魔法科高校の異端魔術師   作:もやしになりたい

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一秒の壁、三つの半分

 新入部員勧誘週間が終わり、入学直後の慌ただしさもようやく一段落した。

 

 少なくとも、表面上は。

 

 達也たち一年E組でも、この日から本格的な魔法実習が始まった。

 

 高校課程から専門教育が本格化するとはいえ、魔法科高校の入学試験には魔法実技が含まれている。入学時点で、生徒たちは既に一定の魔法スキルを身に付けていることが前提だった。

 

 そのため、授業は基礎から始まる。

 

 だが、初心者に一から教える授業ではない。

 

 基礎の段階で既に、差は出る。

 

 そしてその差こそが、一科と二科を分けている。

 

 合理的と言えば合理的だった。

 

 指導できる人材には限りがある。魔法師の卵を育てる国策学校で、限られた資源をどこへ集中させるかという問題は、綺麗事だけで処理できるものではない。

 

 だが、それを理解できることと、納得できることは別だった。

 

 雄馬は据付型の教育用CADを前にしながら、周囲の空気を静かに見ていた。

 

 今日の課題は、基礎単一系魔法の魔法式を制限時間内に構築し、発動させること。

 

 現代魔法では、CADから起動式を読み込み、それを魔法演算領域で魔法式へ変換し、対象の情報へ干渉する。

 

 その変換工程を、授業ではコンパイルと呼んでいた。

 

 魔法が技術である以上、速度は重要な指標になる。

 

 一秒未満。

 

 今日の課題では、そこがまず最初の壁だった。

 

「九百四十ミリ秒……達也さん、クリアです!」

 

 計測器の数字を見た美月が、我が事のように声を弾ませた。

 

 達也は疲れ気味に息を吐く。

 

「三回目でようやくか」

 

「でも、クリアはクリアです」

 

 美月は素直に喜んでいた。

 

 達也の隣でそれを見ていた雄馬は、視線だけを自分の計測結果へ落とした。

 

 九百八十ミリ秒。

 

 こちらも一応、一秒は切っている。

 

 だが、ギリギリだった。

 

「雄馬さんもクリアですね」

 

 美月がこちらにも笑みを向ける。

 

「ああ。ギリギリだけどな」

 

「ギリギリでも、成功は成功だと思います」

 

「そう言ってもらえると助かる」

 

 雄馬は軽く肩をすくめた。

 

 正直なところ、達也ほどではないにしろ、雄馬もこの授業用CADとは相性が悪かった。

 

 手順そのものは理解している。

 

 サイオンを流し、起動式を受け取り、魔法式へ変換する。

 

 だが、身体の感覚として、どこか合わない。

 

 剣を振るう時に、わざわざ利き手と逆の手で柄を握らされているような違和感がある。

 

 それでも、現代魔法の授業ではこの手順が標準だ。

 

 自分の感覚の方が特殊なのだと、雄馬は理解していた。

 

「でも意外でした」

 

 美月が達也へ向き直る。

 

「達也さん、本当に実技が苦手だったんですね……」

 

「何度も自己申告したと思うけど」

 

「聞いてはいましたけど、謙遜だとばかり」

 

 美月は心底不思議そうだった。

 

「達也さんみたいに何でも出来る人が、実技が苦手だなんて」

 

「実技が人並みに出来ていたら、このクラスにはいなかっただろうね」

 

 達也は嫌味にならないよう、慎重に言葉を選んでいた。

 

 美月はその言葉を素直に受け止める。

 

「そうですね。もし達也さんが実技まで得意だったら、完璧すぎて近寄り難かったかもしれません」

 

 屈託のない笑顔だった。

 

 だからこそ、達也の表情が僅かに曇る。

 

 雄馬はそれを見て、少しだけ視線を伏せた。

 

 今の言葉は悪意ではない。

 

 だが、達也にとってはどう響いたのか分からない。

 

 完璧。

 

 人は、見えている結果だけで相手を測る。

 

 見えない事情までは測れない。

 

 そしてこの学校では、その傾向が特に強い。

 

「でも……達也さんは、悔しくないんですか?」

 

 美月の声が、少しだけ小さくなった。

 

「本当は実力があるのに、無いみたいに評価されるなんて、普通なら悔しいと思うんです」

 

 達也は答えに迷ったようだった。

 

 雄馬は、思わず美月を見た。

 

 彼女の問いは、真っ直ぐだった。

 

 責めるためでも、踏み込むためでもない。

 

 ただ、見えてしまったものがあるから、聞かずにはいられなかったのだろう。

 

「処理速度も実力だよ」

 

 達也はそう答えた。

 

「それも重要な要素だ。コンマ一秒が結果を分けるような場面だって、無いとは言えない」

 

 建前としては正しい。

 

 だが、美月はそれで引かなかった。

 

「でも、実戦を想定するなら、達也さんは本当はもっと速く発動できるんじゃないですか?」

 

 空気が、ほんの僅かに変わった。

 

 エリカとレオはまだ別の場所で課題に取り組んでいる。

 

 周囲の生徒たちも、それぞれ自分のことで手一杯だ。

 

 だが、達也と美月、そして雄馬の間だけが、別の密度を持ち始めていた。

 

「何故そう思う?」

 

 達也の声は平静だった。

 

 だが、雄馬にはその問いの奥にある警戒が分かった。

 

「達也さん、さっき三回ともやりにくそうでした」

 

 美月は戸惑いながらも、見たままを口にした。

 

「英語で考えて英語で答えられる人が、わざわざ日本語に直してから、もう一度英語に訳しているみたいで……それに、一回目の時、一度組みかけた魔法式を破棄して、やり直していましたよね」

 

 雄馬は内心で舌を巻いた。

 

 美月の眼は、やはり普通ではない。

 

 ただサイオンの光が見える、というだけではない。

 

 流れの違和感を、意味のある形で捉えている。

 

 それは才能だ。

 

 だが同時に、扱いを間違えれば本人を傷つけるものでもある。

 

「そこまで見られていたとは思わなかった」

 

 達也が言う。

 

 美月の顔が、さっと青ざめた。

 

「す、すみません……」

 

「責めているわけじゃない」

 

 達也は淡々と続けた。

 

「基礎単一系程度なら、起動式を使わずに直接組んだ方が速い。ただ、そのやり方が使えるのは工程の少ない魔法だけだ。多段階の処理には向かない」

 

「それでも、戦闘用なら十分じゃないですか?」

 

「俺は戦闘用に魔法を学んでいるわけじゃないからね」

 

 その一言に、美月は目を瞬かせた。

 

 雄馬もまた、達也へ視線を向ける。

 

「俺には、別に目的がある。多段階工程の魔法を扱うには、やはり起動式が必要になる。その処理速度が劣っているなら、相応の評価を受けるのは仕方がない」

 

 達也の声は落ち着いていた。

 

 諦めではない。

 

 割り切りでもない。

 

 もっと硬いものだった。

 

 自分の中で既に何度も確認し、削り、形を整えた結論。

 

 そういう言葉に聞こえた。

 

「凄いです、達也さん……」

 

 美月が胸の前で手を組んだ。

 

「尊敬します」

 

「は?」

 

「魔法が使えるから魔法師になる、じゃなくて、ちゃんと自分の目的のために魔法を学んでいるんですね」

 

 美月の目は潤んでいた。

 

「私、心を入れ替えます」

 

「柴田さん?」

 

「私は、この眼をどうにかしたくて魔法を勉強しているだけで、将来何をしたいかなんて、深く考えたことがありませんでした。でも、これからちゃんと考えます」

 

 美月の言葉が熱を帯び始める。

 

「目的があれば、少し中傷されたくらいで挫けたりしないんですよね。自分にとって大切なものがあれば、学校の成績なんて――」

 

「美月、ちょっと落ち着きなさい」

 

 エリカの声が横から飛んできた。

 

 どうやら、自分の課題そっちのけで聞き耳を立てていたらしい。

 

 美月はようやく周囲の視線に気づき、顔を真っ赤にして俯いた。

 

 雄馬はその様子を見ながら、小さく息を吐いた。

 

「目的、か」

 

 ぼそりと呟く。

 

 達也がこちらを見た。

 

「雄馬は?」

 

「俺?」

 

「君は何のために魔法を学んでいる?」

 

 その問いに、雄馬は少しだけ考えた。

 

 この世界で生きるため。

 

 学校についていくため。

 

 目立ち過ぎないため。

 

 答えはいくつかあった。

 

 だが、それらは全部、半分だけ正しい。

 

「置いていかれないため、かな」

 

 雄馬はそう答えた。

 

「誰に?」

 

「色々だよ」

 

 それ以上は言わなかった。

 

 達也も追及しない。

 

 美月は不思議そうにこちらを見ていたが、何も聞かなかった。

 

 雄馬は据付型CADへ視線を落とす。

 

 魔法の成績表には出ないもの。

 

 CADの処理速度では測れないもの。

 

 それでも、自分を形作ってきたものは確かにある。

 

 剣。

 

 体術。

 

 槍の理屈。

 

 立ち回り。

 

 そして、力を持つ者としての責任。

 

 それらは、この学校の基準では測りにくい。

 

 だからこそ、壬生沙耶香の言葉が胸に残っていた。

 

 魔法だけが全てではない。

 

 それは正しい。

 

 だが、その先をどうするのか。

 

 そこを答えられなければ、言葉は誰かに利用される。

 

 

 ◇

 

 昼休みになっても、達也は実習室に残っていた。

 

 原因は、エリカとレオである。

 

「千六十ミリ秒……ほら、もう少しだ」

 

「遠い……〇・一秒がこんなに遠いなんて知らなかったぜ……」

 

「時間は遠いじゃなくて長いでしょ」

 

「今それ重要か!?」

 

 雄馬は壁際でそのやり取りを眺めていた。

 

 本当なら食堂へ行きたいところだが、成り行きで残ってしまった。

 

 エリカとレオは、授業時間中に一秒を切れなかった。

 

 それで達也に指導を頼んだのである。

 

「レオは照準設定に時間を使いすぎてる。的の位置が分かっているなら、先にそこへ意識を置いておけばいい」

 

「分かっちゃいるんだけどよ……」

 

「分かっていても身体が迷うなら、順番を変えろ。先に照準を置いてから起動式を読む」

 

「そんなことできるのか?」

 

「その場しのぎの裏技だ。あまり勧めるものじゃない」

 

 達也はそう言いながらも、説明は的確だった。

 

 レオは真剣に頷いている。

 

 雄馬はその横顔を見て、少し面白く思った。

 

 レオは単純に見えるが、素直だ。

 

 必要だと思ったことは、きちんと聞く。

 

 それは一つの強さだった。

 

「で、エリカは……」

 

「なになに? 裏技でも何でもいいからお願い。いい加減お腹空いた」

 

「人聞きの悪いことを言うな」

 

 達也は少し考えてから、エリカへ指示を出した。

 

「起動式を読み込む時、パネルの上で右手と左手を重ねてみてくれ」

 

「え? それだけ?」

 

「確信はない。上手くいったら理由を説明する」

 

 エリカは半信半疑ながらも従った。

 

 雄馬はその様子を見て、達也の狙いに少し遅れて気づく。

 

「片手用に慣れすぎてるのか」

 

「多分な」

 

 達也が短く答える。

 

「エリカは棒状のCADに慣れている。両手で平面に触れる形だと、感覚が分散しているんだろう」

 

「なるほど」

 

「雄馬も似たような違和感があったんじゃないか?」

 

「……分かるのか」

 

「さっきの動きを見ていればな」

 

 雄馬は苦笑した。

 

「司波も大概だな」

 

「美月ほどじゃない」

 

「それはそうだ」

 

 美月が困ったように笑った。

 

 その後、エリカとレオは何度か失敗しながらも、少しずつタイムを縮めていった。

 

 達也と美月が計測を担当し、雄馬は時々レオの身体の向きや呼吸を指摘した。

 

「レオ、肩に力が入りすぎてる」

 

「分かってるって!」

 

「分かってないから言ってる」

 

「雄馬まで厳しくなりやがった!」

 

「急ぎたいなら無駄な力を抜け。剣でも槍でも同じだ」

 

「魔法の話だろ、これ!」

 

「身体が迷ってるなら同じだよ」

 

 雄馬がそう言うと、レオは渋い顔をしながらも、少し肩を回して力を抜いた。

 

 次の計測では、さらにタイムが縮まる。

 

「お、今のよかったぞ」

 

「マジか!」

 

「まだ一秒は切ってないけどな」

 

「そこは黙っててくれ!」

 

 そんなやり取りの最中、実習室の入口から遠慮がちな声がした。

 

「お兄様、お邪魔してもよろしいでしょうか」

 

 深雪だった。

 

 その後ろには、ほのかと雫もいる。

 

 達也は一瞬だけ顔を上げた。

 

「すまない、深雪。次で終わるから少し待ってくれ」

 

「分かりました」

 

 深雪は素直に頷き、二人を促して扉の近くに下がった。

 

 その存在だけで、レオの顔が少し引き攣る。

 

「変な緊張感増えたんだけど」

 

「なら早く終わらせろ」

 

 雄馬が淡々と言う。

 

「他人事だと思いやがって……」

 

「他人事だ」

 

「ひでえ」

 

 結局、その一回でエリカもレオも一秒を切った。

 

「終わったー!」

 

「腹減った……」

 

 二人がそれぞれ椅子に崩れ落ちる。

 

 達也は深雪たちから受け取った袋を差し出した。

 

「食堂へ行く時間はない。これで済ませるぞ」

 

 袋の中には、購買のサンドイッチと飲み物が入っていた。

 

「達也、最高だぜ!」

 

「現金ね、レオ」

 

「あんたも目が輝いてるぞ」

 

「気のせいよ」

 

 美月も遠慮がちに手を伸ばす。

 

 雄馬も受け取ったサンドイッチを開けた。

 

「実習室で食べていいのか?」

 

「情報端末のある場所でなければ、校則上は禁止されていない」

 

「そうなのか」

 

「俺も確認するまでは禁止だと思っていた」

 

「意外と細かいな、司波」

 

「確認できることを確認しない方が落ち着かないだけだ」

 

 実に達也らしい答えだった。

 

 深雪たちも飲み物だけを手に輪に加わる。

 

 昼食は遅くなったが、空気は悪くなかった。

 

 ただ、その中で何気なく美月が尋ねた。

 

「深雪さんたちのクラスでも、実習は始まっているんですよね。どんな感じなんですか?」

 

 ほのかと雫が顔を見合わせる。

 

 深雪は隠す様子もなく答えた。

 

「多分、美月たちと変わらないと思うわ。古い教育用CADを使って、授業以外ではあまり役に立ちそうもない練習をしているところ」

 

 エリカとレオ、ほのか、美月が揃って固まった。

 

 雄馬はサンドイッチを口に運びかけたまま、少しだけ目を細める。

 

 深雪の口調は上品だ。

 

 だが、言葉の中身はかなり辛辣だった。

 

「ご機嫌斜めだな」

 

 達也が苦笑する。

 

「不機嫌にもなります。あれなら一人で練習している方が為になりますもの」

 

 深雪は拗ねるように言った。

 

 その声に甘さが混じる。

 

 雄馬はそっと目を逸らした。

 

「雄馬君、今逃げたでしょ」

 

 エリカが目敏く指摘してくる。

 

「逃げてない」

 

「じゃあ何で目を逸らしたのよ」

 

「見ていいものと、見ない方がいいものがある」

 

「達観してるわね」

 

「経験則だ」

 

 エリカは呆れたように笑った。

 

 しかし、ほのかの表情はまだ少し硬かった。

 

「エリカは……当然だと思っているの?」

 

「一科生には指導教官がついて、二科生にはつかないこと?」

 

「うん」

 

「当然だと思う」

 

 エリカはあっさり答えた。

 

「うちの道場でもそうだよ。見込みのある人に手を割く。技を教わる前に、自分でやるべきことをやれない人に、いきなり細かく教えたって身につかないから」

 

 その言葉に、レオが苦い顔をする。

 

「俺たち、さっきまで達也に教わってたけどな」

 

「痛いところ突くわね」

 

 エリカは顔をしかめながらも、すぐに笑った。

 

「でも、教わるにも教わるだけの段階があるってことよ。教える側だって万能じゃないんだから」

 

 雄馬はその言葉に、静かに頷いた。

 

「それは分かる」

 

「雄馬君もそう思う?」

 

「ああ。教える側にも時間がある。全員に同じだけ付き合うのは無理だ」

 

「でしょ?」

 

「ただ」

 

 雄馬は飲み物を置いた。

 

「指導に差があることと、人の価値に差をつけることは別だと思う」

 

 輪の空気が少し静かになった。

 

 ほのかが雄馬を見る。

 

 美月も、深雪も、達也も、口を挟まない。

 

「制度として差があるのは、現実の問題として仕方ない部分もある。でも、その差を理由に見下すなら、それは制度じゃなくて人間の幼稚さだ」

 

「……雄馬君、急に真面目ね」

 

「俺だって、たまには真面目になる」

 

「たまには、なのね」

 

「ずっと真面目だったら疲れるだろ」

 

 エリカが笑い、空気が少し緩んだ。

 

 だが、雄馬の中では別のものが残っていた。

 

 沙耶香の言葉。

 

 彼女の怒り。

 

 魔法だけが全てではない。

 

 その言葉は、雄馬にも刺さる。

 

 だが、その怒りをどこへ向けるのか。

 

 そこを間違えれば、正しさは簡単に刃になる。

 

 

 ◇

 

 放課後。

 

 雄馬は食堂ではなく、学内カフェの近くにいた。

 

 正確には、カフェへ入ろうとして足を止めた。

 

 達也と沙耶香が向かい合って座っているのが見えたからだ。

 

(……このタイミングか)

 

 自分から聞き耳を立てるつもりはなかった。

 

 だが、距離を取って別の席へ向かう途中、沙耶香の声が聞こえてしまった。

 

 待遇改善。

 

 学校側へ要求。

 

 その言葉に、雄馬は足を止めた。

 

 達也は淡々と問い返していた。

 

 改善とは具体的に何か。

 

 授業なのか。

 

 クラブ活動なのか。

 

 予算なのか。

 

 その問いに、沙耶香の答えは揺れていた。

 

 怒りはある。

 

 不満もある。

 

 だが、それをどう変えるべきかという具体的な形が見えていない。

 

 雄馬は少し離れた場所で、静かに息を詰めた。

 

 達也の問いは容赦がない。

 

 だが、意地悪ではない。

 

 相手の主張を本当に形にするなら、避けて通れない問いだった。

 

「司波君は不満じゃないの?」

 

 沙耶香の声が聞こえる。

 

「魔法実技以外なら、一科生に負けていないのに。ただ実技の成績だけでウィードなんて見下されて、悔しくないの?」

 

 達也の答えは、少し間を置いて返った。

 

「不満はあります」

 

 そこで沙耶香の空気が少し変わる。

 

 だが、達也は続けた。

 

「ですが、俺には学校側に変えてもらいたい点はありません」

 

 沙耶香の表情が、雄馬の位置からでも分かるほど固まった。

 

 達也は、魔法大学系列でしか見られない文献と、魔法科高校の卒業資格があればいいと言った。

 

 同級生の幼稚な中傷まで、学校の責任にするつもりはない、とも。

 

 雄馬はその言葉を聞きながら、拳を軽く握った。

 

 正しい。

 

 けれど、冷たい。

 

 いや、冷たいのではない。

 

 達也にとってはそれが本音なのだ。

 

 学校に期待していない。

 

 だから、学校へ怒りをぶつける理由も薄い。

 

 沙耶香はそれを理解できなかったのだろう。

 

 顔を青ざめさせ、縋るような目で達也を見ていた。

 

「何故、そこまで割り切れるの?」

 

 達也は短く答えた。

 

 自分には実現したいものがある。

 

 魔法を学ぶのは、そのための手段に過ぎない、と。

 

 沙耶香は何も言えなくなった。

 

 達也は席を立つ。

 

 雄馬はその場から動かなかった。

 

 声を掛けるべきか。

 

 迷った。

 

 だが、今ここで自分が出れば、盗み聞きしていたことになる。

 

 実際、ほとんどそうだった。

 

 沙耶香にとっても、達也にとっても、今の自分は邪魔でしかない。

 

 雄馬は、静かにカフェを離れた。

 

 

 ◇

 

 何事もなく、一週間が過ぎた。

 

 表面上は。

 

 勧誘週間のような騒ぎもなければ、風紀委員会の見回りで大きな揉め事が起きたという話も聞かない。

 

 新入生たちは少しずつ学校に慣れ、教室の空気もそれなりに落ち着いてきていた。

 

 だが、雄馬の中では、あのカフェで聞いた会話が残り続けていた。

 

 沙耶香はまだ止まっていない。

 

 そんな予感があった。

 

 そしてその予感は、放課後の冒頭に現実となった。

 

『全校生徒の皆さん!』

 

 スピーカーから飛び出した大音量に、教室中が跳ねた。

 

「何だ何だ!?」

 

 レオが思わず声を上げる。

 

「落ち着きなさい。あんたが騒ぐと余計に暑苦しいのよ」

 

「エリカも十分騒がしいぞ」

 

 雄馬が言うと、エリカがこちらを睨んだ。

 

『失礼しました。全校生徒の皆さん』

 

 音量が少し落ちる。

 

『私たちは、学内差別撤廃同盟――スリー・ハーブズです』

 

「……っ」

 

 達也が吹き出した。

 

 雄馬は眉を寄せる。

 

 この状況で笑える達也も大概だが、確かに名前だけなら妙だった。

 

「何笑ってるのよ」

 

 エリカが訝しげに聞く。

 

「スリー・ハーブズ。多分、三つの半分という意味だろう」

 

「三つの半分?」

 

「一科と二科を平均して一・五。差別撤廃を掲げているのに、一科と二科の区別を前提にした名前だ」

 

 しばらくの沈黙。

 

 次の瞬間、エリカとレオが盛大に噴き出した。

 

「何それ!?」

 

「アホだろ、それ!」

 

「笑いごとじゃないんだけどな」

 

 雄馬は呟いた。

 

 美月が不安そうにこちらを見る。

 

「雄馬さん?」

 

「この名乗りが間抜けでも、やってる本人たちは真面目だ。そこが面倒なんだよ」

 

 放送は、生徒会と部活連へ対等な交渉を要求していた。

 

 学内差別の撤廃。

 

 一科と二科の待遇差。

 

 言葉だけを拾えば、筋の通った部分もある。

 

 だが、放送室を無断で占拠している時点で、手段は完全に外れていた。

 

 達也の端末が鳴る。

 

「呼び出しか?」

 

「ああ。放送室前だ」

 

 達也は立ち上がる。

 

 雄馬も鞄を置いたまま席を立った。

 

「俺も行く」

 

「呼ばれていないだろう」

 

「分かってる。邪魔はしない」

 

「壬生先輩か?」

 

「多分な」

 

 達也は少しだけ雄馬を見た。

 

「前には出るな」

 

「分かってる」

 

「魔法も使うな」

 

「そこまで信用ないか?」

 

「用心だ」

 

「了解」

 

 雄馬は短く答えた。

 

 放送室へ向かう途中で、深雪と合流した。

 

「お兄様。雄馬さんも?」

 

「ただの野次馬だよ」

 

「雄馬さんがそう仰る時ほど、ただの野次馬ではない気がいたします」

 

「否定しにくいな」

 

 雄馬は苦笑した。

 

 深雪はそのまま達也へ視線を戻す。

 

「これは、ブランシュの仕業でしょうか」

 

「団体までは特定できない。だが、その手の影響があると考えていいだろう」

 

 雄馬は黙ってその会話を聞いていた。

 

 ブランシュ。

 

 その名前は、物語の知識として知っている。

 

 だが今は、知っているという顔をするわけにはいかない。

 

 放送室前には、既に摩利、克人、鈴音、そして風紀委員会と部活連の面々が集まっていた。

 

 雄馬は一歩手前で足を止める。

 

「雄馬君」

 

 摩利が鋭くこちらを見る。

 

「君は呼んでいないはずだが」

 

「状況確認だけです。邪魔なら下がります」

 

「廊下の端にいろ。こちらの指示があるまで近づくな」

 

「分かりました」

 

 雄馬は素直に壁際へ下がった。

 

 摩利が少しだけ意外そうな顔をする。

 

 放送室の扉は閉ざされている。

 

 中にいる者たちは、鍵を確保しているらしい。

 

 摩利は強行突入を考えている。

 

 鈴音は慎重策。

 

 克人は交渉に応じる方向。

 

 方針がまとまり切っていない。

 

 有事としてはあまり良くない状態だった。

 

 そんな中で、達也が端末を取り出した。

 

「壬生先輩ですか? 司波です」

 

 周囲の視線が一斉に達也へ向く。

 

 雄馬も壁際で目を細めた。

 

 達也は沙耶香と話し、克人が交渉に応じる意向であることを伝えた。

 

 学校側の介入が入る前に、交渉の場を決めようと誘導する。

 

 そして、沙耶香の自由は保障すると言った。

 

 通話が終わる。

 

「すぐに出てくるそうです」

 

「今のは壬生紗耶香か?」

 

 摩利が問う。

 

「ええ」

 

「手が早いな、達也くんも」

 

「誤解です。それより、拘束の態勢を整えた方がいいと思います」

 

「君は自由を保障したのではなかったか?」

 

「俺が保障したのは壬生先輩一人だけです。風紀委員会を代表したとも言っていません」

 

 摩利だけでなく、鈴音と克人まで一瞬言葉を失った。

 

 深雪だけが、楽しそうに兄を見ている。

 

「悪い人ですね、お兄様は」

 

「今更だな」

 

 雄馬は壁際で小さく息を吐いた。

 

「司波らしいな」

 

 決して大きな声ではなかったが、達也には聞こえたらしい。

 

 ほんの一瞬だけ、こちらへ視線が向いた。

 

 扉が開く。

 

 中から出てきたのは五人。

 

 沙耶香を含む、学内差別撤廃同盟の生徒たちだった。

 

 彼らはCADを所持していたが、それ以上の武器は見当たらない。

 

 覚悟が足りない。

 

 そう切り捨てるのは簡単だった。

 

 だが雄馬には、その中途半端さが痛々しく見えた。

 

 自分たちは正しいことをしている。

 

 そのつもりで動いているからこそ、犯罪行為をしている自覚が薄い。

 

 沙耶香以外の四人は風紀委員に拘束された。

 

 沙耶香はCADを没収されるだけに留まる。

 

「どういうことなの、これ!」

 

 沙耶香が達也へ詰め寄る。

 

「あたしたちを騙したのね!」

 

 伸ばされた手を、達也があっさり掴む。

 

 胸倉を掴もうとした手首を押さえられ、沙耶香の顔が悔しさに歪んだ。

 

 雄馬は壁際で拳を握る。

 

 出るべきではない。

 

 分かっている。

 

 だが、沙耶香の声を聞いていると、胸の奥がざわついた。

 

 怒り。

 

 焦り。

 

 裏切られたという感情。

 

 その全てが、彼女自身のものなのか。

 

 それとも誰かに形を与えられたものなのか。

 

 今の雄馬には、判断できない。

 

「司波はお前を騙してなどいない」

 

 克人の重い声が廊下に響いた。

 

 沙耶香の身体が震える。

 

「お前たちの言い分は聞こう。交渉にも応じる。だが、要求を聞くことと、手段を認めることは別だ」

 

 正論だった。

 

 力のある者が口にする、逃げ場のない正論。

 

 沙耶香の怒りは、その迫力に呑まれていく。

 

 そこへ真由美が現れた。

 

 彼女は場の空気を柔らかく変えながら、生活主任と話してきたこと、鍵の盗用や放送施設の無断使用への処分は生徒会に委ねられたことを説明する。

 

 それは、彼らが今どんな立場にいるのかを告げる言葉でもあった。

 

 それでも沙耶香たちは引かなかった。

 

 真由美は続ける。

 

「壬生さん。これから貴方たちと生徒会の交渉について、打ち合わせをしたいのだけど、付いて来てもらえるかしら」

 

「……ええ、構いません」

 

 沙耶香はそう答えた。

 

 その目が、一瞬だけ廊下の端にいる雄馬を捉える。

 

 雄馬は視線を逸らさなかった。

 

 何か言うべきだったのかもしれない。

 

 だが、今ここで言葉を投げても、届かない。

 

 届かない言葉を投げれば、それはただの自己満足になる。

 

 だから雄馬は、黙って見返した。

 

 沙耶香の表情が少し揺れる。

 

 怒りではない。

 

 気まずさでもない。

 

 もっと曖昧な、迷いに近いものだった。

 

 けれどその揺れは、すぐに消えた。

 

 沙耶香は真由美たちの後について歩き出す。

 

 雄馬はその背中を見送った。

 

「雄馬君」

 

 摩利の声が飛ぶ。

 

「はい」

 

「今回は見逃す。だが次から、呼ばれていない現場へ勝手に来るな」

 

「すみませんでした」

 

 雄馬は素直に頭を下げた。

 

 摩利は少しだけ目を細める。

 

「聞き分けはいいんだな」

 

「聞き分けが悪いと、余計に面倒になる場面なので」

 

「分かっているならいい」

 

 摩利はそれだけ言って離れていった。

 

 その後で、達也と深雪が近づいてくる。

 

「災難だったな」

 

「司波に言われると納得いかないな」

 

「そうか?」

 

「ああ」

 

 深雪が小さく微笑む。

 

「雄馬さんも、お気をつけください。壬生さんの件は、思ったより根が深そうです」

 

「だろうな」

 

 雄馬は頷いた。

 

「壬生先輩一人の問題じゃない」

 

「同感だ」

 

 達也が短く言う。

 

 それだけで十分だった。

 

 この件は、沙耶香一人の怒りでは終わらない。

 

 背後にいる誰か。

 

 名前も姿も、まだ見えないもの。

 

 それがこの学校の中で燻る不満に、息を吹きかけている。

 

 雄馬は、沙耶香の背中が消えた廊下を見つめた。

 

 火種はまだ、小さい。

 

 だが一度燃え始めた火は、誰かが意図して風を送れば、簡単に広がる。

 

 そしてこの学校には、その燃料が多すぎた。

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