朝食を終えたあと、雄馬はエミヤたちに連れられて家の裏手へ出ていた。
昨日、軽く見ただけの空き地だ。けれど今こうして改めて立ってみると、そこはただの空き地ではなく、訓練のために用意された場所なのだとよく分かる。
風が吹く。
妙に静かだった。
「では、始めましょう」
最初に口を開いたのはアルトリアだった。
いつも通り凛とした声だったが、そこに冗談の余地はない。
「先ほど説明した通り、魔術は奇跡ではありません。魔術回路で魔力を扱い、術式を通し、土台へ接続して現象を起こす技術です」
「魔術回路が電源、魔力が燃料、詠唱や手順が起動、魔術基盤が土台……だったな」
「ええ。理解は悪くありません」
アルトリアは小さく頷いた。
「ですが、それを“知っている”ことと、“使える”ことは別です。今日、貴方がやるのはその最初の一歩――自分の内側にある回路を知ることです」
雄馬は思わず喉を鳴らした。
講義の時は分かったつもりでいた。だが、“回路を開く”と言われると急に現実味が増す。
「ひとつ言っておく」
エミヤが腕を組んだまま言った。
「痛むぞ」
「やっぱりか……」
「当然だ。普段使っていない回路を無理やり意識に上げるんだ。何の違和感もない方がおかしい」
淡々とした説明だった。だが脅しているというより、事実をそのまま告げているだけだと分かる。
「怖いのは当然です」
ジャンヌが柔らかく続けた。
「ですが、必要以上に怯えなくても大丈夫です。私たちが見ています」
「そうそう。最初から上手くやろうなんて思わなくていいんだぜ?」
アキレウスが笑う。
「立って、転んで、また立つ。そういうもんだ」
「雄馬さん、呼吸だけは忘れないでくださいね!」
沖田が元気よく言った。
「痛くても、そこで止めちゃうと余計につらいですから」
「気楽にやれとは言わねぇが、力みすぎるなよ」
クー・フーリンが肩を竦めた。
「身体が固ぇと、流れるもんも流れにくい」
それぞれ口調も考え方も違う。
なのに言っていることは同じだった。
逃げるな。けれど、独りで抱える必要もない。
「……分かった」
雄馬は息を吐いて、地面に座った。
エミヤが一歩前へ出る。
「まずは自分の内側を知れ。目を閉じろ。呼吸を整えろ。外の音に意識を向けるな。自分の鼓動だけを拾え」
言われた通りにする。
目を閉じる。
吸う。吐く。
空気が肺に入り、抜けていく。その繰り返しに意識を合わせる。
「自分の生命そのものから生まれる魔力をオドという」
エミヤの声が静かに届く。
「まずはそれを感じろ。外のマナはまだいい。君には早い」
「はい」
「返事に意識を割くな。集中しろ」
「……悪い」
「謝る暇があるなら、続けろ」
いつもの調子だ。だが不思議と嫌な感じはしなかった。
「胸の奥、あるいは腹の底でもかまいません」
今度はジャンヌの声だった。
「熱のようなもの、脈のようなもの、何かしら“流れそうなもの”を探してください」
(流れそうなもの……)
最初は何も分からなかった。
ただ風が頬を撫でていることと、地面の冷たさがあるだけだ。
それでもじっと集中しているうちに、身体の奥底に微かな熱があることに気づいた。
灯りにも満たない、ほんの小さな火種のようなもの。
「……あ」
「掴んだか」
エミヤの声に、雄馬は目を閉じたまま頷いた。
「まだ、よく分からないけど……何かある」
「それでいい。次だ」
次の瞬間だった。
「その熱を、通せ」
言葉と同時に、全身の内側に鈍い痛みが走った。
「っ――!」
息が乱れる。
熱い。
いや、熱いというより痛い。焼けるような、裂けるような、今までそこになかった神経が無理やり作られていくような感覚だった。
「雄馬」
エミヤの声が飛ぶ。
「そこでやめるな。回路を意識し続けろ。痛みは異常じゃない。想定内だ」
「ぐ、ぅ……!」
歯を食いしばる。
背中が震える。額に汗が滲む。
逃げたいと思った。反射的に。
けれど、その瞬間にアルトリアの声が真っ直ぐ届いた。
「顔を下げないでください、雄馬」
「……っ」
「貴方が今向き合っているのは敵ではありません。貴方自身です。目を逸らせば、次も同じことになります」
厳しい。だが、その厳しさは突き放すものではなかった。
「呼吸を」
ジャンヌが言う。
「吸って、吐いて。痛みに飲まれないでください。貴方はそれを制御しようとしているのです。押し潰されるためではありません」
「そうです! 息です、雄馬さん!」
「気張りすぎんな。流れを見失うぞ」
沖田とクー・フーリンの声も重なる。
痛みはまだ消えない。
だが、さっきまでただ暴れていた熱が、少しだけ“線”になった気がした。
胸から肩へ。
腕へ。指先へ。
細く、未熟で、今にも千切れそうな一本の流れ。
(これが……回路……?)
「その認識で構わない」
まるで心を読んだようにエミヤが言った。
「生命力を魔力へ変換し、術式へ流し込む通路だ。感じ取れたなら第一段階は越えた」
「でも、これ……痛すぎるだろ……」
「最初はそういうものです」
アルトリアが静かに言う。
「便利な力ではない。貴方が今感じている不快さも含めて、魔術は技術です」
「魔法みたいに、願っただけで何でも起こるわけじゃないって……実感できました……」
「ええ」
そこでジャンヌが微笑んだ。
「それを知れたことも、大事な一歩です」
しばらくして、痛みの波がゆっくり引いていく。
完全に消えたわけではない。けれど、さっきまでの“どうにもならない苦しさ”とは違っていた。
今は、自分の中に何かが通っているのが分かる。
「立てるか」
エミヤの問いに、雄馬はゆっくりと目を開けた。
「……なんとか」
「なら次だ」
「まだあるのかよ」
「当然だ。知っただけでは意味がない」
エミヤは近くに置いてあった細い木の枝を一本拾い、雄馬へ放った。
「持て」
受け取る。軽い枝だ。
「回路を意識しろ。その上で、今感じた熱をそこへ流す。術式以前の基礎だ。通すだけでいい」
「通すだけ、ね……」
「簡単に言うとそうだ。だが、簡単だからこそ誤魔化しが利かない」
雄馬は枝を握り、さっきの感覚を思い出した。
胸の奥の熱。
通っていく線。
それを腕へ、手へ、枝へ。
集中する。
すると、枝の表面がほんの一瞬だけ、ぴしりと音を立てた。
「お」
クー・フーリンが片眉を上げる。
枝の色がわずかに変わる。
ただの木の感触が、ほんの少しだけ締まったような気がした。
だが、次の瞬間には流れが乱れ、ぱきんと折れた。
「あっ」
「ははっ、惜しいな!」
アキレウスが笑う。
「でも今のは悪くなかったぜ。確かに通ってた」
「はい。流れは見えました」
ジャンヌも頷く。
「まだ安定はしていませんが、感覚としては掴めています」
「基礎としては上出来でしょう」
アルトリアの評価は短いが、十分だった。
そしてエミヤは折れた枝を見てから、雄馬へ視線を戻す。
「欲張るな。一度に多く流そうとしたな?」
「……分かるのか」
「見ればな」
即答だった。
「君はまだ加減を知らない。回路を開いたばかりで、外のマナにまで手を伸ばせば余計に乱れる。今は自分のオドだけで足りる範囲を覚えろ」
「オドだけで……」
「自分の内側から出せる分を正確に扱う。それが先です」
ジャンヌが補足する。
「外のマナは量が大きくても、扱う器が伴っていなければ意味がありませんから」
講義で聞いた言葉が、今はよく分かった。
知識ではなく感覚として。
魔術とは、曖昧な奇跡ではない。
血筋や理論や回路や相性が絡む、面倒で不自由な技術だ。
そして、だからこそ一歩ずつ積み上げるしかない。
「今日はここまでにしておけ」
エミヤが言った。
「回路を開いた直後だ。無茶をすれば明日に響く」
「でも――」
「今の君に必要なのは根性の証明じゃない。再現性だ」
ぴしゃりと言われて、雄馬は口を閉じた。
「焦る必要はありません」
アルトリアも続ける。
「今日出来たことを、明日も出来るようにする。それが鍛錬です」
「うーん、悔しいでしょうけど、今日はここまでがいいと思います!」
沖田が苦笑する。
「こういうのって、詰め込みすぎると逆に崩れますし」
「ま、逃げるんじゃなくて明日に回すってことだ」
クー・フーリンが肩を竦めた。
「それも戦い方だぜ」
結局、その日の訓練はそこで終わった。
解散して、それぞれが家へ戻っていく。
雄馬も一度は自室へ戻った。
戻った、のだが。
◇
落ち着かなかった。
椅子に座っても、ベッドに腰掛けても、さっき身体の中を走ったあの感覚が消えない。
痛みもまだ少し残っている。けれど、それ以上に残っているのは悔しさだった。
折れた枝。
ほんの一瞬で乱れた流れ。
上出来だと言われたことは嬉しかった。だが、それで満足したくはなかった。
(……少しだけ。少しだけでいい)
そう思って部屋を出る。
廊下を静かに歩き、裏口へ向かおうとしたところで、ふと足が止まった。
「眠れないのですか?」
振り返ると、ジャンヌが立っていた。
「あ……」
見つかった、という感情が先に来た。
けれどジャンヌは困ったように笑うでもなく、咎めるでもなく、ただ穏やかに雄馬を見ていた。
「その様子だと、少し練習したくなったのでしょうか」
「……まあ」
「こっそり、ですか?」
「う」
図星だった。
雄馬が気まずそうに視線を逸らすと、ジャンヌは小さく微笑んだ。
「真面目なのは良いことです。ですが、独りで無茶をするのは感心しません」
「分かってる。分かってるけど、なんていうか……今日出来なかったのが、悔しくて」
「はい」
「みんなすごいだろ。エミヤも、アルトリアも、みんな。俺だけ何も知らなくて、何も出来なくて……せめて少しくらい、追いつくために動いておきたかった」
口に出してしまうと、思っていた以上にみっともなかった。
だがジャンヌは笑わなかった。
「その気持ちは、大事です」
「……怒らないのか?」
「なぜです?」
「隠れてやろうとした」
「それは少し困ります」
きっぱり言われた。
けれどその声音は柔らかい。
「でも、練習したいと思ったこと自体を否定するつもりはありません。ですから」
ジャンヌは一歩近づいて、いつもの優しい調子で言った。
「私が付き合います」
「え」
「貴方が独りで無茶をしないように。少しだけ、一緒にやりましょう」
その言葉に、雄馬は思わず目を瞬かせた。
「……いいのか?」
「はい。皆には、内緒というわけにはいきませんが」
「ですよね……」
「ただ、“少し付き合った”くらいなら、きっと怒られません」
ジャンヌはほんの少しだけ悪戯っぽく笑った。
その表情が珍しくて、雄馬もつられて笑ってしまう。
◇
夜の訓練場は、昼間より静かだった。
月明かりが薄く地面を照らし、風も昼より冷たい。
その中で、ジャンヌは雄馬の正面に立った。
「では、今度はもっと小さくやりましょう」
「小さく?」
「はい。今日は“開いた回路をもう一度意識できるか”と、“流しすぎないこと”を覚えます」
ジャンヌは自分の胸元へ手を当てた。
「魔術は大きいほど偉い、というものではありません。大きな現象は分かりやすいですが、基礎はいつも小さいところにあります」
「エミヤも似たようなこと言いそうだな」
「きっと言いますね」
少しだけ笑ってから、ジャンヌは続ける。
「まず、目を閉じてください。今度は痛みを探すのではなく、“通れる場所”を探しましょう」
「通れる場所」
「はい。無理やり押し開くのではなく、既に開いた細い道をなぞるんです」
雄馬は目を閉じる。
昼間の痛みを思い出す。
あの時は荒々しく押し寄せるだけだった熱が、今はほんの少しだけ輪郭を持っている気がした。
「焦らずに」
ジャンヌの声が近い。
「貴方のオドは、貴方自身から生まれるものです。まずはそれだけを整えてください。外のマナは見なくていい。今はまだ、混ぜない方が安全です」
呼吸を整える。
胸の奥の火種を探す。
そこから、一本の線をなぞるように指先まで意識を運ぶ。
昼よりも弱い。
けれど、その分だけ制御しやすい。
「……いける、かも」
「はい。そのままです」
ジャンヌは声を潜めるようにして言った。
「では、右手の先へ。何かを起こそうとしなくていいんです。ただ、“流れている”と分かるだけで」
雄馬は右手を開いた。
何もない掌へ、意識を集める。
熱が流れる。
微かに、空気が震えた気がした。
「――っ」
思わず目を開く。
掌の上で、月明かりとは違うほんの薄い揺らぎが、一瞬だけ生まれて消えた。
「今の……」
「ええ」
ジャンヌが微笑んだ。
「ちゃんと、通せました」
雄馬は自分の手を見る。
派手な火花でもない。何かを吹き飛ばしたわけでもない。
けれど確かに、自分の中のものを、自分の意志でほんの少し外へ出せた。
「すごい……」
「すごいのは、貴方ですよ」
「いや、でも、こんなの本当にちょっとで」
「最初の一歩は、いつだってそういうものです」
ジャンヌはそう言って、少しだけ視線を和らげた。
「誰かと比べなくていいんです。昼間の貴方より、今の貴方が前に進めた。それで十分です」
その言葉は、不思議なくらい素直に胸へ入ってきた。
「……ジャンヌって、すごいな」
「え?」
「いや、上手く言えないけど。みんな厳しくて、ちゃんと見てくれてるのは分かるんだ。でもジャンヌは、その、安心する」
言ってから少し恥ずかしくなった。
だがジャンヌは目を伏せ、ほんの少しだけ頬を緩める。
「ありがとうございます」
それから静かに、
「でも、安心するだけでは駄目ですよ?」
「う」
「貴方には、ちゃんと前へ進んでもらわないといけませんから」
優しいのに、甘やかしてはいない。
その言い方がいかにもジャンヌらしくて、雄馬は苦笑した。
「分かった。じゃあ、もう一回だけ」
「はい。もう一回だけです」
再び目を閉じる。
胸の奥の熱。
開いたばかりの細い線。
焦らず、乱さず、掌まで。
一度目より、少しだけ滑らかだった。
掌の上でまた小さな揺らぎが生まれる。
今度はさっきより長く、二秒、三秒ほど保ってから、ふっと消えた。
「……できた」
「ええ。出来ました」
ジャンヌの声がどこか嬉しそうで、雄馬も自然と笑っていた。
大きな力ではない。
誰かを守れるほどでもない。
それでも、確かにこれは自分の第一歩だった。
「今日はここまでにしましょう」
ジャンヌが言う。
「これ以上は、嬉しくなって無理をしてしまいそうですから」
「それは否定できない」
「でしょう?」
ふふ、と小さく笑う。
夜風が吹いた。
さっきまで感じていた悔しさは、少し形を変えていた。
まだ足りない。もっと出来るようになりたい。そう思う気持ちは変わらない。けれど今は、それが焦りだけではなかった。
「ジャンヌ」
「はい」
「付き合ってくれて、ありがとな」
ジャンヌは一瞬だけ目を丸くして、それから静かに頷いた。
「どういたしまして」
そして、いつものように柔らかく続ける。
「貴方は一人ではありません。忘れないでくださいね、雄馬さん」
その言葉に、雄馬はしっかりと頷いた。
魔術は奇跡ではない。
痛みも、不自由さも、理屈もある。
けれど、だからこそ一歩ずつ積み上げる意味がある。
そしてその最初の夜、雄馬は確かに、自分の意志でその一歩を踏み出したのだった。
このコソ練をエミヤとアルトリアが見ていた回を書いたのだがどこに落とし込もう...