地下のベルが鳴るたびにーデンレゼifー 作:ルイ(Louie)
デンジは思う。給料日後の財布は、人を少しだけ馬鹿にすると。
先月までの自分なら、絶対に足を踏み入れない思った場所へ、今月の自分は平気な顔で向かっているのだから、そうとしか言いようがなかった。
彼は夕方の繁華街を一人で歩きながら、雑居ビルの谷間に落ちる薄い影を踏んでいた。
そして、あの地下へ続く階段だけは相変わらず別の世界への入口みたいな顔をしていた。
『メイド喫茶 すいーとべる』。
先月、歯磨き粉入りカシスソーダを飲まされた、メイド喫茶。
正直、またここに来るかデンジは迷った。酷い目には遭った。しかし、あの時ほとんどまともに話せなかった紫髪のメイド――レゼの笑顔を何度も思い出してしまった。
あの時は指名を迷っているうちに先を越された。あの負け方は、なんというか、情けなかった。
だから今日こそは、ちゃんとレゼを指名する。そう決めて、彼は階段を下りた。
地上の光が一段ごとに背中から遠ざかる。あの店へ行く前のこの階段だけで、すでに少しわくわくしている自分がいて、デンジはなんとなくそれが癪だった。
木製の扉を開く。ちりん、とベルが鳴る。
「お、おかえりなさいませ、ご主人様」
迎えたのはコベニだった。
少しおどおどしていて、声も控えめで、けれど、先月よりはちゃんと目を合わせてくる。店内は前回より賑やかだった。狭い店なのに、今日は客の入りが目に見えて多い。テーブル席もカウンターもかなり埋まっていて、メイドの数も増えている。
給料日後だからそりゃそうか、とデンジは思った。
考えることはみんな同じらしい。
「……入れる?」
「は、はい。大丈夫です」
コベニはそう答えてから、少しだけ首を傾げた。
「……あの、デンジさんでしたっけ」
「え? 俺んこと覚えてんの?」
「は、はい」
コベニは困ったように眉を下げる。
「フミコ先輩のスペドリ飲み干したの、開店以来デンジさんだけなので……ちょっとした伝説になってるんですよ」
デンジは真顔になった。
「嬉しくねえ」
「す、すみません……!」
「いやコベニちゃんが謝ることじゃねえけど……なんだよ伝説って」
コベニは恐縮しながらも、少しだけ笑った。
席に案内されながら、デンジはすぐ店内を見回した。その間、あちこちから「おかえりなさいませ」の甘い声が上がる。
デンジはその声にいちいち照れながらも、目当ての相手を見つけた。
レゼがいた。
だが、すでに別の卓についていた。
指名客らしき男の向かいで、レゼは楽しそうに笑っている。紫の髪が照明を受けて柔らかく光り、緑の目が細められるたび、やっぱり可愛いなとデンジは思ってしまう。だが今その笑顔は自分に向けられていない。
デンジの肩が、わかりやすく落ちた。
コベニが小声でフォローする。
「あ、あの、電話予約もあるんですよ」
「……よ、予約?」
「はい。レゼさん人気ナンバーワンなので、予約はした方がいいです」
「そうなんだ……」
まあそうだろうな、と思う。あれだけ可愛ければ人気が出ない方がおかしい。
「次からは、来る前に電話もらえれば……」
「次があったらな……」
そう言いながらも、デンジは内心で少し反省した。勢いだけで来るからこうなるのだ。
その頃、レゼは接客の合間にちらっと入口側を見ていた。
――あ、来た。
すぐにわかった。
先月の、歯磨き粉入りカシスソーダを、飲み切った初来店の子。彼女の中で、デンジの顔と名前はちゃんと結びついている。
しかも今日は、一人だ。
前回と違って、自分の意思で来たんだな、とレゼは思った。
それだけでも少し印象が変わる。
そしてコベニに何か言われて、露骨に肩を落としたデンジを見て、少しだけおかしくなった。
(あ、私、狙いだったんだ)
そう思うと、くすぐったいような、ちょっと嬉しいような気分になる。
+++
席に座ってからも、デンジはもう一度店内を見渡した。そして今度は別のことに気づいた。
「……フミコは?」
何気なくそう聞くと、コベニの肩がぴくっと揺れた。
「ふ、フミコ先輩ですか?」
「うん。いや、別に会いてえとかじゃねーけど」
半分は本当で、半分は嘘だった。
会いたいというより、いないならいないで不気味だった。先月あれだけ濃く絡んできたやつが今日は店にいないとなると、それはそれで拍子抜けする。
コベニは言いにくそうに声を潜めた。
「その……今日はイベント準備してて……」
「イベント?」
「は、はい。週末限定の特別ゲーム企画を、フミコ先輩が考えて……」
「ろくでもなさそう」
「ろ、ロシアンルーレット寿司っていう……」
デンジは数秒黙った。
「……何それ」
「えと……。六貫のうち、一個だけすごく刺激の強いのが混ざってて……」
「何だその、罰ゲームで盛り上がる前提のイベント」
「で、でも、盛り上がるって……」
「誰が?」
「フミコ先輩と、一部の常連さんが……」
「やべぇなこの店」
呻いたその時だった。
「その言い方、失礼じゃないですかぁ?」
聞き覚えがありすぎる声が、暖簾の向こうから飛んできた。
デンジが顔を向けると、厨房の奥からフミコが出てきた。前髪を両側で結んだあの髪型。金色のネームプレート。メイド服の上に何故かエプロンまでしていて、おまけに片手には寿司下駄を持っている。
「お帰りなさいませ、伝説のご主人様」
フミコはにやっと笑う。
「二回目のご帰宅、ありがとうございます」
「その伝説ってのやめろ」
「えー? 店内で一番通りがいいのに。伝説のデンジさん」
「韻踏んでるのが最悪だ」
フミコはレゼのいる卓へちらりと目をやった。
「で、あっち見てたってことは、狙いはやっぱりレゼさんでした?」
「……別に」
「うわ、わかりやす」
「うるせえな」
「でも残念でしたねぇ。レゼさん今日めちゃくちゃ埋まってるんで」
「コベニちゃんにも言われた」
「予約しないとダメですよ。あの子ほんと人気なんで。この前来た時はラッキーチャンスだったんですからね?」
その言葉を、レゼは遠くからちらっと聞いていた。
『狙いはレゼさんでした?』
フミコがそう言って、デンジがちゃんと否定しきれていなかった。
そこでレゼは、自分でも少し意外なくらい、素直に嬉しくなった。
「なので、今日は諦めて私たちで我慢してください」
「え? 私たち?」
コベニが肩をビクッと震わせる。
「俺ぁ、別に指名しなくても……」
「デンジさんには、ちょーっとお手伝いしてもらいたいことがあるんですよねぇ」
「はぁ? 何で俺なんだよ」
「伝説なんで、レジェンドなんで」
「まだ二度目だぞ俺」
フミコは勝手に向かいへ座った。コベニも手招きされてフミコの隣に座る。
「デンジさんにはイベントの、デモンストレーションに付き合って欲しいんですよ」
「さっきコベニちゃんが言ってたな」
「ロシアンルーレット寿司。簡単に言うと、お寿司版の運試しゲームです」
「そのまんまだな」
「六貫のうち五貫は普通に美味しいお寿司。残り一貫だけ、フミコ特製の刺激寿司が混ざってます」
「何が入ってんだよ刺激寿司」
「企業秘密です♡」
「絶対ろくでもねえだろ」
フミコは人差し指を立てた。
「ちなみに先週の試作品は、わさび三倍、からし、柚子胡椒、七味、刻み生唐辛子、山椒、タバスコ、あとちょっとした愛情をブレンドした軍艦でした」
「愛情でチャラにしようとすんな」
「でも見てください、この前歯磨き粉飲み切った男がいるんですよ!」
「その話に戻すな!」
声が少し大きくなり、隣の卓の常連らしき男がちらっとこちらを見て笑った。やはりこの店ではもう普通の客ではいられないらしい。
フミコはさらに身を乗り出した。
「デモンストレーションに付き合ってくれたら、特典を差し上げます」
「……特典?」
「私に勝ったらチェキ一枚無料」
デンジはぴくっと反応した。
「……誰とでも?」
「はい。勝ったらレゼさんとのツーショットチェキ券、私が口利きしてあげてもいいですよ」
デンジは黙った。
その沈黙の意味を、フミコは正確に理解したらしい。
「釣れた〜♪」
「う、うるせえ」
「わかりやす」
「うるせえって言ってんだろ!」
コベニが本気で不安そうな顔をしている。
「あ、あの……フミコ先輩、デンジさんにまた変なの勧めるの、ちょっと……」
「大丈夫だって。今回はちゃんと食べ物だし。前回も一応、飲み物ではあったし」
「でも歯磨き粉入りでしたよね……?」
「細かいこと気にしないの〜」
先輩後輩メイドのやり取りをデンジは腕を組んだまま見つめていた。そして考えた。
レゼとのチェキ券。
今日は指名は無理そうだ。けれどチェキだけなら、短い空き時間にねじ込める可能性はある。フミコが本当に口利きできるのかは怪しいが、ただのホラでもなさそうだった。
それに、今日はここへちゃんとレゼ目当てで来ている。
何もできずに帰るのは、あまりにも締まらなかった。
「……で、その寿司って何貫食うんだよ」
「お。乗ってきましたねぇ。六貫全部です」
「全部!?」
「ロシアンルーレットなんで」
「一個食って終わりじゃねえのかよ!」
「それだと誰がはずれかわかんなくて盛り上がらないじゃないですか」
「盛り上がりの方向全部間違ってる!」
「あと一応、私も一緒にやります」
「……アンタも食うの?」
「食べますよ。同じやつ」
「自分で仕込んだのに?」
「はい」
「アホなのか」
「ロシアンルーレットは平等じゃないとつまんないでしょ」
その答えは、なんだか妙にフミコらしかった。性格は悪いが、自分だけ安全圏から眺めるタイプでもない。面白そうだと思ったら、自分も飛び込んでくる。そのせいで余計たちが悪いとも言えるが。
デンジは鼻を鳴らした。
「……じゃあやる」
コベニが「ええっ」と小さく悲鳴を上げる。
フミコは一瞬だけ目を丸くし、それからぱっと笑った。
「いいですねぇ、そう来なくちゃ」
「ただし」
デンジは指を差す。
「チェキ、本当にレゼで頼むぞ」
「現金ですねぇ」
「今さらだろ」
「いいですよ。勝ったら交渉します」
「勝ったらって、何をもって勝ちなんだよ」
「えーと。よりダメージが少ない方?」
「曖昧すぎるだろ」
フミコは立ち上がり、ひらひらと手を振った。
「じゃ、準備してきまーす。コベニ、見届け人やって」
「わ、私ですか!?」
「公平性のために」
「私がいても公平になる気がしません……」
フミコは暖簾の向こうへ消えた。
取り残されたデンジは、少しだけ不安になった。
「……俺、何やってんだろ」
「い、今ならまだやめられますよ……?」
「うん……まあ、そうなんだけどよ」
「前回も、見ててほんとに危なっかしかったので……」
そのやり取りをしながらも、デンジは店の奥をちらちら見てしまう。レゼが時々こちらを見て、何やら面白そうに笑っているのがわかる。
あの顔を見ると、余計に引けなくなる。
レゼの方も、ついそちらを気にしてしまっていた。
――やるんだ、ほんとに。
前回だけの勢いじゃないんだな、と思う。
この子は私に会いに来て、会えないってわかって、それでフミコの変な企画にまで乗ってる。
そこまで来ると、もう「ちょっと気になる客」から一歩進む。
しばらくして、フミコが戻ってきた。
手には寿司下駄が二枚。
それぞれに六貫ずつ、色とりどりの寿司が並んでいる。マグロ、サーモン、えび、たまご、いなり、軍艦。ぱっと見は普通にうまそうだった。
普通にうまそうなのが、逆に怖かった。
「お待たせしました~。フミコ特製・メイド喫茶流ロシアンルーレット寿司です」
「どこにメイド喫茶要素があんだよ」
「愛情♡」
「またそれか」
コベニが脇に立ち、なぜかメモ帳まで持っていた。
「じゃ、じゃあ……進行します……」
「コベニちゃんも、何でそんなちゃんとしてんだよ」
「フミコ先輩に実況してって言われて……」
「この店、悪ノリに対する機動力だけ高えな」
ルールは簡単だった。順番に一貫ずつ食べる。はずれを引いても最後まで食べる。逃げたら負け。飲み物は水のみ。
勝ち負けの判定は、リアクションのデカさ見てコベニが決める。
第一巡目。
デンジはいなり。フミコはサーモン。
どちらも普通にうまい。
第二巡目。
デンジはえび、フミコはたまご。
これもセーフ。
第三巡目。
デンジはマグロ、フミコは軍艦。
フミコが軍艦を食べた瞬間、ほんの一瞬だけ眉が跳ねた。
「おい今なんか来ただろ」
「……いえ?」
「来てる顔だろ」
「気のせいです。ちょっとワサビがツンときただけ」
そう言いつつ耳が少し赤い。
コベニが小声で実況する。
「ふ、フミコ先輩、ちょっとだけ効いてるように見えます……」
「コベニ、実況は公平に」
「実況ってそういうものじゃないんですか……?」
デンジは思わず笑いそうになった。
第四巡目。
残りは三貫。
デンジはたまごを選んだ。見た目は普通だ。フミコはマグロを取る。
デンジがたまごを口に入れた、次の瞬間。
「――っっっ!!」
頭のてっぺんまで、何かが突き抜けた。
鼻の奥が一瞬で灼ける。わさび、唐辛子、からし、山椒、あらゆる刺激がまとめて襲いかかってくる。たまごの甘さが逆にそれを強調していた。
デンジは箸を握ったまま固まった。
向かいでフミコの目が輝く。
「お〜〜?」
「……っ、っ……!!」
「デンジさん、顔」
「う、うるせぇ……っ!」
喋った瞬間、さらに鼻へ抜ける。目頭が勝手に熱くなり、涙がにじむ。
コベニが真っ青になる。
「で、デンジさん大丈夫ですか!?」
「だ、大丈夫……!」
「絶対大丈夫じゃないじゃないですか!」
水を飲みたい。けれどここでがぶ飲みしたら負けな気がする。その「負け」が何なのか、自分でもよくわからないのに、意地だけははっきりしていた。
フミコがものすごく楽しそうに身を乗り出してくる。
「どうです? 今回の当たり。じゃなくてはずれ」
「お前、絶対前回より悪化させてんだろ……!」
「企業努力です」
「努力の方向が終わってる」
デンジは涙目のまま、どうにかたまごを噛んで飲み込んだ。
その瞬間、横の卓から拍手が起きた。
「すげーな兄ちゃん!」
「そこまで耐えるのはさすが伝説!」
「伝説って呼ぶな!」
レゼがカウンター越しに手を叩いて笑っているのが見えた。可愛い。可愛いけど今はそれどころじゃない。
でも、その笑っている顔を見て、デンジの中の変な意地がさらに燃えた。
ここで終わりたくない。
フミコが言う。
「でもこれで、デンジさんが先に地雷引いたんで」
「……あ?」
「私が普通に最後まで食べ切れば、私の勝ちですねぇ」
その一言は、辛味とは別方向にデンジの闘志を刺激した。
デンジはゆっくり顔を上げる。目は潤んでいるし鼻も赤いが、視線だけは妙に据わっている。
「……じゃああんたも早く食え。平等なんだろ」
「まあそうですけど」
「逃げんなよ」
その煽りに、フミコの眉がぴくっと動いた。
「言いましたねぇ」
「言った」
「じゃあ次で私が引いたら――レゼさんチェキ券に加えて、今日の席料半額にしてあげます」
「アンタにそんな権限あんの?」
「たぶん」
「たぶんで店回してんじゃねえ」
第五巡目。
フミコは少しだけ真剣な顔で残りの寿司を見比べ、えびを取った。
「来い」
「念送るのやめてもらっていいです?」
そして一口で食べる。
もぐもぐと噛む。
飲み込む。
一秒。二秒。三秒。
――ぴたりと、フミコの動きが止まった。
デンジは見た。その目が一瞬だけ見開くのを。
「来たな?」
「……」
「来たな!?」
「っ、~~~~!!」
フミコが無言で水へ手を伸ばした。
「あっ、おい」
「……んぐっ」
「おい!!」
デンジが身を乗り出すと、コベニが珍しく大きな声を出した。
「フ、フミコ先輩、水飲みました! デンジさんは水我慢したので……この勝負デンジさんの勝ちです!」
店の空気が一瞬で沸いた。
常連卓がまた拍手し、カウンターの向こうでレゼが笑い転げ、厨房の奥から見たことのないメイドが「チーフやられたんですか!?」と顔を出す。
フミコは水を飲んだあと、悔しそうに目尻を押さえた。
「……っ、今回、強……」
「自分で仕込んだんじゃねえのかよ!」
「……今日は盛り付けだけ私で、調合は厨房担当の子に任せたんですよ……」
しばらく咳払いしたあと、フミコは悔しそうに、それでも笑って言った。
「……デンジさん」
「なんだよ」
「おめでとうございます。レゼさんチェキ券、席料半額、あと私の負け認定でいいです」
「ついでに言うな」
「いやあ、まさか私が先に水使うとは」
「煽っといて自爆してんじゃねえよ」
そこで二人は一瞬顔を見合わせ、同時にちょっと笑った。
辛さでぐしゃぐしゃになった顔同士で笑うのは、かなり間抜けだったと思う。だが、それが妙におかしかった。
そのあと、本当にフミコはレゼのところへ行って何やら交渉し、数分後、信じられないことにレゼがこちらへやってきた。
「はーい、頑張ったご褒美だよ、デンジ君」
その一言だけで、さっきまでの辛味が少し薄れた気がした。いや、実際には鼻の奥がまだ痛いのだが、気分の問題である。
レゼはくすくす笑いながら寿司下駄を見た。
「フミコに勝つなんてすごいね」
「勝ったっつーか……フミコが自爆した」
「言い方」
フミコが横でむくれる。
「でも約束は約束です。ほら、レゼさん、チェキ」
「はーい」
レゼが自然にデンジの横へ来る。
近い。
今回もほとんどまともに話せなかったぶん、その距離だけでデンジはちょっと硬くなった。
それを見てレゼが笑う。
「また固くなってる」
「う、うるせえ」
「デンジ君、相変わらずわかりやすいね」
「わかりやすい男で悪かったな」
「悪くないよ。可愛いし」
その言葉に、デンジはますます何も言えなくなる。横からフミコが「うわ、チョロ」と小声で言ったが、今は反論できなかった。
チェキは、普通に撮られた。
今回は片ハートではなく、レゼが少しだけ肩を寄せ、デンジがぎこちなくピースをする、ただそれだけの一枚だった。
ぱしゃり、と音が鳴る。
現像を待つあいだ、レゼは「今日のデンジ君、前より顔赤いね」と笑い、デンジは「辛ぇんだよ」とぶっきらぼうに返した。
やがて像が浮かび上がる。
それを受け取った時、デンジは前回とは別の意味で、妙に胸がむずむずした。
「どう?」
「……いい」
「それだけ?」
「いや、なんか……普通にいい」
「ふふ」
レゼは満足そうに笑った。
デンジがそう言うたび、レゼは少しだけ嬉しくなる。彼は気の利いたことを言うタイプじゃない。でも、だからこそ雑な言葉にそのまま本音が乗る。
そういうところも、前より少しわかってきた気がした。
会計の時、フミコはちゃんと席料半額にしていた。どんな交渉をしたのか知らないが、本当に権限があったのか、勢いで通したのかは最後までよくわからなかった。
「じゃあありがとうございましたー」
レジ横でフミコが言う。
「また何か新企画考えときますね」
「やめろ」
「次はロシアンルーレットプリンとか」
「やめろっつってんだろ」
「えー、絶対盛り上がるのに」
「盛り上がりいらねえから、普通に可愛い店でいてくれ」
レゼが横で笑い、コベニは「私も普通がいいです……」と小さく呟いていた。
店を出る時、レゼがひらひらと手を振った。
「今度はちゃんと予約してね、デンジ君」
「……おう」
その返事だけは、やけに素直に出た。
レゼはその素直さに少し笑う。
たぶん、本当にまた来るんだろうなと思った。前回よりも、その確信は少しだけ強くなっていた。
扉が開き、ベルが鳴る。地下の湿った空気を背に、デンジは階段を上った。
手には今日撮ったレゼとのチェキ。自宅には、前回のチェキもある。
なんだかんだで、二枚になっていた。
地上へ出ると、給料日後の街はさっきより少しだけ夜に近づいていた。ネオンが本格的に灯り始め、人の声も増えている。
デンジは歩きながら、財布の中を一度だけ確かめた。
レゼとの普通に可愛いチェキ。
「……何でこうなるかな」
思わず呟く。
今回でわかったことが一つある。
自分はたぶん、あの店に「普通の客」として行くことはもうできない。
レゼ目当てで行っても、結局どこかでフミコが絡んできて、話を変な方向へ曲げていく。しかも自分も、なんだかんだでそれに乗ってしまう。
最悪だ。普通に可愛いレゼと話したいだけなのに。
でも、少しだけ面白い。
デンジはそう考えてから、舌の奥にまだ残る辛味を思い出し、顔をしかめた。
「……いや、やっぱ最悪寄りか」
そう言いつつ、足取りは思ったほど重くなかった。
そしてその数日後。デンジはコンビニの公衆電話の前で、予約ってどうやるんだろうな、と少しだけ考えることになるのだった。