保健室に運び込まれた沙耶香は、治療を受けながら、少しずつ事情を話し始めていた。
その周囲には、真由美、摩利、達也、深雪、エリカ、レオ、そして少し離れた壁際に雄馬の姿があった。
雄馬は右手の甲に簡単な手当てを受けただけで、ベッドの傍へは近づかなかった。
先ほど講堂へ向かう通路で外部の襲撃者を止めたばかりだというのに、その表情には大きな疲労の色はない。ただ、肩の辺りに乾いた血が付着している。それが本人のものではないことは、摩利と真由美にはすぐに分かった。
だからこそ、摩利は何度か雄馬へ「ちゃんと診てもらえ」と視線で命じていたのだが、雄馬はそのたびに肩をすくめるだけだった。
今、この場で中心に立つべきなのは自分ではない。
それを、雄馬は理解していた。
「……つまり、壬生先輩が思い詰めたきっかけは、渡辺先輩だった、ということですか」
エリカの声には、いつもの軽さとは違う棘があった。
摩利は、思いもよらぬ方向から責められたように目を瞬かせる。
「待て。私は壬生に何かした覚えはないぞ」
「した方は覚えていない、なんて、よくある話ですから」
「エリカ」
達也の声が、エリカの言葉を遮った。
強い声ではない。だが、それ以上続けることを許さない響きがあった。
「まずは最後まで聞け。責めるのは、その後でも遅くない」
「……分かったわよ」
エリカは不満げに唇を尖らせながらも、口を閉じた。
その様子を、雄馬は黙って見ていた。
沙耶香は、摩利から冷たく拒絶されたと思っていた。
だが摩利は、沙耶香の純粋な剣の腕を認めていたからこそ、自分では相手にならないと言った。
言葉は、時に鋭すぎる。
同じ言葉でも、受け取る側の傷の形によって意味が変わる。
雄馬は、その場の会話に割って入らなかった。
ここで自分が何か言えば、沙耶香の痛みに踏み込みすぎる。
それは自分の役割ではない。
「……私の、誤解だったんですね」
沙耶香の声が震えた。
「勝手に傷ついて、勝手に恨んで……一年も、無駄にして……」
保健室に、痛いほど重い沈黙が落ちた。
その沈黙を破ったのは、達也だった。
「無駄ではないと思います」
達也は淡々と告げた。
沙耶香がこの一年で剣を磨いたこと。
憎しみをきっかけにしたとしても、その努力まで否定する必要はないこと。
強くなった事実は、確かに沙耶香自身のものだということ。
その言葉は慰めというより、事実の提示に近かった。
だからこそ、沙耶香の中に届いた。
雄馬は壁際で、ほんのわずかに目を伏せる。
沙耶香本人に向けた言葉ではない。だが、達也の言葉には、雄馬にも分かる重さがあった。
どんな理由であれ、積み上げたものは無駄ではない。
その一点だけは、雄馬も否定できなかった。
やがて沙耶香は、涙を堪えきれなくなり、達也に縋って泣き出した。
深雪が静かに目を伏せる。
エリカは複雑そうな顔をして、レオは居心地悪そうに視線を泳がせた。
雄馬は、そっと保健室の扉の方へ視線を向けた。
そこに、外から近づく気配があった。
小野遥だった。
◇◆◇◆◇◆◇
沙耶香の口から、学内差別撤廃同盟の背後にある組織の名が語られた。
ブランシュ。
その名が出た瞬間、室内の空気が変わった。
「やはり、そこか」
達也は驚かなかった。
深雪もまた、兄の反応を予想していたように小さく頷く。
「問題は、その拠点がどこにあるかですね」
「分からないなら、知っている者に聞けばいい」
達也が扉へ目を向ける。
その視線の先で、小野遥が苦笑した。
「……九重先生の弟子って、本当に厄介ね」
遥が端末を操作し、地図上に一点を表示する。
街外れの廃工場。
第一高校から、決して遠くない場所だった。
「近いな」
雄馬が初めて口を開いた。
その声に、真由美と摩利が振り向く。
その時、保健室の扉が再び開いた。
入ってきたのは、克人と桐原だった。
講堂側の混乱を収めた後、真由美たちに呼ばれて合流したらしい。桐原の表情は硬く、克人はいつも通り感情の読みにくい顔をしていたが、二人とも、今ここで話されている内容がただの校内騒動ではないことを理解しているようだった。
「ブランシュの拠点が分かったのか」
克人が低く問う。
「ええ。小野先生が場所を示してくれました」
真由美が答えると、克人は地図へ視線を落とした。
「……廃工場か」
その一言で、場の空気がさらに引き締まった。
「雄馬君」
摩利の声には、叱責に近い響きがあった。
「君は手当てを受ける側だ。まさか行くつもりじゃないだろうな」
「俺が行くと言って決まる話じゃありません」
雄馬は摩利を見た後、達也へ視線を移した。
「司波が必要だと言うなら行きます。必要ないなら残ります」
摩利が眉を寄せる。
真由美も、すぐには言葉を出せなかった。
そこで達也が、当然のように答えた。
「雄馬には来てもらう」
「達也くん」
真由美の声が硬くなる。
「相手は外部の武装組織よ。これ以上、生徒を巻き込むわけには――」
「既に巻き込まれています」
達也は淡々と言った。
「講堂へ向かっていた外部襲撃者を止めたのは雄馬です。相手は銃器こそ持っていませんでしたが、制圧訓練を受けている動きでした。あの人数を魔法なしで止められる生徒は、この学校には多くありません」
その言葉に、摩利がわずかに息を呑む。
雄馬の実力を、手合わせで知っている。
だが、実戦での評価を達也の口から聞くと、その意味はまた別だった。
「中へ踏み込むだけなら、人数は多くない方がいい。ですが、相手が逃げた場合に備える人間は必要です」
「……逃走経路の抑えか」
克人が低く言った。
達也は頷く。
「はい。雄馬なら、魔法に頼らずに対応できます。相手がキャスト・ジャミングのような妨害を用意していても、動きが鈍る可能性は低い」
克人の目が雄馬へ向いた。
値踏みするような視線ではない。
戦力として見る目だった。
「佐藤雄馬」
「はい」
「命令ではない。危険だと判断したら下がれ」
「分かりました」
雄馬は短く答えた。
その声音には、下がる気があるようには聞こえなかった。
◇◆◇◆◇◆◇
十文字家が用意した大型オフローダーは、夕陽を背に廃工場へ向かった。
運転席には克人。
助手席には桐原。
後部には達也、深雪、レオ、エリカ、雄馬が乗っていた。
「雄馬、本当に大丈夫なのか?」
レオが横目で尋ねる。
「何が」
「いや、さっきまで外の連中とやり合ってたんだろ?」
「動ける」
「そういう意味じゃねえよ」
レオが呆れたように言うと、エリカがじっと雄馬を見た。
「雄馬君って、時々達也くんと似たこと言うわよね」
「どこが」
「心配してる側が困るところ」
「それは司波に言ってくれ」
「うん。今度まとめて言う」
緊張した車内に、一瞬だけ薄い笑いが生まれた。
だがそれも、廃工場の門が見えた瞬間に消えた。
「レオ」
達也が名を呼ぶ。
「分かってる」
レオが硬化魔法を発動する。
大型車は速度を落とさず、閉ざされた門扉へ突っ込んだ。
轟音。
金属が歪み、跳ね飛ばされる。
車体は大きく揺れたが、破損はない。
「やるじゃない、レオ」
「褒めるなら後にしろ……けっこうキツいんだよ、これ」
レオが額に汗を浮かべる。
達也は外へ出ると、素早く周囲を見回した。
正面玄関。
搬入口。
非常階段。
外壁に沿って続く通用口。
廃工場というだけあって、逃走経路になりそうな場所はいくつもある。
達也は一瞬で配置を決めた。
「レオは車の防衛。エリカはその補助。逃走者は無理に捕縛しなくていい。武装しているなら無力化を優先しろ」
「了解」
「分かったわ」
「会頭と桐原先輩は裏口へ。雄馬は外周を右回り。通用口、搬入口、窓、非常階段。外へ出る動線を全部潰してくれ」
「司波たちは?」
「俺と深雪は正面から入る」
「分かった」
雄馬はそれ以上聞かなかった。
正面玄関へ向かう達也と深雪を一度だけ見て、すぐに建物の外壁沿いを走り出す。
その速度は、陸上競技のそれではなかった。
深雪が一瞬だけ目を細める。
「お兄様」
「ああ」
達也も見ていた。
魔法式の起動はない。
サイオンの流れも、現代魔法の発動に伴うものではない。
だが雄馬の身体運用は、明らかに常人の域を超えていた。
「雄馬には、ああいう仕事が向いている」
達也は短く言った。
「本人は、あまり喜ばないでしょうけれど」
「だろうな」
二人は、それ以上雄馬のことを話題にしなかった。
目の前には、ブランシュの本隊が待っている。
◇◆◇◆◇◆◇
雄馬は外壁の陰を走りながら、建物の構造を目で拾っていた。
廃工場と言っても、逃げ道は多い。
搬入口。
非常階段。
配管用の整備扉。
割れた窓。
普通なら見落とすような場所でも、人ひとりが通れる隙間はある。
雄馬は最初の搬入口に近づいたところで、足を止めた。
内側から、複数の足音。
逃げ出そうとしている。
鉄扉が内側から押し開けられた。
三人の男が飛び出してくる。
その手には拳銃があった。
雄馬は舌打ちした。
できれば撃たせずに終わらせるつもりだった。
講堂へ続く通路と違い、ここは校内ではない。だが、銃声が響けば達也たちの動きにも影響する。最悪、外に待機している誰かが混乱する。
だから、銃口を上げる前に潰す。
そのつもりで、雄馬は一歩踏み込んだ。
「何だ、お前――」
一人目の男が反応する。
予想より早い。
怒鳴るより、構えるより、引き金に掛かった指が先に沈んだ。
乾いた破裂音が、廃工場の外壁に反響した。
雄馬は弾丸を見て避けたわけではない。
銃口の向き。
肩の強張り。
引き金に掛かった指の動き。
それらが示す射線から、発砲の直前に身体を外しただけだ。
弾丸は雄馬の頬のすぐ横を掠め、背後のコンクリート壁を砕いた。
熱い風が、皮膚を撫でる。
だが、雄馬の足は止まらなかった。
「遅い」
呟きは、男の耳に届かなかった。
雄馬の拳が、男の顎を下から打ち抜く。
骨を砕くほどではない。
しかし脳を揺らすには十分だった。
拳銃を持った男は、白目を剥いてその場に崩れ落ちる。
二人目が慌てて銃口を向ける。
雄馬は倒れかけた一人目の身体を掴み、盾にするように前へ押し出した。
「撃つな!」
仲間を盾にされた男が一瞬ためらう。
その一瞬で十分だった。
雄馬は一人目の身体を横へ投げ、二人目の懐へ潜り込む。
手首を掴む。
捻る。
銃口が空へ逸れる。
そのまま肘を極め、膝を腹へ叩き込んだ。
「がっ……!」
肺の空気を吐き出した男が膝から崩れる。
三人目は逃げようとした。
撃つ判断も、戦う判断も捨てて、ただ背を向けた。
雄馬は床に転がった鉄片を蹴った。
鉄片は低く飛び、男の足首を打つ。
体勢を崩した男が前のめりに倒れる。
その背後に追いついた雄馬は、首筋へ手刀を落とした。
男は声もなく沈んだ。
一発。
撃たせてしまった。
雄馬は壁に穿たれた弾痕を一瞥し、わずかに眉を寄せた。
失敗と言うほどではない。
だが、予定通りでもない。
「……次は撃たせない」
誰に聞かせるでもなく呟き、雄馬は三人の武器を蹴って遠ざけた。
それから倒れた男たちを搬入口の内側へ押し戻し、外側から鉄扉を閉じる。
完全な封鎖ではない。
だが、次にここから出ようとする者は、倒れた仲間を踏み越えなければならない。
それだけで、逃走経路としての価値は大きく落ちる。
雄馬は次の通用口へ向かって走り出した。
銃声は一発だけだった。
それ以上は、鳴らせない。
◇◆◇◆◇◆◇
その銃声は、工場内部にも届いていた。
深雪が、わずかに眉を動かす。
「お兄様」
「ああ」
達也も聞いていた。
銃声は一発。
続く銃声はない。
ならば、外周で何かが起き、すぐに収まったということだ。
「雄馬さんでしょうか」
「おそらくな」
「助けに向かわなくても?」
「必要なら、二発目が鳴っている」
達也はそう言って、正面の敵から目を逸らさなかった。
深雪も、それ以上は問わなかった。
兄がそう判断するなら、今は任せるべきだ。
外は雄馬の役割。
中は自分たちの役割。
そう割り切るように、深雪は静かに息を整えた。
◇◆◇◆◇◆◇
工場内部では、達也と深雪がブランシュの本隊と対峙していた。
司一は、自信に満ちた態度で達也を迎えた。
キャスト・ジャミング。
邪眼。
それらを切り札としているのだろう。
だが、そのどちらも達也には通じなかった。
司一の顔から余裕が剥がれ落ちる。
やがて部下たちの銃器が分解され、床に散らばった瞬間、恐怖は一気に支配者を見捨てた。
司一は仲間を置いて逃げた。
その逃走経路の先。
曲がり角を抜けたところで、司一は足を止めた。
そこに、雄馬がいた。
壁にもたれかかるように立っている。
息は乱れていない。
その足元には、逃げ出そうとしていた男が二人、うつ伏せに転がっていた。
「……君は」
司一の声が引き攣った。
「こっちは通行止めだ」
雄馬は短く告げる。
「どけ。私は――」
「嫌だ」
あまりにも簡潔な拒絶だった。
司一の顔が歪む。
左手が動く。
雄馬はその動きを見た。
CADか、何らかの補助具か。
この世界の魔法師が何をする時、どこへ手を伸ばすのか。
雄馬は、この数週間で嫌というほど見てきた。
司一が何かを発動するより早く、雄馬は床に落ちていた鉄片を蹴り上げた。
鉄片は司一の左手首を打ち、操作を狂わせる。
「ぐっ……!」
「司波が追ってくる。戻れ」
「ふざけるな!」
司一は反射的に反対方向へ逃げようとした。
その先の壁が、内側から斬り裂かれた。
高周波ブレードの銀光。
切り開かれた壁の向こうから、桐原が飛び込んでくる。
「見つけたぜ」
桐原の目が、怒気で燃えていた。
雄馬は一歩下がった。
ここから先は、自分の役ではない。
「こいつが、ブランシュの頭か」
桐原が低く唸る。
司一が後退る。
その背後から達也が現れる。
逃げ場は、消えた。
「雄馬、そいつを止めていたのか」
達也が問う。
「逃げ道を潰していたら、ここに出た」
「そうか」
達也はそれだけで納得した。
司一が最後の抵抗としてキャスト・ジャミングを放つ。
だが、それは達也にも、桐原にも、決定的な効果を及ぼさなかった。
怒りに任せて振るわれた桐原の刃が、司一の腕を断つ。
絶叫。
そこへ克人が到着し、出血を止める。
司一は泡を吹いて気を失った。
雄馬はその光景を見ても、表情を変えなかった。
ただ、小さく息を吐く。
「終わりか」
「大筋はな」
達也が答える。
その声に、勝利の高揚はなかった。
◇◆◇◆◇◆◇
事件の後始末は、十文字克人が引き受けた。
第一高校の生徒が外部組織の拠点へ乗り込んだ事実は、表向き存在しないことになる。
ブランシュの構成員たちは処理され、沙耶香の件も、学内で公に語られることはなかった。
達也の特殊な力を知る者は限られた。
真由美と摩利は、何かを察していた。
だが、核心までは掴めない。
そして雄馬についても、奇妙な噂だけが残った。
CADを使わず、魔法らしい魔法も見せず、外部組織の逃走経路を潰した一年生。
摩利は、その事実を風紀委員会の記録にどう残すべきか、しばらく悩むことになった。
◇◆◇◆◇◆◇
五月。
沙耶香は退院した。
見舞いに行ったのは、達也と深雪、そしてエリカだった。
そこには、どこか照れ臭そうに沙耶香の傍に立つ桐原の姿もあった。
エリカはすっかり沙耶香と打ち解けており、退院祝いという名目で、病室にいつもの明るさを持ち込んでいたらしい。
達也はその場でも、必要以上に感情を動かすことはなかった。
深雪は兄の傍らで、沙耶香へ丁寧な言葉を掛けた。
桐原は、いつもの尖った態度をいくらか引っ込めていた。
沙耶香もまた、完全に立ち直ったというにはまだ早かったが、それでも入院直後のような危うさは薄れていたという。
その場に、雄馬はいなかった。
沙耶香と深く関わっていたわけではない。
彼女の誤解を解いたのは達也であり、傍で支えたのはエリカであり、入院中に近い位置にいたのは桐原だった。
雄馬がしたことは、外にいた敵を止めただけだ。
沙耶香の心に踏み込む理由はない。
そう考えたからだった。
◇◆◇◆◇◆◇
放課後の中庭は、穏やかな喧騒に包まれていた。
授業を終えた生徒たちが、校舎から校門へ向かって流れていく。
春の終わりを思わせる柔らかな風が、花壇の植え込みを揺らしていた。
その花壇の近くで、達也たちは足を止めていた。
達也の隣には深雪。
その向かい側には、エリカ、美月、レオ、雄馬がいる。
A組の深雪と、E組の面々がこうして自然に顔を合わせている光景は、第一高校では少しばかり珍しい。
だが、ここ数週間で彼らの周囲に起きた出来事を考えれば、今さらその程度を気にする者は少なかった。
「さーや、元気そうだったわよ」
帰り支度を終えたエリカが、思い出したように言った。
雄馬は少しだけ視線を向ける。
「そうか」
「反応うすっ」
「元気なら、それでいいだろ」
「まあ、そうだけど」
エリカは肩をすくめながらも、少しだけ目を細めた。
「雄馬君って、そういうところあるよね」
「どういうところだ」
「自分が関わったことなのに、最後の輪には入らないところ」
「俺が入る話じゃない」
雄馬の返事は素っ気なかった。
だが、突き放しているわけではない。
自分が踏み込むべき領域と、そうでない領域を分けているだけだ。
深雪は、その言葉に静かに目を伏せた。
「雄馬さんは、壬生先輩のことを気にしていなかったわけではないのですね」
柔らかな声だった。
雄馬は少しだけ間を置いてから答えた。
「気にはしていた。ただ、俺が慰める理由はない」
「理由、ですか」
「壬生先輩に言葉を掛けたのは司波だ。傍にいたのはエリカで、見舞いに行ったのは司波たちと桐原先輩だ。俺は外にいた敵を止めただけだ」
「だけ、って言うには結構でかいことしてると思うけどな」
レオが眉を寄せて言う。
「そうよ。雄馬君が外を押さえてなかったら、逃げられた人間もいたかもしれないでしょ」
エリカも続けた。
美月も控えめに頷く。
「はい。必要なことだったと思います」
雄馬は少し困ったように息を吐いた。
褒められることに慣れていない、というより、そう評価されるつもりで動いていなかったのだろう。
達也はその様子を見て、短く口を開いた。
「雄馬」
「何だ、司波」
「今日の放課後、少し時間はあるか」
「内容による」
「風紀委員会室に来てほしい。今回の件で、外周で押さえた相手の人数と場所を確認したいそうだ」
雄馬の顔から、わずかに表情が消えた。
「報告書か?」
「ああ。渡辺先輩が、記録を曖昧にしたくないらしい」
「面倒だな」
「そうだな」
「そこは否定しろよ」
「事実だからな」
達也が淡々と返すと、レオが呆れたように肩を落とした。
「二人とも、そういうところだけ妙に息合うよな」
「合っていない」
「合ってねえな」
達也と雄馬の声が重なった。
一拍置いて、エリカが吹き出す。
「ほら、合ってるじゃない」
「違う」
「違うな」
「また!」
エリカが腹を抱えて笑い、美月も口元を押さえて小さく笑った。
深雪は兄と雄馬を見比べ、どこか楽しそうに目を細める。
「雄馬さんとお兄様は、少し似ていらっしゃるのかもしれませんね」
「深雪、それはない」
「深雪さん、それは違う」
今度は二人揃って否定した。
あまりに即答だった。
エリカはさらに笑いを深める。
「息ぴったりじゃない!」
「だから違う」
「違うな」
「もう、否定すればするほど似てるわよ」
雄馬は小さく息を吐いた。
達也は表情を変えない。
深雪は、そんな兄の横顔を見て微笑んでいた。
「けどまあ、報告書か……」
雄馬は心底面倒そうに呟く。
「事情を聞かれるだけで済むなら安い」
達也が言う。
「司波も来るんだろうな」
「ああ。俺も説明を求められている」
「ならいい」
「いいのかよ」
レオが思わず突っ込む。
雄馬は平然と答えた。
「こいつを道連れにできる」
「そういう理由かよ……」
エリカが肩を震わせて笑った。
その時の雄馬は、まだ知らなかった。
報告書というものは、時に敵より厄介だということを。
◇◆◇◆◇◆◇
放課後。
雄馬は風紀委員会室の机に向かっていた。
目の前には、事件報告書の入力画面。
隣には達也。
正面には摩利。
少し離れたところでは、真由美が興味深そうに二人を眺めている。
「雄馬君」
摩利の声は、普段よりも幾分か硬かった。
「達也くんから説明を受けたと思うが、これは正式な記録だ。できるだけ正確に書いてくれ」
「分かりました」
「本当に分かっているな?」
「はい」
返事だけは素直だった。
だが摩利は、どうにも信用できなかった。
達也の方は、既に淡々と報告書を書き進めている。
出来事の時系列。
遭遇した人数。
相手の装備。
対処内容。
必要な情報を簡潔に、しかし不足なく入力していた。
問題は、その隣である。
雄馬はしばらく画面を見つめていた。
そして、ゆっくりと入力を始めた。
遭遇場所。
――廃工場外周。
遭遇人数。
――複数。
敵対行動。
――逃走しようとしていた。
対処内容。
――止めた。
使用魔法。
――なし。
負傷状況。
――不明。
備考。
――特になし。
以上。
雄馬はそこで入力を終え、保存ボタンを押した。
そして、何事もなかったかのように席を立つ。
「終わりました」
「待て」
摩利の声が飛んだ。
雄馬の足が止まる。
だが、振り返りはしなかった。
「雄馬君。今、見えた範囲だけでも、かなり空欄が多かった気がするんだが」
「必要なことは書きました」
「遭遇人数が複数というのは、報告書として成立しない」
「二人以上です」
「そういう意味ではない」
摩利のこめかみが、わずかに引きつった。
真由美が口元を押さえる。
笑ってはいけないと分かっている顔だった。
「対処内容が『止めた』というのも、あまりに雑だ」
「止めました」
「どう止めたのかを書けと言っている」
「殴りました」
「なら最初からそう書け」
「報告書に書くには物騒かと思いました」
「今さらだ!」
摩利の声が委員会室に響いた。
達也は隣で黙々と入力を続けている。
助け舟を出す気配はない。
雄馬はその達也を一瞥した。
「司波」
「何だ」
「助けろ」
「無理だ」
「即答か」
「俺は自分の分で手一杯だ」
「嘘だろ。もう終わってる顔をしている」
「終わっているが、助ける理由がない」
雄馬は小さく舌打ちした。
摩利がさらに言葉を重ねようとした、その瞬間。
雄馬は机の上の端末に視線を落とし、何かを確認したように頷いた。
「すみません。用事を思い出しました」
「何の用事だ」
「急ぎの用事です」
「内容を言え」
「急いでいるので失礼します」
「雄馬君!」
摩利が立ち上がるより早く、雄馬は委員会室の扉へ向かっていた。
走っているわけではない。
だが、無駄がない。
止めようとする隙を与えない歩き方だった。
扉が開く。
雄馬は一礼だけして、そのまま廊下へ消えた。
扉が閉まる。
数秒の沈黙。
摩利は、ゆっくりと椅子に腰を下ろした。
「……逃げたな」
「逃げましたね」
真由美が穏やかに答える。
「しかも、見事に」
「感心している場合か」
「いえ。でも、あの逃げ足は少し面白かったわ」
真由美はくすくすと笑っている。
摩利は深く息を吐いた。
そして、雄馬が残していった報告書を開く。
画面には、簡潔すぎる文章が並んでいた。
遭遇人数、複数。
対処内容、止めた。
使用魔法、なし。
備考、特になし。
「……これは報告書ではなく、箇条書きの逃走準備だ」
摩利が呻くように言った。
達也は自分の報告書を送信してから、ようやく顔を上げた。
「必要な事実だけは書いてあります」
「君まで庇うのか?」
「庇ってはいません。事実です」
「君たちは、どうしてそう説明を最小限にしようとするんだ」
「長く書くと面倒だからでは」
「分かっているなら直せ!」
摩利の叱責に、達也は何も答えなかった。
その沈黙が、ある意味で肯定だった。
真由美はとうとう堪えきれず、小さく笑い声を漏らす。
「摩利、諦めましょう。雄馬君には、後でもう一度書き直してもらえばいいわ」
「捕まればな」
「達也くん」
真由美がにこやかに達也を見る。
「雄馬君がどこに行ったか、分かる?」
「おそらく、校門へ向かっています」
「追いつけるかしら?」
「普通なら難しいと思います」
「普通なら?」
「深雪なら、足止めできるかもしれません」
真由美の笑みが深くなる。
「では、お願いしてもいい?」
達也は少しだけ考えた。
そして、端末を操作する。
短いメッセージを送った。
◇◆◇◆◇◆◇
校門へ向かう途中。
雄馬は足を止めた。
廊下の先に、深雪が立っていた。
「雄馬さん」
柔らかな声だった。
だが、その声音には、逃げ道を塞ぐ確かな圧がある。
「……深雪さん」
「お兄様から連絡をいただきました」
「司波め」
雄馬は小さく呟いた。
深雪は上品に微笑んでいる。
しかし、その笑みはどこまでも穏やかで、どこまでも逃がす気がなかった。
「報告書は、きちんと書かれた方がよろしいかと存じます」
「必要なことは書いた」
「摩利先輩は、そうはお考えではないようです」
「面倒だな」
「はい。ですが、必要なことです」
深雪は静かに一歩、廊下の中央へ出た。
完全に道を塞ぐ位置ではない。
だが、雄馬がそのまま通り抜けようとすれば、彼女のすぐ横を抜けることになる。
それは目立つ。
そして、さすがに深雪を押しのけて通るわけにはいかない。
深雪も、それを分かっているのだろう。
魔法を使う必要などない。
ただそこに立っているだけで、雄馬の足を止めるには十分だった。
「戻っていただけますか?」
「……分かった」
雄馬は素直に頷いた。
深雪の表情がわずかに和らぐ。
「ありがとうございます」
雄馬は踵を返した。
風紀委員会室へ戻る方向へ、数歩進む。
深雪も、それを見届けるように視線を向けた。
その瞬間だった。
雄馬は廊下の角を曲がる直前、脇にあった階段へ身体を滑り込ませた。
走ったわけではない。
足音を立てたわけでもない。
ただ、歩く流れの中で、進路だけを変えた。
「……あ」
深雪が気づいた時には、雄馬の姿は階段の陰に消えていた。
追おうと思えば、追えないことはない。
だが、ここは校舎内だ。
放課後とはいえ、生徒の往来もある。
報告書の書き直し程度のことで廊下を走るわけにも、まして魔法を使うわけにもいかない。
深雪は数秒沈黙した。
そして、小さく息を吐く。
「……雄馬さん」
その声には、怒りよりも呆れが滲んでいた。
◇◆◇◆◇◆◇
一方、雄馬は階段を一階分だけ下りると、途中の踊り場から別棟へ続く連絡通路へ出た。
第一高校の校舎は、まだ入学して間もない者には分かりにくい。
だが雄馬は、外周警備を任された時点で、逃走経路になりそうな通路や出入口を一通り頭に入れていた。
それが、こんなところで役に立つとは思っていなかったが。
「報告書より、逃走経路の把握の方が大事だな」
誰に言うでもなく呟き、雄馬は生徒の流れに紛れた。
校門へ向かう大通路は避ける。
人目が多すぎる。
代わりに、購買脇の通路を抜け、屋外通路から校舎裏へ回る。
そこまで来れば、もう深雪が追ってくる気配はなかった。
雄馬は小さく息を吐く。
「司波に売られ、深雪さんに塞がれ、報告書に追われる……外部組織より厄介だな」
ぼやきながらも、足取りは軽かった。
◇◆◇◆◇◆◇
その頃、風紀委員会室。
真由美が端末を見ながら、楽しそうに微笑んでいた。
「深雪さんから返信が来たわ」
「捕まえたか?」
摩利が顔を上げる。
真由美は、申し訳なさそうにしながらも、口元の笑みを隠しきれていなかった。
「逃げられたそうよ」
「……深雪さんからも?」
「ええ。途中までは素直に戻るふりをして、階段から別棟へ抜けたそうです」
摩利は頭を抱えた。
「何なんだ、あいつは……」
達也は、少しだけ目を伏せた。
まるで予想していたような沈黙だった。
「達也くん」
真由美がにこやかに問いかける。
「もしかして、こうなると思っていた?」
「可能性はあると思っていました」
「なら止めなさい」
摩利が低く言う。
「深雪で止まらないなら、俺が言っても同じです」
「君が言えば戻る可能性はあっただろう」
「戻るかもしれませんが、報告書をまともに書くかは別です」
「そこが問題なんだ!」
摩利の声が委員会室に響く。
真由美はとうとう堪えきれず、小さく笑った。
「でも、深雪さんからも逃げ切るなんて、雄馬君らしいわね」
「感心している場合か」
「感心ではなく、少しだけ納得しただけよ。あの子、戦うより逃げる方が上手い場面もあるのね」
摩利は深々とため息を吐いた。
机の上には、雄馬が残していった報告書が開かれている。
遭遇人数、複数。
対処内容、止めた。
使用魔法、なし。
備考、特になし。
「……これは、必ず書き直させる」
摩利の声には、静かな決意がこもっていた。
達也は端末を閉じながら、淡々と告げる。
「捕まれば、ですが」
「達也くん」
「はい」
「君も協力しろ」
「努力します」
「その返事は信用できない」
真由美の笑い声が、風紀委員会室に柔らかく響いた。
◇◆◇◆◇◆◇
その日の夕方。
雄馬は何事もなかったかのように校外へ出ていた。
報告書から逃げたという自覚はある。
風紀委員長から逃げたという自覚もある。
達也に売られ、深雪をかわしたという自覚もある。
だが、罪悪感は薄かった。
少なくとも、廃工場の外周で敵を止めた時よりは、よほど穏やかな逃走だった。
雄馬は駅へ向かう道を歩きながら、端末を確認する。
達也から短いメッセージが届いていた。
『明日は逃げない方がいい』
雄馬はしばらく画面を見つめた。
そして、短く返信する。
『内容による』
数秒後、返事が来た。
『渡辺先輩が本気だ』
雄馬は端末を閉じた。
「……明日は裏門だな」
誰に聞かせるでもなく呟き、雄馬は歩き出した。
第一高校を揺るがした大きな騒動は終わった。
しかし、佐藤雄馬にとっての本当の難敵は、外部組織でも武装した敵でもなく、空欄だらけの報告書を許さない風紀委員長だったのかもしれない。
彼らの高校生活は、ようやく一つ目の嵐を越えたばかりである。
そしてその余波は、まだ少しだけ続きそうだった。