地下のベルが鳴るたびにーデンレゼifー 作:ルイ(Louie)
アサは、可愛くて仕事もできるレゼを「ずるい」と思ってしまうのだった。
平日の夕方、地下の店はいつもより少しだけ静かだった。
地上にはまだ昼の名残がある。そんな街の底へ潜るみたいに、デンジは見慣れた階段を下りていた。
仕事帰りに、ふらりと寄っただけだった。腹も減っているし、ここで食って帰るのも悪くない。そんな軽い気持ちで、いつも通り『メイド喫茶 すいーとべる』の木の扉を開ける。
ちりん、とベルが鳴った。
「お帰りなさいませ、ご主人様」
入口に立っていたのはアサだった。言葉も服装もちゃんとメイド喫茶のものなのに、やっぱり温度が足りない。
デンジは、新人メイドである彼女の練習台になってから、何度か顔を合わせていた。
アサは最初より警戒が薄れただけで、特段愛想が生まれたわけではなかった。
「どうも」
デンジが軽く返すと、アサは一度だけ店内を見渡した。
「今日はそこまで混んでないです」
「そうみたいだな」
「じゃあ説明終わりです」
そう言って、さっさと踵を返す。
客への態度としてどうなんだと思わなくもないが、もう今さらだった。デンジも後ろをついて歩きながら、小さく鼻を鳴らす。
「相変わらずだな」
「何がです?」
「何でもねえよ」
店の中は、暇すぎず混みすぎずといった具合だった。コベニがドリンクを運び、フミコが厨房とホールの間を行き来し、レゼは奥の卓で二人組の相手をしている。
やっぱり目に入る。けれど今日は指名をしていないし、別にそのつもりで来たわけでもない。少し喋って、腹を満たして、この空気の中でちょっと過ごせれば十分だった。
アサは席へ案内すると、メニューを滑らせるように置いた。
「ご注文は」
「ちょっとは考えさせてくれよ」
「お腹空いてそうだから」
「何でわかんだよ」
「顔」
「どんな顔だよ」
「ちゃんとご飯食べたい人の顔」
デンジはメニューを開く。開いた瞬間、自分が思っていた以上に腹が減っていることに気づいた。
「えーと、カレーと」
「うん」
「からあげと」
「うん」
「ミートスパゲティ」
「うん……?」
アサが初めて、はっきり変なものを見る顔をした。
「うち、ご飯屋じゃないんですけど」
「外回りで腹ペコなんだよ」
「頼み方が男子高校生の運動部」
「社会人だよ」
「むしろ社会人の方が深刻」
「何がだよ」
アサはメニューを覗き込んで、淡々と言う。
「この店、そんなガッツリ食べる場所じゃないでしょ」
「メニューにあるだろ。」
「あるけど」
「じゃあいいだろ。ここさ、へたな店より安くてそこそこ美味いんだわ」
「なんか、こう……空気ってものが」
「空気で腹ふくれねえし」
「名言みたいに言わないで」
デンジは少し笑った。
「あとジンジャーエール」
「……ほんとに全部食べるんですか?」
「食うよ」
「……すご」
「何だよ」
「別に」
アサは小さく息をついてからメモを取る。
「じゃあ、カレー、からあげ、ミートスパゲティ、ジンジャーエール」
「おう」
「……私も何か飲んでいいですか?」
「急だな」
「フミコ先輩に、客単価は自分から上げろって言われたから」
「教育が生々しいぞ」
「でも合理的ではあります」
「言い方よ」
デンジはまた笑った。
「じゃあ、好きなの頼めよ」
「……ありがと」
最後の一言だけ、少し柔らかかった。だが本人は自覚していないのか、すぐに厨房の方へ向かう。
その背中を見送りながら、デンジは小さく息を吐いた。
「ご飯屋じゃない、か」
けれど今のやり取りは、なんだか少しだけ定食屋っぽかった。メイド喫茶のくせに、注文の時だけ妙に生活感がある。そういうところも、この店の変な面白さかもしれない。
その時、コベニがドリンクを持ってきた。
「……お待たせしました」
「ども」
「今日はアサちゃんが最初についたんですね」
「そうだな」
「アサちゃん、デンジさん相手だとちょっとだけ普通なんですよね……」
「普通か?」
「ほ、他のご主人様相手よりは……」
コベニは小さく笑ってから、少し声を潜めた。
「でも、アサちゃん、ちゃんと頑張ってるんです」
「まあ、それはわかる」
「え?」
「見てりゃわかるよ。向いてるかどうかは別として、サボってる感じじゃねえし」
「……そうですね」
コベニがちょっと嬉しそうに頷いた、その時だった。
ぱちん、と乾いた音がした。
次の瞬間、店の照明がふっと落ちる。BGMも止まり、店内が一瞬だけ静まり返った。
「……あれ?」
完全な真っ暗ではない。非常灯なのか、厨房の方からかすかな明かりがある。だが、いつものオレンジ色のやわらかい店内は消え、地下の輪郭だけがぼんやり浮いた。
「停電?」
「ブレーカーですかね……?」
コベニの声が少し上ずる。
そこへ、カウンターからフミコが顔を出した。
「あちゃ~。レジ止まった。最悪~!」
声だけは妙に元気だが、眉間にはちゃんと皺が寄っている。
客席側ではレゼがもう動いていた。
「大丈夫です、少し確認するので、そのままでいてくださいね」
声の出し方が、いつもと少し違う。やわらかさは残したまま、短く、はっきりしていた。まず客を落ち着かせる声だ。
「コベニちゃん、非常灯の小さいやつ出せる?」
「は、はいっ」
「フミコ、レジ周りと厨房お願い」
「はいはーい」
「アサちゃん」
呼ばれたアサが、一拍遅れて「はい」と返した。
「この卓とカウンター、先に一言だけ声かけお願い。長く説明しなくていいから、確認中なので少しお待ちください、だけでいいよ」
「……はい」
短くて、わかりやすい指示だった。だからこそアサも動ける。
まずデンジの卓へ来る。
「えっと、その……」
「まあ、落ち着けよ」
デンジが即座に言った。
「ただの停電なんだから、大丈夫だって」
「いや、その、ご主人様の安全確保しなきゃならなくて」
「アサがテンパってどうするよ」
アサは少しだけ睨むような目をしたが、小さく息を吸った。
「……確認中なので、少し待ってて」
「おう」
それだけ言えばいいのに、やっぱり少し足される。
「たぶん危ないとかではないと思うけど、でも今の時点で断言したら変だし、だからその……」
「こういう時も説明長ぇな」
「説明じゃない、補足」
「同じだろ」
「違う。理由がある」
「あるけど長ぇって」
アサがむっとした、その横をレゼが通りかかった。
「アサちゃん、ちゃんと短くできてたよ」
レゼは小さく笑い、そのまま別の客へ声をかけに行く。
コベニは非常灯を持って戻り、フミコは奥で何かを確認している。店内はざわついているが、パニックというほどではない。
その中で、アサだけが少しずつ硬くなっていった。何を先にすればいいのか、頭の中だけが空回りする。
持っていたトレーの端が椅子の背に軽く当たって、かしゃ、と小さく氷が鳴った。
「っ……」
アサが本気で焦った顔になる。
デンジは見ていられなくなって、席から少し身を乗り出した。
「ほら、それ先にテーブル置け」
「でも」
「一個ずつやれって。全部一気にやろうとすんな」
アサは一瞬、反発しそうな顔をした。
「客のくせに何ですかその目線」
「客だからわかるんだろうが。アサが今いっぱいいっぱいなのはわかる」
「……」
「だから一回落ち着けって言ってんの」
上から説教する感じではなかった。ただ、そう見えてしまっているからそのまま言っただけ、という声だった。
アサはデンジを見た。
この人は、自分がちゃんと接客されることより、今この場がうまく回る方を優先しているように見えた。客のくせに。しかもそれを、善人ぶる感じでもなく、気負いもなくやる。
意味がわからない。でも、少しだけ助かった。
アサは無言でトレーをテーブルに置く。
そこで、奥からフミコの声が飛んだ。
「戻った! 照明つきますよー!」
ぱち、と音がして、店内にオレンジ色の灯りが戻る。BGMも数秒遅れて復活した。
さっきまでむき出しだった地下の輪郭が、またメイド喫茶の顔を取り戻す。客たちもほっとした空気になり、カウンターの男は「よかったー」と笑った。
復旧後、店はすぐにまたいつもの流れへ戻っていった。
レゼは何事もなかったみたいに笑って別卓を回り、フミコは「臨時イベント終了でーす」と勝手なことを言い、コベニはまだ少し胸を撫で下ろしている。
アサはしばらく無言で皿を下げたりテーブルを拭いたりしていたが、その目はどこか別のものを見ていた。
レゼだ。
客の前では、もういつもの笑顔に戻っている。けれど客が途切れた瞬間には、空いたグラスを下げ、コベニの皿を半分受け取り、厨房へひと言だけ声をかける。
可愛いだけじゃないのに、可愛い時はちゃんと可愛い。
「……ずるい」
小さくこぼした声は、たぶん誰にも聞こえていなかった。
+++
少し落ち着いたところで、レゼがデンジの卓へ来た。
「さっきはありがと」
「別に」
「助かったよ」
「大したことしてねえって」
「こういう時って、客の人まで落ち着いてると助かるの」
「へえ」
「しかもデンジ君、私目当てで来るくせに、普通にアサちゃん立ててたし」
「くせにって何だよ」
「だって本当でしょ」
「……まあ」
「ふふ」
レゼは少しだけ目を細めた。
「私に優しいだけじゃないんだなって思った」
「……優しいとかじゃねえよ」
「そういう言い方するのも含めて、やっぱり面白い」
その言い方が、少しだけ本気に聞こえた。
デンジは言葉に詰まり、とりあえずジンジャーエールを飲む。レゼが笑った。
「あ。ごまかした」
「ごまかしてねえ」
「してるよ」
会計を済ませたあと、今度はアサが近づいてきた。トレーも伝票も持っていない。ただ、少しだけ言いたいことがある顔だった。
「……あの」
「ん?」
「さっきは、ありがとうございました」
「ああ」
「ちゃんとお礼言わなきゃなって」
「あんま気にすんなよ」
「……」
「あと、もっと楽にしてくれよ。たぶん、その方がお互い楽しくやれるんじゃね」
アサは少しだけ視線を泳がせる。
「……次からもうちょっと普通に話すかも」
「今も十分普通じゃねえだろ」
「今までより、って意味です」
「……へえ」
「デンジには、そこまで気を遣わなくていいかなって」
「おう」
「……別に、勘違いしないで」
「しねえよ」
「ならいいです」
その言い方が妙にアサらしくて、デンジは少しだけ口元を緩めた。
出口にはレゼが立っていた。
「今日はありがと、デンジ君」
「別に」
「アサちゃん、ちょっと変わったかもね」
「店の教育だろ」
「半分は」
「残り半分は?」
「デンジ君」
「何でだよ」
「ご主人様のくせに」
「その言い方流行ってんのか、この店で」
「面白いから流行らせようか?」
「やめろよ」
レゼは笑って、それから少しだけ声を落とした。
「でも今日のデンジ君、ちょっとかっこよかったよ」
「……そういうの、今言うなよ」
「何で?」
「……帰れなくなるだろ」
「あはは」
ちりん、とベルが鳴る。
地下の階段を上りながら、デンジはさっきの店の空気を思い返していた。アサの長い説明、コベニの慌てた顔、フミコの茶々。そして、その全部の中心にいるレゼ。
やっぱりこの店は、レゼがいると少し違う。
「……ほんと、ずりぃよな」
小さく呟いて、デンジは地上へ出た。
+++
アサがその日の上がり時間を迎えたのは、二十時を少し回った頃だった。
店内はまだ営業中で、奥の席には何組か客も残っている。ピークは越えたとはいえ、店はまだ夜の途中にあった。
アサはバックヤードで髪をまとめ直しながら、小さく息を吐く。
今日は、妙に長かった。
停電みたいなトラブルがあったからでもあるし、デンジがいたからでもある。あの客は、やっぱり少し変だ。平気な顔で普通じゃないことを言う。客のくせに、メイドを立てるみたいなことをする。
意味がわからない。でも、嫌ではなかった。
私服に着替えて裏口から外へ出ると、少し遅れてレゼも上がってきた。まだ営業中の店の灯りが背中越しに漏れている。
「おつかれ、アサちゃん」
「おつかれさまです」
夜の繁華街はもうそれなりに濃い。店の灯りを背にして外へ出ると、空気が少しひんやりしていた。
「一緒だね、帰るの」
「まあ、途中までですけど」
「じゃあ途中まで一緒に行こっか」
レゼは何でもないみたいに言う。アサは少しだけ迷ったが、断る理由もなかった。
しばらく無言で歩いてから、レゼがふと思い出したように口を開いた。
「アサちゃん、明日大学ある?」
「あります。一限から」
「うわ、大変。私、二限から」
「いいですね」
「必修?」
「そうです。落としたくないやつです」
「ああ、それは行かなきゃだね」
二人とも同じ大学生でも、学校も生活のリズムも少しずつ違う。それなのに、同じ店で同じ制服を着て働いているのが、少しだけ不思議だった。
駅までの道の途中で、レゼが立ち止まる。
「ちょっと寄る?」
「どこに」
「カフェ。甘いの飲みたい」
「今からですか」
「うん。行こうよ」
結局、アサもついていくことにした。
入ったのは駅前のチェーンのカフェだった。照明の明るい、学生や会社員が適当に混ざっているような場所。二人はカウンターでそれぞれフラペチーノを頼む。
「先輩、こういうの飲むんですね」
「飲むよ。疲れた日には甘いやつ」
「へえ」
「アサちゃんも好きでしょ」
「まあ、好きですけど」
会計の時、レゼが自然に二人分を出した。
「え、先輩いいです」
「今日は頑張ってたし」
「いや、それとこれとは」
「新人慰労会ってことで」
「そんな大したことしてないです」
「私が先輩っぽいことしたいだけ」
そう言われると、アサは引き下がるしかない。
「……じゃあ、ごちそうさまです」
「はい、よくできました」
窓際の席に座る。店の外を人が流れていく。地下の店よりずっと明るいのに、不思議と落ち着いた。
アサはストローで甘いものを吸い上げた。ひんやりした甘さが、張っていた神経を少しだけほどいていく。
向かいに座ったレゼが、アサの顔を見る。
「アサちゃん、今日は疲れたでしょ」
不意にそう言われて、アサは少しだけ目を上げた。
「……まあ」
「まあ、じゃないよ。だいぶ頑張ってたじゃん」
「別に、普通です」
「普通の顔してないもん」
レゼは笑って言う。その言い方が軽いから、余計に否定しづらい。
「停電もありましたし」
「うん」
「あと、何か今日は全体的に……長かったので」
「でしょ」
レゼはそれ以上すぐには踏み込まず、ストローを指でくるりと回した。相手が言いやすいところまで待つ、その間の取り方が妙にうまい。
「だから甘いの入れたくなったんだよね。疲れた日って、ちょっと強引にでも切り替えたほうが楽な時あるし」
それから、レゼは少しだけ首を傾げる。
「こうして寄るの、嫌だった?」
アサは反射みたいに顔を上げた。
「嫌じゃないです」
「即答」
「いや、そこは即答します」
「ほんと?」
「ほんとです」
思ったより強い声が出た。レゼはおかしそうに笑うだけで、追い詰めるような顔はしていない。それでもアサは、何か言わないと落ち着かなくなった。
「……別に、こういうのが苦手なわけじゃないです」
「うん」
「前のバイトみたいに、無理やり輪の中に入れられる感じでもないし」
「前のバイト?」
レゼの声は、食いつくようなものではなかった。ただ、話すなら聞くし、話したくないならそこで終われる、くらいの柔らかさだった。
アサはストローを指先でいじる。
「……普通の飲食です。大学生ばっかりの」
「へえ」
「別に悪い人たちではなかったんですけど、ノリが合わなくて」
「どんな感じ?」
「やたら距離近かったり。シフト終わりにこのあと飲もうよ、みたいなのがしょっちゅうあって」
「ああ~」
「グループの中だけわかる話で盛り上がるし、そういうノリに乗れる人のほうが正しいみたいな空気もあって」
「それは疲れるね」
レゼは小さくうなずく。口を挟みすぎないのに、ちゃんと聞いている感じだけは伝わってきた。
「悪い人たちではなかったんです。普通に親切でしたし。でも、ずっと同じ温度を求められてる感じがして、しんどくて」
「うん」
「それで辞めました」
口に出してしまうと、案外それだけの話だった。アサは小さく息をつく。
「で、次はせめて時給のいいとこがいいなと思って探してたら、ここが出てきました」
「なるほどね」
「最初はどうかと思いましたけど」
「何が?」
「メイド服です」
「あはは」
レゼが声を立てて笑う。その笑い方は店で見る営業用のものより、ずっと年相応だった。
「でも、逆にそこ以外はちゃんとしてたんですよね」
「逆に?」
「面接も普通でしたし、店の人も変に馴れ馴れしくなかったので」
「そっか」
「だから、やることは特殊でも、人間関係は普通そうだなって思って」
レゼは感心したように目を細めた。
「アサちゃん、ちゃんと見て入ってたんだ」
「まあ、一応」
「えらい」
「別に普通です」
そう返しながらも、少しだけ耳が熱い。
「でも、入ってみて外れてなかった?」
「それは……まあ」
「まあ?」
「思ったより楽です」
アサはカップの中の氷を見ながら、少しだけ言葉を足した。
「フミコさんもコベニさんも仕事中はちゃんとしてるし、他の人たちも別に必要以上に群れないじゃないですか」
「うん」
「店の中では普通に助け合うけど、ずっと馴れ合ってる感じではないし」
「そうだね」
「メイド服脱いだら、案外みんなさっぱりしてるし」
レゼは小さくうなずいた。
「個人的には、あれくらいの距離感のほうが楽です」
「そっか」
たったそれだけなのに、変に引っかからない返し方だった。受け止めるけど、広げすぎない。その感じに、アサはまた少しだけ落ち着かなくなる。
「……何ですか」
「いや、アサちゃん、この店のことちゃんと見てるなって」
「見てはいます。働いてるので」
「えらい」
「だから、別に普通です」
レゼはくすっと笑った。
「でも、よかった」
「何がですか」
「アサちゃんが、ここちょっと楽って思ってるなら」
その言い方が妙に素直で、アサは一瞬だけ言葉に詰まる。
レゼは自分の話をしたいというより、アサが無理していないかを確かめている。そう気づくと、胸の中のこわばりが少しだけほどけた。
「……先輩って、そういうとこありますよね」
「どういうとこ?」
「軽そうに見えるのに、雑ではないというか」
「褒めてる?」
「……たぶん」
「たぶんかあ」
レゼが笑う。そのあと、ふっと間が空いた。
「でも、アサちゃん」
「何ですか」
「今日ちょっと、ちゃんと店の中に立ってたよ」
アサは少しだけ目を瞬いた。
「……そうですか」
「うん。疲れてたし、たぶんいっぱいいっぱいだったと思うけど」
「……」
「それでも逃げなかったじゃん」
「別に、逃げるほどでは」
「そういう言い方する」
レゼはおかしそうに笑って、それから少しだけ真面目な顔になった。
「でも、頑張ってたのわかったよ」
真正面からそう言われると、返しに困る。アサは視線を逸らし、ストローをくるくる回した。
「……次のシフトから、もうちょっとだけ頑張ります」
「おお」
「先輩みたいには無理ですけど」
「そんなの最初から求めてないよ」
「じゃあ、もうちょっとだけちゃんと店の中に立てるように」
「うん」
「……たぶん」
「たぶんで十分」
二人でフラペチーノを飲む。甘い。甘すぎるくらいだ。でも疲れたあとだと、不思議とそのくらいがちょうどよかった。
カフェを出る頃には、夜はもうすっかり深くなっていた。帰り道を途中まで一緒に歩く。
「アサちゃん」
「何ですか」
「今日、誘ってよかった」
「……そうですか」
「うん」
レゼはそれ以上、何かを確かめるような言い方はしなかった。ただ、そう思ったからそのまま口にした、という感じだった。
アサは少しだけ歩幅を見直しながら、前を向いたまま答える。
「私も、まあ……悪くなかったです」
「ほんと?」
「ほんとです」
「今日は即答してくれるね」
「そこはします」
レゼが笑う。
アサも、ほんの少しだけ口元を緩めた。
悪くはなかった。その言い方が、いちばんしっくりくる気がした。
別れ際、アサは少しだけ空を見上げる。
次のシフトから、もう少しだけ頑張ろう。
完璧じゃなくていい。レゼみたいに何でも軽やかにできるわけでもない。でも、今日みたいに全部が剥がれた時にも、ちゃんと店の中に立っていられるようになりたい。
それから、この店はたぶん、自分が思っていたよりずっと悪くない。
そう思っている自分に気づいて、アサは少しだけ可笑しくなった。