魔術の練習を初めてから一年が経った。
雄馬にとって、その一年は短くもあり、長くもあった。
最初の頃は、あちらの魔術に触れるだけで精一杯だった。内側を無理やりこじ開けるような感覚にも、神経を焼かれるような痛みにも慣れず、回路を開くだけで冷や汗を流していた。力を流すだけで集中が乱れ、決められた手順を最後まで保つことさえ難しかった。
それでも、積み重ねてきた。
呼吸を整えること。
意識を沈めること。
回路を開き、力を暴れさせずに流すこと。
現象へ届くまでの工程を、一つずつ崩さずに踏むこと。
地味で、面白みに欠ける反復だったが、その分だけ土台にはなった。今の雄馬なら、ようやく基礎の入り口には立てている。胸を張れるほどではないにせよ、一年前の自分よりは確かに進んでいると言えた。
だが――この一年で頭に入れてきたのは、それだけではない。
こちら側の魔法。
今、自分が立っている世界の理屈。
あちらの魔術とは似ているようで、根っこから違う体系。内側の回路を開いて力を押し通すのではなく、対象を認識し、結果を定め、起動式を足場に魔法式を構築し、エイドスへ干渉して現象を変えるもの。
知識だけなら、雄馬はもうかなり持っていた。
むしろ、この屋敷にいる英霊たちより、その点に関しては自分の方が詳しいと分かっていた。彼らが知らない、という意味ではない。言葉としては知っていても、実感として扱えるわけではないのだ。剣の振り方なら教えてもらえる。槍の間合いも、戦場での呼吸も、死地での覚悟も。だが、こちら側の魔法だけは別だった。
だから、独学でやるしかない。
教えてもらえないのではなく、教えられない。
その事実は少し心細かったが、不思議と嫌ではなかった。
「……そろそろ、試してみるか」
夜更け。誰に聞かせるでもなく呟いて、雄馬は地下室の扉を閉めた。
石壁に囲まれた薄暗い空間は、昼でも冷える。夜ならなおさらだった。机の上には、小さな木片と金属球、白線を引いた板。そして、その脇には掌に収まる簡素なCADが置かれている。
今日やることは単純だ。
木片を、数センチだけ前へ動かす。
火を出すわけでもない。何かを壊すわけでもない。ただ位置をずらす、それだけ。だが、最初の一歩としてはそれで十分だった。
雄馬は机の前に立ち、ゆっくり息を吐いた。
「間違えるな」
自分に言い聞かせる。
ここで、あちらの魔術の癖を持ち込めば崩れる。内側へ意識を向け、回路を開き、力を流し込み、多少強引でも押し切る――その手順が身体に染みつき始めているからこそ、なおさらだった。
だが今やるのはそれじゃない。
見るべきは、自分の内側ではなく対象だ。
木片の位置。
大きさ。
重さ。
板との接地。
白線までの距離。
どう動かしたいのか。
曖昧なままでは通らない。
“動け”では足りない。
何を、どう、どこまで変えるのか――そこを定義しなければ、こちら側の魔法は形にならない。
雄馬はCADを手に取った。
そのころ、地下室の外では。
階段の陰に、幾つもの気配が静かに集まっていた。
最初に気づいたのはエミヤだった。夜更けに屋敷の中を気配を殺して動く者がいれば、さすがに分かる。何事かと様子を見に来たところへ、アルトリアが加わり、ジャンヌが気づき、沖田が合流し、さらにクー・フーリンとアキレウスまで来てしまった。
結果として、地下室の前には英霊たちがずらりと揃っている。
誰も扉は開けない。
誰も先には出ない。
ただ、気配だけを潜めて見守っていた。
「……随分と増えたな」
エミヤが低く言う。
「そう言うなよ。気になるもんは気になるだろ」
壁にもたれたクー・フーリンが、小さく肩をすくめた。
「それに、夜中にこそこそ動くってのは大体ろくでもないか、真面目に何かやる時のどっちかだ。雄馬なら後者っぽいが」
「気配は静かだな」
アキレウスも扉の先を見たまま呟いた。
「いつもの鍛錬とは違う」
アルトリアが小さく頷く。
「ええ。シロウ、分かりますか」
「いや」
エミヤは即答した。
「分からない。だから黙って見ている」
その一言に、場の全員が納得した。
扉の向こうから伝わる気配は、これまで雄馬が続けてきたあちらの魔術の鍛錬とは違う。あの独特の、回路を無理に開くような痛みの気配が薄い。もっと静かで、もっと思考に寄った何かだった。
ジャンヌがそっと口を開く。
「こちら側の魔法、でしょうか」
「たぶんな」
エミヤが短く答えた。
「少なくとも、私たちが横から指図していい領分じゃない」
「そうですね」
アルトリアの声は静かだった。
「知識だけなら、雄馬の方が持っているのでしょう。私たちが不用意に口を出せば、かえって混乱させるかもしれません」
沖田が少しだけ身を乗り出す。
「でも、それって完全に独学ですよね」
「そういうことになるな」
クー・フーリンが頭をかいた。
「歯痒い話だ。槍なら見りゃ大体分かるし、その場で直してやれる。けど、知らねえ術はさすがにな」
「剣も同じです」
アルトリアが言う。
「導いてやりたくても、そのための地図を持っていない」
「英雄だからって、何でも分かるわけじゃねえしな」
アキレウスが低く笑う。
「雄馬の方が詳しいなら、そこは雄馬が進むしかない」
ジャンヌは扉へ向けた視線を柔らかく保ったまま、静かに言った。
「なら、私たちは見守りましょう。必要なら手を伸ばせる場所で」
「危なくなれば止める」
エミヤが締める。
「それまでは任せる。自分で掴まなければ意味がない」
誰も異を唱えなかった。
地下室で、雄馬は意識を整える。
意思を持つ。
CADへサイオンを流す。
起動式を呼び出す。
それを土台に、必要な魔法式を組み上げる。
知識として頭に入れてきた流れを、そのまま順番に辿る。
あちらの魔術のように、内側を焼く痛みはない。代わりに、思考だけが妙に澄んでいく。端末を経由して設計図が立ち上がり、それを足場に“動かすための形”を与えていく感覚。
「……っ」
息が詰まる。
知っていたはずなのに、実際に触れると情報量が重い。けれど、押し寄せるだけではない。無秩序でもない。膨大な手順が、一つの枠組みとしてそこにある。そこへ、自分で必要な構成を与えていく。
対象は木片。
前へ。
ほんの少しだけ。
跳ねさせず、滑らせる。
白線の手前まででもいい。
そう定め、雄馬は魔法式を組み切ろうとする。
――だが。
木片は、ぴくりとも動かなかった。
「……やっぱり、そう簡単じゃないか」
苦笑が漏れる。
失敗だ。
原因も見えていた。結果ばかりを急ぎすぎたのだ。動かしたい、という意識が先に立ち、そこへ至る手順の精度が甘くなった。しかもどこかで、あちらの魔術みたいに押せば通るという感覚が混ざっていた。
こちら側は違う。
勢いじゃない。
精度だ。
扉の外でも、その空気の変化は分かった。
「失敗したか」
アキレウスが低く言う。
「まだ崩れてはいません」
ジャンヌがすぐに返した。
「やり直すつもりです」
「分かるのか?」
「ええ。たぶん」
ジャンヌの声は柔らかいが、確信があった。
エミヤは扉を見たまま言う。
「雄馬は諦めていない。さっきのは失敗だが、完全な空回りでもない」
「分かるのは、そこまでか」
クー・フーリンが小さく笑う。
「厄介だな」
「ああ」
エミヤの返事は短かった。
「だから余計なことは言わない」
地下室で、雄馬は深く息を吐く。
「もう一回……今度は、順番を飛ばさない」
木片を見る。
位置を認識する。
移動後を定義する。
変化の流れを崩さず組み立てる。
回路には触れない。
押し切ろうとしない。
対象の情報を見失わない。
さっきより、ずっと丁寧に。
頭の中に、静かな集中が落ちてくる。痛みではない。熱でもない。ただ思考だけが細く尖り、ばらばらだった手順が一本の線になっていく。
これだ、と雄馬は思った。
外の気配も、揃って張り詰める。
「……今のは少し違うな」
クー・フーリンが声を潜めた。
「ええ」
アルトリアも扉の向こうを見据えたまま頷く。
「さきほどより、迷いが減っています」
「雄馬さん……」
沖田が思わず声を出しかけ、自分で口を押さえた。
次の瞬間。
こつ、と乾いた音が鳴った。
木片が、ほんの少しだけ前へ滑る。
白線までは届かない。半分にも満たない。目を離していれば見落としそうなほど、小さな変化。
それでも。
「……できた」
雄馬の掠れた声が、扉越しにかすかに届いた。
外にいた面々の表情が、わずかに緩む。
ジャンヌは安堵したように胸の前で手を組み、沖田は目を輝かせた。
「やりましたね……!」
「大したものだ」
アキレウスが低く笑う。
「誰にも教わらずに、まず一歩か」
「雄馬らしいっちゃ、雄馬らしいな」
クー・フーリンも口元を上げた。
「無茶だが、ちゃんと前には進んでる」
アルトリアは静かに息を吐いた。
「初歩ではありますが、自力で辿り着きましたか」
「ああ」
エミヤの返答は短かった。
だが、その一言にははっきりとした評価があった。
「雄馬は、ちゃんと進んでいる」
地下室の中で、雄馬は額に手を当てた。
「頭……重いな」
疲れ方が違う。あちらの魔術のように身体の奥が軋む感じではなく、思考を限界近くまで回し続けたあとの鈍い重さだった。
だが、嫌じゃない。
今ので分かった。こちら側の魔法は、知識だけのものではない。少なくとも、自分の手で届く可能性がある。ゼロではない。
雄馬は木片を元の位置へ戻した。
「もう一回」
その呟きに、外で沖田が目を丸くする。
「え、もう次ですか?」
「一度通ったからな」
エミヤが言う。
「欲が出る。雄馬らしい」
アルトリアの口元がほんのわずかに緩む。
「シロウ。少し似ていますね」
「やめてくれ、セイバー。ろくな意味に聞こえない」
「褒めています」
即答だった。
そのやり取りに、ジャンヌが小さく笑い、沖田もつられて口元を緩める。クー・フーリンは肩を震わせ、アキレウスは呆れたように息をついた。
「で、どうする?」
クー・フーリンが尋ねた。
「終わったあと、声はかけるのか」
「聞かれれば答える」
エミヤは迷いなく言う。
「だが、こちらから知ったような口は利かない。分からないものは分からないままだ」
「賛成です」
アルトリアが頷く。
「見守るのもまた、役目でしょう」
「必要なら支えます」
ジャンヌも続けた。
「ですが、歩くのは雄馬さん自身です」
「うーん……ちょっと悔しいですけど」
沖田が苦笑する。
「剣ならもっと色々お手伝いできるのに」
「そりゃ俺たち全員そうだろ」
アキレウスが言った。
「だがまあ、知らねえ道なら、せめて転びそうな時に受け止めてやるくらいはできる」
「それで十分だ」
エミヤが静かに締める。
地下室の向こうでは、再び気配が動き出す。
今度は最初から分かっている。何をしてはいけないのかも、どこで崩れるのかも、何を優先すべきかも。
回路に触れない。
押し切ろうとしない。
対象の情報を見失わない。
こちら側の魔法は、力のぶつけ合いじゃない。
定義して、組み上げて、届かせるものだ。
雄馬はCADを握り直し、木片へ視線を落とす。
さっきより少しだけ速く。
さっきより少しだけ正確に。
そうやって、一歩ずつ届く距離を縮めていけばいい。
ふと、その時。
背後の扉の向こうに、微かな気配の重なりを感じた気がした。
「……?」
雄馬はわずかに視線だけを上げる。
気のせいかもしれない。だが、何となく分かる。たぶん、誰かいる。しかも一人じゃない。
それでも、雄馬は扉を開けなかった。
「……まあ、いいか」
小さく呟く。
もし見られているのだとしても、今夜のこれは隠したいものじゃない。まだ拙い。まだ入り口に立っただけだ。だが、自分の足で最初の一歩を踏み出したことだけは確かだった。
そして、もし本当にあの向こうに皆がいるのだとしたら。
教えることはできなくても、見守ってはくれているのだろう。
それで十分だった。
地下室の片隅で、雄馬はもう一度、こちら側の魔法を組み上げ始める。
独学で進むしかない道。
誰も正解を教えてはくれない道。
けれど、独りきりで折れるには、少しだけ背中が温かい道。
誰も知らない術の前で、英雄ですら万能ではいられない。
だからこそ、今夜ここで進む一歩には意味がある。
雄馬は木片のエイドスを捉えるように目を細めた。
次はもう少しだけ、遠くへ。
次はもう少しだけ、確かに。
地下室の静けさの中、小さな挑戦はまだ始まったばかりだった。