夜は静かだった。
昼間、雄馬が魔術回路を開いた訓練場には、もう人の気配はない。
月明かりが薄く地面を照らし、風が草を揺らしている。
その裏口の陰に、一つの影が立っていた。
「……戻ったか」
エミヤは小さく呟いた。
視線の先では、訓練場から戻ってきた雄馬が、できるだけ音を立てないように廊下を歩いていくところだった。慎重に忍んでいるつもりなのだろうが、完全に隠し通せるほど器用でもない。
少し遅れて、別の足音が近づいた。
「やはり、気づいていたのですね」
振り返らずとも分かる声だった。
「ああ」
短く答える。
「ジャンヌも一緒だった。だから止めなかった」
「私も同じ判断です」
隣に立ったアルトリアが、訓練場の方へ目を向ける。
「隠し事にはあまり向いていませんね」
「まったくだ」
呆れたように返しながらも、その声音にはわずかな苦笑が混じっていた。
少しの沈黙が落ちる。
夜風が吹き、木々が揺れる。
「止めなくてよかったのですか」
「止めるべき理由ならいくらでもある」
エミヤは壁へ軽く凭れたまま答えた。
「回路を開いた初日に余計な鍛錬を重ねるのは、褒められたものじゃない。感覚は不安定だし、無茶をすれば明日に響く。下手をすれば、せっかく掴みかけたものまで崩す」
「ならば」
「だが、止めて済む段階でもない」
アルトリアは何も言わない。
その沈黙が続きを促していると分かっていた。
「見ただろう。昼の訓練が終わった時の、あの顔を」
「……ええ」
「出来たことへの喜びより、出来なかったことへの悔しさが勝っていた。あのまま何もしないで寝かせても、たぶん納得しない」
「そうですね」
アルトリアの返答は静かだった。
「何も知らぬ自分のままでいたくない。そう思っているのでしょう」
「焦っているんだろうな」
「無理もありません」
彼女は夜の訓練場を見つめたまま言った。
「この世界へ来てまだ間もない。何も分からぬまま、周囲には英霊ばかり。置いていかれると感じても不思議ではないでしょう」
「置いていかれる、か」
エミヤはその言葉を繰り返した。
軽口を叩く余裕はある。だが、それで不安が消えているわけではない。
むしろ、何も知らない自分と、最初から前を歩いているように見える周囲との差を、一番強く意識しているのは本人だろう。
「悪いことじゃない」
エミヤは目を細める。
「自分から前へ進もうとするのはな。だが、焦りに引っ張られれば長くはもたない」
「だからこそ、見ている必要があります」
「ああ」
「それに、今回はジャンヌもいました」
アルトリアが続ける。
「優しい方ですが、甘やかすだけではありません。無茶をさせる前に止める。その点では信頼できます」
「同感だ」
ジャンヌが付いているなら、少なくとも勢いだけで危険な真似はさせない。
そこは信用できる。
「……貴方も、案外甘いのですね」
ふいにそんな言葉が落ちた。
「私が?」
「止める理由を並べながら、結局は止めなかった」
「合理的に判断しただけだ」
「そういうことにしておきます」
「食えないな、セイバー」
「どちらが、ですか」
ほんの短いやり取り。
けれど、その空気は悪くない。
昔からそうだったのだろうと分かる。必要以上に言葉を重ねずとも、相手が何を見て、何を考えているのかが伝わる程度には、互いを知っている。
「……まあ、君も同じだろう」
エミヤが言うと、アルトリアは小さく息をついた。
「否定はしません。自分から進もうとしたことまで、摘み取りたくはありませんでした」
「だろうな」
「ただし、独りで無茶をするのであれば止めます」
「そこも同意見だ」
結論は最初から変わらない。
知っている。
見ている。
そのうえで、あえて言わない。
それもまた、見守るということだった。
◇
翌朝。
雄馬は、できるだけ平静を装いながらリビングへ入った。
「おはよう」
「おはよう」
キッチンに立つエミヤの声は、驚くほどいつも通りだった。
朝食の支度を進める手元にも、特に変わったところはない。
テーブルではアルトリアが静かに待ち、ジャンヌは柔らかく微笑み、沖田はまだ少し眠そうに目をこすっている。アキレウスは朝から元気で、クー・フーリンは椅子にもたれて欠伸をしていた。
いつも通りだ。
(……バレてない、か?)
内心で少しだけ安堵する。
「どうしましたか、雄馬さん?」
ジャンヌが不思議そうに首を傾げた。
「いや、なんでもない」
「そうですか?」
それ以上は追及してこない。
その察しの良さがありがたい。
「座ってください。朝食が冷めます」
アルトリアに促され、雄馬は席についた。
「ああ」
皿が並べられていく。
香りのいいスープに、焼きたてのパン。エミヤの料理は相変わらず容赦なく美味そうだった。
「顔色は悪くありませんね」
ふいにそう言われて、雄馬は顔を上げた。
「え?」
「昨日よりは、です」
「そ、そうか?」
「ええ」
それだけ。
けれど、何かを含んでいるようにも聞こえて、雄馬は妙に落ち着かなくなった。
(いや、気のせいだよな……?)
「雄馬さん、筋肉痛は大丈夫ですか?」
沖田が明るく尋ねる。
「ちょっとあるけど、まあ平気」
「ならよかったです! 昨日は結構頑張ってましたから!」
「初日にしちゃ上出来だったぜ」
アキレウスが笑い、クー・フーリンも頷いた。
「無茶して潰れてねぇなら十分だ」
そんな会話の中で、雄馬はまだ微かな違和感を覚えていた。
何かがおかしい。
けれど、それが何なのかは分からない。
その時、エミヤが皿を置きながら、あまりにも自然な声で言った。
「ただし、調子に乗って余計な鍛錬を重ねるなよ」
「っ」
雄馬の肩がびくりと跳ねた。
「……な、なんだよ急に」
「一般論だ」
エミヤは平然としている。
「回路を開いた直後は感覚が不安定になる。余計なことをすれば崩しやすい。せっかく掴みかけたものを自分で壊したいなら、止めはしないが」
「い、いや、別にそんなことは」
「そうか」
あっさりと会話が切られる。
追及もない。問い詰めるような目もない。
けれど、その一言だけで十分だった。
(バレてる……!)
心の中でそう叫びながら、雄馬はちらりとアルトリアを見る。
彼女は静かにスープへ口をつけてから、落ち着いた声で言った。
「自ら鍛錬を望むことは、悪いことではありません」
「……!」
「ですが、順序を違えてはなりません。自分の現状を把握し、出来ることを積み上げる。それが最短です」
やはり知っている。
知っていて、それでも何も言わないのだ。
雄馬は一瞬だけ言葉に詰まり、それから小さく肩を落とした。
「……気づいてたのか」
「当然だ」
「当然です」
ぴたりと声が重なって、雄馬は思わず目を瞬かせた。
「いや、隠せてると思ってたんだけど……」
「無理でしょうね」
アルトリアはきっぱりと言った。
「回路を開いたばかりの貴方が魔力を動かせば、慣れた者には分かります」
「それに、ジャンヌが一緒だったからな」
エミヤが続ける。
「危険がないと判断した。それだけだ」
その言葉に、雄馬は少しだけ目を見開いた。
「……怒らないのか?」
「怒られるようなことをした自覚はあるのか?」
「う」
「なら反省はしておけ」
エミヤの口調は淡々としていた。
「だが、自分から前へ進もうとしたことまで咎めるつもりはない」
アルトリアも静かに頷く。
「ただし、次からは最低限の分別を持ってください。独りで無茶をされては困ります」
「……分かった」
「よろしい」
その一言で、ようやく胸のあたりの緊張が抜けた。
バレていた。
けれど、それは責めるためではなかった。
見ていて、分かっていて、それでも必要以上には口を出さない。
その距離感が、少しだけくすぐったくて、けれど嫌ではない。
「まあ、なんだ」
クー・フーリンが笑う。
「隠れたつもりで隠れきれてねぇ辺り、まだまだだな」
「そこを鍛える方向には行きたくないんだが」
「ははっ、でもいいじゃねぇか」
アキレウスが豪快に笑った。
「ちゃんと見られてるってことだろ?」
「……そうだな」
苦笑しながら頷く。
エミヤはそれ以上何も言わず、朝食の支度へ戻った。
アルトリアもまた、余計な言葉は続けない。
けれど、その無言の中にあるものは、もう雄馬にも分かる。
完全に放っているわけではない。
かといって、何もかもを先回りして奪うつもりもない。
自分で踏み出した一歩を、自分の足で進めるように。
そのぎりぎりのところで、二人は見ているのだ。
言わないということは、知らないふりではない。
信じているからこそ、あえて言わないこともある。
そのことを、雄馬はこの朝、少しだけ理解したのだった。