開いたのは、一科生徒の方だった。
「別に」
雄馬は短く返した。
右足首を軽く回してみる。違和感はもう無い。掠っただけならこの程度だ。鬱陶しかったのは確かだが、それだけだった。
一科生徒は、そんな雄馬の様子を見てわずかに目を見開いた。
「効いて、ないのか」
「掠っただけだろ」
あっさり言うと、一科生徒は何とも言えない顔をした。驚いているのか、呆れているのか、自分でも分かっていないような表情だった。
「……教師には言わないのか?」
雄馬が何気なく訊くと、一科生徒は少しだけ視線を伏せた。
「言っても、勧誘期間中の揉め事で片づけられる可能性が高い」
「さっきのがか?」
「証拠が薄い。しかも、今の時期は魔法を使っていても目立ちにくい」
そこで一度言葉を切って、一科生徒は通路の奥を見やった。
「それに……俺一人の話で終わるなら、まだいい」
「終わらない感じか?」
問いかけると、一科生徒は即答しなかった。
だが、その沈黙だけで十分だった。
「断言はできない。ただ、俺だけを見ている感じじゃない」
「さっきの連中のことか」
「ああ」
雄馬は小さく息を吐いた。
目の前の相手を追っていたはずなのに、巻き込まれたこちらまで値踏みするような目を向けていた。
あれは気のせいではない。
「……面倒だな」
雄馬が呟くと、一科生徒も小さく息を吐いた。
「そうだな」
短い沈黙の後、雄馬は踵を返しかけた。
「名前は?」
一科生徒がわずかに顔を上げる。
「……悪い。今はやめておく」
「そうか」
雄馬はあっさり引いた。
警戒しているのは分かるし、無理に聞き出すほどの義理もない。
「佐藤雄馬」
「……え?」
「こっちの名前だ。巻き込まれた側なんだから、それくらいは名乗っておく」
一科生徒は少しだけ間を置いてから、静かに頷いた。
「助かった、佐藤」
「二度言わなくていい」
ぶっきらぼうに返すと、一科生徒はほんの少しだけ口元を緩めた。
通路の向こうから、また別の足音と話し声が近づいてくる。
これ以上ここで立ち話を続ける理由もなかった。
「歩けるんだよな?」
「ああ」
「なら今日は帰れ。俺も帰る」
一科生徒が、少し意外そうに目を瞬かせた。
「……それだけか?」
「それ以上、何があるんだ」
雄馬は顔をしかめる。
「俺は風紀委員でも教師でもない。さっきのは、帰る途中で足元を掠められたのが気に食わなかっただけだ」
「それで普通、あそこまでやるか?」
「知らない。やったものはやった」
そう言って、今度こそ雄馬は踵を返した。
「佐藤」
背中に声が飛ぶ。
「ん?」
「……次に同じようなのを見ても、あまり首を突っ込まない方がいい」
「善処する」
そう返すと、一科生徒は少しだけ眉をひそめた。
「それ、全然する気が無い返事だろう」
「分かるか?」
「分かる」
短いやり取りの後、一科生徒は通路の反対側へ歩き出した。
雄馬もその背を一度だけ見てから、校門の方へ向かう。
校内の喧騒は、まだ続いていた。
勧誘の声。笑い声。CADの操作音。
どれも、さっきまでと同じはずだった。
だが、今は少しだけ聞こえ方が違う。
浮ついた空気の下に、別のものが混じっている。
そんな気がした。
「……本当に、面倒だな」
独り言は、それきりだった。
◇
翌朝。
一年E組の教室は、昨日とはまた違ったざわめきに包まれていた。
勧誘期間の二日目だから、というだけではない。
そこかしこで交わされる話題の中心が、部活動でも授業でもなく、昨日の騒動に偏っている。
「剣術部、やばかったらしいぞ」
「風紀委員が出たんだろ?」
「二科の新入生が止めたって聞いた」
「いや、止めたっていうか、剣術部がまとめてやられたとか」
「二科が? 嘘だろ」
断片的に飛び交う噂を聞きながら、雄馬は自席に鞄を置いた。
剣術部。
風紀委員。
二科の新入生。
昨日、部室棟の脇で遭遇した騒動とは別の話らしい。
だが、勧誘期間の初日にしては、妙にきな臭い噂だった。
「おはよう、雄馬君」
声を掛けてきたのは、エリカだった。
いつもの軽い調子ではあったが、その目にはどこか昨日の熱が残っている。面白いものを見た、という好奇心と、それだけでは片づけられない違和感が同居しているような顔だった。
「おはよう、千葉」
雄馬は軽く手を上げる。
美月の姿は無い。
少なくとも、今この場にいるのは雄馬とエリカだけだった。
「昨日、第二小体育館で騒ぎがあったのよ」
挨拶もそこそこに、エリカはそんなことを言った。
雄馬は椅子を引きながら、わずかに眉をひそめる。
「第二小体育館?」
「闘技場って呼ばれてるところ。剣道部が新入生向けのデモをやってたの」
「剣道部の?」
「そう。最初は普通の実演だったらしいんだけど、そこに剣術部の桐原先輩が割り込んできたのよ。相手をしたのは剣道部の壬生先輩」
エリカは机の端に手をつき、昨日の光景を思い出すように目を細めた。
「二人とも、中等部の頃から有名だったみたい。壬生先輩は剣道の全国二位。桐原先輩は剣術の関東チャンピオン。だから最初は、剣道部と剣術部の意地の張り合いに見えたんだけど」
「違ったのか?」
「途中からね」
エリカの声が少し低くなる。
「最初は魔法なしの立ち合いだった。剣技だけなら、壬生先輩の方が少し上だったと思う。桐原先輩もそれは分かってたんでしょうね。追い詰められた途端、竹刀に魔法を乗せたのよ」
「魔法を?」
「高周波ブレード。竹刀に真剣みたいな切れ味を持たせる近接戦闘用の魔法よ。デモどころか、下手をすれば本当に怪我人が出るところだった」
雄馬の表情が、そこでわずかに変わった。
「それで、風紀委員が出たのか」
「ええ。達也くんが割って入った」
「司波が?」
「そう。桐原先輩の魔法を止めて、そのまま取り押さえたの。そこまでは、風紀委員として当然の対応だったと思う」
そこでエリカは、少しだけ嫌そうに顔をしかめた。
「問題はその後よ」
「何があった」
「剣術部の連中が騒ぎ出したの。二科生が出しゃばるな、とか、補欠のくせに、とか。桐原先輩を取り押さえた達也くんに掴みかかって、最後は何人もまとめて襲い掛かった」
「……それで?」
「達也くんは反撃しなかった。殴りもしないし、蹴りもしない。ただ避けて、いなして、同士討ちさせてた。魔法を使おうとした相手もいたけど、それも発動する前に潰されてたわ」
淡々と語っているようで、エリカの目には隠しきれない興味が残っていた。
達也の動きを思い出しているのだろう。
ただし、今の話に混じっているのは好奇心だけではなかった。
違和感もある。
「妙だったのよ」
「何が」
「桐原先輩も、剣術部の人たちも、頭に血が上っただけにしては熱くなりすぎてた。特に桐原先輩。負けを認めたくないってだけで、あそこで高周波ブレードまで使うかしら」
エリカは肩を竦めた。
「それに、周りの反応もね。二科生への反感があるのは分かるけど、あの場の空気は少し気持ち悪かった。誰かが火をつけたみたいに、一気に燃え広がった感じ」
雄馬は返事をしなかった。
昨日の通路。
逃げていた一科生徒。
追っていた二科生徒。
足首を掠めた、あの不快な魔法の感触。
そして、相手を人としてではなく区分で見ているような、あの冷えた目。
エリカの話を聞きながら、それらが頭の中で勝手に一つの線へ並んでいく。
「……面倒だな」
ぽつりと漏らすと、エリカが片眉を上げた。
「何が?」
「いや、何でもない」
雄馬はそう返して、椅子に腰を下ろした。
証拠があるわけではない。
確信があるわけでもない。
ただ、昨日足元に残った嫌な感触は、まだ綺麗に消えてはいなかった。
エリカはそんな雄馬を少しだけ見つめていたが、やがてふっと目を細めた。
「……雄馬君、何か知ってる?」
「知らない」
「本当に?」
「少なくとも、千葉が見た騒ぎのことは今聞いた」
嘘ではない。
昨日の第二小体育館で何があったのか、雄馬は今初めて知った。
ただ、それと似た匂いのする出来事に巻き込まれていた、というだけだ。
エリカは納得したような、していないような顔をした。
「まあ、いいけど。何かあったら言いなさいよ」
「何で千葉に」
「あたしが気になるから」
「正直だな」
「回りくどいのは好きじゃないの」
そう言って、エリカは自分の席へ戻っていった。
雄馬はその背を見送り、もう一度だけ小さく息を吐いた。
教室のざわめきは、まだ続いている。
誰もが昨日の第二小体育館の話をしている。
けれど雄馬には、その噂の奥で、別の何かが小さく軋んでいるように思えた。
勧誘期間の浮ついた空気。
一科生と二科生を隔てる見えない線。
そして、それを利用するように誰かの感情へ火をつける、何か。
昨日の通路で感じたざらつきが、今もまだ、足元に残っている気がした。