一週間が過ぎた。
新入部員勧誘週間は、達也にとって嵐のような日々だった。
風紀委員の中で、一番忙しかったのは彼だろう。
――それも、本来の活動とは少し違った方向性で。
初日、達也が取り押さえた桐原武明は、対戦系魔法競技では当校有数の有望株だったらしい。
その桐原が、一年生の、しかも二科生である達也に組み伏せられた。
結果として鎖骨にヒビまで入ったという話は、細かい経緯を知らない生徒たちの間で、半ば尾ひれをつけて広まっていた。
達也本人からすれば、違反行為を止めるために必要な措置を取っただけだろう。
だが、事情を知らない対戦系魔法競技者にとっては、一年生のウィードにレギュラー選手が叩き伏せられた、という事実だけで十分面白くないに違いなかった。
その結果、達也は勧誘週間の間、妙な意味で有名人になっていた。
「達也、今日も委員会か?」
帰り支度中の達也に、鞄を手にしたレオがそう訊ねた。
「今日は非番。ようやく、ゆっくりできそうだ」
「大活躍だったもんなぁ」
「少しも嬉しくないな」
達也の声は、冗談ではなく本気で疲れていた。
それがかえって面白かったのか、レオは噴き出す寸前の顔をしている。
「今や有名人だぜ、達也。魔法を使わず、並み居る魔法競技者を連破した謎の一年生、ってな」
「誇張が過ぎる」
「でも、そういう噂になってるのは本当でしょ?」
エリカが机の端に腰を預け、面白そうに口を挟んだ。
「桐原先輩の件だけじゃなくて、その後も何人か返り討ちにしたんでしょ?」
「返り討ちにした覚えはない。違反行為を止めただけだ」
「結果だけ見ると、あんまり変わらないと思うけどね」
「変わる」
達也は短く断言した。
そのやり取りを聞いていた雄馬が、端末を閉じて顔を上げる。
「司波らしいな」
「どういう意味だ?」
「勝った負けたじゃなくて、終わらせただけって顔してるところ」
雄馬の言葉に、レオが「おっ」と声を上げた。
「分かるぜ、それ。達也って、相手を倒してやったって感じが全然しねぇんだよな」
「だから、そういう話ではないと言っている」
「でも、相手からすりゃ同じじゃない?」
エリカが肩をすくめる。
「叩き伏せられた側が『これは敗北ではなく、違反行為の停止です』なんて納得するわけないでしょ」
「それもそうだな」
雄馬があっさり頷いた。
達也は少しだけ目を細める。
「納得が早いな」
「事実だろ。司波がどう思ってるかと、周りがどう見るかは別だ」
「ずいぶん冷静ね、雄馬君」
エリカがからかうように言う。
雄馬は軽く肩をすくめた。
「この一週間、嫌でも見えたからな」
「見えた?」
美月が小首を傾げる。
「ああ。司波を見てる奴らの目とか、噂の広がり方とか。面白がってる奴もいれば、苛ついてる奴もいる。勝手に期待してる奴もいる」
「期待?」
「二科生なのに一科生を倒した、みたいな話にしたがってる奴がいるってことだ」
その一言で、教室の空気がわずかに変わった。
レオの笑みが少し薄くなる。
エリカも口元の軽さを消した。
美月は、不安そうに視線を伏せる。
「……そういう言い方をしている人も、いましたね」
「美月?」
レオが振り返る。
美月は少し迷ってから、控えめに続けた。
「その……達也さんがすごい、というより、一科生も大したことない、みたいに言っている人がいて」
「うわ、感じ悪っ」
エリカが顔をしかめた。
「達也君本人は、そんなつもりないのにね」
「本人の意図なんて、噂にはあまり関係ないだろ」
雄馬はそう言ってから、達也を見た。
「司波は面倒だろうけどな」
「分かっているなら、からかわないでほしいものだ」
「俺はからかってない」
「さっきの顔は、少し楽しんでいたように見えたが」
「気のせいだ」
「……そういうことにしておこう」
達也がそう返すと、レオがこらえ切れずに笑った。
「なんかお前ら、妙に会話噛み合うよな」
「そうか?」
「そうだぜ。二人とも言い方が回りくどい」
「レオ、それ褒めてないわよね?」
「褒めてねぇな」
「レオくん……」
美月が困ったようにたしなめる。
レオは悪びれずに肩をすくめた。
「いや、でも本当のことだろ。達也も雄馬も、考えてることの半分くらいしか口に出してねぇ感じがする」
「半分も出しているつもりはない」
達也が即答した。
「認めたな」
雄馬がぼそりと言う。
「雄馬も同類だろう」
「俺はそこまで隠してない」
「自覚がない分、性質が悪いな」
「司波に言われると納得いかないな、それ」
今度はエリカが笑った。
美月も、少しだけ緊張が解けたように小さく笑みを浮かべる。
だが、雄馬の視線はすぐに窓の外へ流れた。
新入部員勧誘週間の喧騒は、すでに過去のものになりつつある。
廊下を走り回る上級生も、過剰な勧誘の声も、無理に新入生を連れて行こうとする騒ぎも、もうない。
それでも。
この一週間で生まれた熱が、すべて冷めたようには思えなかった。
一科生。
二科生。
ブルーム。
ウィード。
誰かを区分する言葉は、便利だ。
便利だからこそ、人の顔を見なくても済んでしまう。
「雄馬君?」
エリカの声で、雄馬は意識を戻した。
「どうかした?」
「いや」
短く答えてから、少しだけ間を置く。
「静かになったな、と思っただけだ」
「そりゃ、勧誘期間は終わったしね」
「ああ」
雄馬は頷いた。
「終わったはずなんだけどな」
その言葉に、達也がわずかに反応した。
「何か気になるのか?」
「気になるというほどじゃない」
雄馬は曖昧に答える。
「ただ、騒ぎが終わった後にしては、妙に熱が残ってる気がする」
「熱?」
レオが首を傾げる。
「喧嘩の後の空気みたいなものだ。終わったのに、まだ誰かが拳を握ってる感じがする」
レオはよく分からないという顔をした。
エリカは、少しだけ真面目な表情になる。
「……雄馬君、そういうの分かるんだ」
「分かるというか、気になるだけだ」
「ふぅん」
エリカはそれ以上深く訊かなかった。
だが、彼女の表情には、何か思い当たるものがあるようにも見えた。
達也は何かを考えるように視線を落とし、すぐに顔を上げる。
「いずれにせよ、こちらから騒ぎに首を突っ込む理由はない」
「司波が言うと説得力が薄いな」
「不本意だ」
「俺もそう思うぜ」
レオが笑う。
「達也の場合、首突っ込まなくても向こうから来るからな」
「レオくん、それは笑い事じゃないと思う」
「美月の言う通りだ」
達也が即座に同意した。
「おい、達也。そこで真顔で乗るなよ」
「事実だ」
「事実なら仕方ないわね」
エリカがさらりと追撃する。
「お前らなぁ……」
レオが唸る。
そのやり取りに、雄馬は小さく笑った。
いつもの面子。
いつもの教室。
いつもの放課後。
そう呼んでしまえば、確かに平穏な時間だった。
けれど雄馬には、どうしても引っかかるものがあった。
笑い声の奥に、別の音が混じっている。
誰かの怒り。
誰かの焦り。
誰かの劣等感。
それらがまだ、校舎のどこかで燻っている。
そんな気がしてならなかった。
「さて」
達也が鞄を手に取った。
「俺はそろそろ行く」
「深雪さんか?」
雄馬が訊ねる。
「ああ。待たせている」
「相変わらずねぇ」
エリカがにやにやと笑う。
「何がだ?」
「別にー?」
達也は軽く眉を寄せたが、それ以上追及しなかった。
雄馬は椅子の背に掛けていた鞄を手に取りながら、達也へ声を掛けた。
「司波」
「何だ?」
「気をつけろよ」
唐突な言葉に、レオが目を瞬かせた。
「何にだよ?」
「さあな」
雄馬は曖昧に答える。
「俺にも分からない」
「分からねぇのに気をつけろって言ったのかよ」
「分からないからだろ」
レオはますます分からないという顔をした。
だが、達也だけは一瞬、雄馬を見返した。
ほんの短い沈黙。
そして、わずかに頷く。
「覚えておく」
「そうしてくれ」
それだけだった。
達也は教室を出て行く。
その背中を見送ってから、エリカが雄馬の横顔を覗き込んだ。
「雄馬君、何か知ってる?」
「知らない」
「本当に?」
「本当に知らない」
雄馬は窓の外を見た。
放課後の校舎は、勧誘週間の騒がしさが嘘のように静かだった。
静かになったからといって、火が消えたとは限らない。
灰の下で燻るものは、音を立てない。
だからこそ、厄介なのだ。
◇
達也が教室を出てから、少し遅れて雄馬も席を立った。
レオやエリカたちと適当に言葉を交わし、鞄を肩に掛けて廊下へ出る。
昇降口へ向かう途中、カフェテリアの前を通りかかったところで、何気なく中へ視線を向けた。
そして、足を止める。
窓際に近い席。
向かい合って座る二人の姿が目に入った。
一人は、司波達也。
もう一人は、上級生らしき女子生徒だった。
黒髪を整えた、背筋の伸びた少女。
雰囲気だけなら、真面目な優等生といった印象だ。
ただ、達也と二人で向かい合っているというだけで、雄馬の好奇心は十分に刺激された。
(……司波が女子の先輩と二人でカフェ?)
それだけなら、後でからかいの種にする程度の話だった。
だが、達也の表情が妙にいつも通りだったことが、逆に引っかかった。
照れている様子はない。
かといって、完全に気を抜いているわけでもない。
いつもの無表情に近いが、わずかに意識を張っているようにも見える。
(面白そうな展開だな)
そう思った時点で、雄馬の足はカフェテリアの中へ向いていた。
もちろん、堂々と二人の席へ行くほど無粋ではない。
雄馬は入口近くの購入端末で適当な飲み物を選び、カップを受け取ると、二人から少し離れた席へ腰を下ろした。
真正面ではない。
かといって、声が届かないほど遠くもない。
観葉植物とパーティションの陰に半分隠れる位置。
偶然を装うには少し不自然で、盗み聞きするにはちょうどいい席だった。
(……何やってんだろうな、俺)
自覚はある。
褒められた行動ではない。
だが、好奇心が勝った。
それに、先ほど教室で感じていた妙な熱の残り香が、どうにも頭から離れなかった。
雄馬はカップに口をつけるふりをしながら、二人の会話へ意識を向けた。
最初に聞こえてきたのは、女子生徒の少し慌てた声だった。
「……えっと、改めて。先週はありがとう、司波君」
達也が小さく応じる。
「礼には及びません。あれは風紀委員として必要な対応でした」
(先週……?)
雄馬の目が細くなる。
先週。
風紀委員。
その二つの単語で、思い当たる出来事は限られていた。
桐原武明の件だ。
つまり、向かいに座っている女子生徒は、あの騒ぎの関係者ということになる。
(あの人が、壬生紗耶香か?)
エリカから名前だけは聞いていた。
剣道部の実力者。
桐原と対峙していた先輩。
話だけ聞いた時には、もっと硬い人物を想像していた。
しかし今の様子を見る限り、達也に礼を言う姿は思ったよりも柔らかい。
真面目で、少し不器用で、年上らしく振る舞おうとしている。
そんな印象だった。
「桐原君を止めてくれたことだけじゃないの」
紗耶香の声が、少し真剣味を帯びる。
「あの時、司波君が大事にしないように言ってくれたんでしょう? だから、剣道部も剣術部も大きな処分にならずに済んだって聞いたわ」
「騒ぎ立てるほどのことではなかっただけです」
達也は淡々と返す。
「怪我人も、当事者以外には出ていませんでしたから」
(……そういうことにしてるのか)
雄馬はカップの縁を指でなぞった。
達也らしい答えだった。
自分がどう評価されるかより、状況がどう収まるかを優先している。
それ自体は分かる。
だが、あの桐原武明が達也に組み伏せられ、鎖骨にヒビまで入ったという事実は、すでに校内で別の意味を持ち始めている。
達也がどう考えているかは関係ない。
周囲が勝手に意味をつける。
それが、雄馬には少し気持ち悪かった。
「武道をやっていれば、あのくらいの衝突は珍しくないわ」
紗耶香の声が続く。
「強さを認めてほしいとか、試したいとか、そういう時期は誰にでもあると思うの。司波君にも、覚えはない?」
「……分かります」
達也の返事は短かった。
雄馬は思わず、心の中で首を傾げる。
(本当に分かってる顔じゃないな)
声だけで分かる。
達也は、相手の言葉を否定しないために頷いただけだ。
強さを見せたい。
自分を認めさせたい。
そういう衝動とは、達也は少し違う場所にいる。
少なくとも雄馬には、そう見えていた。
「それなのに、風紀委員は何でもかんでも問題にしたがるのよ」
紗耶香の声に、熱が混じった。
「点数稼ぎみたいに摘発して、騒ぎを大きくして……そういうやり方が嫌なの」
「俺も一応、その風紀委員ですが」
「ち、違うの! 司波君のことを言っているんじゃなくて」
紗耶香が慌てたように言葉を重ねる。
雄馬は少しだけ口元を緩めた。
(司波、わざとだな)
達也の声に、責める響きはなかった。
ただ、相手が自分で話の矛盾に気づくよう、静かに言葉を置いただけ。
紗耶香はそれに見事に引っかかっていた。
風紀委員会は嫌い。
だが、達也は違う。
自分が言いたいことと、感情の向かう先が整理しきれていない。
そんな印象だった。
(悪い人じゃない。けど、危うい)
雄馬はそう判断した。
怒りがある。
不満がある。
ただし、それは明確な悪意ではない。
むしろ、自分の中にある正しさを信じたいがゆえの焦りに近い。
だからこそ、危ない。
怒りだけなら、まだ分かりやすい。
だが、正しさを伴った怒りは、人を止まりにくくする。
「それで」
達也の声が、会話を本題へ戻した。
「話というのは?」
少しだけ間が空く。
紗耶香は覚悟を決めるように息を吸った。
「司波君、剣道部に入らない?」
雄馬は危うく飲み物を噴き出しかけた。
(そっちか)
思わずカップを置き、咳を誤魔化すように軽く喉を鳴らす。
幸い、二人はこちらを見なかった。
いや。
一瞬だけ、達也の視線がこちらへ動いた気がした。
気がしただけかもしれない。
だが、雄馬は直感的に理解した。
(……気づいてるな、これ)
入店した時点で気づかれていた可能性が高い。
それでも達也が何も言わないのは、紗耶香の話を優先しているからか。
あるいは、雄馬が聞いていても問題ないと判断しているのか。
どちらにせよ、今さら席を立つ方が不自然だった。
雄馬は端末を開き、画面を見るふりをする。
耳だけは、二人の会話に向けたまま。
「せっかくですが、お断りします」
達也の返事は、あまりにも早かった。
紗耶香が一瞬言葉を失ったのが、離れた席からでも分かった。
「理由を聞かせてもらってもいい?」
「逆に、俺を誘う理由を聞きたいですね」
達也の声は穏やかだった。
だが、その穏やかさの下には逃げ道を塞ぐような鋭さがある。
「俺が使っているのは剣道ではありません。系統が違うことくらい、壬生先輩なら分かるはずです」
紗耶香はすぐには答えなかった。
その沈黙で、雄馬も察した。
剣道部の戦力として欲しいわけではない。
少なくとも、それだけではない。
達也を誘う理由は別にある。
この一週間で有名になった、二科生の風紀委員。
一科生を抑えた二科生。
その肩書きが必要なのだ。
(……なるほど。これはただの部活勧誘じゃないな)
雄馬は端末の画面を見つめたまま、指先だけを止めた。
紗耶香が、小さく息を吐く。
「魔法科高校だから、魔法の成績が重視される。それは分かってるし、納得して入学したつもりだった」
声が、先ほどより低い。
照れや慌てた様子は消えていた。
「でも、学校生活の全部が魔法の腕で決まるのはおかしいと思わない? 授業ならまだ分かる。でも、クラブ活動まで魔法競技中心で、非魔法競技は軽く見られる。そんなの、変よ」
雄馬は、そこで少しだけ目を伏せた。
言いたいことは分からなくもない。
魔法科高校という場所で、魔法の価値が最優先される。
それは当然だ。
だが、当然だからといって、その下で傷つく人間がいないわけではない。
問題は、紗耶香がその傷をどこへ向けようとしているかだった。
「剣道部だけじゃないわ。非魔法競技系のクラブで連帯して、部活連とは別の形で学校へ意見を伝えるつもりなの」
紗耶香は続ける。
「魔法だけが、あたしたちの価値じゃないって」
その言葉は、強かった。
少なくとも、本人は本気で言っている。
だからこそ、雄馬には引っかかった。
(言ってること自体は、そこまでおかしくない)
魔法だけが人間の価値ではない。
それは正しい。
だが、この学校でそれを訴えるなら、どう訴えるかが問題になる。
誰に。
どの手段で。
どこまでを求めて。
そして、それが通らなかった時に、何をするのか。
そこまで考えているようには聞こえなかった。
達也も同じことを感じたのだろう。
少しだけ沈黙した後、彼は静かに口を開いた。
「考えを学校に伝えて、それからどうするんですか?」
紗耶香の言葉が止まった。
その瞬間、雄馬は端末の画面から目を上げた。
空気が変わった。
先ほどまでの熱が、急に行き場を失ったような沈黙。
紗耶香は、自分の中にあった正しさを言葉にした。
だが、達也はその先を訊いた。
正しいことを言った後、何をするのか。
伝えるだけで終わるのか。
伝わらなかった場合はどうするのか。
誰が責任を取るのか。
その問いは、紗耶香の感情ではなく、計画の空白を突いていた。
(……司波、容赦ないな)
雄馬はそう思った。
同時に、少しだけ納得もした。
これは、茶化していい話ではない。
面白そうだと思って入ってきた自分を、内心で少しだけ反省する。
だが、もう席を立つ気にはなれなかった。
この話の先に、教室で感じた“残り火”の正体がある。
そんな気がしていた。
――学校側に自分たちの考えを伝えて、それからどうしたいのか。
達也の問いに、紗耶香は答えることが出来なかった。
「それは……」
そう口にしたきり、言葉が続かない。
唇が何度か動く。
けれど、そこから出てくるのは「あ」とか「う」とか、意味を持たない音ばかりだった。
学校側に、自分たちの考えを伝える。
非魔法競技系クラブの立場を訴える。
魔法だけが価値ではないと認めさせる。
そこまでは、彼女の中で形になっていたのだろう。
だが、その先がなかった。
伝えて、どうしたいのか。
認めさせて、何を変えたいのか。
学校が受け入れなかった場合、どうするのか。
達也が問うたのは、感情の正しさではなく、行動の先だった。
(……痛いところを突くな、司波)
少し離れた席で端末を見るふりをしながら、雄馬は内心でそう呟いた。
紗耶香の言葉そのものを、雄馬は否定する気にはなれなかった。
魔法だけが人間の価値ではない。
それは正しい。
一科生と二科生の壁が、必要以上に人を傷つけていることも、この一週間で嫌というほど見えている。
だが、正しいことを言っているからといって、正しい道を選べるとは限らない。
そのことを、達也は静かに突きつけていた。
「……ごめんなさい」
紗耶香が、ようやく絞り出した言葉はそれだった。
「まだ、そこまでは……考えられていなかったわ」
声に、悔しさが滲んでいた。
恥じている。
怒っている。
けれどそれは、達也に対してではなく、自分自身に向けられたものに見えた。
達也は責めなかった。
「でしたら、考えがまとまってからで構いません」
「え……?」
「壬生先輩の考えがまとまったら、もう一度聞かせてください」
紗耶香が目を瞬かせる。
突き放されたと思ったのかもしれない。
だが、達也の声は冷たくなかった。
同調はしない。
安易に頷きもしない。
けれど、話を聞かないとは言わない。
それが、達也なりの誠実さなのだろう。
「それは……宿題、ということ?」
「そう受け取ってもらって構いません」
淡々とした返事。
紗耶香はしばらく達也を見つめ、それから小さく笑った。
困ったような、悔しいような、少しだけ救われたような笑みだった。
「分かったわ。もう一度、考えてみる」
「はい」
「今日は、急に呼び出してごめんなさい」
「いえ」
それで会話は一区切りついたらしい。
紗耶香が席を立つ気配がした。
雄馬は反射的に端末へ視線を落とす。
まるで最初からずっと画面を見ていたかのように、指先で適当にスクロールする。
紗耶香がこちらに気づいた様子はない。
彼女はカップを片づけ、達也へ軽く会釈してから、カフェテリアを出て行った。
その背中を、雄馬は横目で見送る。
(黒幕って感じじゃないな)
少なくとも、彼女は誰かを騙そうとしている顔ではなかった。
むしろ、何かを信じたいのに、その中身をまだ言葉にできていない。
そんな危うさがある。
自分の怒りに、自分の言葉が追いついていない。
それは、悪意よりも厄介かもしれなかった。
「盗み聞きは、あまり褒められた趣味じゃないな」
不意に、すぐ近くから声がした。
雄馬は端末を持つ手を止めた。
顔を上げると、いつの間にか達也が隣の席の横に立っていた。
「……気づいてたのか」
「入ってきた時から」
「だよな」
雄馬は観念して、端末を閉じた。
「悪かった。面白そうだと思ったんだ」
「悪びれないな」
「一応、悪いとは思ってる」
「一応か」
達也は呆れたように言ったが、本気で怒っている様子はなかった。
雄馬は少しだけ視線を、紗耶香が出て行った入口へ向ける。
「でも、途中からは面白いだけじゃなくなった」
「何が気になった?」
「壬生先輩だよ」
達也は黙って続きを促した。
「言ってることは、分からなくもない。魔法だけが価値じゃないってのは、その通りだと思う。けど……あの人、自分がどこへ行きたいのか、まだ分かってないだろ」
「そうだな」
達也は否定しなかった。
「だから、考えてもらうことにした」
「優しいな」
「俺が?」
「少なくとも、突き放してはいない」
達也は少しだけ目を細めた。
「そう見えたか?」
「ああ。安易に頷くより、よほど誠実だと思う」
雄馬がそう言うと、達也はしばらく黙った。
その沈黙に、照れや困惑はない。
ただ、雄馬の言葉を判断しているようだった。
「雄馬」
「何だ?」
「壬生先輩の話を、どう思った?」
問われて、雄馬は少し考えた。
答えはすぐには出せない。
紗耶香の怒りを、間違いだと切り捨てることはできない。
だが、あのまま進めば危ういとも思う。
「正しいことを言ってる部分はある」
雄馬はゆっくり答えた。
「でも、正しいことを言ってる人間が、正しい場所に向かってるとは限らない」
達也の目が、わずかに細くなった。
「なるほど」
「それに」
雄馬は声を落とした。
「自分の怒りに、誰かの言葉を混ぜられてる感じがする」
「誰かの言葉?」
「上手く言えない。ただ、あの人の中にある怒りは本物だと思う。でも、それをどこに向ければいいのかを、誰かに教えられてるような感じがした」
達也は何も言わなかった。
否定もしない。
肯定もしない。
ただ、その情報を頭の中に置いたようだった。
「感覚の話だ。証拠はない」
「証拠がないことを、断定するつもりはない」
「だろうな」
「だが、覚えておく」
その返事だけで、雄馬には十分だった。
カフェテリアの外は、もう放課後の光が薄くなり始めていた。
紗耶香の姿は、もう見えない。
だが、彼女が残していったものは、まだこの場にある。
怒り。
迷い。
そして、誰かの言葉。
雄馬はカップの中に残った飲み物を見下ろし、小さく息を吐いた。
新入部員勧誘週間は終わった。
桐原の騒ぎも、表向きには終わった。
けれど、終わったはずのものが、別の形でまた動き出そうとしている。
そんな予感がした。