地下のベルが鳴るたびにーデンレゼifー 作:ルイ(Louie)
デンジが大阪に転勤してから、半年が経った。
大阪の生活は思っていたよりも忙しく、デンジは転勤後、一度しか『メイド喫茶 すいーとべる』に訪れることが出来ていなかった。
ある日、フミコからレゼの卒業が決まったと連絡が届いた。
デンジが大阪に転勤してから、半年が経った。
最初のころ、彼は甘く見ていた。環境も変わることで忙しくなるとは思っていたが、月に一度くらいなら東京へ戻れるんじゃないか、くらいには思っていた。
新幹線だってある。金と時間を何とかやりくりすれば、一度くらいはあのメイド喫茶に顔を出せるだろう、と。
しかし、現実はそんなに甘くなかった。
転勤してすぐの頃に一度だけ、どうにか予定をこじ開けて東京へ行き、あのメイド喫茶でレゼと会って話した。
それきりだった。
新天地での仕事は思ったよりずっとハードで、引き継ぎだの調整だの覚えることだのが終わったと思えば、今度は自分が仕事を回す側に立たされる。
慣れたころには、新しい責任やら細かい面倒ごとやらが増えていった。休日は休日で、体が先に音を上げる日が多かった。
大阪の暮らし自体は悪くなかった。
街は賑やかで、飯は美味く、人も面白い。最初は聞き取るだけで精一杯だった関西弁にも、今ではずいぶん慣れた。仕事も忙しいなりにやりがいがあって、少しずつ自分の足場ができていく感覚もあった。
だから、日々が嫌だったわけじゃない。
ただ、その忙しくも充実した日々の奥の方に、ずっと同じ景色が残っていた。
地下へ続く細い階段。
木の扉。
ちりん、というベルの音。
レゼ、フミコ、コベニ、アサ。
『メイド喫茶 すいーとべる』の空気が、東京に置いてきたはずなのに、生活の中へ染みついたままだった。
+++
デンジが仕事を終えて自宅のアパートへ戻り、シャワーを浴びて、買ってきた適当な飯を食い、ソファへ沈み込むように座った時、携帯電話が震えた。
画面を見る――フミコからだった。
大阪へ来てからも、彼女は時々連絡を寄越した。レゼが雑誌に載っただの、コベニが客へ謝りすぎて逆に相手の方から謝らせただの、アサは相変わらず淡々としているが徐々に人気を伸ばしていっているだの、そういうどうでもいいようでどうでもよくない情報ばかりだった。
だから最初、デンジはまた何かいつもの軽い話だと思った。
メールを開いて、目が留まる。
短い文章だった。
『レゼさんの卒業、決まりましたよ。もちろん来ますよね?』
文末に煽る感じの顔文字までついていたせいで、内容の重さに対して文面が軽か感じた。しかし、その雑さが、フミコらしかった。
デンジはしばらく携帯を見たまま動けなかった。
レゼの卒業。
その単語だけが、じわじわと頭の中に広がっていく。
あの卒業イベントの日、知り合いが泣いていた顔を思い出す。あのあと、自分もいつかこういう日を迎えるのだろうかと、ぼんやり考えたことまで思い出す。
とうとう、あれが、来たのだ。
どこかで、まだ先のことだと思っていたのかもしれない。
以前レゼは、まだ辞めないから、と笑っていた。
デンジも、その言葉を勝手に少し長めの約束みたいに受け取っていたのかもしれなかった。
だが、終わるものは終わる。
当たり前のことが、その夜はやけに重かった。
彼は携帯を握ったまま、短く打ち込んだ。
『行く』
少し間を置いて、もう一通。
『絶対行く』
すぐに返信が来る。
『だと思いました。卒業イベントの詳細、後で送りますね〜! 這ってでも来るように』
その文面に、少しだけ腹が立って、少しだけ救われた。
翌日から、デンジは本気で段取りをつけ始めた。
仕事の山を崩し、先回りして片づけ、引き継げるものは引き継いだ。有給申請を出す時、同僚には「珍しいやん」と言われたが、曖昧に笑って流した。
何が何でも、レゼの卒業イベントに行く。
その数日間の原動力は、それだけだった。
+++
レゼの卒業イベント当日。
デンジは東京駅に着くなり、真っ先に花屋へ向かった。
何を買えばいいのか、正直よくわからなかった。
卒業イベントに花束を持っていく、という行為そのものが自分に似合っているとも思えない。けれど、手ぶらで行くのも違う気がした。
店員に用途を聞かれ、「……卒業にピッタリ、みたいな……」とだけ答える。花を選んでもらっているあいだ、妙に落ち着かなかった。
立派な花束を受け取ると、見た目以上に自分の手に馴染まない感じがした。
それでも、これでいいのだと思った。彼女の最後を少しでも綺麗に飾ってやりたい。見送ってやりたい。その一心だった。
大きな花束を抱えて、見慣れた街を歩く。その繁華街は、大阪で暮らし始めた今となっては少しだけ他人行儀で、それでもやっぱり懐かしかった。
雑居ビルの前に立つ。
見慣れたはずの階段なのに、今日は一回目のころみたいに少しだけ緊張する。花束を抱えたまま下りる足取りが、妙に自分のものじゃないみたいだった。
木の扉の前で一度だけ息を整え、デンジはそれを開いた。
ちりん、とベルが鳴る。
「おかえりなさいませ、ご主人様!」
明るい声が飛ぶ。
いつもより少し熱の高い店内の空気が、一気に肌へ触れた。
客は多い。
常連らしい顔も、見知らぬ顔もいる。笑い声、誰かが泣きそうになる気配、誰かが笑って誤魔化す空気。全部が混ざって、店の中は少しだけお祭りみたいだった。
その熱の中心に、レゼがいた。
髪にも制服にも卒業仕様らしい飾りが足されていて、いつもより華やかだった。それなのに、一番目を引いたのは飾りじゃなく、笑っている顔そのものだった。
レゼがデンジに気づく。
一瞬だけ、目が大きくなる。
それから、今まで見た中でも少し特別なくらい、ぱっと顔が明るくなった。
「デンジ君!」
その呼び声が、騒がしい店の中でも妙にはっきり聞こえた。
デンジは花束を抱え直して、前へ出る。
「よう」
「来てくれたんだ」
「来るだろ、そりゃ」
できるだけ普段通りの声で言ったつもりだったが、少しだけ硬かったかもしれない。
レゼはそれを笑わなかった。まっすぐ花束に目を落として、それからデンジを見た。
「これ……私に?」
「卒業なんだろ」
デンジは少し視線を逸らしながら、花束を差し出した。
「何買えばいいかわかんなかったけど」
レゼは受け取る時、ほんの少しだけ強く指先を添えた。
そして、心の底からという言い方が大げさじゃないくらい、まっすぐに喜んだ。
「嬉しい」
その一言が、あまりにも素直だった。
「ほんとに嬉しい。ありがとう」
レゼが両手に花束を抱える姿は、いつもの接客用の笑顔とは少し違って見えた。今日がイベントだからかもしれない。客から花をもらって喜ぶのは当然の流れなのかもしれない。
それでも、その当然の中に、ちゃんと個人的な嬉しさが混ざっているように見えた。
デンジは、その瞬間にようやく、自分が本当に来てよかったと思った。
「超、似合うな」
デンジが真っ直ぐレゼを見つめてそう言うと、彼女は花束に顔を寄せるみたいにして笑った。
「そう?」
「うん」
「デンジ君が選んだんでしょ?」
「いや、店の人がだいぶ考えてくれた」
「でも持ってきてくれたのはデンジ君じゃん」
その返しがずるかった。
席に通されてからも、デンジはしばらく落ち着かなかった。
花束を渡した。
たったそれだけなのに、何か大きいことをしてしまったような気分になる。
そして、その大きさに見合うだけ、レゼがちゃんと喜んでくれたことが今さら遅れて効いてくる。
最初にこの店へ連れてきた知り合いも来ていた。
「大阪から来たんだな、デンジ……」
「そりゃ来るだろ」
「あんな高そうな花まで持ってきてんの、マジかよ」
「店からここまで持ってくる時、ジロジロ見られたわ」
「ウケるな。いや、でも……すげえわ」
しみじみした顔でそう言われて、デンジは少しむず痒くなった。
卒業イベントは、しんみり一辺倒ではなかった。
笑いも多い。フミコが仕切る場面では妙に明るく転がされるし、コベニは何度も泣きそうになっては「ま、まだ早いです……」と自分に言い聞かせている。アサは相変わらず表情を大きく変えなかったが、そのぶんテキパキ動き、イベントの進行をしっかり支えていた。
その全部の真ん中に、レゼがいた。
彼女がいつもより綺麗に見えるのは、たぶん今日が特別だからだけじゃない。
デンジは、その姿をちゃんと見ておきたかった。
+++
ようやく少し落ち着いた頃、レゼがデンジの卓に来る。
「待たせちゃったね」
「いや」
デンジは首を振る。
「今日はレゼが主役だろ」
「そうだけど」
レゼは笑って、少しだけ肩の力を抜いた。
「来てくれてほんとに嬉しかった」
「……おう」
「最近忙しかった?」
「……忙しかった」
「でも来たんだ」
「行くって決めたからな」
その返事に、レゼはほんの少しだけ目を細める。
「この半年、思ったより全然こっちに来れなかった」
デンジはぼそっと言った。
「月一くらいなら何とかなると思ってたんだけど」
「うん」
「結局、一回しか戻れなかった」
「でも今日来てくれたじゃん」
「……来たな」
「えらいえらい」
「その言い方、まだ効くんだよな……」
「知ってる」
さらっと言うからずるい。デンジは少し笑って、それから改めてレゼを見た。
メイドとしての彼女は、今日で終わる。店を出れば、もう今までみたいに「また来たらいる」メイドではなくなる。そう思うと、言葉が急に足りなくなる。
「卒業、決まったって聞いた時」
デンジがぽつりと口を開く。
「マジかって思った」
「うん」
「前に卒業イベント見た時、いつかこういう日来るのかなとは思ったけど」
「うん」
「とうとう来たんだなって」
レゼは少しだけ静かに頷いた。
「とうとう来たね」
その返しが、やけに優しかった。
否定もしない。大げさにも受け止めない。ただ、ちゃんと同じところに立って言葉を返してくれる。
デンジはしばらく、何も言えなかった。
言いたいことは山ほどある気がするのに、ちゃんとした形にならない。ありがとうとか、会えてよかったとか、来てよかったとか、そういうありきたりな言葉では足りない気がしてしまう。
でも、足りなくても言うしかないのだろう。
「……花さ、喜んでくれてよかった」
結局、最初に出たのはそれだった。
レゼはすぐに笑った。
「すごく嬉しかったよ」
「そうか」
「うん。デンジ君来てくれたの今日一番びっくりしたし」
「それは盛りすぎじゃねえの」
「盛ってない」
その言い方がまっすぐすぎて、デンジは少し目を逸らした。
遠くでフミコが「レゼさーん、次こっち」と呼ぶ声がする。
もう少しで、また別の客のところへ行くのだろう。
今日のレゼは、自分だけのものじゃない。当たり前だ。卒業イベントなんだから、なおさらそうだ。
それでも今この少しの時間だけは、自分のための時間みたいに感じてしまう。
「そろそろ行かなきゃ」
レゼが少しだけ名残惜しそうに言った。
「大阪でも元気でね」
「レゼも」
「ふふ、私はまだ東京だよ」
「そういう意味じゃねえよ」
「わかってる」
そしてレゼは、少しだけ身を寄せるようにして言った。
「デンジ君」
「ん?」
「最後に会えて、ほんとによかった」
それだけだった。
その一言が、たぶん今日ずっと残るのだろうとデンジは思った。
イベントの終盤は、やはり少しだけ泣けた。
レゼは最後まで、レゼだった。明るくて、やわらかくて、ずるくて、ちゃんと強かった。
デンジが店を出る頃には、もう夜はだいぶ深かった。
地下の階段を上り、地上の空気へ触れた瞬間、彼はふと立ち止まった。
振り返れば、あの木の扉がある。
ちりん、と鳴るベルの音も、階段の湿った匂いも、地下のオレンジ色の照明も、全部もう自分の中へ入ってしまっている。
やはり、そう簡単には抜けない。
東京の空気は、大阪に慣れ始めた体には少しだけ懐かしく感じる。けれどもう、ここが完全に自分の日常ではないこともわかっている。
だからこそ、彼は今夜のことをちゃんと持って帰らなきゃいけない気がした。
レゼの喜んだ顔。
花束を抱える姿。
最後の「最後に会えて、ほんとによかった」という声。
それから、あの店で過ごした一年近い時間全部。
「……来てよかったな」
誰に言うでもなくそう呟いて、デンジは少しだけ笑った。
良くないことも、寂しいことも、終わることも、たぶんたくさんある。
でも、レゼに会えてよかったと思ってもらえる最後なら、それで十分なのかもしれなかった。
それから、また少し月日が流れた。
デンジの大阪での仕事は相変わらず忙しかったが、その忙しさにもだいぶ体が馴染んでいた。
そんなある日、東京への出張が決まった。
同行するのは、先輩社員の黒瀬と天童だった。
黒瀬は二十代後半くらいの男で、遊びなれたような顔つきのくせに仕事はできる。しかし、酒が入ると少し雑になる。
天童は同じく先輩社員で背が高く、口を開けばクールな見かけ通り鋭いツッコミを飛ばしてくる女性だった。
二人とも関西出身で、京訛りの関西弁で話す。デンジが大阪へ来たばかりの頃はその独特なテンポとノリに振り回されたが、今では彼の耳もだいぶ慣れていた。
出張は前乗りだった。仕事は明日からということで、その夜、三人は前夜祭のノリで東京の街へ飲みに出た。
一軒目の居酒屋を出る頃には、三人ともほどよく酒が回っていた。
東京の夜は、大阪とやっぱり少し違う。ネオンの濁り方も、人の流れも、駅前に漂う酒と排気ガスの混ざった匂いも、どこか懐かしいのに少しだけ他人行儀だ。
「で?」
一軒目を出たところで、黒瀬がコートの襟元を軽く直しながら言った。
「次行く店、わざわざ予約取るなんて、ほんまにおもろいんやろな」
デンジは即座に頷いた。
「任せてくださいよ!」
その返事が妙に勢いよく出たので、天童が少しだけ眉を上げる。
「ずいぶん自信あるやん」
「ありますって。俺が知る中で、東京で最強に変な店っす!」
黒瀬が吹き出した。
「最強に変て、何の自慢やねん」
「いやでも、マジっす。たぶん二人とも今まで行ったことないタイプです」
デンジはそう言いながら、繁華街の裏手へ二人を案内していく。
少し入り組んだ通りを抜け、見慣れた雑居ビルの前で立ち止まる。
細い地下階段。脇に出た看板。夜の光に照らされた、少し古びたコンクリートの壁。
そこまで来て、天童が露骨に顔をしかめた。
「……メイド喫茶?」
「……すいーと、べる?」
黒瀬も一瞬だけ黙ってから、じわじわ笑いをこらえるような顔になる。
「おいデンジ、お前」
「いや、まあ、そうなんすけど」
デンジは少しだけ早口で弁解した。
「でもここ、ただのメイド喫茶じゃないんすよ。性別とか関係なく普通に楽しめるんで平気っす」
天童は腕を組んだまま、まだ疑っている顔だ。
「女の私が来て楽しいとこなん?」
「楽しいっす! マジで!」
「そのマジで、が一番信用ならんねんけど」
「マジですって。締めのラーメンも出るんすよ」
その一言で、黒瀬が反応した。
「ラーメン?」
「はい」
「ラーメン出す喫茶店って何やねん」
「そこなんすよ! そこからもうおもろいでしょ!」
黒瀬は呆れたように笑い、天童は「ほんまに意味わからん」と小さく呟いた。
だが、ここまで来た以上、二人とも完全に引き返す気はないらしい。黒瀬はむしろ、面白ければ何でもいいという顔になりつつあった。
「まあええわ」
黒瀬が階段の方へ顎をしゃくる。
「そこまで言うんなら、見せてもらおか」
「……後悔しても知らんで」
天堂はそう言うが、その声に少しだけ好奇心が混ざっている。
デンジは少しだけ口元を上げた。
「絶対後悔しないっす」
自分でも不思議だった。
最初にこの店へ連れてこられた側だった自分が、今はこうして誰かを連れてくる側に立っている。
あの頃の自分が見たら、何をやってるんだと思うだろう。
デンジはそんなことを考えながら、先頭に立って階段を下りた。
湿った地下の空気が、少しずつ近づいてくる。
見慣れた木の扉の前で立ち止まり、二人を振り返る。
黒瀬は半笑い、天童はまだ警戒気味だ。
「じゃ、行きますよ」
「デンジ、責任取れよ」
「取りますって」
デンジは『メイド喫茶 すいーとべる』の扉を開いた。
ちりん、とベルが鳴る。
その瞬間、店の中からぱっと弾けるような、明るく甘い声が飛んできた。
「おかえりなさいませ、ご主人様!」
フミコ、コベニ、アサ、他にもデンジが見たことのある子から、見慣れない子たちまで、一斉にこちらを向いていた。
天童が一瞬たじろぐ。
「……ほんまにとんでもないとこやな」
「……せやけど、ここまで来たら楽しんだもん勝ちやろ」
黒瀬がそう言った時だった。
店の奥を見て、彼がふと首を傾げる。
「何や、女の子の客おるやん」
デンジもそちらを見る。
そして、そのまま視線が釘付けになった。
その客は――レゼだった。
卒業したはずの彼女が、客席の奥に座っていた。私服姿で、少し照れくさそうに、それでもちゃんとデンジを見ている。
二人の目が合う。
レゼは小さく、ほんの少しだけ手を振った。
「……え?」
デンジが固まる様子を見て、黒瀬がニヤリとする。
「何や、デンジの彼女か?」
デンジは一瞬、言葉を失い、それからようやく絞り出した。
「いや、ここの元メイドさん……っす」
そこで、デンジはフミコと目が合った。
ドッキリ大成功と言わんばかりに、にやにや笑っている。どう見ても仕掛け人の顔だった。
コベニもほっとしたように笑った。
「……よかったですね、デンジさん」
アサはいつもの平坦な顔に近いまま、しかし口元だけ少しだけ動かして言う。
「デンジ、ぼーっとしないの。案内するから」
そして、フミコがぱっと黒瀬と天童の前に出る。営業用の綺麗な笑顔を浮かべたまま、どこか悪戯っぽさの混じる声で言った。
「黒瀬さん、天童さんですよね? デンジさんの大事な先輩とうかがっております」
「お、おう?」
黒瀬が少し面食らったように目を瞬く。
フミコは胸の前で手を合わせ、わざとらしくも愛嬌たっぷりに続けた。
「本日はデンジさんの先輩ということで~、スペシャルなお席にご案内します。こちらへどうぞ」
「スペシャル?」
天童が静かに聞き返すと、フミコはにっこり笑う。
どう考えても、デンジをレゼと二人きりにするための采配だった。
黒瀬もすぐに察したらしい。にやっとして、わざと大げさに肩をすくめる。
「何や何や、そういうことかいな。気ぃ利く店やなあ」
「ごゆっくりしていってください」
コベニもぺこりと頭を下げる。
天童はデンジとレゼを一度見て、事情をだいたい飲み込んだようだった。ほんの少しだけ目元を和らげてから、黒瀬と一緒にフミコの後についていく。
「……じゃ、うちらは別席で楽しませてもらおか」
「えっ、あれっ、何が起きてんの!?」
デンジだけがまだ状況を飲み込み切れないまま返すと、黒瀬は通りすがりに低い声で囁いた。
「シャキッとせぇよ、デンジ」
「ウ、ウス……」
その様子を見ていたアサが、呆れたように小さく息をつく。
「ほんと分かりやすい」
そう言いながらも、彼女はちゃんとデンジをレゼの席へと案内した。
黒瀬と天堂は別の席へ案内される。
それを横目に見ながら、デンジはようやくレゼの向かいへ座った。
レゼは少し照れたように笑う。
「びっくりした?」
「そりゃするだろ」
デンジはまだ少し呆けたまま言った。
「何でここにいるんだよ」
「フミコが、今日デンジ君来るって教えてくれたから」
「……そういうことかよ」
「うん」
すると、アサがことりとグラスを置く。しゅわしゅわと炭酸の泡が細かく立つ、冷えたジンジャーエールだった。
「これ」
「……え?」
デンジが見上げると、アサはいつもの平坦な顔のまま言う。
「デンジ、よくこれ飲んでたから」
「お、おう……」
ぶっきらぼうなくせに、ちゃんと覚えている。
デンジが少しだけ面食らっていると、向かいのレゼがくすっと笑った。
「よかったね、覚えてもらってて」
「何か恥ずいんだけど」
アサはそれには答えず、淡々とレゼの前のグラスにも目をやる。
「じゃ、ごゆっくり」
それだけ言って、さっさと離れていった。
デンジは改めて目の前のジンジャーエールを見る。
この店で何度も飲んだ、見慣れたはずのグラスだった。なのに今日は、それが不思議と特別なものみたいに見えた。
レゼが自分のグラスをそっと持ち上げる。
「久しぶり、デンジ君」
デンジも少し遅れて、グラスを手に取った。
「……おう」
こつん、と小さくグラスが触れ合う。
派手でも何でもない音なのに、やけに胸へ残った。
店の中は相変わらず賑やかだった。遠くで黒瀬が「ほんまにラーメンあんねんな」と笑い、天堂が「意味わからんけど、思ったよりちゃんとしてる」と呟いている。けれど、デンジの意識はほとんど目の前のレゼに向いていた。
私服姿のレゼを、この店で見るのは妙に不思議だった。
デンジは前に彼女の私服姿を見た時を思い出す。
あれは、自分が転勤前最後にこの店に来て、その後、帰路に着こうとした時に、休みだったレゼが彼氏とのデート後に、店に駆けつけてきた、あの時だ。
「その顔、まだちょっと信じてないね」
「まあな」
「フミコ、楽しそうだったでしょ」
「めちゃくちゃな」
レゼが肩を揺らして笑う。
「私も、ちょっと楽しみにしてた」
「……相変わらずずりぃな、そういうとこ」
「知ってる」
さらっと頷かれて、デンジは少しだけ息を吐いた。
「でも、ほんとに来るとは思わなかった」
「何でだよ」
「仕事で来てるんでしょ? 普通はそのままホテル帰るじゃん」
デンジはグラスを持ち直した。
「会議は明日からで、今日は前泊で来てんだよ」
「あ、そういう感じなんだ」
「そこの先輩たちも『地元なんやから、ええとこ連れてけや』って俺に任せてくれたからさ、せっかくだからここ予約したんだよ」
「何だかオトナだね」
「前は忙しいとか、タイミング悪いとかで、結局来れなかったし」
「……うん」
「でも今回は東京出張って決まった時点で、あ、行けるじゃんって思った」
「それで来たんだ」
「せっかく転がってきたチャンス、逃したくなかった。まさかレゼが来てるなんて思ってなかったけど」
そこまで言ってから、少しだけ照れくさくなって、デンジは少し目を伏せた。
レゼの目元が少しやわらかくなる。
「……何か、前よりちゃんとしてるね」
「何だよそれ」
「前はもっと、その場の勢いで生きてる感じだった」
「ひでえな」
「でも今もデンジ君っぽいよ」
レゼはくすっと笑った。
「忙しいのに、来るって決めてちゃんと来たんだなって思った」
「来るって決めたからな」
「うん。そういうとこ、前より増えた」
その言い方が妙にくすぐったくて、デンジは少しだけ視線を逸らした。
大阪に行ってから、急に立派な人間になったわけじゃない。相変わらず仕事はだるいし、朝は眠いし、面倒ごとは避けたい。けれど、避けても結局あとで自分に返ってくることだけは、前よりわかるようになった。
来れる時に来る。掴める時に掴む。そうしないと、欲しいものほどそのまま遠ざかる。
「大阪、どう?」
「忙しい」
「やっぱり?」
「最近は特に毎日いっぱいいっぱいだったな。全部じゃねぇけれど、仕事回すの任されるようになったし」
デンジは肩をすくめる。
「自分の分だけやってりゃよかった頃より、めんどくせえ」
「でも、やってるんだ」
「やるしかねえ時はやるしかねえし」
レゼは少しだけ黙って、それから小さく笑った。
「大人みたい」
「何だそれ」
「前より、逃げなくなった感じする」
「……そうかもな」
昔の自分なら、出張で東京に来ても、疲れたとか明日早いとか、そういう理由をつけて流していたかもしれない。けれど今日は、そうしたくなかった。
レゼと会って、やっぱり来てよかったと思った。
思ったからこそ、このまま自分の話だけして終わるのも違う気がした。
「レゼは?」
「え?」
「俺ばっか話してるし」
「……ああ」
レゼはグラスに触れたまま、少しだけ視線を落とす。
「ここ卒業してから、どうしてんのかなって」
「普通に働いてるよ」
「会社?」
「うん。一応ちゃんと、一般企業」
少し冗談っぽく言うけれど、その言い方には前みたいな余裕が少し足りなかった。
デンジはそれに気づいて、何となく続きを待つ。
「大学も無事に出られたし、そのまま就職して」
「すげえじゃん」
「まあ、形だけはね」
「形だけって」
レゼは困ったみたいに笑った。
「そんなに上手くやれてる感じでもないよ」
「そうなの?」
「入ったばっかりだし、人間関係もまだ全然慣れないし」
「……ああ」
「別に嫌な人ばっかりってわけじゃないんだけど、気を遣うこと多くてさ。これ言って大丈夫かなとか、今話しかけて平気かなとか、そういうの考えてるだけで結構疲れる」
その言い方が、思っていたより素直だった。
店にいた頃のレゼは、もっと軽やかに人の懐へ入っていくように見えた。どこでも上手くやれそうだと、デンジは本気で思っていた。
だからこそ、少し意外だった。
「……レゼならどこ行っても上手くやれそうだけどな」
「それ、何かよく言われる」
「違うの?」
「違う時もあるよ」
レゼは小さく笑って、それから少しだけ肩の力を抜いた。
「お店にいた時は、わりと役割がはっきりしてたから」
「役割?」
「うん。私はこう振る舞えばいい、みたいなのがある程度わかってたの。メイドだし、お客さん相手だし」
「……あー」
デンジは少しだけ納得した。
レゼはここで、人に好かれることも、楽しい雰囲気にすることも上手かった。けれどそれは、何も考えなくてもできるという意味じゃなかったのだろう。
「会社だと、そういうのがもっと曖昧でさ」
「うん」
「どこまで踏み込んでいいのかとか、どこまで笑っていいのかとか、まだよく分かんなくて」
「そういうの、めんどくせえよな」
「でしょ? しかも、失敗しても誰も〝どんまいどんまい〟って空気にしてくれないし」
少しだけ冗談を混ぜて笑ったあと、レゼはまた静かになる。
「帰ると、思ったよりどっと疲れてる日も多いよ」
「……そっか」
そこでデンジは、変に気の利いたことを言おうとしてやめた。
大丈夫だとか、そのうち慣れるとか、そんなことはたぶん今のレゼにも分かっている。
だから、少し考えてから言う。
「でも、ちゃんとやってんだろ」
「……まあ、一応」
「じゃあ偉いじゃん」
「何それ」
レゼが笑う。
「子供扱い?」
「ちげえよ。普通に」
「普通に?」
「疲れるのに毎日行ってるんなら、ちゃんと頑張ってんじゃん。そういうの普通に偉いって」
レゼは目を瞬く。
ほんの少しだけ、意表を突かれたような顔だった。
「……そういう言い方、するようになったんだ」
「何だよ」
「いや、前のデンジ君だったら、もっとこう」
「もっとこう、何だよ」
「気合いで何とかなるだろ! とか言いそう」
「言わねえよ、多分」
「多分なんだ」
くすっと笑ってから、レゼはグラスを両手で包むみたいに持った。
「でも、ありがと」
「おう」
「何か、そういうふうに言われるとちょっと楽かも」
「ならよかった」
それは派手なやりとりじゃなかった。
でも、デンジにはその「ありがと」が、さっきまでの笑い方より少しだけ奥に届いた気がした。
少しの間が落ちる。
遠くでは黒瀬たちの席から笑い声がして、フミコの通る声が店の空気を明るくしている。
そのにぎやかさの中で、二人の卓だけ時間が少しゆっくり流れているようだった。
「会社の人とは、まだそんな仲良くないの?」
「うーん、ちょっとずつって感じ」
「飯行ったりとか」
「あるにはあるけど、まだ様子見かな」
「へえ」
「同期の子と話したりはするよ。でも、すごい何でも話せるってほどじゃない」
「まあ、そんなすぐは無理か」
「うん」
レゼは頷いて、それから少しだけいたずらっぽく笑った。
「デンジ君、意外とそういうのちゃんと分かるんだね」
「俺だってそれなりにやってんだよ」
「そっか」
そこでデンジは、前に階段で会った夜のことを思い出した。
私服のレゼ。デート帰り。彼氏と、と軽く言った声。
あの時は、聞けなかった。
いや、聞くところまで行けなかったという方が近い。
でも今は、仕事の話から、そのまま地続きで聞ける気がした。生活が変わったのなら、隣にいる人間のことだって変わっているかもしれないと、そういう自然さで。
デンジはグラスを置く。
「……そういやさ」
「ん?」
「今、休みの日とか何してんの」
レゼは少し考える。
「寝てる日もあるし、買い物行ったり、友達と会ったりかな」
「友達か」
「うん」
「……彼氏とかは」
デンジがそう言うと、レゼの指先が、ほんの僅かに止まる。
「前にさ」
デンジは、逃げずに続ける。
「彼氏いるって言ってたよな」
「うん」
「今も?」
レゼはすぐには答えなかった。
その短い沈黙の間に、デンジは自分でも少しだけ喉が渇くのを感じた。けれど、ここはもう逸らしたくなかった。前に聞いたことがあるからこそ、そこを曖昧にしたまま踏み込むのは違うと思った。
やがてレゼは、静かに首を振る。
「……今は、いないよ」
短い返事だった。
デンジはそれを聞いて、一つだけ頷いた。
「そっか」
昔の自分なら、たぶんここで変に気まずくなって終わっていた。聞いてしまったことを後悔して、恥ずかしくなって、別の話題へ逃げていた。
でも今は、それで終わらせたくなかった。
「じゃあ、言うわ」
レゼが目を上げる。
その目を見たまま、デンジは続けた。
「今回、東京来るチャンスが出来たから来た」
「うん」
「で、レゼに会ったら余計はっきりした」
「……何が?」
「俺、このままは嫌だ」
レゼが黙る。
「出張でたまたま来た時に会えるかも、とか」
「……うん」
「店でバッタリ会って終わりとか、そういうの」
デンジは少しだけ前へ乗り出した。
「だから、連絡先教えて。次は俺が誘う」
一拍遅れて、レゼの目が丸くなる。
驚いたみたいに見えた。でも嫌そうではなかった。むしろ、ずっと息を詰めていたものが、不意にほどけたみたいな顔だった。
「……あはは」
「何だよ」
「いや」
レゼは少し困ったみたいに、でも嬉しそうに笑った。
「ちゃんと彼氏いるか聞いてから来るんだなって思って」
「……当たり前だろ。他人の彼女取る気はねぇ」
「えらいね」
「その言い方やめろ」
そう返すと、レゼはますます笑う。
「でも、嬉しい」
「……そっか」
「うん」
レゼは鞄から携帯を取り出した。
「いいよ。交換しよ」
「おう」
連絡先を交換するデンジの手元は、落ち着いていた。緊張していないわけじゃない。けれど、さっきまでみたいに相手の出方を待つ感じではなかった。
自分で聞いた。自分で踏み込んだ。そう思うだけで、少しだけ腹の底が落ち着く。
「入った?」
「入った」
「私も」
レゼは画面を見て、それから大事なものをしまうみたいに携帯を伏せた。
「ちゃんと連絡してね」
「する」
「ほんとに?」
「次は俺が誘うって言っただろ」
「……うん」
その返事だけ、少し小さかった。
さっきまで余裕ありげに笑っていたくせに、そこで少しだけ照れたのがわかる。デンジはそれを見て、ようやく少し笑った。
「レゼ」
「ん?」
「今日、来てよかった」
「……私も」
レゼはそう言って笑う。
その笑い方は、メイドの時の営業用のものとは違った。店の中で初めて見るような、少しだけ力の抜けた、でも、ちゃんと嬉しそうな顔だった。
店の中には甘いBGMが流れていて、誰かの笑い声と食器の触れ合う音が小さく響いている。
デンジも少しだけ笑って、グラスを持ち上げた。
またレゼに会える、と思った。
今度は前より、ちゃんと。
地下のベルが鳴るたびに 完
*****
あとがき
作者のルイです。拙作を最後まで読んでいただき、誠にありがとうございました。
また、『メイド喫茶 すいーとべる』にも足を運んでいただきありがとうございます。
この小説は、作者の実体験がきっかけになっています。第一話でデンジがフミコに飲まされた、歯磨き粉入りのカシスソーダのくだりです。私も気合いで飲み切って、メイドとチェキを撮るところまではしたのですが、その店には二度と足を運びませんでした。普通にトラウマになったので。
この話をデンレゼ現代パロにしてみたら長編一本書けるのではないかと思い、昨年から、他シリーズと並行してちょっとずつ書き進め、この度短期集中連載という形でお送りしました。
ご主人様のデンジと、メイドのレゼの物語はこれにてお終いです。
ご主人様でもメイドでもなくなった二人の未来は、これから明るく続いていくと思っています。
現実で、客とスタッフが結ばれることは稀だと思いますが、藤本先生の作品のセリフを引用して「ファンタジーをひとつまみ」ということで。
爆発がない? それならばこれから共に歩むであろう二人にこう声をかけてあげてください。
末永く爆発しろ! と。
全てのデンレゼファンにも幸あれ!