こっそり始まった夜の鍛錬は、いつの間にか屋敷の中で半ば公然のものになっていた。
だからといって、鍛錬そのものが楽になったわけではない。
むしろ雄馬にとっては、そこから先の方がずっと地道だった。
脚を作る。体幹を整える。踏み込みのたびに軸を崩さない。力を流し、呼吸を乱さず、必要なところにだけ魔力を乗せる。派手さはない。目に見えて何かが劇的に変わるわけでもない。
けれど、積み上げた分だけ身体は確かに応えてくるようになっていた。
最初の頃のように、一歩踏み出しただけで体勢がぶれることは減った。強化を乗せても、足がもつれずに動ける時間が伸びた。アルトリアに何度も直された腰の位置も、沖田に幾度となく指摘された重心の移し方も、ようやく身体の中へ落ち始めている。
「止まらなくなってきましたね」
ある夜、踏み込みから連続して身体を運ぶ様子を見ていたジャンヌが、静かにそう言った。
雄馬は息を整えながら額の汗をぬぐう。
「前よりは、だいぶましになった気はする」
「ええ。前は一歩で終わっていましたから」
「そこまでだったか……」
「そこまででした」
柔らかく言われると、反論しづらい。
少し離れた場所では、沖田がうんうんと大きく頷いていた。
「最初の頃はもうちょっとこう……見てるこっちが『大丈夫ですか!?』ってなる感じでした!」
「言い方」
「でも今はちゃんと形になってます。踏み込みも、切り返しも、かなり良いです」
「まだ切ってないけどな」
「そこは雰囲気です!」
「雰囲気で言うな」
軽口を返しながらも、雄馬自身、変化ははっきり感じていた。
身体が動くようになってきた。
頭の中にしかなかった理屈が、少しずつ手足の先にまで降りてきている。
そしてそれは、体作りだけの話ではなかった。
魔術の方もまた、少しずつ基礎が形になってきていた。
こちらはエミヤが見ることが増えていた。アルトリアたちのように踏み込みや間合いを直接叩き込むのではなく、もっと根本的な部分――回路の開き方、魔力の通し方、余計な力みの削ぎ落とし方、意識の置き場。そういった土台の部分を、ひどく実践的な形で教えてくれる。
「無理に増やそうとしなくていい。まず、流れを乱さないことを覚えるんだ」
最初にそう言われた時、雄馬は少し意外に思った。
もっと高度なことを、もっと難しい言葉で教えられるものだと思っていたからだ。
だがエミヤは、いつもの落ち着いた調子で続けた。
「基礎を軽んじたまま先へ進むと、後で必ず歪む。魔術も剣も、そこは同じだ」
いかにも彼らしい言い方だった。
派手な理論や特殊な技法ではなく、徹底して土台を見る。
呼吸、集中、回路の起動、魔力の流れ、出力を上げる時のぶれ、余計な力み。
ひとつひとつは地味だ。だが、その分だけ誤魔化しが利かない。
「そこで肩に力が入る」
「……分かるのか?」
「見れば分かるさ」
「怖いな」
「そういう顔をするものじゃない。教わる側がする顔としては感心しないな」
呆れたように返されて、雄馬は苦笑するしかなかった。
それでも、教わるたびに分かることは増えていった。
劇的ではない。だが、確かに積み上がっている。以前なら無駄に暴れていた魔力も、今では少しずつ整えて扱えるようになっていた。
体作りが進み、魔術の基礎も形になってきた。
その上で、とうとうその話が出たのは、ある朝のことだった。
「そろそろ、実際に武器を持たせてもいいのではありませんか?」
そう言い出したのはジャンヌだった。
食後の紅茶が出され、束の間の穏やかな空気が流れていた食堂での一言だった。
雄馬は思わず顔を上げる。
「武器って……本当に?」
「はい。もちろん、基礎はまだ続けるべきです。ですが、体の使い方も少しずつ形になってきていますし、何より目標があった方が鍛錬にも張りが出るかと」
「……確かに、それはそうかもしれませんね」
アルトリアが静かに頷く。
その隣で、沖田もぱっと表情を明るくした。
「いいですね! ついに武器ありの訓練です!」
「いきなり実戦でも始めるつもりですか」
淡々と釘を刺したのはエミヤだった。
「基礎の延長だ。持たせる段階に入るというだけで、すぐ斬り合いをさせるわけではないだろう」
「そこまでは言っていませんけど……でも、木剣なり模擬刀なりを持つ段階には来ていますよね?」
「それはそうだろうな」
落ち着いた調子で答えたのはクー・フーリンだった。椅子の背にもたれたまま、面白そうに口元を吊り上げている。
「いつまでも素手だけってわけにもいかねえ。得物を持った時の間合いってもんがある」
「武器が手足の延長になる感覚は、早めに覚えておいた方がいいだろうな」
アキレウスも頷いた。
どうやら、武器の鍛錬へ進むこと自体に異論はないらしい。
問題は、その次だった。
「では、まずは剣ですね」
ごく自然に、アルトリアが言った。
「いえ、刀ですね」
これまたごく自然に、沖田が言った。
食堂の空気が、一瞬だけ止まった。
雄馬は瞬きをする。
ジャンヌは笑顔のまま固まり、エミヤはあからさまに面倒そうな顔になった。
「……待ってくれ」
雄馬が口を開くより先に、アルトリアが静かに続ける。
「剣を学ぶなら、まず基本は直剣です。重心、間合い、構え、斬撃の軌道。もっとも基礎を学びやすく、癖も整理しやすい」
「刀にも刀の基礎があります」
沖田はにこやかなまま、一歩も引かない。
「むしろ刀の方が体捌きや間合いには敏感です。変な力みも出やすいですし、そのぶん矯正もしやすいかと」
「刀は独自の癖が強い。最初の一歩としては不向きです」
「剣だって十分に癖はありますよね?」
「少なくとも刀よりは汎用性があります」
「その“汎用性”で全部片付けるのは、少し乱暴では?」
笑顔だ。
笑顔なのだが、妙に圧がある。
アルトリアの方も表情こそ大きく動いていないものの、まったく引く気配がない。
じわじわと空気が張っていく。
雄馬は視線をさまよわせた。
ジャンヌは困ったように微笑み、アキレウスは面白そうに見守り、クー・フーリンは完全に見物を決め込んでいる。エミヤだけが「やはりこうなったか」とでも言いたげに、額へ手をやっていた。
「……シロウ、どう思いますか」
先に問いを向けたのはアルトリアだった。
その瞬間、エミヤの顔に露骨な面倒臭さが浮かぶ。
「そこで私に振るのか」
「意見を聞いているだけです」
「責任を押しつけているようにしか聞こえないが」
「気のせいです」
「そうです、気のせいですよ」
なぜか沖田まで乗ってきた。
「エミヤさんも、どちらがより向いているか分かりますよね?」
「分かるからこそ、あまり言いたくないんだがな……」
ぼやきながらも、エミヤは少し考えるように雄馬を見た。
「基礎の作りやすさで言えばアルトリアの言い分にも理がある。だが、体格や適性次第では刀の方がしっくりくることもある。結局、振らせてみなければ分からない」
「では、両方を――」
「同時に教えるのはやめておいた方がいい」
雄馬が言い切る前に、エミヤがぴしゃりと遮った。
「基礎が固まり切る前に複数を混ぜると、かえってぶれる。まずはひとつだ」
「つまり、どちらかを選ぶしかないわけか」
「そういうことだ」
その言葉で、再び視線がぶつかった。
アルトリアと沖田。
静かな圧と、明るい圧。
方向性は違うのに、どちらもまったく譲る気配がない。
「……雄馬さんが決めますか?」
ジャンヌが助け舟を出すように言った。
だが、雄馬は少し困ったように首を傾げる。
「いや、正直、まだそこまで分からない」
剣と刀。どちらにも格好良さはある。どちらにも理屈がある。どちらを選んでも間違いではないのだろう。
だからこそ、自分の今の感覚だけで決め切るには早かった。
「ほら、迷っているではありませんか」
「それはそうですよ。まだ実際に触ってもいない段階ですし」
「だからこそ、より基礎に向いたものを」
「だからこそ、体に合うものを」
また始まりそうだった。
そして、実際に始まりかけた。
その時だった。
「じゃんけんで決めればいいだろ」
あっさりと言ったのはクー・フーリンだった。
しん、と場が静まる。
「……は?」
雄馬が思わず間の抜けた声を出す。
クー・フーリンはどこ吹く風といった顔で肩を竦めた。
「どっちも譲らねえんだろ。なら公平に決めりゃいい。文句はねえはずだ」
「いや、まあ、公平ではあるけど……」
「単純で分かりやすいですね」
なぜかジャンヌが頷いた。
「案外、こういうものの方が引きずらないかもしれません」
「アルトリアさんも、まさかじゃんけんが怖いわけではありませんよね?」
沖田がにっこり言う。
アルトリアは静かに視線を向け返した。
「ええ。もちろん構いません」
その瞬間、アキレウスが吹き出しかけ、エミヤは深くため息をついた。
「本当にやるのか……」
「いいではありませんか、シロウ。分かりやすいでしょう?」
「アルトリアがそう言うなら止めても無駄そうだ」
「乗り気ではありません。合理的だと思っただけです」
どう見ても少し乗り気だった。
少なくとも雄馬にはそう見えた。
「では」
ジャンヌが、なぜか妙に真面目な顔で場を整える。
「一回勝負でよろしいですか?」
「はい!」
「構いません」
沖田とアルトリアが向かい合う。
食堂の真ん中で、英霊二人がじゃんけんの構えを取っている光景は、冷静に考えるとだいぶおかしかった。
だが、誰も止めない。
いや、クー・フーリンは面白がっているし、アキレウスも口元を押さえているが、少なくとも当事者たちは大真面目だった。
「では、いきます」
ジャンヌが小さく息を吸う。
「最初はグー……」
雄馬まで、なぜか無意識に手に力が入る。
「じゃんけん――」
ぽん。
一瞬だった。
沖田の手はチョキ。
アルトリアの手はグー。
勝ったのは、アルトリアだった。
数秒、沈黙。
沖田が固まる。
「……あ」
その一言が、妙に間が抜けていた。
対してアルトリアは、表情こそ大きく崩していなかった。いつも通り静かで、凛としていて、いかにも当然の結果でしたという顔をしている。
……のだが。
「…………」
雄馬は見た。
ほんのわずかに、口元が緩んでいる。
目も、少しだけ得意そうだった。
本人はきっと出していないつもりなのだろう。いや、たぶん本気で平静のつもりなのだろう。けれど、分かる。あまりにも分かりやすい。
「アルトリアさん」
沖田がじとっとした目を向ける。
「なんでしょうか」
「嬉しそうです」
「気のせいです」
「いえ、絶対違います」
「気のせいです」
即答だった。
だが、その即答が余計に怪しい。
ジャンヌは口元を押さえて笑いを堪えているし、アキレウスはとうとう肩を震わせ始めた。クー・フーリンに至っては隠す気すらない。
「ははっ、分かりやすいな」
「勝てば少しくらいそうもなるだろうさ」
「シロウ」
アルトリアが低い声で呼ぶ。
「なんだ」
「何か言いたそうですね」
「別に」
「今、確実に何か思いました」
「気のせいじゃないか」
エミヤがさらりと返すと、アルトリアはほんのわずかに眉を寄せた。
その反応すら少しだけ年相応に見えてしまって、雄馬は危うく吹き出しそうになるのを堪えた。
「……では、決まりですね」
ジャンヌが場を整えるように言う。
「最初に教わるのは剣、ということで」
「そうなりますね」
アルトリアはすっと姿勢を正した。
さっきまで微妙に緩んでいた空気が、そこで少しだけ引き締まる。
「基礎はこれまで通り続けます。その上で、これからは剣を手にした時の構え、重心、間合いを教えていきます」
その声音には、はっきりとした責任感があった。
ただ勝って嬉しいだけではない。教えると決まった以上、きっちりやるつもりなのだと分かる。
雄馬は背筋を伸ばす。
「よろしく頼む」
「はい」
短い返答だった。
けれど、その一言は妙に力強かった。
「うう……」
一方で、沖田は少しばかり悔しそうに肩を落としている。
「刀、教えたかったです……」
「まだ二度と機会がないと決まったわけではありません」
ジャンヌが優しく言うと、沖田ははっと顔を上げた。
「……たしかに」
「剣の基礎が身についてから、刀を学ぶ段階が来るかもしれません」
「そうですね!」
立ち直りが早い。
さっきまでしょんぼりしていたのが嘘みたいに、ぱっと明るくなる。
「ではその時のために、今のうちから心の準備をしておきます!」
「準備するのはそこじゃないだろ」
雄馬が突っ込むと、沖田はえへへ、と笑った。
食堂の空気が少しずつ和らいでいく。
そんな中、エミヤが紅茶を一口飲んでから、ぽつりと漏らした。
「まあ、順当だろうな」
「というと?」
雄馬が聞き返すと、エミヤは肩を竦めた。
「いまの雄馬には、まず土台になる型が必要だ。アルトリアの剣は、その意味では分かりやすい。基礎を刻むには向いている」
「なるほど」
「ただし」
そこで、エミヤの視線が少し鋭くなる。
「教わるなら半端な気持ちで受けるな。セイバーの鍛錬は厳しいぞ」
「……今さらな気もする」
「分かっているならいい」
その言葉に、アルトリアは小さく目を細めた。
「シロウ」
「なんだ」
「変な甘やかしはしないでください」
「しているつもりはないんだが」
「なら結構です」
どこか息の合ったそのやり取りに、雄馬は少しだけ可笑しくなる。
長く付き合ってきた者同士の、言葉を重ねすぎない空気だった。
こうして、次の段階が決まった。
地道に積み上げてきた体作り。
エミヤから教わった魔術の基礎。
その先に、ようやく武器を持つ段階が見えてきた。
しかも、最初に教わるのはアルトリアの剣だ。
そう思うと、胸の奥にじわりと熱が灯る。
同時に、少しだけ怖さもあった。
ここから先は、今まで以上に誤魔化しが利かなくなるだろう。
だが。
それでも、前へ進みたいと思えた。
「では、明日からですね」
アルトリアがそう告げる。
いつも通り落ち着いた声だった。
ただ、その目の奥には確かな意志があった。
「はい。しっかり教えます」
そしてやはり、ほんの少しだけ嬉しそうだった。
本人はきっと隠せているつもりなのだろうけれど。
それがあまりにも分かりやすくて、雄馬は思わず小さく笑ってしまったのだった。
そろそろ趣味で書いてたストックがなくなりそうです...