地下のベルが鳴るたびにーデンレゼifー 作:ルイ(Louie)
デンジが最初に『メイド喫茶 すいーとべる』へ足を踏み入れてから、もうすぐ一年になろうとしていた。
それに気づいたのは、何か特別な日だったからというより、地下へ続く階段を下りている途中で、ふと「あれ」と思ったからだった。
この階段にも、もう慣れきっている。目をつぶって降りられるくらいには。
まさか一年も通うとはな、とデンジは思う。
一回目の帰り道なんか、二度と来るか、くらいの顔をしていた気もする。フミコに歯磨き粉入りのカシスソーダを飲まされて、それで終わるはずだった。
それが今では、仕事終わりに、ふらりと寄るくらいには、自分の生活の中に入り込んでいる。
我ながら、何をやっているんだろうと思うことすらなくなっていた。
扉を開ける。ちりん、とベルが鳴る。
その瞬間、いつもより少し大きなざわめきが店の中から流れてきた。
「お、おかえりなさいませ、ご主人様」
出迎えたのはコベニだった。
だが、声が少しだけ張っている。いつものおどおどした感じに加えて、今日はそこへ別の緊張が混じっていた。
「今日、すげえな」
「あ、あの、今日は卒業イベントで……」
「うん、わかってるよ」
今日は、あるメイドの卒業イベントだった。
デンジはそのメイドとそこまで深く絡んだことはなかった。だが、彼女もまたこの店の華の一人だったことは知っている。
客はいつもよりずっと多い。しかも単に混んでいるだけじゃなく、みんな少しずつ浮ついていて、その奥にしんみりしたものも混ざっている。
飾りつけも普段より華やかで、笑い声や、何かを手渡す声が絶えない。
その中で、一人だけやたらと目立つ背中があった。
「……あれ?」
デンジは思わず目を細めた。
それは、最初に自分をこの店へ連れてきた知り合いだった。
あの男は、店の真ん中寄りの席で、ハンカチを握りしめていた。握りしめているだけじゃない。普通に泣いていた。肩も大きく震わせている。
「おお……」
デンジが素でそう漏らすと、コベニは困ったように小さく頷いた。
「す、すごく推してたみたいで……」
「みたいっていうか、あれ完全にそうだろ……」
知り合いは目を真っ赤にしながらチェキを受け取り、何か話して、また泣いていた。見ているこっちが少し引くくらい、全力で感情を出している。
でも、周りの常連らしい客たちも、笑いながら肩を叩いたり、「泣きすぎだろ」と言ったりしつつ、どこかみんな同じような顔をしていた。
ふざけているようで、ちゃんと寂しがっている。
そういう日だった。
席へ案内されながら、デンジは何とも言えない気分になる。
(卒業、か)
当然あるものなのだろう。働いている以上、辞める日が来るのも当たり前だ。頭ではわかっている。わかっているのに、今までそこをあまり意識したことがなかった。
この店の中では、レゼも、フミコも、コベニも、アサも、変わらずそこにいるものみたいに感じ始めていた。
でも、本当はそんなわけがない。
今日みたいに、卒業するメイドがいて、その最後の日に泣く客がいる。
それだけここに通って、ここで時間を重ねて、その誰かをちゃんと好きになっていた人がいる。
そしてたぶん、いつか自分も、そういう日を迎えるのかもしれない。
フミコが卒業する日。コベニが、アサが、あるいはレゼが、最後の日ですと笑う日。
そこまで考えたところで、デンジは小さく息を吐いた。
「何か、しみじみした顔してる~」
聞き慣れた声がして、デンジは顔を上げた。
フミコだった。
今日の彼女は髪に少しきらきらした飾りをつけていて、イベント日らしくいつもより少しだけ華やかだ。とはいえ、口元の薄い意地悪さはまるで変わっていない。
「いや、メイドもずっとメイドってわけにゃいかないよなって」
「そりゃそうですよ〜。人間働いてれば辞めるんで」
「夢の国みてえな格好して、言うことは現実だな……」
「夢の国ほど入れ替わり激しいですよ、たぶん」
フミコはそう言ってから、デンジの視線の先を見た。
「あー」
知り合いの方だ。
「泣いてますね〜」
「泣いてるな」
「すごい泣いてますね」
「すごい泣いてる」
二人で同じ感想を繰り返してしまうくらい、あれはすごかった。
フミコは肩をすくめる。
「まあ、あの人、ずっと彼女推してましたからね」
「そうなんだ」
最初は付き合いや興味本位でも、いつの間にか店や人に情が移る。ここはそういう場所なんだろう。
イベントは賑やかに進んでいった。
卒業するメイドは笑いながらも時々泣きそうになり、客たちはチェキを撮り、プレゼントを渡し、店内はずっと少しだけ祭りのようだった。
デンジは端の席に座って、静かにその様子を見ていた。
自分がそのメイドと特別親しかったわけじゃない。だから前にしゃしゃり出る気にもならない。だから、店の中で起こっていることを、少し引いたところから眺めていた。
フミコもコベニもアサも、今日はそれぞれ忙しそうに動いている。
そしてレゼも、客と話し、イベントを回し、場の空気を整えていた。
こういう時、やっぱりレゼは強いな、とデンジは思った。
目立ちすぎず、でもちゃんと場の近くにいる。派手に騒ぐわけじゃないのに、彼女がいると店の流れがきれいに整う感じがある。
+++
イベントがひと段落したのは、閉店の一時間前くらいだった。
客も少しずつ帰り始め、泣いていた知り合いも、最後には目を真っ赤にしながら「今日来てよかった……」とか何とか呟いて店を出ていった。デンジはその背中を見送りながら、あいつ明日から仕事できるのかな、とどうでもいいことを思う。
店の熱気が落ち着いていく頃、レゼがようやくデンジの卓に来た。
「デンジ君、待たせちゃったね」
「お疲れさん」
デンジはレゼをそう言って労った。
「今日はあっちが主役だろ」
「そうだけど」
レゼは少し笑って、向かいへ腰を落ち着けた。忙しい一日を終えたあとの顔なのに、疲れ切っているように見えない。少しだけ、イベント終わりの高揚が残っているようにも見える。
「びっくりした?」
「卒業イベント?」
「うん」
「まあ、ちょっと」
デンジは正直に頷いた。
「卒業イベントの日に来たの、初めてだったからさ。こういうのもあるんだなって」
「あるよ。普通に」
「そりゃそうか」
「私たちも人間だからね」
その言い方が妙におかしくて、デンジは少し笑った。
「レゼって、たまにそういう現実的なこと言うよな」
「だって本当だもん」
レゼは肩をすくめる。
「メイドって制服着てるだけで、別に妖精でもなんでもないし」
「夢がねえな」
「でも夢見せるのは仕事だよ?」
その返しがすごくこの店らしくて、デンジは少し黙った。
現実を知っていても、夢を見せる。夢だと知っていても、少しだけその中に入り込む。その曖昧さで、この店はできている。
レゼは少しだけ身を乗り出すようにして言った。
「私ね、大学もあるし、少しモデルの仕事もしてるし、メイド喫茶だけが全部じゃないんだけど」
「うん」
「でもここ、面白いんだよね」
「面白い?」
「うん。いろんな人が来るし」
「前も言ってたな」
レゼは笑う。
「ほんとにいろんな人いるよ。今日みたいに泣く人もいるし、妙に達観した顔で見てる人もいるし」
「……俺んこと? それ」
「ちょっとね」
否定できない。
レゼはそのまま続ける。
「いろんな人と関われるの、楽しいよ」
「モデルの方は違うの?」
「違う面白さかな。あっちはあっちで楽しい。でも、メイド喫茶は色んな距離が近いから」
距離が近い。
たしかにそうだ。近いからややこしい。近いから勘違いしそうになるし、近いから情も移る。客が泣くのも、そういう近さのせいなのかもしれない。
レゼはふと、柔らかい目でデンジを見た。
「デンジ君みたいな、妙に懐が広い人も面白いし」
「何だよそれ」
「だってほんとにそうでしょ」
「どこが」
「最初はあんなにぎこちなかったのに、今じゃフミコにもアサちゃんにも普通に付き合ってるし、コベニちゃんともちゃんと喋るし」
レゼは指を折るように数える。
「だから、うちのメイド皆君に懐くんだよ」
その言い方に、デンジは一瞬だけ言葉を失った。
「……懐くって……俺に?」
「そうだよ」
レゼは楽しそうに頷く。
「みんな、デンジ君のこと好きだと思うよ」
その「好き」がどういう意味か細かく聞くのは、たぶん野暮なんだろうと思う。客として好きなのか、話しやすいから好きなのか、面白いから好きなのか、たぶん全部少しずつ違う。
でも、その一言だけで妙に胸のあたりがくすぐったくなるのはどうしようもなかった。
「……レゼ、そういうことさらっと言うよな」
「嫌だった?」
「嫌っていうか、何か……」
「何か?」
「やっぱ、ずりい」
デンジがぼそっとそう言うと、レゼは少し目を丸くして、それからおかしそうに笑った。
「ずるいんだ」
「……だってそうだろ」
「ふふ」
店内はもう、イベント終わりの静けさになりつつあった。さっきまでの熱気が嘘みたいに落ち着いて、食器の触れ合う音や、遠くでフミコが誰かと話している声が低く流れている。
デンジはその静けさの中で、さっき見た知り合いの泣き顔を思い出した。
いつか、自分もこういう日を迎えるのだろうか。
そう考えてから、デンジは少しだけ首を振った。
まだそんな先のことを考えるのは早い、と思いたかった。
レゼが小さく言う。
「何か、またしんみりしてる」
「今日そういう日だからな」
「そっか」
レゼは少しだけ笑って、それからやわらかく言った。
「でもまあ、私はまだ卒業しないから安心して」
「……誰がレゼの話をした?」
「してないの?」
「……」
その沈黙でレゼには十分だったらしい。
彼女はそれ以上追い詰めるようなことはせず、ただ少しだけ楽しそうにしていた。
デンジは視線を落とし、テーブルの木目を見た。
卒業イベントを見て、ここに一年近く通っている自分に苦笑いして、レゼに「みんなデンジ君に懐く」と言われて、何だか今日はずっと感情の置き場が定まらない。
+++
結局その夜は、それ以上何かが起きるでもなく終わった。
店を出て、いつもの地下階段を上がり、夜風の中を歩く。
ベルの音も、知り合いの泣き顔も、店のざわめきも、全部まだ少しずつ残っていた。
でも、いちばん強く残っているのはやっぱりレゼの声だった。
私はまだ卒業しないから安心して。
あの言い方が、冗談みたいに軽いくせに妙に胸に引っかかっている。
安心していいのか、からかわれているのか、その両方なのかはわからない。
ただ、その一言だけで、今日見た卒業イベントの風景が急に自分のことみたいになった。
いつか終わるかもしれない時間の中に、今いる。
そのことを、デンジはたぶん初めてちゃんと意識した。
+++
翌日。
デンジの職場の空気は、昨日の店の余韻なんて当然知らない顔で、いつも通りだった。
コピー機の音、キーボードを叩く音、誰かが淹れた安いコーヒーの匂い。デンジは朝から何となく頭が重いまま席について、普段通り仕事を始めていた。
昼前、上司に呼ばれた。
そこで聞かされたのが、人事の話だった。
最初は異動だの配置換えだの、そういういつもの会社の言葉が並ぶだけだった。だからデンジも、そこまで大きな話だとは思わなかった。
けれど最後に出た地名が、想像していたよりずっと遠かった。
大阪。
一瞬、頭の中でその二文字だけが浮いた。
「……え?」
思わずそう漏らすと、上司は「まあそうなるよな」みたいな顔で、時期や引き継ぎの話を続けた。正式な辞令、時期、住まいのこと、向こうの部署。話は具体的だった。
つまり、冗談ではない。本当に決まったのだ。
席へ戻ったあとも、しばらく実感が薄かった。
大阪。
東京から戻れない場所でもない。新幹線だってある。そういう理屈はわかる。わかるが、今までみたいにはいかない、ということだけはすぐにわかった。
同僚が、デンジの顔を見て笑う。
「何だよ、そんな顔すんなって。大阪も楽しいぞ」
「……楽しいって何が」
「飯は美味いし、人も濃いし。お前、向こう行ったらボケとかツッコミの勉強もしとけよ」
「何でだよ……」
「大阪で無言だと損しそうじゃん」
「偏見きついな」
別の同僚まで混ざってくる。
「でもまあ、向こう行ったらちょっとは鍛えられるかもな。今のままだとツッコミ弱いし」
「別にツッコミ職じゃねえよ俺は」
「その返しはちょっと弱いって」
笑いが起こる。
デンジも一応、口元だけは少しだけ緩めた。
けれど、本気では笑えなかった。
大阪。
その言葉を頭の中で転がすたびに、昨日の地下の店が妙にはっきり浮かんだ。
卒業イベントのざわめき。
泣いていた知り合いの顔。
木の扉の、ちりん、というベルの音。
そして何より、レゼの顔が浮かぶ。
忙しい一日の終わりに、向かいへ座って、私たちも人間だからね、と笑ったこと。
いろんな人と関われるのが楽しいんだと言ったこと。
うちのメイド、皆君に懐くんだよ、とさらっと言ったこと。
そして最後に、何でもないみたいな顔で、私はまだ卒業しないから安心して、と、言ったこと。
昨日は、その言葉にただ少し照れて、少し安心して、それで終わるはずだった。
でも今は違う。
卒業しないかどうかの前に、自分の方が店から離れるかもしれない。
そんなこと、昨日の時点では考えてもいなかった。
「……マジかよ」
異動の事実だけが、現実としてじわじわ重くなっていく。
レゼに会えなくなる、とはまだ決まっていない。
でも、今までみたいにはいかなくなる。
それだけで、胸の奥が落ち着かなかった。
デンジは机の上の書類を見たまま、しばらく動かなかった。
大阪。
その二文字の向こうに、地下へ続くあの階段が見える気がした。
そして、その先の扉の向こうに、レゼがいる。
「まだ卒業しないから安心して」
あの声が、昨日よりずっと近く、そして、ずっと遠く聞こえた。