九校戦、その前に
七月。
定期試験が終わると同時に、第一高校の空気は目に見えて変わった。
新入部員勧誘週間のような浮ついた熱ではない。ブランシュの一件が残した、どこか張り詰めたような緊張とも違う。
もっと大きな行事へ向けて、学校全体が一つの方向へ流れ始めるような空気だった。
九校戦。
国立魔法大学付属高校の九校が競い合う、夏の一大行事。
雄馬にとっては、知識として知っているイベントだった。
魔法科高校の劣等生という物語において、避けては通れない大きな舞台。深雪や雫、ほのかが新人戦で注目され、達也が技術スタッフとして本格的に評価され始める場所。
そう分かってはいる。
分かってはいるのだが。
「……いざ目の前に来ると、思ったより学校全体が浮き足立つんだな」
廊下を歩きながら、雄馬は小さく呟いた。
壁面ディスプレイには九校戦関連の告知が増え、各部活の話題も、試験の出来から九校戦へ移りつつある。生徒会や各委員会の生徒たちは、通常業務に加えて準備に追われているらしく、廊下を行き交う足取りもどこか忙しない。
そんな中で、雄馬は指導室の近くまで足を運んでいた。
理由は単純だ。
達也が呼び出されたと聞いたからである。
別に達也が教師に叱られてどうこうなるとは思っていない。あの男は、そういう場面で感情を乱すタイプではない。むしろ相手の方が調子を狂わされる可能性すらある。
それでも、呼び出しの理由が試験結果に関するものだと聞けば、気にならないはずがなかった。
廊下の角を曲がると、すでに見慣れた面々が揃っていた。
レオ、エリカ、美月。
そこに、光井ほのかと北山雫の姿もある。
「雄馬」
最初に気づいたのはレオだった。
「お前も来たのか」
「まあな。司波が指導室に呼ばれたって聞いたから」
「心配?」
エリカが面白そうに目を細める。
「心配というより、興味だな」
「正直ねぇ」
「千葉に言われたくない」
雄馬がそう返すと、エリカは悪びれもせず肩をすくめた。
美月は少し不安そうに指導室の扉を見つめている。ほのかも似たような表情だ。雫だけは相変わらず読みにくい顔をしていたが、視線は扉から離れていない。
やがて、扉が開いた。
出てきた達也は、いつも通りと言えばいつも通りだった。
表情に大きな変化はない。疲れているようにも、苛立っているようにも見えない。ただ、いつもより少しだけ面倒事を処理した後の顔をしていた。
「達也」
レオが一歩前へ出る。
「どうしたんだよ、指導室に呼ばれるなんて」
達也は集まっていた面々を見回し、最後に雄馬へ視線を向けた。
「雄馬までいるのか」
「野次馬だ」
「そうか」
「否定しないんだな」
「実際、半分はそうだろう」
「半分はな」
雄馬があっさり認めると、レオが苦笑した。
「で、何だったんだよ?」
達也は少しだけ間を置いてから答えた。
「実技試験について、確認を受けていた」
「確認?」
美月が首を傾げる。
「手を抜いているのではないか、という疑いだな」
その一言で、場の空気が変わった。
「はあ?」
エリカの声が鋭くなる。
「何それ。達也くんがわざと悪い点取ってるって言われたの?」
「そういうことらしい」
「意味分かんないんだけど」
エリカは本気で不愉快そうだった。
雄馬も、内心では同じ意見だった。
点数を上げるために不正を疑われるならまだ分かる。だが、わざと低く見せているという疑いは、達也を少しでも知っていれば不自然だと分かる話だ。
ただし。
「教師側がそう考えたくなる理由も、分からなくはないけどな」
雄馬がそう言うと、エリカがじろりとこちらを見た。
「雄馬君、どっちの味方?」
「司波の味方寄りの現実論」
「何よそれ」
「理論の結果が異常なんだろ」
雄馬は達也を見る。
達也は否定しなかった。
定期試験の結果は、すでに学内ネットで公開されている。
総合順位では、やはり一科生が上位を占めた。深雪が一位、ほのかが二位、雫も上位。森崎の名もあった。
その結果自体に、大きな驚きはない。
問題は、理論のみの順位だった。
一位、司波達也。
二位、司波深雪。
三位、吉田幹比古。
その並びを見た時、雄馬は思わず端末の画面を二度見した。
深雪より上。
それだけでも十分に異常だが、達也の場合は二位以下との差が大きすぎた。
しかもその一方で、実技の成績は決して高くない。
知っている者からすれば、そこには理由がある。だが、知らない者からすれば、あまりにも不自然な落差だった。
「でも、だからって手抜きはないでしょ」
ほのかが珍しく強い口調で言った。
「達也さんは、そんなことをする人じゃありません」
「光井さんの言う通りだと思う」
雄馬は頷いた。
「ただ、教師側は俺たちほど司波を知らない。数字だけ見れば、疑いたくなる気持ち自体は理解できる」
「理解したくありません」
ほのかは少しむっとした顔をした。
その反応に、雄馬は一瞬だけ意外そうに目を瞬かせる。
「光井さん、結構はっきり言うな」
「……今のは、言いたくなりました」
ほのかは少しだけ頬を赤くしながら視線を逸らした。
雫が隣で小さく頷く。
「でも、ほのかの言う通り。達也さんが手を抜く理由はない」
「理由がないことでも、分からない相手は勝手に理由を作る」
雄馬がそう言うと、達也がわずかに目を細めた。
「実感がこもっているな」
「最近、そういうのを嫌でも見たからな」
一科生。
二科生。
ブルーム。
ウィード。
桐原の一件、ブランシュの一件、その後に残った噂。
人は分からないものに対して、勝手に理由を作る。見たい形に当てはめる。達也の成績も、その一つなのだろう。
「それで、誤解は解けたんですか?」
美月が不安そうに尋ねる。
「一応はな」
「一応?」
「手抜きではないと理解はしてもらえた」
達也は淡々と答える。
「その代わり、第四高校への転校を勧められた」
「転校!?」
今度は美月とほのかが揃って声を上げた。
レオも眉を吊り上げ、エリカは目を細める。
「何それ。追い出そうとしてるってこと?」
「そうとは限らない」
「いや、限るでしょ」
エリカは不満げに言い切った。
「達也くんが目障りだから、魔法工学に強い学校へ行けばいいって言い方してるだけじゃない」
「実際、第四高校が魔法工学に力を入れているのは事実だ」
「そういう問題じゃないわよ」
エリカの言葉に、レオも頷いた。
「成績が悪くてついていけないならともかく、達也は実技だって合格点は取ってるんだろ? なら、学校側が転校勧めるって変じゃねえか」
「善意だったのかもしれない」
達也がそう言うと、雄馬は思わず口元を歪めた。
「無神経な善意ほど面倒なものはないな」
「同感だ」
達也があっさり頷く。
「ただ、強制ではない。断ったから問題はない」
「本人が一番落ち着いてるのが、逆に腹立つわね」
エリカがため息をつく。
「怒るところでしょ、普通」
「怒って解決する問題でもない」
「それはそうだけど」
エリカは納得していない顔だった。
雄馬はその横顔を見て、少しだけ笑う。
「千葉は分かりやすく怒るな」
「悪い?」
「いや。助かる時もある」
「何それ」
エリカは怪訝そうに眉を寄せたが、雄馬はそれ以上説明しなかった。
分かりやすく怒る人間がいることで、場の感情が見えやすくなる。怒りを内側に溜め込むよりは、ずっと健全だ。
問題は、その怒りをどこへ向けるか。
それは、少し前に雄馬が家で話したことでもあった。
「そういえば」
空気を変えるように、レオが口を開いた。
「もうすぐ九校戦だよな」
その言葉に、雫の目がわずかに動いた。
ほんの少しだけ。
だが、雄馬には分かった。
「北山さん、九校戦好きなのか?」
雄馬が尋ねると、雫は一瞬だけ迷ったように視線を落とし、それから小さく頷いた。
「モノリス・コードが好き」
「へぇ。意外……でもないか」
「何で?」
「いや、北山さんって静かだけど、勝負事は嫌いじゃなさそうだから」
雫は少しだけ目を瞬かせた。
「……分かる?」
「なんとなく」
「雄馬さん、たまに鋭い」
「たまになのか」
「たまに」
淡々と返され、レオが吹き出した。
「言われてるぞ、雄馬」
「北山さんに言われると反論しにくい」
雄馬が肩をすくめると、ほのかが小さく笑った。
その後、話題は自然と九校戦へ移っていった。
三高に一条の御曹司がいるらしいという話。
深雪や雫が新人戦メンバーに選ばれるだろうという話。
ほのかも有力候補であること。
雄馬はその会話を聞きながら、少しだけ距離を感じていた。
魔法競技。
魔法の力を競う場。
自分が積み上げてきたものとは、少し違う場所にある世界。
それでも、不思議と他人事には思えなかった。
魔法だけが全てではない。
そう思う。
だが九校戦は、魔法を磨き、魔法で競い、魔法の価値を示す舞台だ。
それを否定したいわけではない。
むしろ、そこで本気で戦う者たちを軽んじる気はなかった。
「雄馬」
達也の声で、雄馬は意識を戻した。
「何だ?」
「何か考えていた顔だった」
「九校戦って、俺には遠い話だと思ってたんだけどな」
「今は違うのか?」
「少しだけな」
雄馬は廊下の先、九校戦関連の告知が流れるディスプレイを見た。
「魔法だけが全てじゃない。けど、魔法を本気で競う場所を軽く見ていい理由にもならない。そう思っただけだ」
達也は短く沈黙した。
そして、ほんのわずかに頷く。
「それは、悪くない見方だと思う」
「司波に褒められると変な感じだな」
「褒めたつもりはない」
「なおさら変だ」
レオが笑い、エリカが呆れたように肩をすくめる。
その場は、それで解散になった。
だが雄馬の中には、九校戦という言葉が小さく残り続けていた。
◇
放課後。
雄馬は、なぜか風紀委員会本部にいた。
「……何で俺までいるんだろうな」
端末の前で資料の整理を手伝いながら、雄馬は小さく呟いた。
向かいでは達也が、何の迷いもなくキーボードを叩いている。その手際は相変わらず異様に速い。
そして、二人の前には渡辺摩利がいた。
「雄馬君はブランシュの件で外部協力者みたいな立場だったからな。報告書の整理を手伝ってもらっても問題ない」
「問題しかない気がするんですが」
「細かいことは気にするな」
「渡辺先輩、そういうところですよ」
雄馬が半眼で言うと、摩利は楽しそうに笑った。
「達也くんにも似たようなことを言われたよ」
「でしょうね」
達也は手を止めずに口を挟む。
「俺の場合は、言っても改善されないと判断した」
「辛辣だな、君は」
「事実です」
「雄馬君、今の達也くんは酷くないか?」
「正しいと思います」
「君たち、妙なところで息が合うな」
摩利は苦笑しつつ、椅子の背にもたれた。
机の上には、九校戦関連の資料が積まれている。電子化が進んだこの時代には珍しく、紙の冊子も混じっていた。
雄馬はその一冊を手に取る。
「パンフレットですか?」
「ああ。九校戦の競技ルールだ。初めて見るなら、読んでおくといい」
「俺、出る予定ないですよ」
「出る出ないは別だ。知っておいて損はない」
摩利の言い方は軽いが、目は真面目だった。
雄馬は冊子を開く。
まず目に入ったのは、CADに関する規定だった。
使用できるCADには性能上の制限がある。形状や個数には制限がないが、組み込める起動式には殺傷性の制限がある。
雄馬はそこで、少しだけ眉をひそめた。
「競技用とはいえ、かなり実戦寄りなんですね」
「魔法競技だからな。安全管理は徹底しているが、遊戯ではない」
摩利が答える。
「特にモノリス・コードは、直接戦闘に近い。男子のみという制限はあるがね」
達也が横から補足する。
「物理的な直接攻撃は禁止。だが、魔法で質量体を動かす攻撃や振動波による攻撃は認められる。ルール上は競技だが、戦術の組み立ては実戦に近い」
「なるほどな」
雄馬は冊子へ視線を落とした。
モノリス・コード。
三人一組の団体戦。相手を行動不能にするか、敵陣のモノリスを分解して内部コードを入力することで勝敗が決まる。
単純な火力だけでは勝てない。
戦闘能力、機動力、索敵、妨害、守備、コード入力までの判断。
確かに、これは競技というより作戦行動に近い。
「これ、見てる分には一番面白そうですね」
「実際、人気は高い」
達也が端末から目を離さずに答える。
「ただ、選手の負担も大きい。魔法力だけでなく、状況判断と連携が問われる競技だ」
「でしょうね。三人で動くなら、一人だけ強くても勝てない」
「その通りだ」
短く返した達也は、再び資料作成へ戻った。
雄馬もそれ以上は口を挟まず、次の項目へ目を通す。
次に目に入ったのは、ミラージ・バットだった。
女子個人競技。
空中に投影されるホログラム球を、足場を移りながら叩いて消す競技。
九校戦では湖上に円柱を並べたフィールドを使うらしい。
「……これ、普通に危なくないですか?」
「危ないぞ」
摩利はあっさり言った。
「だからこそ見応えがある」
「先輩」
「冗談だ。半分は」
「半分残ってます」
雄馬は思わずため息をついた。
だが、同時に競技としての難しさも見えてくる。
足場は狭い。水上で、落下しても減点にはならないが、フィールド外へ出れば失格。空中での姿勢制御、移動魔法、加速魔法、着地の判断。魔法力だけでなく、身体感覚もかなり問われる。
「深雪さんが出るなら、かなり強そうだな」
「強いだろうな」
達也は即答した。
「ただし、連戦になれば負担は軽くない」
「心配か?」
「当然だ」
あまりにも自然な返答に、雄馬は少しだけ笑った。
「司波らしいな」
「何がだ」
「いや。何でもない」
次に、氷柱倒し。
フィールドに並ぶ氷柱を、相手より先に倒し切る競技。
雄馬は説明を読みながら、深雪と雫の顔を思い浮かべた。
純粋な魔法力の差が出やすい競技。
そう書かれている。
ならば、深雪に向いているのは当然だろう。雫もまた、魔法の出力と制御に優れている。二人がこの競技に出れば、見ている側からすれば一方的に見えるかもしれない。
だが実際には、攻撃と防御、位置取り、柱の動かし方、魔法発動のタイミング。
考えることは多い。
魔法だけで押すように見えて、実際にはかなり頭を使う競技なのだろう。
「魔法競技って、もっと単純に魔法の撃ち合いかと思ってた」
雄馬が言うと、摩利が片眉を上げた。
「意外か?」
「少し。いや、かなり」
「魔法師同士の勝負は、力押しだけでは勝てない。むしろ、力の使いどころを間違えた方が負ける」
「それは分かります」
雄馬は頷いた。
英霊たちとの訓練でも、嫌というほど思い知らされている。
どれだけ身体能力を上げても、間合いを間違えれば斬られる。どれだけ反応できても、誘導されれば崩される。力があることと、勝てることは別だ。
それは魔法でも同じなのだろう。
スピード・シューティング。
アクセル・ボール。
バトル・ボード。
読み進めるほど、雄馬の中で九校戦の印象は変わっていった。
スピード・シューティングは発動速度と照準。
アクセル・ボールは複数のボールを同時に処理しながら、相手コートへ落とす競技。
バトル・ボードは水上コースをボードで走破するレース。
どれも魔法の競技だ。
だが、魔法だけでは足りない。
判断力、身体感覚、反射、空間認識、そしてCADの調整。
それらすべてが絡んでいる。
「……魔法だけが全てじゃない、か」
雄馬は小さく呟いた。
摩利がこちらを見る。
「何か言ったか?」
「いえ」
雄馬は首を横に振る。
「九校戦って、魔法だけを競う場所だと思ってたんです。でも、そうじゃないんですね」
「当然だ」
摩利は少しだけ笑った。
「魔法師も人間だ。身体能力を軽視していい道理はない。判断を誤れば負けるし、準備を怠れば力を出せない。魔法だけを見ているようで、実際にはその人間の総合力が出る」
その言葉は、雄馬の胸にすんなり落ちた。
魔法だけが全てではない。
けれど、魔法を競う場にも、魔法以外の積み重ねは確かに存在している。
ならば、九校戦は自分とは無関係な場所ではないのかもしれない。
選手として出るわけではない。
技術スタッフとして達也のように関わるわけでもない。
それでも。
この舞台で何が問われるのかを見ることには、意味がある。
「雄馬君」
摩利がふと思いついたように声を掛けた。
「はい?」
「君、バトル・ボードの説明を妙に真剣に読んでいたな」
「そうですか?」
「ああ。興味があるのか?」
雄馬は少し考える。
水上の不安定な足場。
魔法による加速。
進路妨害。
波、氷、爆発。
それらを読みながら、彼の頭に浮かんでいたのはアキレウスとの訓練だった。
足場が悪い場所での走り方。
相手に崩された時の復帰。
加速中に姿勢を変える感覚。
あれは成績表には載らない。
だが、もしあの競技をやるなら、間違いなく役に立つ。
「興味があるというより」
雄馬は冊子を閉じた。
「魔法競技でも、身体の使い方って大事なんだなと思っただけです」
摩利は、少しだけ楽しそうに笑った。
「それに気づけるなら、見込みはある」
「何の見込みですか」
「さあな」
「先輩、そういう言い方は不安になるんですが」
摩利は答えなかった。
達也は資料を打ち込みながら、静かに口を挟む。
「警戒しておいた方がいいぞ、雄馬」
「司波が言うなら本気で警戒する」
「賢明だ」
「君たち、あたしを何だと思っているんだ」
摩利が不満そうに言う。
雄馬と達也は、ほぼ同時に答えた。
「面倒事を持ってくる先輩です」
「面倒事を持ってくる人です」
摩利は一瞬黙り、それから盛大に笑った。
「よし、二人とも追加で資料整理だ」
「不当です」
「異議ありです」
「却下する」
そう言って笑う摩利を見ながら、雄馬は小さく息を吐いた。
九校戦。
魔法を競う舞台。
自分には関係ないと思っていた場所。
だが、どうやら完全に他人事では済まないらしい。
魔法だけが全てではない。
そう言った自分が、魔法を競う者たちの舞台をどう見るのか。
それを確かめる機会が、もうすぐ来る。
雄馬はもう一度パンフレットへ視線を落とし、静かにページをめくった。