八月三日。
九校戦初日の競技が終了し、第一高校の宿舎では夕食の時間を迎えていた。
食堂には多くの生徒たちが集まり、今日の試合について話している。
勝敗の話。
魔法の話。
他校の選手の話。
話題は様々だったが、どのテーブルもそれなりに盛り上がっていた。
そんな中、雄馬はレオたちと食事を取っていた。
「いやぁ、やっぱ会長はすげえな!」
レオが興奮気味に言う。
「百個全部だろ? あんなのどうやったらできるんだよ」
「魔法でしょ」
エリカが呆れたように答えた。
「いや、それは分かってるって!」
「だったら何よ」
「その魔法がすげえって話だろ!」
「……元気だな、お前ら」
雄馬は呆れたように呟いた。
今日一日、競技場を歩き回っていたせいか、それなりに疲れている。
別に試合に出たわけではない。
ただ観戦していただけだ。
それでも、普段はあまり大勢の人間と行動しない雄馬にとって、九校戦の熱気はなかなか慣れないものだった。
「そういう雄馬はどうだったんだよ?」
「ん?」
「今日の試合。結構真剣に見てただろ?」
「ああ……面白かったよ」
雄馬は少し考える。
「会長の射撃もすごかったけど、俺としては委員長のレースが印象に残ってるな」
「渡辺先輩の?」
美月が首を傾げる。
「ああ。あの速度で動きながら、ほとんど姿勢を崩してなかっただろ。あれ、かなり難しいと思うんだよ」
「……アンタ、やっぱりそういうところを見るのね」
エリカが苦笑した。
「仕方ないだろ。魔法の細かいことは俺には分からないんだから」
「少しくらい勉強したら?」
「してるって」
「本当に?」
「……一応な」
「怪しいわね」
「おい」
雄馬が不満そうに返すと、エリカは楽しそうに笑った。
その様子を見ていた幹比古が、ふと口を開く。
「でも、雄馬の言うことも分かるよ」
「お?」
「渡辺先輩の身体操作は確かに優れていたと思う。魔法による姿勢制御もあるだろうけど、それだけじゃないんだろうね」
「だよな」
雄馬は頷いた。
「魔法だけで何とかしてるわけじゃないってのが、何となく分かるんだよ」
「……なるほど」
幹比古は考え込むように頷いた。
古式魔法を扱う彼にとっても、魔法と身体操作の関係は興味深い話なのだろう。
もっとも、雄馬自身はそこまで深く考えて発言したわけではなかった。
単に、上手いものは上手い。
そう思っただけである。
「そういえば、雄馬さん」
美月が声を掛けてきた。
「ん?」
「明日も皆さんと観戦されるんですか?」
「ああ。そのつもりだよ。呼び出しがなければだけど」
「補欠の方は大丈夫なんですか?」
「今のところ何もないな。正規の選手たちも順調みたいだし」
雄馬は肩をすくめた。
「というか、何もない方がいいんだけどな」
「……アンタ、本当に出る気ないのね」
エリカが呆れたように言う。
「ないぞ」
「即答ね」
「そりゃそうだろ」
雄馬は苦笑した。
「俺が出るってことは、誰かが出られなくなったってことだからな。できれば最後まで補欠のままでいたいよ」
「……まあ、そうよね」
エリカは小さく頷いた。
その返事を聞きながら、雄馬は食事を続けた。
昨日から何度か考えていることだった。
自分は補欠だ。
正規の選手たちが問題なく大会を終えられるなら、それが一番いい。
それに、今回の九校戦では学べることも多い。
無理に試合へ出なくとも、得るものは十分にあるだろう。
(……まあ、何事もなければ、だけどな)
ふと、移動中の事故を思い出した。
不自然な車両の動き。
あの時感じた違和感。
そして、原作についての曖昧な記憶。
九校戦の期間中に、何らかの事件が起きることは覚えている。
ただ、具体的にいつ、何が起きたのか。
そこまでは思い出せなかった。
(……中途半端な知識って、案外役に立たないな)
雄馬は小さく息を吐いた。
そんなことを考えていると、隣から声が掛かる。
「……雄馬?」
「ん?」
「アンタ、また変なこと考えてたでしょ」
エリカだった。
「……何で分かるんだよ」
「顔」
「顔?」
「そう。何か面倒くさそうな顔してた」
「……普段からそんな顔してないか?」
「してるわね」
「否定しろよ」
エリカが笑う。
レオもつられて笑い始めた。
雄馬は深いため息を吐いた。
どうやら、自分の扱いはこの数か月で随分と雑になったらしい。
もっとも。
こうして気兼ねなく話せる相手が増えたこと自体は、悪いことではなかった。
◇◆◇◆◇◆◇
午後七時半。
夕食を終えた雄馬は、宿舎の外を歩いていた。
特に用事があるわけではない。
部屋に戻ってもすることがなかったので、少し散歩でもしようと思っただけだ。
八月とはいえ、夜になれば日中ほど暑くはない。
時折吹く風が心地よかった。
「……暇だな」
思わず呟く。
普段なら、この時間も何かしらの鍛錬をしている。
剣術。
槍術。
体術。
あるいは魔術の訓練。
家にいれば、誰かしら相手をしてくれる。
しかし、今は宿舎だ。
訓練用の武器もなければ、英霊たちもいない。
だからといって、ここで勝手に魔術を使うわけにもいかなかった。
(……そう考えると、あいつらがいない生活って結構暇なんだな)
十年間。
ほとんど毎日のように一緒に過ごしてきた。
今さら気づくのも妙な話だが、どうやら自分は思っていた以上に彼らとの生活に慣れているらしい。
「……帰ったら少し鍛錬増やすか」
そんなことを呟きながら歩いていると、前方に建物が見えてきた。
大会用の機材保管棟だった。
競技に使用するCADや測定装置、各種予備機材などが保管されているらしい。
当然、選手が自由に出入りできる場所ではない。
雄馬も、そのまま通り過ぎるつもりだった。
だが。
「……ん?」
ふと、足を止めた。
建物の脇に、一人の男が立っていた。
大会スタッフと思われる制服を着ている。
年齢は三十代くらいだろうか。
手元の端末を操作しているようだった。
特に不審な格好ではない。
むしろ、この場所にいてもおかしくない人物だった。
しかし。
(……何だ?)
妙な違和感があった。
男は端末を持っている。
だが、その視線はほとんど画面へ向いていなかった。
周囲を確認している。
建物の出入口。
通路。
そして、監視装置が設置されている辺り。
それらへ、何度も視線を向けていた。
(……警備員か?)
そう考えれば、不自然ではない。
機材の警備を担当しているのなら、周囲を確認するのは当然だろう。
雄馬はそれ以上気にせず、歩き出そうとした。
その時だった。
男がこちらを見た。
一瞬、目が合う。
雄馬は軽く会釈した。
男も小さく頭を下げる。
そして、何事もなかったように建物の裏手へ歩いていった。
「…………」
雄馬はその背中を見送った。
(……変な歩き方だな)
左足。
僅かに、引きずるような動きだった。
だが、歩幅はほとんど変わっていない。
怪我をしているというより、何か癖があるような歩き方だった。
もっとも、それだけだ。
人の歩き方など、それこそ千差万別である。
珍しい歩き方だからといって、疑う理由にはならない。
「……まあ、いいか」
雄馬は小さく息を吐いた。
ただの大会スタッフだろう。
わざわざ気にする必要はない。
そう思って歩き出した。
しかし、数歩進んだところで、再び足が止まった。
(……一応、伝えとくか)
何もなければ、それでいい。
ただ、昨日の交通事故もある。
もし不審な人物だった場合、後になってから伝えるよりは今の方がいいだろう。
雄馬は端末を取り出した。
連絡先から司波達也を選択する。
呼び出し音が二度鳴った。
『雄馬か』
「おう、司波。今大丈夫か?」
『ああ。どうした?』
「ちょっと聞きたいことがあってさ」
『何だ?』
「機材保管棟って、この時間でも人がいるものなのか?」
短い沈黙。
『……何故そんなことを聞く?』
「いや、さっきスタッフっぽい人を見掛けたんだよ」
『スタッフ?』
「ああ。建物の脇で端末を操作しててさ。その後、裏手へ歩いていったんだけど」
『……なるほど』
達也は少し考えるように言葉を切った。
『その人物について、何か気になることがあったのか?』
「……いや、大したことじゃないんだけどな」
雄馬は先ほど見た光景を思い返した。
「何か妙に周囲を確認してたのと、歩き方がちょっと変だったくらいかな」
『歩き方?』
「左足を少し引きずるような感じだった。でも、歩幅は普通だったんだよ」
『……そうか』
「まあ、俺の気のせいかもしれないけどな」
雄馬は苦笑した。
「昨日の事故があったから、ちょっと警戒しすぎてるのかもしれん」
『……いや』
達也が静かに答えた。
『知らせてくれて助かった』
「……お?」
『こちらでも確認しておく』
「……何かあるのか?」
『まだ分からない。単なる巡回の可能性もある』
「だよな」
『ただ、確認しておいて損はないだろう』
「……なるほど」
雄馬は頷いた。
自分が考えても答えが出ないことだ。
ならば、詳しい人間へ任せた方がいい。
「じゃあ、頼むわ」
『ああ』
「……あ、そうだ」
『何だ?』
「もし何か分かったら、教えてくれよ」
『内容によるな』
「……そこは教えるって言ってくれよ」
『必要なら伝える』
「はいはい」
雄馬は苦笑した。
相変わらず、余計なことは言わない男だった。
『それと、雄馬』
「ん?」
『興味本位で調べようとはするなよ』
「……お前、俺を何だと思ってるんだ?」
『少なくとも、危険を見掛けたら放っておけない人間だとは思っている』
「……否定しにくいな」
雄馬は頭を掻いた。
達也の言うことは、間違っていなかった。
それでも、今回は自分から首を突っ込むつもりはない。
「大丈夫だよ。俺は補欠なんだから」
『……そうか』
「ああ。できれば平和に九校戦を終えたいんだよ」
『なら、そうなることを祈っておこう』
「……何か嫌な言い方だな、それ」
達也は答えなかった。
通信が切れる。
雄馬は端末を見つめ、小さく息を吐いた。
「……ま、いいか」
伝えるべきことは伝えた。
後は達也たちが判断するだろう。
雄馬は端末をしまい、宿舎へ向かって歩き出した。
その足取りに、特に迷いはなかった。
◇◆◇◆◇◆◇
翌朝。
八月四日。
「……眠い」
佐藤雄馬は、宿舎の廊下を歩きながら小さく欠伸をしていた。
昨日は、結局寝るのが少し遅くなってしまった。
別に何かしていたわけではない。
ただ、久しぶりにエミヤたちへ連絡したところ、思った以上に話し込んでしまったのだ。
というより。
(……あいつら、俺がいない間に何やってんだよ)
昨夜のことを思い出す。
端末に映ったエミヤの背後で、クーとアキレウスが何やら言い争っていた。
どうやら、模擬戦の勝敗について揉めていたらしい。
しかも、話を聞く限り、二人とも相当本気で戦ったようだった。
雄馬としては、家が無事かどうかの方が気になった。
『……なあ、エミヤ』
『何だね』
『家、大丈夫だよな?』
『……今のところはな』
『今のところって何だよ!』
そんなやり取りをしていたら、いつの間にか時間が過ぎていた。
結局、最後にはエミヤから早く寝るように言われ、通信を切ることになった。
「……親か、あいつは」
思わず呟く。
もっとも、実際に十年間世話になっているのだから、ある意味では保護者のようなものかもしれない。
そんなことを考えながら、雄馬は食堂へ向かっていた。
その時だった。
「……佐藤」
背後から声が掛かった。
振り返る。
そこには、昨日の夕方に話をした男子生徒が立っていた。
モノリス・コードの正規選手の一人。
説明会で、雄馬が補欠として登録されたことに疑問を持っていた生徒だった。
「お、おはよう」
「……おはよう」
相手は少し気まずそうに挨拶を返した。
雄馬は首を傾げる。
「どうした?」
「……いや、その」
男子生徒は少し迷った後、口を開いた。
「今から食堂か?」
「ああ」
「……なら、一緒に行かないか?」
雄馬は少しだけ目を丸くした。
「……おお」
「何だよ」
「いや、意外だったからさ」
「……悪いか?」
「そんなことないって」
雄馬は笑った。
「むしろ、ありがたいよ」
男子生徒も、少しだけ表情を和らげた。
二人は並んで歩き出す。
昨日までは、互いにほとんど話をしたこともなかった。
それが、こうして一緒に朝食へ向かっている。
何とも妙な気分だった。
「……そういやさ」
「ん?」
「俺、お前の名前聞いてなかったな」
「……今さらかよ」
「悪い悪い」
雄馬は苦笑した。
「いや、昨日は結構話したから、何となく知ってる気になってたわ」
「……変な奴だな、お前」
「よく言われる」
男子生徒は小さく笑った。
そして、改めて名乗った。
「……藤井。藤井拓真だ」
「藤井か。改めてよろしくな」
「ああ」
短いやり取りだった。
だが、雄馬にとっては少し嬉しいものだった。
少なくとも、相手から名前を教えてもらえる程度には関係が変わったらしい。
そう思った時だった。
前方から、金属の擦れるような音が聞こえてきた。
「……ん?」
雄馬が顔を上げる。
廊下の先。
機材搬入口へ繋がる通路で、二人の作業スタッフが大型の台車を運んでいた。
台車には複数の機材ケースが積まれている。
それなりの重量があるらしく、二人掛かりで慎重に運んでいた。
「……大変そうだな」
雄馬が呟く。
藤井も頷いた。
「そりゃそうだろ。ああいう機材、相当高いらしいし」
「へえ」
「……お前、知らないのか?」
「値段までは知らないな」
「……本当に補欠なんだな」
「だからそう言ってるだろ」
雄馬は呆れたように返した。
その間にも、台車は少しずつ近づいてくる。
二人は通路の端へ寄った。
そのまま通り過ぎるのを待つ。
はずだった。
カン。
小さな金属音が響いた。
雄馬の視線が動く。
(……ん?)
台車の後輪。
その付近から、何か小さなものが落ちた。
そう認識した直後。
台車が大きく傾いた。
「……っ!」
作業スタッフの一人が声を上げる。
「危ない!」
台車の後輪が、不自然な方向へずれていた。
積み上げられた機材ケースが傾く。
その先には、藤井がいた。
「……え?」
藤井は、何が起きたのか理解できていない様子だった。
無理もない。
目の前で突然、大型の機材ケースが倒れてくるとは思っていなかったのだろう。
だが、雄馬にとっては違った。
相手の動き。
重心の移動。
倒れる方向。
そうしたものを見極める訓練なら、十年間嫌というほど受けてきた。
(……まずいな)
考えるより早く、身体が動いた。
「藤井!」
「……っ!?」
雄馬は藤井の肩を掴み、後方へ押し出した。
そのまま一歩前へ出る。
視界には、倒れかけた機材ケース。
かなり重い。
普通に受け止めれば、ただでは済まないだろう。
(……強化)
魔術回路へ魔力を流す。
身体能力の強化。
いつも行っている、基本的な魔術だった。
だが、今回必要なのは力任せに受け止めることではない。
落下方向を変える。
それだけでいい。
雄馬はケースの角へ手を伸ばした。
そして、横方向へ力を加える。
「……ぐっ!」
腕へ強烈な負荷が掛かった。
重い。
予想以上だった。
(……っ、そりゃそうか!)
いくら強化しているとはいえ、相手は大型の機材ケースだ。
簡単に動かせる重量ではない。
それでも、僅かに軌道が変わった。
ケースは藤井のいた場所を外れ、通路の反対側へ倒れ込む。
激しい音が響いた。
ガシャァン!
機材ケースが床へ叩きつけられた。
雄馬は反動を利用して後方へ飛び退く。
床へ着地。
そのまま姿勢を低くして、落ちてくる破片がないことを確認した。
「……っぶねえ!」
思わず声が漏れた。
床には、複数のケースが散乱している。
幸い、誰かが下敷きになることはなかった。
雄馬は小さく息を吐いた。
(……何とかなったか)
そう思ったところで、右腕に痛みが走った。
「……いてて」
軽く腕を動かす。
骨には異常がなさそうだった。
だが、筋肉にはそれなりの負担が掛かったらしい。
「……佐藤!」
背後から声がした。
振り返ると、藤井が青ざめた顔で立っていた。
「お前、大丈夫か!?」
「ああ、何とかな」
「何とかな、じゃねえだろ! 今の……!」
「落ちてきたから、ちょっと方向変えただけだよ」
「ちょっと!?」
藤井が目を見開いた。
雄馬は苦笑する。
「……いや、まあ、思ったより重かったけど」
「そういう問題じゃ……!」
「とりあえず、お前に怪我がなくてよかったよ」
雄馬は笑った。
藤井は、何か言いたそうに口を開いた。
しかし、結局何も言えなかった。
その代わり、作業スタッフたちが慌てて駆け寄ってくる。
「大丈夫ですか!?」
「怪我はありませんか!?」
「俺は大丈夫です」
雄馬は短く答えた。
その後、スタッフたちが台車の状態を確認し始める。
雄馬も何となく、その様子を見ていた。
そして。
「……あれ?」
小さく呟いた。
先ほど聞こえた金属音。
何かが落ちたような音だった。
(……そういや、後輪から何か落ちてたな)
雄馬は台車の後輪へ目を向けた。
そこには、明らかな異常があった。
車輪を固定しているはずの部品が、一部外れていたのだ。
「……あの」
雄馬は近くのスタッフへ声を掛けた。
「後輪、ちょっと見てもらっていいですか?」
「……後輪ですか?」
「はい。さっき、そこから何か落ちたように見えたんで」
スタッフは慌てて台車を確認した。
そして、表情を変えた。
「……何だ、これ」
固定部品の一部が外れている。
しかも、単純に緩んだというより、何らかの力が加わったような状態だった。
「……こんなこと、あるのか?」
スタッフが困惑したように呟く。
雄馬は黙ってその様子を見ていた。
(……またか)
昨日の夜。
機材保管棟。
不審な動きをしていた男。
そして、今朝の事故。
もちろん、関係があるとは限らない。
だが。
(……何か、嫌な感じだな)
雄馬は小さく息を吐いた。
◇◆◇◆◇◆◇
それからしばらくして。
事故の報告を受けた摩利と達也が、現場へやって来た。
「雄馬君!」
摩利が鋭い声で呼び掛ける。
「はい」
「怪我はないな?」
「大丈夫です」
「……本当に?」
「右腕が少し痛いくらいです」
「それを怪我と言うんだ!」
「……すみません」
雄馬は素直に頭を下げた。
摩利は深く息を吐く。
「……全く。君はどうしてこう……」
「……どうして?」
「いや、いい」
何か言いかけた摩利だったが、途中で言葉を切った。
どうやら、今は説教よりも優先すべきことがあるらしい。
摩利はスタッフへ状況を確認し始めた。
その間に、達也が雄馬へ近づいてくる。
「……災難だったな」
「本当にな」
雄馬は苦笑した。
「普通に朝飯食いに行こうとしただけなんだけどなぁ」
「……そうか」
「何で俺ばっかりこんな目に遭うんだろうな」
「運が悪いんじゃないか?」
「……お前がそれ言うか?」
雄馬は呆れたように達也を見た。
達也は特に反応しない。
そのまま、台車の方へ視線を向けた。
「……後輪に異常があったそうだな」
「ああ」
雄馬は頷いた。
「何か金属音がしたと思ったら、急に傾いたんだよ」
「……そうか」
達也は台車へ近づき、破損部分を確認した。
しばらく無言で調べる。
雄馬はその様子を眺めていた。
専門的なことは分からない。
ただ、達也なら何か気づくかもしれないと思った。
「……なるほど」
やがて、達也が小さく呟いた。
「何か分かったか?」
「……まだ断定はできない」
「そっか」
「ただ、通常の使用で簡単に外れるような部品ではないな」
雄馬は僅かに眉を上げた。
「……ってことは?」
「整備不良か、あるいは別の原因があるかもしれない」
「……別の原因ねぇ」
雄馬は小さく息を吐いた。
昨日のことを思い返す。
「……なあ、司波」
「何だ?」
「昨日の人、何か分かったか?」
達也は一瞬だけ黙った。
そして、静かに答える。
「今のところ、該当する人物は確認できていない」
「……そうか」
「少なくとも、昨日お前が見た時間帯に機材保管棟へ入室した記録はなかった」
「……ふむ」
雄馬は少し考えた。
入室記録がない。
なら、そもそも建物へ入っていなかったのかもしれない。
ただの巡回だった可能性も十分にある。
しかし。
「……何か、嫌な偶然だな」
思わず呟いた。
達也は小さく頷く。
「そうだな」
それ以上の言葉はなかった。
二人とも、現時点で断定できることがないと理解していた。
だからこそ、余計な推測はしなかった。
その時だった。
「……佐藤」
背後から声がした。
藤井だった。
「ん?」
「……さっきは、ありがとう」
短い言葉だった。
だが、その表情は真剣だった。
雄馬は少しだけ驚いた。
「……ああ」
そして、小さく笑う。
「気にすんなって。怪我なくてよかったよ」
「……でも、お前がいなかったら……」
「その話はもういいって」
雄馬は肩をすくめた。
「それより、朝飯どうする?」
「……は?」
「いや、結局まだ食ってないだろ?」
「……お前、今それ気にするのか?」
「そりゃ気にするだろ。腹減ったし」
「…………」
藤井は黙った。
それから、何とも言えない表情になる。
「……お前、本当に変な奴だな」
「よく言われる」
雄馬が笑う。
藤井も、つられるように小さく笑った。
その様子を見ていた達也が、僅かに口元を緩める。
だが、すぐに表情を戻した。
「……雄馬」
「ん?」
「朝食の前に、一度医務室へ行っておけ」
「……え?」
「右腕が痛むんだろう?」
「いや、そこまで大したことは……」
「行っておけ」
「…………」
雄馬は黙った。
どうやら、反論しても無駄らしい。
「……分かったよ」
渋々頷く。
その時、摩利が振り返った。
「雄馬君。医務室へ行くのか?」
「……はい」
「なら、診察が終わったら私のところへ来てくれ」
「……え?」
「事故について報告書を書いてもらう」
「…………」
雄馬の表情が固まった。
達也が、静かに視線を逸らす。
「……委員長」
「何だ?」
「……報告書って、やっぱ必要ですか?」
「当然だ」
「……ですよね」
雄馬は深いため息を吐いた。
(……また報告書かよ)
以前、ブランシュの事件でも報告書を書かされた。
いや、正確には書こうとして逃げ出し、結局捕まって書き直すことになった。
あの時の面倒さは、今でも覚えている。
そして今回も、どうやら逃げられそうにない。
「……司波」
「何だ?」
「手伝ってくれ」
「断る」
「即答かよ」
「自分の分は自分で書け」
「……薄情者め」
雄馬は小さく呟いた。
達也は聞こえなかったふりをしている。
その様子を見ていた藤井が、とうとう吹き出した。
「……ははっ!」
「……何だよ」
「いや……お前ら、仲いいんだな」
「よくない」
「よくないな」
二人の声が重なった。
藤井はさらに笑った。
「……いや、絶対仲いいだろ」
「違うって」
雄馬は呆れたように返した。
達也も、特に否定を重ねることはしなかった。
ただ、僅かに口元を緩めていた。
◇◆◇◆◇◆◇
その日の昼。
雄馬は医務室で簡単な診察を受けた後、摩利の指示通り報告書を提出していた。
今回は、前回のようなことにはならなかった。
というより。
最初から達也に見張られていたので、逃げようがなかった。
「……何でお前までいるんだよ」
「会長から頼まれた」
「……司波め」
「聞こえているぞ」
「聞こえるように言ったんだよ」
そんなやり取りをしながらも、報告書は無事に完成した。
もっとも、最初に提出した内容が簡潔すぎると摩利に指摘され、二度ほど書き直すことになったのだが。
それでも、前回よりは随分と早く終わった。
「……よし、終わり!」
雄馬は椅子から立ち上がった。
「今度こそ文句ないだろ!」
「……一応、必要な情報は揃っているな」
摩利が端末を確認する。
「だが、もう少し詳しく書けるようになってほしいものだ」
「……次から頑張ります」
「本当だな?」
「……多分」
「雄馬君」
「はい、頑張ります」
雄馬は即座に訂正した。
その横で、真由美が小さく笑っていた。
「ふふっ。雄馬君も少しは成長したのね」
「……会長、それ褒めてます?」
「もちろんよ?」
「……何か信用できないなぁ」
雄馬は苦笑した。
真由美は楽しそうに笑う。
その様子を見て、摩利が深く息を吐いた。
「……会長。あまり甘やかさないでください」
「あら、そんなつもりはないわよ?」
「……本当ですか?」
「ええ」
真由美はにこやかに答えた。
どうやら、こちらも信用されていないらしい。
雄馬はそれを横目に見ながら、静かに出口へ向かった。
これ以上ここにいると、また何か面倒なことを頼まれそうだった。
だが。
「……雄馬君」
摩利の声が飛んだ。
雄馬の足が止まる。
「……はい」
「今日はもう自由にしていい。ただし、右腕に異常があればすぐに報告すること」
「了解です」
「それと」
「……まだあるんですか?」
「昨日の不審者の件だが、何か思い出したことがあれば教えてくれ」
雄馬は少しだけ表情を引き締めた。
「……分かりました」
摩利は頷いた。
「では、行っていい」
「失礼します」
雄馬は頭を下げ、部屋を出た。
廊下へ出たところで、小さく息を吐く。
「……やっと終わった」
思わず呟いた。
今日は朝から色々あった。
台車の事故。
医務室。
そして報告書。
補欠として大会へ来ているはずなのに、何故か競技以外のことで忙しくなっている。
「……俺、何しに来たんだっけ」
少し考える。
九校戦の観戦。
それから、必要なら補欠として出場すること。
それだけだったはずだ。
(……頼むから、これ以上何も起きないでくれよ)
雄馬は心の中でそう願った。
もっとも。
今朝の事故について、まだ分からないことが多すぎる。
単なる整備不良なのか。
それとも、誰かが意図的に引き起こしたものなのか。
現時点では判断できない。
ただ、一つだけ確かなことがあった。
昨日の交通事故。
夜の機材保管棟で見掛けた人物。
そして、今朝の台車の事故。
それらが繋がっているのだとすれば。
九校戦の裏側で、何かが動いていることになる。
雄馬は小さく息を吐いた。
「……ま、司波たちが何とかするだろ」
そう呟いて歩き出す。
自分は補欠だ。
警備担当でもなければ、事件を調査する立場でもない。
必要なら協力する。
だが、それ以上のことを自分からするつもりはなかった。
少なくとも、今は。
そして。
雄馬が知らないところで、達也は今朝の台車について一つの事実を確認していた。
事故を起こした台車は、前日の夕方に定期点検を受けていた。
その時点では、異常なしと記録されている。
つまり。
記録が正確ならば、昨夕から今朝までの間に何らかの異常が発生したことになる。
それが何を意味するのか。
まだ答えは出ていない。
だが、達也はその記録を見つめながら、静かに考えていた。
(……偶然にしては、少し出来すぎているな)
そして、もう一つ。
彼が気に掛けていることがあった。
佐藤雄馬。
昨日、不審な人物を目撃した少年。
そして今日、台車の事故を防いだ少年。
本人は、ただの偶然だと思っているかもしれない。
だが。
もしこれらの出来事が同じ人物、あるいは同じ組織によって引き起こされているのだとしたら。
雄馬は既に、その計画を二度にわたって妨げたことになる。
それは、決して好ましい状況ではなかった。
達也は端末を閉じた。
九校戦は、まだ始まったばかりだ。
これから何が起きるのか。
それは、彼にもまだ分からなかった。