地下のベルが鳴るたびにーデンレゼifー 作:ルイ(Louie)
もうレゼに忘れられてるんじゃないかと、心配になりながら、飲み会帰りに初めて夜営業中の店に足を運んだ
ひと月、という時間が長いのか短いのか、デンジにはよくわからなかった。
毎日の仕事や用事や、細かい面倒ごとに追われているうちに過ぎたと思えば、あっという間でもある。けれど、いざ『メイド喫茶 すいーとべる』に最後に行った日を思い返すと、妙に昔のことみたいにも感じる。
ちゃんと予約してレゼに会えて、イベントだの何だので死ぬほど照れて、最後にはメッセージカードまでもらった。あの日は、今までの中ではだいぶ「上手くいった日」だった。
だからこそ、そのあとが問題だった。
忙しかった。
仕事の都合で予定が詰まる日が続き、終わったと思えばプライベートでも細かい用事が重なった。今日は疲れてる、今週は無理、来週こそ!と思っているうちに、気づけばひと月くらい経っていた。
デンジは仕事帰りの電車で窓に映る自分の顔を見ながら、ぼんやり思った。
こういうのって、ゲームだったら絶対よくないやつじゃねえか、と。
イベントを一回こなして、ちょっといい感じの会話も発生して、「また来てね」まで言われたのに、そこから長いこと起動しなかったら、なんか全部ふりだしに戻ってそうな感じがする。
『好感度リセット』という単語が頭に浮かぶ。
別にレゼと自分の関係がゲームみたいに数値化されてるわけじゃない。そんなのはわかっている。わかっているが、感覚としては近かった。
(ひと月ぶりって、向こうからしたらほぼ他人じゃねえか?)
前回のカードとかチェキとか、デンジにとってはまだ記憶に新しいけれど、レゼは毎日いろんな客と会っているわけで、そんな中の一人が少し来なくなったところで、「ああ、あいつ最近来ないな」なんていちいち思うわけがない。
そう考え始めると、苦しくなる。
予約を取って、ちゃんと行くべきなんだろうな、とは思う。けれど、ひと月空いたあとの一発目を、わざわざ正面から取りに行くのも彼にとっては、妙に勇気が要った。
そしてそのまま、もう少しだけ時間が経った。
+++
その夜、デンジは仕事の付き合いで飲みに出ていた。
べろべろになるほどではない。そもそも彼はそんなに飲める方でもないし、相手が仕事関係ならそこまで崩れる気にもならない。ただ、二杯か三杯か、そのくらいの酒が入った頭と体は、いつもより少しだけ熱を持っていた。
店を出た時、夜風が顔に当たってちょうどよかった。
時計を見ると、まだ二十二時には少し間がある。
繁華街のネオンはもうすっかり夜の色をしていて、通りを歩く人たちの足取りも、昼間や夕方とは違う。どこか肩の力が抜けていて、あるいは逆に、これからまだどこかへ流れていきそうな顔をしている。
その中を歩いていて、デンジはふと立ち止まった。
見覚えのある雑居ビルが、すぐ近くにあった。
地下へ続く細い階段。脇に出た、少し可愛すぎる看板。昼間よりもネオンの光に縁取られて見える木の扉の気配。
あの店だ。『メイド喫茶 すいーとべる』
「……」
デンジは数秒、何も考えずに立っていた。
いや、考えていないわけじゃない。むしろ余計なことばかり考えていた。
ひと月以上空いた。予約もしていない。今から入ってどうするんだ。
レゼがいる保証もない。いたとして、自分のことを覚えてるかもわからない。
でも、近い。せっかく近くまで来てる。少しだけ酒も入ってる。
少しだけなら。本当に少しだけなら。
そういう都合のいい考えが、酒のせいかいつもより頭の中でまとまりやすかった。
「……ちょっとだけ、なら」
誰に言い訳するでもなくそう呟いて、デンジは階段を下り始めた。昼や夕方に来る時とは、地下へ降りる感覚が少し違った。
この店、夜もちゃんとやってたんだな、とデンジは今さら思う。
考えてみれば当たり前だ。夜営業してるなんて、別に珍しいことじゃない。けれど今まで自分が来たのは、いつも日中か夕方くらいだった。飲み会終わりに少し酒が入った状態で、ここへ来たことは一度もない。
木の扉の前に立つ。
いつもより少しだけ静かだ。外が静かなわけじゃない。むしろ夜の繁華街は昼より賑やかなはずなのに、この扉の向こう側へ意識が向いているせいで、耳がそっちばかり拾っている感じだった。
デンジは一度だけ呼吸を整え、扉を開いた。
ちりん、とベルが鳴る。
「お、おかえりなさいませ、ご主人様」
迎えたのはコベニだった。その瞬間、デンジはほんの少しだけ安心した。
夜の店は、思っていたよりずっと同じ店のままだった。コベニの声も、少しおどおどした立ち方も、見た瞬間に「ああ、ここだ」と思えるくらいには、もう馴染みのあるものになっている。
ただ、空気は少し違った。
照明はいつもより落ち着いて見えた。オレンジ色の光が低く店の中を包んでいて、カウンターの木目もテーブルも、昼より影が深い。客層も少しだけ大人寄りで、話し声のボリュームも全体に低い。甘いBGMは流れているが、昼間の「わちゃわちゃした可愛さ」より、「夜の店としての柔らかさ」が先に立っていた。
地下の狭い店のアングラ感が、夜になると少しだけはっきりする。
同じ店なのに、見え方が違う。
「あっ……デンジさん!」
コベニは目を丸くした。
「こんな時間に珍しいですね」
デンジは曖昧に頷いた。
「ちょっと近く通ったから」
「……ちょっとお酒飲んでます?」
「そんなにわかるか?」
「顔、少し赤いです……」
言われて、自分でも頬が少し熱いことに気づく。酔ってるというほどじゃないが、シラフでもない。それが妙に落ち着かない。
コベニは心配そうに首を傾げた。
「だ、大丈夫ですか?」
「大丈夫。別にふらついてねえし」
「そうじゃなくて……」
「ん?」
「えっと、その、こんな時間に来たの、レゼさんがいるかもって思ったんですよね……?」
図星だった。
デンジは少し黙ってから、視線を逸らした。
「……まあ」
コベニは小さく、でもちょっとだけわかったように頷いた。
「いますよ」
その二文字だけで、腹の奥がぴくっと動いた。
「……いるんだ」
「はい。今、あっちの卓です」
コベニが視線で示した方を見る。
いた。
レゼは店の奥寄りの席で、客と話していた。昼間より少し落ちた照明の中だと、紫の髪はより深く見える。笑う時の横顔も、やっぱり綺麗だった。
その姿を見ただけで、ひと月ぶりの不安が少しだけ解ける。
ちゃんといる。少なくとも今日は、空振りじゃない。
でも同時に、別の不安も出てくる。
ひと月ぶりだ。向こうは「久しぶり」と思うのか、それとも、ただの店員として普通に接するだけなのか。
デンジは席へ案内されながら、ぼそっと言った。
「……こういうのってさ」
「はい?」
「間、空くと駄目になんのかな」
「駄目、って?」
「いや、その……ゲームで言うと、好感度リセットみてえな」
コベニは足を止めかけた。
「ゲームじゃないですよ……」
「わかってるけどよ」
「レゼさんはそういうのする人じゃないと思います……」
「そういうのって何だよ」
「忘れるとか、そういう……」
コベニは少し考え込むように言う。
「たぶん、大丈夫です」
「たぶんかよ」
「でも、来たことは覚えてると思います……たぶん」
「今日、たぶんが多いな」
「自信満々に言って違ったら嫌なので……」
その慎重さがコベニらしくて、少しだけ気が緩んだ。
席に座ると、夜の店の空気が改めて近く感じられた。話し声は近いのにうるさくなくて、店の狭さが昼間よりもむしろ落ち着く方向に働いている。甘い匂いに混ざって、だしやスープっぽい匂いがかすかにした。夜限定メニューとかあるのかもしれない、とふと思う。
その時、レゼがデンジに気づいた。
一瞬だけ、二人は目が合う。
レゼはほんの小さく目を丸くして、それからちゃんと笑った。
その笑顔で、デンジの中の「好感度リセット」だの何だのは、だいぶくだらなく思えた。
レゼの方も、素直に嬉しかった。
――あ、来た。
彼女はまずそう思った。
それから、久しぶりだな、と思う。
特に最後に会ったあの日は、ちゃんと予約して、自分の時間を取りに来てくれた。
だから今夜、予約もなしにふらっと来たその顔を見た時、レゼは少しだけ肩の力が抜けるのを感じた。
ちゃんとまた来たんだ、と思った。
少しして、レゼがデンジの卓に来た。
「久しぶり、デンジ君」
第一声がそれだった。忘れられてはいなかった。それだけで、デンジは少し安心する。
「……おう」
「ちょっと会わなかったね」
「何だか忙しくて」
「そっか。仕事?」
「まあ、いろいろ」
レゼは目を細めた。
「また来てくれてよかった」
その言い方が、昼間より少しだけ落ち着いて聞こえた。夜の店の空気のせいか、レゼ自身がそういうトーンなのかはわからない。ただ、昼の明るい眩しさとは違って、今日はその言葉が少し深く沈んでくる感じがした。
デンジは、思ったより素直な言葉が口から出た。
「……忘れられてるかと思った」
言ってから、自分で少し驚いた。
こんなの、普段ならもう少し誤魔化す。もっと雑に、軽く、何でもないみたいに言うはずだった。
でも今日は酒が少し入っていて、頭の中で言葉を整える前に、そのまま出てしまった。
レゼは少しだけ目を見開いたあと、すぐに笑った。
「忘れないよ」
あっさりした言い方だった。
けれど、その軽さが逆によかった。大げさじゃない。本当に当然みたいに言う。
「そんな、ひと月くらいで」
「……そっか」
「うん」
レゼはそこで、デンジの顔を少し覗き込むみたいにして言った。
「ちょっと飲んでる?」
「少しだけ」
「顔赤い」
「コベニちゃんにも言われた」
「ふふ。だよね」
笑い方まで柔らかい。
夜の空気のせいだろうか、今日は店員としてのレゼと、素のレゼの境目が少しだけ曖昧に見えた。もちろん接客なのだろうが、その接客の温度がいつもより近く感じる。
「何飲む?」
レゼがメニューを開く。
「今日は夜限定のもあるよ」
「夜限定?」
「うん。締めのラーメン」
「……締めのラーメン?」
メイド喫茶で聞く単語としては、ちょっと意外だった。
レゼは楽しそうに頷く。
「夜だけ出るの」
「そういうもんなのか」
「飲んだあと、ちょっと食べたくなる人多いから」
その理由が、妙に生活感があってよかった。
昼間のイベントやらチェキやらとは別の、夜の店の顔という感じがする。
デンジはメニューを見た。やたら可愛い名前がついていたが、説明文を読むとどう考えてもラーメンだった。
「……これ、ただのラーメン?」
「うん」
「締めの一杯とか書いてあるけど」
「うん」
「メイド特製って」
「うん」
「……インスタントじゃね?」
そこを突くと、レゼは笑った。
「そうだよ」
「だよな」
「でも、夜に食べると、やたら美味しいんだよね」
その言い方に、デンジは少しだけ肩の力が抜けた。
夢のある店なのに、こういうところだけ妙に現実的なのが、この店らしい。
「……まあ、わからなくもねえ」
「でしょ?」
そこへ、間の悪い、いや、この店においては間の良すぎる声が飛んできた。
「うわ、しっとりしてる~」
フミコだった。
デンジは反射で顔をしかめたが、いつものように大声で返す気にはならなかった。今日はその元気がない、というより、夜の空気がそうさせない。
「……何だよ」
「そっちこそ、何ですかその久々の再会みたいな空気」
フミコはにやにやしながら、テーブルの脇へ立つ。
「夜営業に来た途端、距離感ちょっとおかしくなってません?」
「別に」
「今日いつもより素直で、ちょっと気持ち悪いです」
「アンタほんとそういうこと言うよな……」
デンジは眉を寄せながらも、声は低かった。
フミコはそこで少しだけ目を丸くする。
「あら、怒らない」
「怒るほどでもねえよ……面倒くせえだけで」
「何かそれはそれで傷つくんですけど」
レゼが笑い、コベニがその横で「フミコ先輩、やりすぎです……」と小さく止める。
この感じも、なんだか久しぶりだった。
フミコの茶々は相変わらずだし、コベニの止め方も相変わらずだ。けれど夜のせいか、その全部が少しだけ柔らかく聞こえる。
「で、ラーメン頼むんですか?」
フミコがメニューを覗き込む。
「デンジさん、夜食にラーメンってだいぶ生活感ありますね」
「アンタが生活感ない店の住人すぎんだよ」
「ひど~い」
「でもちょっと似合うかも」とレゼが言う。
「飲んだあとにふらっと来て、ラーメン食べるの」
「……似合うのかそれ」
「うん。何か」
「ホントにそう思ってる?」
「たぶん」
また「たぶん」だ。
デンジは小さく息を吐いてから、結局そのラーメンを頼んだ。
しばらくして運ばれてきたそれは、予想通り、どう見てもインスタントだった。
白い器に、簡単なトッピング。ネギ、半分に切られたゆで卵、申し訳程度の海苔。だが湯気が立っていて、匂いはちゃんと夜に食べるラーメンのそれだった。
「……いや、ほんとにインスタントだな」
デンジが苦笑すると、レゼが肩を揺らして笑った。
「ちゃんと卵は乗せてるよ」
横からコベニが小さく言う。
「ネギも刻んでます……」
「そのへんは手作業です」
フミコがなぜか胸を張る。
「うちは雰囲気を食べる店なんで」
「したり顔で言うなよ」
ラーメンを一口食べる。普通に美味い。インスタントラーメンとして。飲んだ後の腹には確かにちょうどいい。
「……うめぇ」
「でしょ?」
レゼがすぐに反応する。
「こういうの、夜だとちょっと欲しくならない?」
「わかる」
「昼だとなんか違うよね」
「昼にここでインスタントはもったいねぇな」
「だよね」
そのやり取りが、妙に普通でよかった。
可愛い接客というより、夜にテーブルで軽く話しながら食べてる感じ。それが逆に、昼間より近く感じる。
フミコはそれを眺めながら、面白そうに口元を上げていた。
「何ですか、急に夜のしみじみ回みたいになって」
「アンタは一言多いんだよ……」
デンジは麺をすすりながら言う。
言い方に棘はあるが、怒鳴るほどじゃない。今は本気でキレるより、このラーメンとこの空気を壊したくない気持ちの方が勝っていた。
「忙しかったんですよね?」
フミコが急に聞いてくる。
「だから来れなかった」
「……まあ」
「来ようとはしてました?」
その問いに、デンジは少しだけ手を止めた。
レゼが黙ってこちらを見ている。コベニも気まずそうに視線を揺らしている。
酒のせいだろうか。普段ならもう少し適当に流したかもしれない。だが今夜は、妙にごまかしが効かなかった。
「……一応」
ぽつりと答える。
「来ようとはしてた。予定読めなくて、何かぐだぐだになったけど」
レゼが小さく笑う。
「そっか」
「……うん」
「じゃあ、来れない間も少しは思い出してくれてたんだ」
そう言われると、否定しづらい。
撮ったチェキだの、貰ったカードだの、予約しようとして見た携帯の履歴だの、いろいろ思い当たるものがありすぎた。
「……当たり前だろ」
それ以上は言えなかった。
レゼはそれで充分みたいに頷いた。
「ありがとね」
短い、その一言がやけに効く。
フミコがそこでようやく口を挟んだ。
「はいはい、青春っぽい」
「フミコ、ほんと空気読まねえな……」
「でもレゼさん、次また一か月空いたら、この人たぶん同じこと言いますよ」
「言わねえよ」
「いや言うと思う」
二人のやり取りに、レゼが楽しそうに笑う。
「じゃあ次は、そんなに空かないといいね」
その言い方が、責めるでもなく、軽く期待を置く感じで、またちょうどよくずるかった。
「……そうだな」
「予約待ってるよ。もし、取れなくてもちょっと顔見せに来てくれるだけでも嬉しいから」
「今それ言うの、だいぶ効くなぁ……」
レゼが卓を離れ、別の客の方へ向かった。フミコが横で感心したように呟く。
「デンジさん、今のかなり刺さりました?」
「……別に」
「刺さってますね」
「顔見ればわかります……」
コベニまで乗ってくる。
デンジはラーメンのスープを一口飲んで誤魔化した。少しだけ塩気が強い。けれど今はそのくらいの方が助かる。
その後も、会話は続いた。
大きなイベントがあるわけじゃない。ただ、夜の店の空気の中で、レゼが時々卓へ来ては少し話し、フミコが横から余計なことを言い、コベニがそのたび小さく止めたり、水を持ってきたりする。
それだけだった。
でも、それがすごくよかった。
昼のように眩しすぎず、夕方のようにわちゃわちゃもしていない。少しだけ落ち着いた夜の時間だからこそ、ひとつひとつの言葉が近く感じる。
デンジは、レゼと会話しながら、ふと自分が想像していた『好感度リセット』という言葉の馬鹿らしさを思い出した。
リセットなんか、されていないのかもしれない。少なくとも、完全にゼロに戻るようなものではない。
来れない間があっても、また来た時にちゃんと話せれば、それで続いていくものなのかもしれなかった。
会計の時、フミコが何やら小さな紙を差し出してきた。
「何これ」
「夜営業観察メモです」
「いらねえ予感しかしねえな」
見ると、そこには雑な字でこう書かれていた。
『酔うとちょっと素直になるタイプ 要観察』
デンジは眉を寄せた。
「……フミコさぁ」
「はい?」
「ほんと余計なことしかしねえな」
怒鳴るでもなく、呆れたようにそう言うと、フミコはにやっと笑った。
「でも合ってるでしょ?」
「……知らねえよ」
「否定弱っ」
「うる……いや、もういい」
そこへコベニが、小声で言った。
「つ、次は飲んでない時に来た方がいいと思います……」
「何で?」
「その方が、ちゃんと覚えてられるかなって……」
それはたしかにそうだった。
今夜の会話の細部は、明日には少しぼやけるかもしれない。けれど、ぼやけたとしても、残るものはある気がした。
レゼが、帰り際に小さく手を振る。
「またね、デンジ君」
「……今度はあんまり間空けねえようにする」
その返事に、レゼは少しだけ嬉しそうに笑った。
扉が開き、ベルが鳴る。
地下の店を出て階段を上る頃には、夜風がちょうどよく酔いを冷ましてくれた。地上のネオンは相変わらず濃くて、人の声も絶えない。
デンジは歩きながら、ポケットの中の紙切れを触った。
フミコの余計な一言メモ。
たぶん、普通ならそのへんのゴミ箱へ丸めて捨ててもいいくらいの代物だ。だが、なんとなく捨てる気にはなれなかった。
「何だかな」
そう呟いてから、デンジは少しだけ笑った。
今夜は、派手なことは何もなかった。歯磨き粉もなかった。寿司もなかった。適性試験も、仲良しイベントもない。
ただ、久しぶりに行って、ちゃんと覚えられていて、少し話して、ラーメンを食った。それだけだった。
でも、その「それだけ」が、思っていたよりだいぶ大きかった。
そして同時に、あの締めのラーメン、普通にまた食いてえな、とも思ってしまった自分に気づいて、デンジは一人で少しだけ苦い顔をするのだった。