地下のベルが鳴るたびにーデンレゼifー   作:ルイ(Louie)

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2000年代後半を舞台にした、現代パロのチェンソーマン二次創作です。
『メイド喫茶 すいーとべる』に知らず知らずうちにハマっていく青年・デンジ。
そのメイド喫茶で働くメイドのレゼ、そしてクセ強スタッフが織りなす、カオスで甘いコメディです。


ご主人様、はじめました

 二〇〇X年。繁華街の裏手は、まだ陽が高いのに妙に薄暗かった。昼とも夜ともつかない空気の中、デンジは雑居ビルの前で立ち止まり、看板を見上げていた。

 古びたテナント案内の端に、小さく店名が出ている。

 

 『メイド喫茶 すいーとべる』。

 

 メイド喫茶。デンジには、そこに入ると「おかえりなさいませ」と言われて、メイド服の女の子が話しかけてきて、食べ物には妙なおまじないがかかる――その程度の知識しかない。もちろん来るのは初めてだ。

 

「ここだよ」

 

 そう言ったのは、デンジをここへ連れてきた知り合いの男だった。

 

「この辺じゃ結構古い方。老舗ってやつ」

「へえ……『すいーとべる』……」

 

 デンジは生返事をしながら、地下階段を見下ろした。コンクリートは昼間だというのに少し湿って見え、わくわくする気持ちと、腹の奥が落ち着かない感じが半分ずつあった。

 

「何だよ。緊張してんの?」

「してねーし」

「してるだろ」

「初めてだから勝手がわかんねえだけだ」

 

 知り合いが笑いながら先に下りる。

 デンジも後に続いた。地上の光が背中から遠ざかっていく。古い煙草とコンクリートの匂いが混ざった、少しアングラな空気だった。

 下り切った先に、色の濃い木の扉がある。知り合いが慣れた手つきでそれを開いた。

 ちりん、と小さなベルが鳴る。

 

「おかえりなさいませ! ご主人様!」

 

 甘ったるい女の子声が店の中いっぱいに弾んだ。

 デンジは思わず肩をびくつかせた。

 ――これが例のやつか。

 知識としては知っていた。けれど実際に浴びると破壊力が違う。知らない女の子にいきなり「ご主人様」と呼ばれるのは、思っていたよりずっとむず痒い。

 店内は狭かった。

 カウンター席と小さなテーブルがいくつかあるだけの、地下らしい小箱だ。レースや造花で可愛く飾ってあるのに、照明は少し暗く、どこか古い喫茶店みたいな落ち着きもある。客はデンジたちのほかに、奥のカウンターに男が一人いるだけだった。

 知り合いは迷いなく中央寄りの席に腰を下ろした。

 

「ほら、座れよ」

「お、おう」

 

 デンジも隣に腰を下ろす。

 するとすぐ、一人のメイドが近づいてきた。

 紫色の髪に、緑色の目。

 それを見た瞬間、デンジは一瞬だけ息を止めた。

 すげえ可愛い、と思った。

 メイド服は白と黒のオーソドックスなものだ。フリルのついたエプロン、カチューシャ、小ぶりなリボン。けれど、衣装より先に顔が目に入る。紫の髪も、宝石みたいな緑の目も、この店の薄暗い照明に妙に映えていた。

 胸元のネームプレートには、『レゼ』とある。

 彼女はにっこり笑って、小さく首を傾げた。

 

「おかえりなさいませ、ご主人様」

 

 甘いけれど、わざとらしすぎない声だった。

 真正面から受け止めるのが落ち着かず、デンジは少しだけ視線を下へやった。テーブルの木目が妙に鮮明に見える。

 レゼはそんな反応を見て、心の中で少しだけ笑った。

 ――あ、初めて来た人だ。

 ガチガチで、目の置き場に困っているくせに、逃げずにちゃんと座っている。強がっているけど慣れてないのが丸わかりで、そのわかりやすさが少し可愛い。

 

「私、レゼっていいます」

 

 彼女は軽やかな声で続ける。

 

「ご主人様は何てお名前?」

「で、デンジっす」

「あはは!」

 

 レゼはすぐに笑った。

 

「固いよご主人様~」

 

 からかわれているはずなのに、嫌味はない。笑われたことで逆に場がやわらぎ、デンジの肩から少しだけ力が抜ける。

 

「じゃあ、デンジ君って呼ぶね」

 

 名前をそう呼ばれただけで、胸のあたりが妙にくすぐったくなった。

 知り合いが口を挟む。

 

「こいつ、メイド喫茶初めてなんだよ」

「あ〜、やっぱり?」

 

 レゼは納得したように頷いた。

 

「じゃあ、料金説明するね」

 

 そう言ってメニュー兼料金表を広げる。

 席料、ワンオーダー制、延長料金、チェキ、ゲーム、ご指名。可愛い声で話しているのに、中身は実に現実的だった。

 デンジは説明を聞きながら料金表を見て、内心で顔をしかめた。

 

(……思ったより高ぇな)

 

 知り合いに小声で聞く。

 

「……どーすんの」

「一時間で」

 

 知り合いは即答した。まるで定食屋で大盛りを頼むみたいな気軽さだった。

 説明が終わると、知り合いはレゼに気安く言った。

 

「コベニちゃんいる?」

「はい、いますよ~。お呼びしますね」

 

 店の奥から出てきたのは、小柄で気弱そうな雰囲気の女の子だった。メイド服姿は可愛いのに、全身から「すみません」と言っているような空気がある。

 

「お、おかえりなさいませ……」

「久しぶり〜」

 

 二人のやり取りを見ながら、デンジはまた料金表へ視線を落とした。

 指名ってこういう感じか、と思う。だがやはり高い。知り合いが奢ってくれるような性格じゃないこともわかっている。そう思うと、さっき胸の中に浮かんでいた「せっかくだしレゼともう少し話したい」という気持ちにも、はっきり値段がぶら下がって見えた。

 レゼは近くで見ると余計に可愛かった。笑う時の目元とか、紫の髪が揺れる感じとか、そういう細かいところをもう少し眺めていたいと思った。

 迷っている、その時だった。

 

「レゼちゃん、ご指名でーす」

 

 店内に別のメイドの声が響いた。

 そちらを見ると、奥の客が慣れた顔で手を上げている。

 レゼは「あっ」と軽く目を丸くし、それから肩をすくめるように笑った。

 

「お呼ばれしちゃった~」

 

 そしてデンジの方を見て、小さく手を振る。

 

「デンジ君、楽しんでね」

 

 そう言い残して、彼女は奥の男のところへ行ってしまった。

 デンジは何も言えなかった。

 ただ、胸の中が少しだけすとんと落ちる。迷ってる間に取られた、というみみっちい悔しさだった。別に自分のものでも何でもないのに、そう感じてしまう。

 知り合いが苦笑する。

 

「落ち込むなって」

「……別に落ち込んでねーし」

「顔に出てるぞ」

 

 そう言ってから、知り合いは店の奥へ声を張った。

 

「ねえ、チーフ! こいつの相手してやってよー」

 

 厨房の奥から、一人のメイドが姿を現す。

 前髪を両サイドで結んだ特徴的な髪型。笑ってはいるが、その笑みは甘いというより、どこか人を試すような薄い笑みだった。

 ネームプレートには『フミコ』と書いてあった。しかもそれは、レゼたちのものと違って金色だった。

 

「ん?」

 

 フミコはデンジを見下ろして片眉を上げた。

 

「新人っすか?」

 

 客に向かって新人と言うのか、と思う前に、デンジは値踏みするような彼女の視線の方が気になった。

 知り合いが楽しそうに答える。

 

「そうそう。初回。しかもガチガチ」

「へぇ~」

 

 フミコはデンジの真正面へするりと腰を下ろした。客に寄り添うというより、自分の空気に相手を巻き込む座り方だった。

 

「ご主人様はなんてお名前?」

「……デンジっす」

 

 答えた瞬間、フミコは鼻先で笑った。

 

「ガチガチじゃないっすかー。楽しむ場所なんですから、もっと肩の力抜かないと〜」

 

 からかっているのか本気なのか、判別しづらい。だから余計に調子を狂わされる。

 そして、次の瞬間には、彼女は仕事の声に切り替わっていた。

 

「デンジさん、お飲み物はどうします?」

 

 デンジはメニューを見下ろした。どれも居酒屋くらいの値段で、さっきの席料に比べれば妙に安心できる。

 

「……カシスソーダで」

「カシスソーダですね」

 

 フミコは頷き、さらりと付け足した。

 

「トッピングも付けられますよ」

「トッピング?」

「はい」

 

 メニューの別欄を指で示される。だが、こういう時の正解がわからない。デンジは迷った末、逆に聞き返した。

 

「おすすめは?」

 

 その瞬間、フミコの目が少し細くなった。

 

「……おすすめ?」

「お、おう」

「へぇ~」

 

 フミコはにま、と笑った。

 

「いいの考えちゃったんですけど~。ほんとにおすすめでいいです?」

 

 ここで引けばよかったのだろう。だが一度自分から聞いてしまった以上、「やっぱやめる」と言うのも癪だった。退いたら絶対もっと面白がられる。そう思うと意地が先に立つ。

 

「……うん」

 

 その返事を聞いた瞬間、フミコの笑顔がぱっと明るくなった。

 

「かしこまりました〜。ちょっと待っててくださいねぇ」

 

 彼女は奥へ引っ込んだ。

 それを見送りながら、デンジは嫌な予感を覚える。

 

「お前、なんか変なの頼まされてね?」

「……そういうの先に言えよ」

「でも自分でおすすめ聞いたじゃん」

 

 やがてフミコが戻ってきた。片手にはカシスソーダ。そしてもう片方の手には、細長いチューブ。

 白地に青いライン。どう見ても歯磨き粉だった。

 フミコはそれを掲げ、芝居がかった声で言った。

 

「スペシャルトッピングは~~、ハミガキで~す♡」

 

 一瞬、空気が止まった。

 

「……はい?」

「ハミガキ」

「見りゃわかるわ!」

「おすすめって言ったじゃないですか~」

「言ったけど! 飲みモンに入れるやつのおすすめ聞いたんだよ」

「だからおすすめですよぉ。絶対忘れられない味になりますし」

「そういう意味のおすすめじゃねーだろ!」

 

 声が大きくなる。

 レゼもそのやり取りに気づき、ちらりとデンジらの方を見る。最初はただ、フミコがまた遊んでいるな、くらいの顔だった。

 フミコの悪ノリは有名だ。スペシャルトッピングをすすめ、客は途中でギブアップする。いつものやつ。ただ、それを初めて来店する客にやるのは珍しかった。

 

「ご主人様、どうします?」

 

 フミコはカシスソーダの上でチューブを構えたまま聞いてくる。

 

「スペシャルトッピング、実行しますか?」

 

 挑発だった。断れば笑われる。受け入れても地獄だ。どう転んでもろくなことにはならない。

 それでも、ここで退いたら完全にフミコの思う壺だという意地だけが胸の中で膨らんでいた。

 

「飲む」

 

 デンジは顎を上げた。

 

「飲む、飲むから入れろよ。スペシャルトッピングをよ」

 

 その瞬間、レゼの視線が少しだけ止まった。

 ――え、やるんだ。

 初来店でガチガチの子、というだけだった印象が、そこで少しだけずれる。

 フミコは迷いなくチューブの蓋を回して取り、笑顔のままカシスソーダへぶち込んだ。

 白い歯磨き粉が、ぬるりと赤紫の液体へ落ちていく。

 

(マジで入れやがった……!)

 

 デンジは顔を顰めた。コベニは本気で悲鳴を漏らしている。白い筋はどんどん増え、氷に引っかかり、泡の間を漂った。

 

「お好みの量でストップって言ってくださいね~」

「お好みの歯磨き粉の量って何だよ!」

 

 デンジが叫ぶあいだにも、どんどん入っていく。

 

「ストップ! もういい!」

 

 ようやく止めたが、フミコは残り少なくなったチューブを持ち上げて言う。

 

「ねえ、デンジさん。これ、私の私物なんですよ」

「……それが?」

「こんな中途半端な量、持って帰りたくないんですよねぇ」

 

 言われてみれば残りはわずかだ。

 

「それはあんたの都合だろ……」

「でも中途半端なの嫌じゃないですか」

「俺に飲ませる方が嫌だろ普通!」

「でももうここまで来たら、最後まで行った方がスッキリしません?」

 

 理屈は意味不明だった。

 コベニが止めようとするが、フミコは「でもデンジさん男気ありますもんね?」と話を振ってくる。

 ここで「無理」と言えばよかった。だがさっきからずっと試されている感じがして、それが妙に癪だった。

 

「……残り全部入れろ」

「かしこまりました~!」

 

 フミコは待ってましたとばかりに中身を最後まで搾り出し、マドラーでかき混ぜた。

 

「美味しくなーれ♪ 美味しくなーれ♪」

「おまじない使うタイミングおかしいだろ」

「何言ってんすか、ここで言わなきゃノルマ達成できないじゃないっすか」

「ノルマとか言うな」

 

 赤紫は濁り、ほんのりピンク色の、見た目だけなら妙に可愛らしい飲み物へ変わる。だが匂いは完全に歯磨き粉だった。

 

「マトモな飲みモンの匂いじゃねーな」

「爽やかでいいじゃないですか。モヒートみたいで」

「モヒートに謝れ」

 

 完成したグラスがデンジの前へ置かれる。

 淡いピンク色。表面の白い膜。氷にへばりつく歯磨き粉。地下の古びた可愛い店の中で、その一杯だけが異様だった。

 逃げ場はない。デンジは一度だけ息を吸った。

 

「……いただきます」

 

 そう言ってストローを差し込むが、普通のストローでは全然吸えない。

 

「……ストローじゃ無理だぞこれ」

 

 するとフミコが得意げに、太いストローを取り出した。

 

「タピオカストロ~!」

「ああ、これなら飲めるな。ってやかましいわ!」

 

 思わずノリツッコミが口をつく。

 知り合いが笑い、コベニは呆然とし、フミコだけが満面の笑みだ。

 太いストローに替え、デンジは再挑戦した。

 吸える。

 そう思ってしまった自分が悔しい。

 口の中へ、歯磨き粉とぐちゃぐちゃに混じったカシスソーダが流れ込んでくる。

 

「ぐっ!!!」

 

 最初に来るのはカシスの甘さ。そこへすぐ、ミントの辛さと妙なぬめりと炭酸が一斉に襲ってくる。飲み物なのに口をゆすぎたくなる味だった。

 フミコが腹を抱えて笑い出す。

 

「あはははは! やっぱまずいんだ~!」

「……飲めないことはねぇ」

 

 一瞬、場が静かになった。

 知り合いの笑いが止まり、コベニが目を丸くする。

 レゼもそこで完全に視線をデンジへ向けた。

 ――あの人、引かないんだ。

 意外と飲めると言い返す客はいた。だが、そのあと本当に飲み切った客を、レゼはまだ見たことがなかった。

 見栄だけじゃなく、たぶん本気でここで負けたくないのだろう。

 そういう不器用な意地が、少し目を引いた。

 

「マジですか?」

「マジだって」

「顔は全然ほんとっぽくないっすよ?」

「まずいのはまずいけど、飲めなくはねえって言ってんだよ」

 

 デンジはそう言って、もう一度グラスを見下ろす。

 

「……歯磨き粉が邪魔してるだけで、カシスソーダ自体はちゃんといる」

「評価が細かいっすね」

「……朝と夜を一気に食わされた感じ」

 

 それを聞いて、フミコはまた試すように言う。

 

「じゃあ、そこまで言うならもう一口いけます?」

 

 デンジは頷く。

 

「……いけるかどうかじゃねえ」

 

 そして言う。

 

「もう飲むって言っちまったんだから、飲むんだよ」

 

 その返答で、レゼの中のデンジの印象ははっきり変わった。

 最初はただ、初来店でガチガチの子だった。

 でも今は違う。

 変なところで引かない。変なところで肝が据わっている。誰かにカッコつけたいというより、自分の中の負けたくなさでやっている。

 そういう男の子は、馬鹿っぽいけれど、ちょっと気になる。

 その後デンジは、半分以上意地だけでそのグラスに向き合った。

 甘い。ミント臭い。冷たい。炭酸が痛い。胃の中まで歯を磨かれるような気分だった。それでも止まらない。

 知り合いは途中から「マジかよ」と呆れ、コベニは両手で口元を押さえ、フミコは少し身を乗り出して見ていた。

 レゼも、レゼを指名した客も、デンジを気にしていた。

 最後、ずず、とストローが空気を吸う音がした。

 液体はなくなっていた。

 氷の表面に歯磨き粉が少し残っている。それ以外は、ほぼ飲み切っていた。

 

「……はぁ……」

 

 デンジが背もたれに体を預ける。

 その瞬間、フミコが大きく拍手した。

 

「いや、素晴らしいです。流石は私のご主人様」

「あんたのご主人になった覚えはねえよ……」

 

 知り合いが笑い、コベニがおずおずと言う。

 

「あ、あの……お水、お持ちしますか?」

「……頼む」

 

 フミコは空のグラスを覗き込みながら笑った。

 

「正直、ここまでちゃんと飲むと思ってなかったです」

「……そうかよ」

「頑張っても半分くらいでギブするかと思ってました」

 

 その少し離れた場所で、レゼも同じことを考えていた。

 全部飲んだ。

 この店では、妙に記憶に残る客というのがいる。騒がしいとか、金を使うとか、わかりやすい理由で覚えられる人たちだ。

 でもデンジは、それとは少し違う。

 初々しいのに、変なところで意地と度胸がある。

 

(ちょっと、覚えておこうかな)

 

 レゼはそう思った。

 デンジが水でどうにか人間の世界へ戻ってこられた頃には、時間がまだ少しだけ余っていた。

 フミコが再びデンジの前へ来る。

 

「若干、時間余ったんで。記念にチェキでも撮ります? 有料ですけど」

 

 デンジは半目になった。

 

「記念と言いつつ金は取るのね」

「そりゃそうですよぉ」

 

 ここまで来たなら、記念でも残しておいた方が今日という日が妙に綺麗に締まりそうな気がした。

 

「……いくらだよ」

 

 金額を聞いて少し顔をしかめつつも、結局デンジは頷いた。

 

「なあ」

 

 チェキの説明を終えかけていたフミコが、にやりと目を細める。

 

「はい?」

「これって、誰とでもいいのか」

 

 フミコはわざとらしくぱちぱちと瞬きをした。

 

「えー?」

 

 それから、自分の胸に手を当てておどけてみせる。

 

「私とじゃないんですかぁ?」

「あ、いや、アンタが嫌とかそういうんじゃねえよ」

 

 デンジが少し眉を寄せると、フミコは肩を揺らして笑った。

 

「じゃあ誰と撮るんです?」

 

 その聞き方は軽かったが、ちゃんと答えを待つ顔だった。

 デンジは一度だけ、店の奥へ目をやった。

 レゼはまだ指名客の卓についていた。楽しそうに笑っている。紫の髪が照明にやわらかく映えて、緑の目が細められるたび、やっぱり可愛いなと思ってしまう。

 今あそこへ割って入るのが普通じゃないことくらい、デンジにだってわかる。

 それでも、せっかく撮るなら。

 

「……レゼがいい」

 

 一瞬だけ、空気が止まった。

 知り合いが「おい」と低く笑い混じりに声を出す。

 

「それは御法度だぞ」

 

 たしなめるような言い方だった。常連としてのルールを知っている声だ。

 デンジもさすがに少しだけ気まずくなった。

 

「……だよな」

 

 ぼそっとそう言いかけたところで、フミコがくすっと笑った。

 

「まあまあ」

 

 その笑い方には、意地悪さより面白がりが勝っていた。

 

「初めてのご帰宅ですし」

 

 それからデンジの前に残っていた、あの薄桃色の悪夢のようなグラスをちらりと見る。

 

「それに、ご褒美ですしね」

「ご褒美って何だよ」

「スペドリ完飲の功績ですよ」

「功績にするな」

 

 フミコは気にせず、ひらひらと手を振った。

 

「ちょっと待っててくださいね」

 

 そう言って、ためらいもなくレゼの指名客の方へ向かっていく。

 デンジは思わずその背中を目で追った。

 

「おい、大丈夫なのかよ」

 

 知り合いは苦笑する。

 

「……ま。チーフが行くなら、何とかするんじゃね」

「何とかって何だよ」

「店の中のことは店の中の人が決めるってこと」

 

 フミコは指名客の卓のそばで、営業用の完璧な笑顔を浮かべて何やら話していた。相手の男も最初は少し驚いたようだったが、すぐに笑って頷く。やり取りは思ったよりずっと短かった。

 交渉はすぐにまとまったらしい。

 フミコがこちらをちらっと振り返り、勝ち誇ったみたいに片眉を上げる。

 そのあと、レゼが席を立った。

 デンジの胸が、妙に落ち着かなくなる。

 レゼは近づいてくる途中で、ほんの少しだけ目を丸くし、それから楽しそうに笑った。

 

「ほんとに私でいいの?」

 

 デンジは少しだけ視線を逸らした。

 

「……そりゃそうだろ」

 

 レゼはくすっと笑う。

 やっぱりこの子、私目当てだったんだ。

 それはなんとなく最初からわかっていた。入店してきた時の視線も、料金説明のあいだの反応も、指名を迷っていた空気も、全部わかりやすかった。

 でも最後にちゃんと口にして選ぶのは、また別だった。

 そこに少しだけ、くすぐったさが混じる。

 

「じゃあ撮ろっか」

 

 撮影係はフミコだった。

 

「はいはい、こっち見てくださーい」

 

 フミコはインスタントカメラを構えながら、にやにやしている。

 

「ポーズは定番で行きますよ。片手ずつハート」

「定番って言われても……」

 

 戸惑うデンジの横に、レゼが回り込む。

 その瞬間、デンジはフミコの時より明らかに落ち着かなくなった。近い。香りも、髪が揺れる感じも、さっきまで遠くから見ていた時よりずっと近い。

 

「手、こうして」

 

 レゼが自分の片手で半分のハートを作る。

 

「……こう?」

「もうちょい丸く。固いよ、デンジ君」

「……しょうがねえだろ」

 

 レゼは笑いながら、少しだけデンジの指の角度を見ていた。別に触れてはいない。ただ距離が近いだけなのに、それだけで妙に意識する。

 

「はい、そのままー」

 

 ぱしゃり、と乾いた音が鳴った。

 現像を待つあいだ、レゼはチェキをひらひら振った。デンジはそれを見ながら思う。ここで持って帰りたかった記念は、たぶんこれだったのだと。

 

「はい、出たよ」

 

 レゼが差し出したチェキには、完璧な笑顔の彼女と、どうにか平静を装って少し失敗している自分が写っていた。

 デンジはそれをまじまじと見た。

 

「……やっぱすげぇ可愛いな」

「ふふ。ありがと」

「お、レゼさんには素直」

 

 フミコが横から茶々を入れる。

 

「茶化すなよ」

 

 そう言い返しながらも、デンジの目はチェキから離れなかった。

 その様子を見て、レゼは少しだけ思う。

 この子、たぶんまた来る。

 確信まではない。でもそんな気がした。

 変な目に遭って、しかも最後にわざわざ自分を選んでチェキを撮るような子が、これで完全に終わるようにも思えなかった。

 もしまた来たら、次はもう少しちゃんと顔を見て話してみようかな。

 そんな小さな興味が、レゼの中に確かに残った。

 

+++

 

 時間になり、デンジたちは席を立つことになった。

 フミコが営業用の笑顔で言う。

 

「ありがとうございました~。いつでも帰ってきてくださいね」

 

 メイド喫茶の定型文なのだろう。だが、少しだけ本気も混じっているように聞こえた。

 デンジは曖昧に返す。

 

「……気が向いたら」

「ふふ、それ待ってます」

 

 木の扉が開く。ちりん、とまたベルが鳴った。

 デンジが階段を上がろうとしたところで、後ろからまた柔らかい声がした。

 

「デンジ君」

 

 振り返ると、レゼが店の外まで出てきていた。

 地下の踊り場の、木の扉の前。オレンジ色の灯りを背にして、片手を小さく振っている。

 

「今日は来てくれてありがと」

 

 その笑い方は、店の中で見ていた時と同じようで、でも少しだけ見送りの色が混ざって見えた。

 デンジは一瞬だけ言葉に詰まり、それからぶっきらぼうに返す。

 

「……おう」

「またね!」

 

 その一言に、妙に胸のあたりがくすぐったくなる。

 デンジは少しだけ手を上げて、それ以上は何も言わずに階段を上った。

 

+++

 

 地上へ戻る階段は、来た時より少しだけ明るく感じた。実際には同じ薄暗さなのだろうが、デンジの方が一仕事終えた気分だった。

 知り合いが隣でにやつきながらデンジに聞いた。

 

「で、どうだった?」

「何が」

「感想だよ。初メイド喫茶」

 

 デンジはすぐには答えなかった。

 ポケットから財布を取り出し、その中にしまったチェキを一度だけ見返す。

 写っているのは、完璧な笑顔のレゼと、どうにか平静を装って少し失敗している自分だ。

 その顔を見ていると、歯磨き粉の味も、フミコのにやついた顔も、コベニのおろおろした様子も、店の外まで見送りに来たレゼの姿も、まとめて思い出す。

 デンジはチェキを財布へ戻してから、前を向いたまま言った。

 

「……ひでー目にあったけど」

 

 一拍置く。

 

「悪くはなかった」

 

 知り合いが少しだけ目を丸くして、それから吹き出した。

 

「何だそれ」

「そのまんまだろ」

「気に入ってんじゃねえか」

「そこまでは言ってねえよ」

 

 そう言い返しながらも、声にはさっきほどの棘がなかった。

 ひどい目には遭った。だが、それも含めて、あの地下の店は妙に完成されていた。可愛いだけでは終わらない。サービスだけでもない。常連とメイドと店の空気が長い時間で混ざり合って出来た、少しアングラで、少し意地悪で、でも確かに楽しい場所。

 ただ、自分に合うかと言われれば、まだよくわからない。

 これで十分かもしれないし、もう来なくてもいいのかもしれない。

 それでも家に帰って財布を開いた時、真っ先に目に入ったのは、あの地下の店で撮ったレゼの笑顔だった。

 それから、店の外まで見送りに出てきた姿も、ふと一緒に思い出した。

 

(多分、ああいうので、また来たいって思わせるんだな)

 

 少し冷静にそんなことを考える自分がいた。

 でも、その仕組みに気づいたからといって、気持ちまで冷めるわけじゃないらしい。

 地下へ続く薄暗い階段と、木の扉のベルの音と、紫の髪に緑の目をしたメイドのことを、デンジはその夜、もう一度だけ思い出してしまうのだった。

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