地下のベルが鳴るたびにーデンレゼifー 作:ルイ(Louie)
そして、彼が転勤前に店に訪れることのできる最後の日がやってくる。
デンジは地下の扉のベルを鳴らす。
その日、レゼが休みだと知りながら。
次回、最終回!
大阪に異動が決まってからも、デンジは何度か『メイド喫茶 すいーとべる』に顔を出していた。
そのたびに言おうとは思っていた。大阪に行くこと。しばらく来られなくなること。
けれど、いざ店に入って、いつも通りの「お帰りなさいませ、ご主人様」を聞くと、どうにも言い出せなかった。
楽しい時間の途中で、水を差すみたいで嫌だった。
それに、口にしたら本当に離れるのだと認めることになる気がした。
だから結局、何も言えないまま今日まで来てしまった。
そして気づけば、転勤前にこの店へ来られそうな日は、もうほとんど残っていなかった。
デンジは携帯電話を開き、ブックマークしていた『メイド喫茶 すいーとべる』のブログを表示した。
少し前に開設されたそのブログには、メイドたちの日記や出勤表が載っている。デンジも最近は、前よりこまめにそれを確認するようになっていた。
更新されたばかりの出勤表を見て、デンジは目を見開いた。
自分が転勤前に最後に行けそうな日に、レゼはほとんど出勤していなかった。
デンジは思わず頭を抱えた。
こんなことなら、もっと早く転勤の話をしておけばよかったと思った。
けれど、今さら遅い。
デンジがどうにか店に行ける日は一日だけだった。
その日は、出勤表の上ではレゼは休みだった。
それでも彼は、その日に店へ行くと決めた。
レゼに会えないのはわかっていた。
それでも、最後に一度くらいはあの店の空気の中にいたかった。
何も言えないまま、何も区切りをつけないまま終わるのは、何となく嫌だった。
+++
そうして迎えた当日、デンジは地下へ続く階段を下りていた。
見慣れたはずの壁も、少し湿った空気も、今日は妙に遠く感じる。
胃のあたりが、ずっときりきりしていた。
扉を開ける。ちりん、とベルが鳴った。
「おかえりなさいませ、ご主人様」
迎えたのはコベニだった。
デンジは反射みたいに店内へ目をやった。いつものようにレゼの姿を探す。だが、見当たらない。
「……レゼは?」
コベニが、あっ、という顔をした。
「えっと……今日はお休みで……」
わかっていたはずなのに、その一言は思ったより深く刺さった。
もしかしたら急に出勤していたりしないかと、どこかで少しだけ期待していたのかもしれない。
「……だよな」
短く返してから、デンジは小さく息を吐いた。
今日、レゼはいない。しかも、今日が転勤前に来れる最後だ。
けれど、ここで凹んだまま帰るのも違う気がした。
せっかく来たのに、レゼがいないから帰るというのも、それはそれで露骨すぎて格好悪い。
それに、本当に最後なのだ。
少しだけでも、この店の空気の中にいたかった。
「……せっかく来たし、ちょっとだけいるよ」
そう言うと、コベニはほっとしたように小さく頷いた。
「はい……!」
席に着いても、胃のあたりのきりきりは消えなかった。
水の入ったグラスを前にぼんやりしていると、少ししてフミコがやってきた。
「うわ、何ですかその顔」
「どの顔だよ」
「財布落としたのに、まだ交番行ってない人みたいな顔です」
「嫌すぎる例えだな……」
デンジが低く返すと、フミコはじっと顔を見た。それから店内を軽く見回し、すぐに事情を察したらしい顔になる。
「話、聞いてやることもできますけど?」
「何でそんな上からなんだよ……」
「こういう時に話せる相手、他にいないでしょ?」
少しだけ図星だった。
コベニに言うには重い。アサに言うには違う。レゼ本人は休み。
残るのはフミコくらいだ。
この店の中で、変に遠慮せずに話せる相手。面倒くさいし、言い方は相変わらずだが、こういう時に意外とちゃんと話せるのはフミコだった。
デンジはしばらく黙ってから、ぽつりと言った。
「大阪に転勤決まった」
フミコはそこで一瞬だけ動きを止めた。
「あら」
だがすぐに、必要以上に大げさな反応はせず頷く。
「いつ?」
「もうすぐ。それで……」
そこでデンジは少し言葉を切った。
「今日が転勤前の最後になる。この店来られるの」
フミコはその意味をすぐ理解したらしい。
「なるほどね」
それで、今の顔かと納得した様子だった。
「でも、何で今日まで黙ってたんですか?」
フミコの質問にデンジは返事に詰まった。
まさにそのことを、自分でも何度も考えていたからだ。
「……言うタイミング分かんなくて」
「それだけですか?」
「……」
「デンジさん、そういう時に適当な言い訳するの、よくないですよ」
「うっせえな」
フミコは急かさず待った。茶化すでもなく、ただ続きを促すように見てくる。
デンジは視線をグラスに落としたまま、少しずつ言葉を出した。
「この店と離れるの、思ったより寂しくて」
「……」
「だから、言ったらマジになりそうで嫌だった」
「うん」
「ここ来て、いつも通り喋って、いつも通り帰ってる間は、まだ何も変わってねえ感じがしたんだよ」
「それで、先延ばしにしちゃったんですね」
「……ああ」
言ってしまうと、自分でも情けなかった。
フミコは少しだけ目を細めた。
「デンジさんって、ほんと変なとこ不器用ですよね」
「ほっとけ……。俺さ、卒業イベント見た次の日に辞令が来たんだよ」
「ああ〜」
「あれのあとだったから、余計効いてるんだと思う」
少しずつ、言葉が出てくる。
「店の誰かがいなくなること、初めてちゃんと考えた後で、俺の方が先に来られなくなるみてぇになっちまって」
「うん」
「余計に変な感じになった」
フミコは頬杖をついて聞いていた。
「思ったよりちゃんと効いてますね」
「何だよその言い方」
「いや、もっと軽い感じかと思ってたんで」
「軽くねえよ……」
「立派な常連じゃないですか」
「褒めてんのかそれ」
「半分は」
「半分かよ」
デンジは小さく息を吐いた。このやり取りで、少しだけ喉の詰まりが取れた気がした。
そこでフミコは口を開いた。
「それで、今日は最後だから来たんですね」
「……ああ」
「レゼさん休みなの、知ってたのに」
「知ってたよ」
「なのに来た」
「二回言うな」
「だって、なかなかですよ?」
「うるせえ」
フミコは肩をすくめる。
「でも、ちょっとわかります」
「何が」
「休みだってわかってても、最後なら来たくなる感じ」
デンジは少しだけ顔を上げた。
思ったよりまともな返しだった。
「……まあな」
「それに、もしかしたらって思ってたんじゃないですか?」
「は?」
「急に出勤してるかも、とか。少しだけでも会えるかも、とか」
「……」
図星だった。
デンジは何も言わなかったが、それで十分だったらしい。フミコは小さく笑う。
「ワンチャン狙い。わかりやす」
「……言うな」
「言いますよ。だって本当にわかりやすいんで」
デンジは額を押さえた。
「自分でも、ちょっと期待してたんだと思う」
「でしょうね」
「出勤表見た時点で休みなのは知ってたのに、店来て姿探してたし」
「それはもう完全に期待してますね」
「うるせえって」
フミコは少し考えるような顔をしてから、ポケットから携帯電話を取り出した。飾り気のないピンクゴールドの折りたたみ式だ。
「……何してんの」
フミコはあっさり言う。
「今日は流石にかわいそうなんで」
「は?」
「レゼさんに電話します」
「いや待て待て」
デンジが止めるより早く、フミコは発信していた。
呼び出し音が鳴る。彼は本気で少し焦る。
「何勝手なこと……」
「こういう時に使わなくてどうするんですか」
「どうするって何をだよ」
「人脈を」
「……変な言い方すんなよ」
数回の呼び出しのあと、レゼが出たらしい。
フミコの声が一段だけやわらかくなる。
「フミコでーす。休み中にごめんねー」
レゼと電話が繋がった。
その当たり前の事実だけで、デンジの背筋が妙に伸びた。
フミコは少しだけ事情をぼかしつつ言う。
「うん、そう。今ね、デンジさん来てるんだけど……うん、めっちゃ元気なくてさ~」
その言い方は余計だろ、とデンジは思ったが、口を挟めない。
フミコは数秒うなずくみたいに黙って、それから携帯を差し出した。
「はい」
「……何だよ」
「代わってくれるって」
「いや、急すぎるだろ……」
「今さら何照れてるんですか」
フミコは無理やりみたいに携帯をデンジの手へ押しつけた。
彼は一度だけ息を飲んでから、耳に当てる。
「……もしもし」
『デンジ君?』
レゼの声だった。外出中なのか、電話越しの彼女の声に雑踏と、車のエンジン音が微かに混ざる。
「……悪い。休みなのに」
『ううん。フミコから聞いた。何かあった?』
デンジは少しだけ目を閉じた。
ここで変にごまかすのも違う気がした。今日来たのは、そのためでもあったのだ。
「大阪に転勤する」
電話の向こうで、一瞬だけ息を呑む気配があった。
『……そっか』
「うん」
『いつ?』
「もうすぐ。だから……今日が、転勤前ここに来られる最後の日だった」
そう口にすると、やっぱり少し重かった。
レゼは少しだけ間を置いて、レゼはいつもよりわずかに強い声で言った。
『もっと早く言ってよ』
その言い方は、はっきり怒っている感じがあった。
責め立てるほど強くはない。でも、ちゃんと不満だったのだと分かるくらいには、真っすぐな声だった。
デンジは一瞬、何も返せなかった。
「……悪りぃ」
『ほんとだよ』
短い返事だった。
けれど、それ以上強く責めてはこなかった。
デンジが黙ってしまったのを察したのか、レゼはすぐに声の温度を少しだけ落とした。
『……大阪行って、いろいろ落ち着いたらまた来てね』
その言い方が、とても自然だった。
悲しそうすぎず、軽すぎもせず、ちゃんと次がある前提で言う。
『私もまだ辞めないから』
デンジは、思わず少し笑った。
「この前もそれ言ってたな」
『だって大事だから、何回でも言うよ』
「……そうかもな」
『うん』
電話の向こうのレゼは、店で喋る時と同じようで、少しだけ違った。接客の顔じゃないぶん、言葉がそのまま落ちてくる感じがある。
『落ち込んだまま大阪行かないでよ』
「……」
『ちゃんとご飯食べて、ちゃんと寝て、ちゃんと向こうでやって』
「急に母ちゃんみてえなこと言うなよ」
『デンジ君、放っとくと生活雑そうだし』
「否定しづれえな……」
『でしょ』
「……ありがとな」
『うん。フミコにもちゃんとお礼言っといてね』
「……そうだな」
『こういう時にあの人動くの、珍しいから』
「たしかにな……」
少しだけ沈黙が落ちた。
切ろうと思えば切れる間だったのに、どちらもすぐには終わらせなかった。
レゼが先に小さく言う。
『じゃあ、またね』
「おう」
『ちゃんと帰ってきてね』
「そればっかだな」
『大事だから』
通話が切れる。
デンジはしばらくそのまま携帯を見ていた。
フミコが指を鳴らすみたいにして言う。
「はい、おかえりなさいませ」
「……何だよ、その言い方」
「戻ってきた顔してるんで」
デンジは携帯を返した。
「助かったよ」
「でしょう」
「でも、いきなり電話はどうなんだよ……」
「結果オーライでしょ」
フミコは平然としている。
そして次の瞬間、今度はデンジへ手を差し出した。
「デンジさん、携帯出して」
「は?」
「いいから」
デンジは怪訝な顔をしたまま、ポケットから自分の携帯を取り出した。
彼女も自分の携帯を開き、慣れた手つきで何かを操作している。
「何してんの」
「私の連絡先、入れときます」
「……何で」
「コレ、業務用なので大丈夫です」
「業務用って何だよ」
「そもそも私、社員なんで」
そうだった。
フミコはただのメイドではない。現場でふざけた顔ばかりしているせいで忘れそうになるが、あれでこの店の社員だ。店を回す側でもある。
「はい、赤外線つけて」
デンジはメニューを辿って赤外線通信を開き、言われるまま携帯の先を向けた。
ぴ、と音が鳴る。
「はい、送信完了」
「……ほんとに入った」
画面を見ると、フミコの名前と電話番号、それからメールアドレスが登録されていた。
「東京戻ってきた時とか、何か聞きたい時とか、使ってください」
「何かって」
「レゼさんの様子とか」
フミコはあっさり言った。
「コベニやアサちゃんのことも、必要なら教えますよ。ブログに載せられないことも」
「職権濫用だな」
「柔軟なんです」
「アンタが言うと信用ならねえな……」
「でも、助かるでしょ?」
それは、たしかにそうだった。
デンジがこの店と離れる感じが、少しだけ薄まる。戻ってきた時に、何の手がかりもないよりずっといい。
「フミコ、何で俺にそんなに良くしてくれるんだよ」
「デンジさんは、伝説のご主人様なんで」
「理屈になってねぇ」
フミコは少し目を細めた。そこにいつもの冗談めいた雰囲気は無く。ただただ優しい眼差しがそこにあった。
「デンジさんは、この店の大切なご主人様です。だから、ちゃんとお見送りしたいんです。コベニや、日が浅いけどアサちゃんも同じ気持ちです」
「……店の客みんなに、そこまでしてんのかよ」
「全員にはしてません」
即答だった。
あまりにもあっさり言うから、デンジのほうが言葉に詰まった。
「……そういうの軽々しく言うなよ」
「軽々しく言ってません」
フミコは小さく笑ったあと、少しだけ視線を落とした。
「デンジさん、最初に来た時から、変なご主人様だったんです」
「……悪口か?」
「半分は褒めてます」
「じゃあ半分悪口じゃねえか」
「普通の人って、もっと器用なんですよ。メイド喫茶って場所に来たら、楽しそうな顔をするとか、気取ったり、慣れてるふりをするとか、そういうのができるんです。でもデンジさん、全っ然できてなかったから」
「ほっとけ」
「ほっとけませんよ。見てたらわかるんです。二回目に一人で来た時から、この人、こういう場所に慣れてないのに、それでもちゃんと来ようとしてるんだなってわかりました」
デンジは少しだけ眉を寄せた。
「来ようとしてる、って」
「会いたい人がいるから来るんでしょ」
まっすぐ言われて、デンジは目を逸らした。
「……まあ、そうだけどよ」
「そういうの、私は嫌いじゃないです」
フミコの声は軽いのに、その言葉だけは妙に柔らかかった。
「ちゃんと誰かを大事にして、ちゃんと会いに来て、ちゃんと不器用に困ってる人って、何だか放っとけないんですよ」
「……それ、憐れんでるだけじゃねえの」
「違います」
今度は少し強く、フミコは言った。
「羨ましいんです」
「は?」
「そこまでまっすぐになれるの、ちょっと羨ましいなって」
デンジは一瞬、返す言葉を失った。
フミコはいつも通りの笑顔を浮かべているのに、その奥に少しだけ、自分でも触れたくないものが滲んだ気がした。
「私は、そういうのあんまり上手くないんで。好きとか、大事とか、そういうのを正面から扱うの」
「……アンタでもかよ」
「私でもです」
「メイドなのに?」
「メイドの時は言えます。仕事なんで」
それから、フミコは肩をすくめた。
「だからせめて、できる範囲では手伝いたいんです。デンジさんがまたここに戻って来たい時、何もわからなくて困らないように」
「……そんなの、店のためじゃねえの」
「もちろん店のためでもありますよ。でも、それだけなら業務用とはいえ連絡先を交換しませんよ」
デンジはまた黙る。
言われてみれば、その通りだった。
店員として親切にするだけなら、もっと店の中だけで済ませればいい。わざわざ連絡先を渡して、ブログに出ないことまで教えるなんて、少なくとも接客マニュアル通りではないはずだ。
「……フミコって、たまに本気か冗談かわかんねえな」
「半々です」
「いちばん信用できねえ返事」
「でも今のは、けっこう本気」
フミコはそう言って、少しだけ首を傾げた。
「デンジさんには、ちゃんと報われてほしいんです」
「メイド喫茶で報われるって、何だよ」
「会いたい人に会えて、話したいことを話せて、来てよかったって思えることです」
デンジは喉の奥で、小さく息を飲んだ。
それはたぶん、自分がうまく言葉にできないまま、ずっと欲しがっていたものだった。
「……今日のフミコ、ずっとズルいな」
「よく言われます」
「いや、たぶん言われてねえだろ」
「じゃあ初めて言われました。光栄です」
そう言って笑うフミコに、デンジは呆れたように肩を落とす。
けれど、さっきまで胸の奥にあった妙な引っかかりは、少しだけ軽くなっていた。
「まあ……助かるのはマジで助かる」
「でしょ?」
「ただし、変なことに使うなよ。その連絡先」
「使いませんよ。業務連絡オンリーです」
「絶対うさんくせえ」
「信用ないなあ」
フミコは口ではそう言いながらも、どこか満足そうに笑った。
「でも、信用なくても大丈夫です。そのぶん、あとでちゃんと積み上げますから」
「何をだよ」
「信頼を、です」
デンジは思わず鼻で笑う。
「面倒くせえ女」
「褒め言葉として受け取ります」
「便利だな、その性格」
「接客業向きなんですよ」
そこで一度、会話が切れる。
短い沈黙は不思議と気まずくなくて、店内の空気の延長みたいにやわらかかった。
フミコは最後に、少しだけ声の調子を落として言う。
「だから、遠慮しないで聞いてください。レゼさんのことも、この店のことも。デンジさんが知りたいこと、私が答えられる範囲なら、ちゃんと答えます」
デンジは数秒考えてから、小さく頷いた。
「……じゃあ、遠慮なく使うわ」
「はい。お待ちしてます、伝説のご主人様」
「それやめろって」
「えー、好きなんですけど」
「フミコが好きでも俺は好きじゃねえ」
「いい加減、慣れてください」
「慣れてたまるか」
そう言い返しながらも、デンジの口元は少しだけ緩んでいた。
「……ありがとう」
ぼそっと言うと、フミコは満足そうに笑った。
+++
デンジが店を出る頃には、来た時より呼吸がだいぶ楽になっていた。
フミコは最後に「ちゃんと引っ越し終わったら一報くださいね」と業務っぽい顔で言い、コベニは「大阪でもお元気で……」と本気で見送ってくれた。アサは今日は最後まで別卓で忙しそうで、ちゃんと喋る暇はなかった。しかし、デンジが店を出る時、小さく微笑んで「またね」と彼に手を振った。
扉が閉まり、ベルがちりんと鳴る。デンジは地下の階段を上り始めた。
その時だった。
踊り場のあたりで、上から降りてきた影とぶつかりかける。
「うわ」
「わっ」
互いに半歩ずつよける。
顔を上げて、デンジは目を見開いた。
「……レゼ?」
私服姿のレゼだった。
店で見るメイド服ではなく、街の中に普通にいる女の子の格好だった。肩の力の抜けたトップスに細身のスカート。髪も今日は少しだけラフで、急いで来たのか頬がうっすら赤い。
レゼは息を整えるみたいにしてから、少し照れたように笑った。
「間に合った」
「何で……」
「デート帰り」
さらっと言われて、デンジは一瞬言葉を失う。
「彼氏と?」
「うん」
その返事も軽かった。
軽いのに、デンジの胸のどこかが一瞬だけ変な音を立てた気がした。
彼は知らなかった。レゼに彼氏がいるなんて、聞いたこともなかった。
けれど、考えてみれば当たり前だった。これだけ可愛くて、しかも話していて楽しい女の子に、付き合っている相手がいないわけがない。そんなこと、本当は最初から分かっていたはずだった。
ただ、デンジは一度もそういうことを聞かなかった。聞けなかった、の方が近いかもしれない。
この店でする話でもないと思っていたし、そんなことを気にしていると知られたら、下心があるみたいで嫌だった。自分なりに、その線だけは越えないようにしていた。
だからこそ、こうして本人の口からさらっと聞かされると、胸の奥のどこかが一瞬だけ鈍く沈んだ。
だがレゼは、そんなデンジの反応も見越していたみたいに、すぐ続ける。
「デンジ君まだいるかもって思って」
「……それでわざわざ来たのかよ」
「うん」
レゼは階段の途中で少し肩をすくめた。
「顔だけでも見たくなってさ」
その言い方があまりに自然で、デンジは返事に詰まった。
地下の薄暗い階段の途中で、私服のレゼがそう言うのは、店の中で聞くのと全然違っていた。
デンジは頭をかく。
「……レゼ、すげえこと普通にやるよな」
「だめだった?」
「だめじゃねえけど……」
「じゃあいいじゃん」
「よくねえよ、心臓に」
レゼは声を殺して笑った。
「また?」
「まただよ」
そのまま二人で地上へ出る。
夜の空気は、地下の湿った空気とはまるで違っていた。通りにはまだ人がいて、ネオンが揺れて光っている。
自然な流れで、駅の方へ歩き出す。数歩進んだところで、デンジがようやく口を開いた。
「……いいのかよ」
「何が?」
「客と外で歩いて」
レゼはそちらを見て、少しだけ目を細めた。
「プライベートでばったり会ったってことで」
「それで済むのか」
「済む済む」
あっけらかんとしている。
「今の私はメイドじゃなくて、ただの私服の女の子だし」
「その理屈、だいぶ雑だな」
「雑なくらいがちょうどいい時もあるの」
レゼは楽しそうに笑った。
駅までの道は、思っていたより短かった。
話題は途切れなかった。大阪のこと。引っ越しのこと。お土産持ってきてねって話。ブログを見ろという話。フミコは電話だけじゃなくてそこまでやるんだね、という話。
その全部が、電話の時より少しだけ近かった。
レゼは歩きながら言った。
「私もね、今日ちゃんと会えないまま終わるの、ちょっと嫌だったんだ」
「……」
「電話だけでもよかったけど、やっぱり何か足りない気がして」
「だから来たのか」
「うん」
それからレゼは少しだけ首を傾げる。
「デンジ君、声の感じからして、すごいしょんぼりしてそうだったし」
「電話越しでそんな顔してた?」
「してたと思う」
「最悪だな」
「そんなに悪くないよ」
レゼは笑う。
「最後に会えなくてしょんぼりしてるの、ちょっと可愛かったかも」
「可愛くねえよ」
「そう?」
「そうだよ」
そう返しながらも、デンジは少しだけ救われた気がしていた。
信号待ちで立ち止まる。
レゼが前を向いたまま言った。
「大阪行っても、ほんとにまた来てね」
「……おう」
「私、今日みたいにたまたま毎回会いに来れるわけじゃないし」
「そりゃそうだろ」
「だからちゃんと帰ってきて」
その言い方は、冗談みたいに軽いくせに、少しだけ本気だった。
デンジは横顔を見る。
街の灯りの中で見るレゼは、店の中より少し年上っぽく見えた。メイド服の時より遠くて、でも今は誰より近い。
「……わかったよ」
「ほんとに?」
「ゆるい約束でな」
「あ、覚えてた」
レゼが笑う。
信号が青に変わる。
また歩き出しながら、デンジはふと思った。
店の中では、レゼは「夢を見せる側」だった。
でも今こうして隣を歩いているのは、夢でも何でもなく、ただ今日だけの、たまたまの現実だった。
その現実の方が、よほど心臓に悪い。
駅が見えてくる。
レゼはそこで立ち止まった。
「じゃあ、ここまで」
「おう」
「ちゃんと帰ってきてね」
「そればっかだな」
「大事だから」
レゼは少しだけ笑って、それからほんの少しだけ真面目な顔になった。
「また会いたいし」
「……」
「店で」
最後にそこを足すのが、ずるいと思った。ずるいが、レゼらしいとも思った。
「……レゼって、ほんとずるいよな」
「知ってる」
「自分で言うな」
「でも、デンジ君そういうの好きでしょ」
「否定しづれえ」
レゼは満足そうに笑った。
「じゃあね」
「おう」
手を振って別れる。
人混みの中に私服のレゼが紛れていくのを、デンジは少しのあいだ見ていた。
完全に見えなくなってから、ようやく息を吐く。
大阪へ行くことは変わらない。今までみたいには来られなくなるのも変わらない。
でも、全部がそこで途切れるわけじゃないのかもしれない。
地下の店の向こうだけじゃなく、こうして店の外まで歩いてきてくれる誰かがいるのなら、なおさらだった。
「……まあ、何とかするか」
誰に言うでもなくそう呟いて、デンジは少しだけ足取りを軽くした。