夜も更け、屋敷の中が静まり返った頃だった。
自室で一人、昼間の鍛錬を思い返していた雄馬の耳に、控えめなノックの音が届く。
「雄馬さん。まだ起きていますか?」
扉を開けると、そこにいたのはジャンヌだった。いつも通り穏やかな微笑みを浮かべているが、その声はどこか内緒話をするように小さい。
「少しだけ、外へ出ませんか。できれば……皆さんには秘密で」
そんな言い方が妙に珍しくて、雄馬は思わず笑ってしまった。
「ジャンヌがそういうこと言うの、なんか新鮮だな」
「たまには、こういうのも必要かと」
そう言って、彼女はそっと唇の前に指を立てた。
案内されたのは、屋敷の裏手にある中庭だった。
昼間は広く感じるその場所も、夜になると月明かりと木々の影に包まれて、まるで別の空間のように見える。白い石畳が淡く光り、風が葉を揺らす音だけが静かに耳に残った。
「本当に、内緒なんだな」
「はい。大げさにされると、雄馬さんもやりにくいでしょう?」
「それは……確かにそうかも」
昼の鍛錬は、どうしても視線が多い。見守られているだけとはいえ、あれだけ英霊が揃っていると落ち着かないのも事実だった。
ジャンヌは雄馬の正面に立ち、やわらかく言う。
「私は理論そのものを教えることはできません。こちらの世界の魔法については、雄馬さんの方がよほど知っています」
「そこは自覚あるんだな」
「あります。ですが、無理をしていないか、動きが乱れていないか、そのくらいなら見られます。一人でやるよりは、安全ですから」
その言葉に、雄馬は小さく息を吐いた。
「分かった。じゃあ、付き合ってくれ」
「もちろんです」
夜気を胸いっぱいに吸い込み、意識を沈める。
頭の中には理屈がある。術式の構造も、身体能力の強化に必要なイメージも、まったく分からないわけではない。だが、知っていることと実際にできることは違う。
知識を感覚へ落とし込み、それを動きへ変える。
その最初の一歩が、どうにも難しかった。
雄馬は呼吸を整え、自分の内側へ意識を向ける。脚、腰、肩。力を入れるのではなく、通す。固めるのではなく、支える。過剰にならないよう、けれど確かに底上げする。
「――っ」
一歩、踏み出した。
昼よりは良かった。少なくとも、身体が前につんのめるようなことはない。だが次の瞬間、足裏の感覚が噛み合わず、体勢がぶれる。
倒れかけた腕を、ジャンヌがすぐに支えた。
「大丈夫ですか?」
「……大丈夫。いや、悔しいけど大丈夫じゃないな、これ」
「焦らずに。頭で分かっていることと、身体が覚えることは別です」
責めるでもなく、慰めるでもなく、ただ静かに言う声音が心地よかった。
「繰り返しましょう。少しずつで構いません」
「分かった」
もう一度、呼吸から整える。
前へ出ようとするのではなく、身体の中心をずらさないように意識する。強化を乗せる場所、逃がさない場所、地面を踏む感覚。
一歩。今度は先ほどより滑らかだった。
そして、その次の一歩に移ろうとした時だった。
「やっぱりここでしたか!」
ぱっと夜の静けさを裂くような声が響いた。
振り向くと、そこには沖田が立っていた。なぜか少しだけ得意げな顔をしている。
「……何してるんだ?」
「見回りです!」
「絶対違うだろ」
「違いません!」
即答だった。
だがその目は、もう雄馬の足元と重心の移り方をじっと見ている。
「でも、今の踏み込み、少しもったいないです」
「え?」
「前に出ようとする気持ちが先に走ってます。脚がついてきていません。強化しているなら、なおさらそこは合わせた方がいいです」
さっきまでの軽い調子とは違う。剣を抜いていなくても分かる。これは実戦で身体を使い続けてきた者の目だった。
沖田は一歩前に出てみせる。
「こう、です。先に上半身が行くんじゃなくて、軸は残す。そこから運ぶ。最後にすっと出る感じで」
踏み込みは小さい。けれど、その一歩には妙な鋭さがあった。静かで、無駄がなくて、だからこそ速い。
「なるほど……」
「はい。というわけで、ジャンヌさんが安全係、私は実演係です!」
「勝手に役割増やすな」
「いいじゃないですか。雄馬さんの鍛錬なんですし!」
「乱入してきた側の台詞じゃないな」
雄馬が呆れて言うと、沖田はむっとしたように頬を膨らませたが、すぐに真面目な顔へ戻った。
「でも、放っておけません。怪我でもしたら大変ですし」
その言い方に嘘はなかった。
ジャンヌは小さく笑って頷く。
「では、お願いします。私一人で見るより心強いです」
「はい、お任せください!」
こうして、二人きりのはずだったコソ練は、あっさり三人になった。
ジャンヌが呼吸や力みを見て、沖田が踏み込みや軸の位置を直す。雄馬はその間で何度も動きを繰り返した。
失敗すれば沖田がすぐに言う。
「今のは惜しいです! でも形は良くなってます!」
ジャンヌも続ける。
「ええ。さっきより、ずっと自然でした」
乗せられているような気もするが、その言葉のおかげで次の一歩が出るのも確かだった。
そして、別の日の夜。
今夜こそ本当に二人きりでやれるだろう、そう思っていた矢先だった。
「その踏み込みでは、脚に乗せた力を殺しています」
背後から落ちてきた声に、雄馬は思わず肩を跳ねさせた。
振り向けば、アルトリアがそこに立っていた。相変わらず、いつからそこにいたのか分からない。
「……いたなら、声かけてくれ」
「かけました」
「今のが最初だろ」
「そうですね」
否定しないのが余計にたちが悪い。
アルトリアは静かに近づいてくると、雄馬の足元と姿勢を一瞥して言った。
「上体に意識を置きすぎです。前へ出ようとするのではなく、地面を押してください」
「地面を押す……」
「力を前に投げるのではありません。下から伝えるのです」
そう言って、彼女は一歩だけ踏み出してみせる。
沖田の一歩が“鋭い”ものなら、アルトリアのそれは“重い”ものだった。決して鈍重ではない。ただ揺るがない。そこに立つだけで、簡単には崩れないと分かる一歩だった。
「……お見事です」
ジャンヌが素直に感心すると、アルトリアは僅かに視線を逸らした。
「当然です。教える以上、中途半端はできません」
「教えるつもりで来られたのですね?」
やんわりとジャンヌが問うと、アルトリアはほんの少しだけ言葉を詰まらせる。
「危険だと判断しました。放置できなかっただけです」
「はいはい」
雄馬が口元を緩めると、アルトリアはじろりと一瞥を寄越した。
「笑っている場合ではありません。続けてください」
「厳しいな」
「鍛錬ですから」
その後は、アルトリアが姿勢を整え、ジャンヌが無理の有無を見て、雄馬が必死に食らいついていく時間になった。
膝の向き、腰の位置、肩の力、視線の置き方。
細かい。とにかく細かい。
だが、細かいからこそ分かることもある。
力はただ強く込めればいいわけではない。速さはただ急げばいいわけではない。積み上げた理屈を身体の動きに落とし込んで初めて、それは使えるものになる。
その感覚を少しずつ掴みかけた頃だった。
「またアルトリアさんだけ先に来てます!」
今度は沖田が勢いよく現れた。
「見回りです!」
「もう誰も信じないだろ、その言い訳」
「むむ……では、鍛錬参加希望です!」
「最初からそう言えばいいのに」
沖田はふんす、と鼻息を鳴らしてから、雄馬の動きを見て目を丸くした。
「おお……だいぶ良くなってますね」
「アルトリアに細かく絞られたからな」
「絞ったわけではありません。整えただけです」
「似たようなもんだろ」
「違います」
即答だった。
そのやり取りに、ジャンヌがくすりと笑う。
「でも、本当に良くなっています。最初よりずっと、身体の流れが自然です」
「ジャンヌさん、そこは私の功績も入りますよね?」
「もちろんです」
「……私も少しは役に立っているはずですが」
「はい、アルトリアさんもです」
そこで雄馬は、ようやく気づいた。
この“こっそり鍛錬”は、もう少しもこっそりではない。
ジャンヌがいて、沖田がいて、アルトリアがいる。二人きりで始まったはずなのに、気づけばしっかり囲まれている。
けれど、不思議と嫌ではなかった。
一人なら気づけなかった癖を見つけてもらえる。折れそうな時には支えられる。立ち止まりそうになったら、前へ押し出される。
その全部が、確かに力になっていた。
「……ありがとな」
ぽつりと零すと、ジャンヌは柔らかく笑った。
「どういたしまして」
沖田はすぐに胸を張る。
「もっと感謝してくださってもいいんですよ!」
アルトリアは静かに腕を組み、
「礼は結果で示してください」
と言った。
「ほらな、やっぱり厳しい」
「当然です」
そう返す声は淡々としていたが、どこか少しだけ柔らかい。
月はまだ高い。
夜気は冷たい。
それでも、その場だけは不思議と温かかった。
雄馬はもう一度足を開く。呼吸を整え、力の流れを意識し、地面を押す。
一歩が出る。次が続く。
その動きを見て、ジャンヌが小さく頷き、沖田が嬉しそうに目を輝かせ、アルトリアがほんの僅かに目を細めた。
こっそり始まったはずの鍛錬は、結局誰にも隠し通せなかった。
けれど。
隠し通せなかったからこそ、少しずつ形になっていくものもあった。
英雄たちに囲まれながら、それでも自分の足で前へ進むための夜が、そうして静かに積み重なっていくのだった。