地下のベルが鳴るたびにーデンレゼifー   作:ルイ(Louie)

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大阪に異動が決まったデンジは、レゼ達にそのことを言い出せずに過ごしていた。
そして、彼が転勤前に店に訪れることのできる最後の日がやってくる。
デンジは地下の扉のベルを鳴らす。
その日、レゼが休みだと知りながら。

次回、最終回!


また会えます、ご主人様

 大阪に異動が決まってからも、デンジは何度か『メイド喫茶 すいーとべる』に顔を出していた。

 そのたびに言おうとは思っていた。大阪に行くこと。しばらく来られなくなること。

 けれど、いざ店に入って、いつも通りの「お帰りなさいませ、ご主人様」を聞くと、どうにも言い出せなかった。

 楽しい時間の途中で、水を差すみたいで嫌だった。

 それに、口にしたら本当に離れるのだと認めることになる気がした。

 だから結局、何も言えないまま今日まで来てしまった。

 そして気づけば、転勤前にこの店へ来られそうな日は、もうほとんど残っていなかった。

 デンジは携帯電話を開き、ブックマークしていた『メイド喫茶 すいーとべる』のブログを表示した。

 少し前に開設されたそのブログには、メイドたちの日記や出勤表が載っている。デンジも最近は、前よりこまめにそれを確認するようになっていた。

 更新されたばかりの出勤表を見て、デンジは目を見開いた。

 自分が転勤前に最後に行けそうな日に、レゼはほとんど出勤していなかった。

 デンジは思わず頭を抱えた。

 こんなことなら、もっと早く転勤の話をしておけばよかったと思った。

 けれど、今さら遅い。

 デンジがどうにか店に行ける日は一日だけだった。

 その日は、出勤表の上ではレゼは休みだった。

 それでも彼は、その日に店へ行くと決めた。

 レゼに会えないのはわかっていた。

 それでも、最後に一度くらいはあの店の空気の中にいたかった。

 何も言えないまま、何も区切りをつけないまま終わるのは、何となく嫌だった。

 

+++

 

 そうして迎えた当日、デンジは地下へ続く階段を下りていた。

 見慣れたはずの壁も、少し湿った空気も、今日は妙に遠く感じる。

 胃のあたりが、ずっときりきりしていた。

 扉を開ける。ちりん、とベルが鳴った。

 

「おかえりなさいませ、ご主人様」

 

 迎えたのはコベニだった。

 デンジは反射みたいに店内へ目をやった。いつものようにレゼの姿を探す。だが、見当たらない。

 

「……レゼは?」

 

 コベニが、あっ、という顔をした。

 

「えっと……今日はお休みで……」

 

 わかっていたはずなのに、その一言は思ったより深く刺さった。

 もしかしたら急に出勤していたりしないかと、どこかで少しだけ期待していたのかもしれない。

 

「……だよな」

 

 短く返してから、デンジは小さく息を吐いた。

 今日、レゼはいない。しかも、今日が転勤前に来れる最後だ。

 けれど、ここで凹んだまま帰るのも違う気がした。

 せっかく来たのに、レゼがいないから帰るというのも、それはそれで露骨すぎて格好悪い。

 それに、本当に最後なのだ。

 少しだけでも、この店の空気の中にいたかった。

 

「……せっかく来たし、ちょっとだけいるよ」

 

 そう言うと、コベニはほっとしたように小さく頷いた。

 

「はい……!」

 

 席に着いても、胃のあたりのきりきりは消えなかった。

 水の入ったグラスを前にぼんやりしていると、少ししてフミコがやってきた。

 

「うわ、何ですかその顔」

「どの顔だよ」

「財布落としたのに、まだ交番行ってない人みたいな顔です」

「嫌すぎる例えだな……」

 

 デンジが低く返すと、フミコはじっと顔を見た。それから店内を軽く見回し、すぐに事情を察したらしい顔になる。

 

「話、聞いてやることもできますけど?」

「何でそんな上からなんだよ……」

「こういう時に話せる相手、他にいないでしょ?」

 

 少しだけ図星だった。

 コベニに言うには重い。アサに言うには違う。レゼ本人は休み。

 残るのはフミコくらいだ。

 この店の中で、変に遠慮せずに話せる相手。面倒くさいし、言い方は相変わらずだが、こういう時に意外とちゃんと話せるのはフミコだった。

 デンジはしばらく黙ってから、ぽつりと言った。

 

「大阪に転勤決まった」

 

 フミコはそこで一瞬だけ動きを止めた。

 

「あら」

 

 だがすぐに、必要以上に大げさな反応はせず頷く。

 

「いつ?」

「もうすぐ。それで……」

 

 そこでデンジは少し言葉を切った。

 

「今日が転勤前の最後になる。この店来られるの」

 

 フミコはその意味をすぐ理解したらしい。

 

「なるほどね」

 

 それで、今の顔かと納得した様子だった。

 

「でも、何で今日まで黙ってたんですか?」

 

 フミコの質問にデンジは返事に詰まった。

 まさにそのことを、自分でも何度も考えていたからだ。

 

「……言うタイミング分かんなくて」

「それだけですか?」

「……」

「デンジさん、そういう時に適当な言い訳するの、よくないですよ」

「うっせえな」

 

 フミコは急かさず待った。茶化すでもなく、ただ続きを促すように見てくる。

 デンジは視線をグラスに落としたまま、少しずつ言葉を出した。

 

「この店と離れるの、思ったより寂しくて」

「……」

「だから、言ったらマジになりそうで嫌だった」

「うん」

「ここ来て、いつも通り喋って、いつも通り帰ってる間は、まだ何も変わってねえ感じがしたんだよ」

「それで、先延ばしにしちゃったんですね」

「……ああ」

 

 言ってしまうと、自分でも情けなかった。

 

 フミコは少しだけ目を細めた。

 

「デンジさんって、ほんと変なとこ不器用ですよね」

「ほっとけ……。俺さ、卒業イベント見た次の日に辞令が来たんだよ」

「ああ〜」

「あれのあとだったから、余計効いてるんだと思う」

 

 少しずつ、言葉が出てくる。

 

「店の誰かがいなくなること、初めてちゃんと考えた後で、俺の方が先に来られなくなるみてぇになっちまって」

「うん」

「余計に変な感じになった」

 

 フミコは頬杖をついて聞いていた。

 

「思ったよりちゃんと効いてますね」

「何だよその言い方」

「いや、もっと軽い感じかと思ってたんで」

「軽くねえよ……」

「立派な常連じゃないですか」

「褒めてんのかそれ」

「半分は」

「半分かよ」

 

  デンジは小さく息を吐いた。このやり取りで、少しだけ喉の詰まりが取れた気がした。

 そこでフミコは口を開いた。

 

「それで、今日は最後だから来たんですね」

「……ああ」

「レゼさん休みなの、知ってたのに」

「知ってたよ」

「なのに来た」

「二回言うな」

「だって、なかなかですよ?」

「うるせえ」

 

 フミコは肩をすくめる。

 

「でも、ちょっとわかります」

「何が」

「休みだってわかってても、最後なら来たくなる感じ」

 

 デンジは少しだけ顔を上げた。

 思ったよりまともな返しだった。

 

「……まあな」

「それに、もしかしたらって思ってたんじゃないですか?」

「は?」

「急に出勤してるかも、とか。少しだけでも会えるかも、とか」

「……」

 

 図星だった。

 デンジは何も言わなかったが、それで十分だったらしい。フミコは小さく笑う。

 

「ワンチャン狙い。わかりやす」

「……言うな」

「言いますよ。だって本当にわかりやすいんで」

 

 デンジは額を押さえた。

 

「自分でも、ちょっと期待してたんだと思う」

「でしょうね」

「出勤表見た時点で休みなのは知ってたのに、店来て姿探してたし」

「それはもう完全に期待してますね」

「うるせえって」

 フミコは少し考えるような顔をしてから、ポケットから携帯電話を取り出した。飾り気のないピンクゴールドの折りたたみ式だ。

 

「……何してんの」

 

 フミコはあっさり言う。

 

「今日は流石にかわいそうなんで」

「は?」

「レゼさんに電話します」

「いや待て待て」

 

 デンジが止めるより早く、フミコは発信していた。

 呼び出し音が鳴る。彼は本気で少し焦る。

 

「何勝手なこと……」

「こういう時に使わなくてどうするんですか」

「どうするって何をだよ」

「人脈を」

「……変な言い方すんなよ」

 

 数回の呼び出しのあと、レゼが出たらしい。

 フミコの声が一段だけやわらかくなる。

 

「フミコでーす。休み中にごめんねー」

 

 レゼと電話が繋がった。

 その当たり前の事実だけで、デンジの背筋が妙に伸びた。

 フミコは少しだけ事情をぼかしつつ言う。

 

「うん、そう。今ね、デンジさん来てるんだけど……うん、めっちゃ元気なくてさ~」

 

 その言い方は余計だろ、とデンジは思ったが、口を挟めない。

 フミコは数秒うなずくみたいに黙って、それから携帯を差し出した。

 

「はい」

「……何だよ」

「代わってくれるって」

「いや、急すぎるだろ……」

「今さら何照れてるんですか」

 

 フミコは無理やりみたいに携帯をデンジの手へ押しつけた。

 彼は一度だけ息を飲んでから、耳に当てる。

 

「……もしもし」

『デンジ君?』

 

 レゼの声だった。外出中なのか、電話越しの彼女の声に雑踏と、車のエンジン音が微かに混ざる。

 

「……悪い。休みなのに」

『ううん。フミコから聞いた。何かあった?』

 

 デンジは少しだけ目を閉じた。

 ここで変にごまかすのも違う気がした。今日来たのは、そのためでもあったのだ。

 

「大阪に転勤する」

 

 電話の向こうで、一瞬だけ息を呑む気配があった。

 

『……そっか』

「うん」

『いつ?』

「もうすぐ。だから……今日が、転勤前ここに来られる最後の日だった」

 

 そう口にすると、やっぱり少し重かった。

 レゼは少しだけ間を置いて、レゼはいつもよりわずかに強い声で言った。

 

『もっと早く言ってよ』

 

 その言い方は、はっきり怒っている感じがあった。

 責め立てるほど強くはない。でも、ちゃんと不満だったのだと分かるくらいには、真っすぐな声だった。

 デンジは一瞬、何も返せなかった。

 

「……悪りぃ」

『ほんとだよ』

 

 短い返事だった。

 けれど、それ以上強く責めてはこなかった。

 デンジが黙ってしまったのを察したのか、レゼはすぐに声の温度を少しだけ落とした。

 

『……大阪行って、いろいろ落ち着いたらまた来てね』

 

 その言い方が、とても自然だった。

 悲しそうすぎず、軽すぎもせず、ちゃんと次がある前提で言う。

 

『私もまだ辞めないから』

 

 デンジは、思わず少し笑った。

 

「この前もそれ言ってたな」

『だって大事だから、何回でも言うよ』

「……そうかもな」

『うん』

 

 電話の向こうのレゼは、店で喋る時と同じようで、少しだけ違った。接客の顔じゃないぶん、言葉がそのまま落ちてくる感じがある。

 

『落ち込んだまま大阪行かないでよ』

「……」

『ちゃんとご飯食べて、ちゃんと寝て、ちゃんと向こうでやって』

「急に母ちゃんみてえなこと言うなよ」

『デンジ君、放っとくと生活雑そうだし』

「否定しづれえな……」

『でしょ』

「……ありがとな」

『うん。フミコにもちゃんとお礼言っといてね』

「……そうだな」

『こういう時にあの人動くの、珍しいから』

「たしかにな……」

 

 少しだけ沈黙が落ちた。

 切ろうと思えば切れる間だったのに、どちらもすぐには終わらせなかった。

 レゼが先に小さく言う。

 

『じゃあ、またね』

「おう」

『ちゃんと帰ってきてね』

「そればっかだな」

『大事だから』

 

 通話が切れる。

 デンジはしばらくそのまま携帯を見ていた。

 フミコが指を鳴らすみたいにして言う。

 

「はい、おかえりなさいませ」

「……何だよ、その言い方」

「戻ってきた顔してるんで」

 

 デンジは携帯を返した。

 

「助かったよ」

「でしょう」

「でも、いきなり電話はどうなんだよ……」

「結果オーライでしょ」

 

 フミコは平然としている。

 そして次の瞬間、今度はデンジへ手を差し出した。

 

「デンジさん、携帯出して」

「は?」

「いいから」

 

 デンジは怪訝な顔をしたまま、ポケットから自分の携帯を取り出した。

 彼女も自分の携帯を開き、慣れた手つきで何かを操作している。

 

「何してんの」

「私の連絡先、入れときます」

「……何で」

「コレ、業務用なので大丈夫です」

「業務用って何だよ」

「そもそも私、社員なんで」

 

 そうだった。

 フミコはただのメイドではない。現場でふざけた顔ばかりしているせいで忘れそうになるが、あれでこの店の社員だ。店を回す側でもある。

 

「はい、赤外線つけて」

 

 デンジはメニューを辿って赤外線通信を開き、言われるまま携帯の先を向けた。

 ぴ、と音が鳴る。

 

「はい、送信完了」

「……ほんとに入った」

 

 画面を見ると、フミコの名前と電話番号、それからメールアドレスが登録されていた。

 

「東京戻ってきた時とか、何か聞きたい時とか、使ってください」

「何かって」

「レゼさんの様子とか」

 

 フミコはあっさり言った。

 

「コベニやアサちゃんのことも、必要なら教えますよ。ブログに載せられないことも」

「職権濫用だな」

「柔軟なんです」

「アンタが言うと信用ならねえな……」

「でも、助かるでしょ?」

 

 それは、たしかにそうだった。

 デンジがこの店と離れる感じが、少しだけ薄まる。戻ってきた時に、何の手がかりもないよりずっといい。

 

「フミコ、何で俺にそんなに良くしてくれるんだよ」

「デンジさんは、伝説のご主人様なんで」

「理屈になってねぇ」

 

 フミコは少し目を細めた。そこにいつもの冗談めいた雰囲気は無く。ただただ優しい眼差しがそこにあった。

 

「デンジさんは、この店の大切なご主人様です。だから、ちゃんとお見送りしたいんです。コベニや、日が浅いけどアサちゃんも同じ気持ちです」

「……店の客みんなに、そこまでしてんのかよ」

「全員にはしてません」

 

 即答だった。

 あまりにもあっさり言うから、デンジのほうが言葉に詰まった。

 

「……そういうの軽々しく言うなよ」

「軽々しく言ってません」

 

 フミコは小さく笑ったあと、少しだけ視線を落とした。

 

「デンジさん、最初に来た時から、変なご主人様だったんです」

「……悪口か?」

「半分は褒めてます」

「じゃあ半分悪口じゃねえか」

「普通の人って、もっと器用なんですよ。メイド喫茶って場所に来たら、楽しそうな顔をするとか、気取ったり、慣れてるふりをするとか、そういうのができるんです。でもデンジさん、全っ然できてなかったから」

「ほっとけ」

「ほっとけませんよ。見てたらわかるんです。二回目に一人で来た時から、この人、こういう場所に慣れてないのに、それでもちゃんと来ようとしてるんだなってわかりました」

 

 デンジは少しだけ眉を寄せた。

 

「来ようとしてる、って」

「会いたい人がいるから来るんでしょ」

 

 まっすぐ言われて、デンジは目を逸らした。

 

「……まあ、そうだけどよ」

「そういうの、私は嫌いじゃないです」

 

 フミコの声は軽いのに、その言葉だけは妙に柔らかかった。

 

「ちゃんと誰かを大事にして、ちゃんと会いに来て、ちゃんと不器用に困ってる人って、何だか放っとけないんですよ」

「……それ、憐れんでるだけじゃねえの」

「違います」

 

 今度は少し強く、フミコは言った。

 

「羨ましいんです」

「は?」

「そこまでまっすぐになれるの、ちょっと羨ましいなって」

 

 デンジは一瞬、返す言葉を失った。

 フミコはいつも通りの笑顔を浮かべているのに、その奥に少しだけ、自分でも触れたくないものが滲んだ気がした。

 

「私は、そういうのあんまり上手くないんで。好きとか、大事とか、そういうのを正面から扱うの」

「……アンタでもかよ」

「私でもです」

「メイドなのに?」

「メイドの時は言えます。仕事なんで」

 

 それから、フミコは肩をすくめた。

 

「だからせめて、できる範囲では手伝いたいんです。デンジさんがまたここに戻って来たい時、何もわからなくて困らないように」

「……そんなの、店のためじゃねえの」

「もちろん店のためでもありますよ。でも、それだけなら業務用とはいえ連絡先を交換しませんよ」

 

 デンジはまた黙る。

 言われてみれば、その通りだった。

 店員として親切にするだけなら、もっと店の中だけで済ませればいい。わざわざ連絡先を渡して、ブログに出ないことまで教えるなんて、少なくとも接客マニュアル通りではないはずだ。

 

「……フミコって、たまに本気か冗談かわかんねえな」

「半々です」

「いちばん信用できねえ返事」

「でも今のは、けっこう本気」

 

 フミコはそう言って、少しだけ首を傾げた。

 

「デンジさんには、ちゃんと報われてほしいんです」

「メイド喫茶で報われるって、何だよ」

「会いたい人に会えて、話したいことを話せて、来てよかったって思えることです」

 

 デンジは喉の奥で、小さく息を飲んだ。

 それはたぶん、自分がうまく言葉にできないまま、ずっと欲しがっていたものだった。

 

「……今日のフミコ、ずっとズルいな」

「よく言われます」

「いや、たぶん言われてねえだろ」

「じゃあ初めて言われました。光栄です」

 

 そう言って笑うフミコに、デンジは呆れたように肩を落とす。

 けれど、さっきまで胸の奥にあった妙な引っかかりは、少しだけ軽くなっていた。

 

「まあ……助かるのはマジで助かる」

「でしょ?」

「ただし、変なことに使うなよ。その連絡先」

「使いませんよ。業務連絡オンリーです」

「絶対うさんくせえ」

「信用ないなあ」

 

 フミコは口ではそう言いながらも、どこか満足そうに笑った。

 

「でも、信用なくても大丈夫です。そのぶん、あとでちゃんと積み上げますから」

「何をだよ」

「信頼を、です」

 

 デンジは思わず鼻で笑う。

 

「面倒くせえ女」

「褒め言葉として受け取ります」

「便利だな、その性格」

「接客業向きなんですよ」

 

 そこで一度、会話が切れる。

 短い沈黙は不思議と気まずくなくて、店内の空気の延長みたいにやわらかかった。

 フミコは最後に、少しだけ声の調子を落として言う。

 

「だから、遠慮しないで聞いてください。レゼさんのことも、この店のことも。デンジさんが知りたいこと、私が答えられる範囲なら、ちゃんと答えます」

 

 デンジは数秒考えてから、小さく頷いた。

 

「……じゃあ、遠慮なく使うわ」

「はい。お待ちしてます、伝説のご主人様」

「それやめろって」

「えー、好きなんですけど」

「フミコが好きでも俺は好きじゃねえ」

「いい加減、慣れてください」

「慣れてたまるか」

 

 そう言い返しながらも、デンジの口元は少しだけ緩んでいた。

 

「……ありがとう」

 

 ぼそっと言うと、フミコは満足そうに笑った。

 

+++

 

 デンジが店を出る頃には、来た時より呼吸がだいぶ楽になっていた。

 フミコは最後に「ちゃんと引っ越し終わったら一報くださいね」と業務っぽい顔で言い、コベニは「大阪でもお元気で……」と本気で見送ってくれた。アサは今日は最後まで別卓で忙しそうで、ちゃんと喋る暇はなかった。しかし、デンジが店を出る時、小さく微笑んで「またね」と彼に手を振った。

 扉が閉まり、ベルがちりんと鳴る。デンジは地下の階段を上り始めた。

 その時だった。

 踊り場のあたりで、上から降りてきた影とぶつかりかける。

 

「うわ」

「わっ」

 

 互いに半歩ずつよける。

 顔を上げて、デンジは目を見開いた。

 

「……レゼ?」

 

 私服姿のレゼだった。

 店で見るメイド服ではなく、街の中に普通にいる女の子の格好だった。肩の力の抜けたトップスに細身のスカート。髪も今日は少しだけラフで、急いで来たのか頬がうっすら赤い。

 レゼは息を整えるみたいにしてから、少し照れたように笑った。

 

「間に合った」

「何で……」

「デート帰り」

 

 さらっと言われて、デンジは一瞬言葉を失う。

 

「彼氏と?」

「うん」

 

 その返事も軽かった。

 軽いのに、デンジの胸のどこかが一瞬だけ変な音を立てた気がした。

 彼は知らなかった。レゼに彼氏がいるなんて、聞いたこともなかった。

 けれど、考えてみれば当たり前だった。これだけ可愛くて、しかも話していて楽しい女の子に、付き合っている相手がいないわけがない。そんなこと、本当は最初から分かっていたはずだった。

 ただ、デンジは一度もそういうことを聞かなかった。聞けなかった、の方が近いかもしれない。

 この店でする話でもないと思っていたし、そんなことを気にしていると知られたら、下心があるみたいで嫌だった。自分なりに、その線だけは越えないようにしていた。

 だからこそ、こうして本人の口からさらっと聞かされると、胸の奥のどこかが一瞬だけ鈍く沈んだ。

 だがレゼは、そんなデンジの反応も見越していたみたいに、すぐ続ける。

 

「デンジ君まだいるかもって思って」

「……それでわざわざ来たのかよ」

「うん」

 

 レゼは階段の途中で少し肩をすくめた。

 

「顔だけでも見たくなってさ」

 

 その言い方があまりに自然で、デンジは返事に詰まった。

 地下の薄暗い階段の途中で、私服のレゼがそう言うのは、店の中で聞くのと全然違っていた。

 デンジは頭をかく。

 

「……レゼ、すげえこと普通にやるよな」

「だめだった?」

「だめじゃねえけど……」

「じゃあいいじゃん」

「よくねえよ、心臓に」

 

 レゼは声を殺して笑った。

 

「また?」

「まただよ」

 

 そのまま二人で地上へ出る。

 夜の空気は、地下の湿った空気とはまるで違っていた。通りにはまだ人がいて、ネオンが揺れて光っている。

 自然な流れで、駅の方へ歩き出す。数歩進んだところで、デンジがようやく口を開いた。

 

「……いいのかよ」

「何が?」

「客と外で歩いて」

 

 レゼはそちらを見て、少しだけ目を細めた。

 

「プライベートでばったり会ったってことで」

「それで済むのか」

「済む済む」

 

 あっけらかんとしている。

 

「今の私はメイドじゃなくて、ただの私服の女の子だし」

「その理屈、だいぶ雑だな」

「雑なくらいがちょうどいい時もあるの」

 

 レゼは楽しそうに笑った。

 駅までの道は、思っていたより短かった。

 話題は途切れなかった。大阪のこと。引っ越しのこと。お土産持ってきてねって話。ブログを見ろという話。フミコは電話だけじゃなくてそこまでやるんだね、という話。

 その全部が、電話の時より少しだけ近かった。

 レゼは歩きながら言った。

 

「私もね、今日ちゃんと会えないまま終わるの、ちょっと嫌だったんだ」

「……」

「電話だけでもよかったけど、やっぱり何か足りない気がして」

「だから来たのか」

「うん」

 

 それからレゼは少しだけ首を傾げる。

 

「デンジ君、声の感じからして、すごいしょんぼりしてそうだったし」

「電話越しでそんな顔してた?」

「してたと思う」

「最悪だな」

「そんなに悪くないよ」

 

 レゼは笑う。

 

「最後に会えなくてしょんぼりしてるの、ちょっと可愛かったかも」

「可愛くねえよ」

「そう?」

「そうだよ」

 

 そう返しながらも、デンジは少しだけ救われた気がしていた。

 信号待ちで立ち止まる。

 レゼが前を向いたまま言った。

 

「大阪行っても、ほんとにまた来てね」

「……おう」

「私、今日みたいにたまたま毎回会いに来れるわけじゃないし」

「そりゃそうだろ」

「だからちゃんと帰ってきて」

 

 その言い方は、冗談みたいに軽いくせに、少しだけ本気だった。

 デンジは横顔を見る。

 街の灯りの中で見るレゼは、店の中より少し年上っぽく見えた。メイド服の時より遠くて、でも今は誰より近い。

 

「……わかったよ」

「ほんとに?」

「ゆるい約束でな」

「あ、覚えてた」

 

 レゼが笑う。

 信号が青に変わる。

 また歩き出しながら、デンジはふと思った。

 店の中では、レゼは「夢を見せる側」だった。

 でも今こうして隣を歩いているのは、夢でも何でもなく、ただ今日だけの、たまたまの現実だった。

 その現実の方が、よほど心臓に悪い。

 駅が見えてくる。

 レゼはそこで立ち止まった。

 

「じゃあ、ここまで」

「おう」

「ちゃんと帰ってきてね」

「そればっかだな」

「大事だから」

 

 レゼは少しだけ笑って、それからほんの少しだけ真面目な顔になった。

 

「また会いたいし」

「……」

「店で」

 

 最後にそこを足すのが、ずるいと思った。ずるいが、レゼらしいとも思った。

 

「……レゼって、ほんとずるいよな」

「知ってる」

「自分で言うな」

「でも、デンジ君そういうの好きでしょ」

「否定しづれえ」

 

 レゼは満足そうに笑った。

 

「じゃあね」

「おう」

 

 手を振って別れる。

 

 人混みの中に私服のレゼが紛れていくのを、デンジは少しのあいだ見ていた。

 完全に見えなくなってから、ようやく息を吐く。

 大阪へ行くことは変わらない。今までみたいには来られなくなるのも変わらない。

 でも、全部がそこで途切れるわけじゃないのかもしれない。

 地下の店の向こうだけじゃなく、こうして店の外まで歩いてきてくれる誰かがいるのなら、なおさらだった。

 

「……まあ、何とかするか」

 

 誰に言うでもなくそう呟いて、デンジは少しだけ足取りを軽くした。

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