教会支部の廊下には、夜の静けさがゆっくりと満ち始めていた。
祈りの声も、昼間ほどのざわめきも、もう遠い。窓の外に見える翠都の灯は穏やかで、つい先ほどまで中庭で交わされていた緊張さえ、この白い壁の内側では少しだけ薄れて見えた。
フィリアは案内役の若い神官に先導されながら、用意された客室へ向かっていた。セレンもその少し後ろを歩く。
「本日はお疲れでしょう」
神官は丁寧に頭を下げた。
「湯と食事はすぐにお持ちします。何か不足があればお申し付けください」
「ありがとう」
フィリアは短く答える。
セレンは廊下の窓から外を見た。
翠都へ辿り着いた。
祠の件も、異変の報告も、ひとまずは終えた。
だが胸の奥に残る緊張は解けきらない。教会騎士長との会話の余韻もあれば、都そのものに漂う整いすぎた秩序への違和感もある。それでも今は、疲労が先だった。
その時、廊下の向こうから慌ただしい足音が響いた。
「急報です!」
若い騎士の声が、白い壁に跳ね返る。
「東街道沿いの村にアンデッドの夜襲! 第一波、すでに侵入! 数、不明、増加の可能性あり!」
フィリアの足が止まった。
神官が目を見開く間にも、別の騎士が駆け抜けていく。
「教会騎士団第一班を招集! 神官隊、浄化灯の用意を!」
「騎士長へ報告は!?」
「すでに伝令が向かった!」
空気が一瞬で張り詰める。
フィリアが振り返った。
「今の、東街道って……」
その声は、ほとんど自分への確認だった。
セレンは答えなかった。
答えなくても分かっていたからだ。
次の瞬間、フィリアは反転して駆け出した。
「フィリア!」
呼び止める声にも振り向かない。
白い廊下を一直線に走り抜け、中庭への階段を飛ぶように下りていく。
セレンもすぐに追った。
「待ってください!」
追いつきざまに腕を掴もうとするが、フィリアはするりと身をひねってかわす。
「待てない!」
その返答に迷いはなかった。
「街道沿いの村なら、ここからそう遠くない。今ならまだ間に合う!」
「数も状況も分かっていません! 騎士団も出るのでしょう!」
「だからって、到着を待ってる間に人が死ぬかもしれない!」
中庭に出る。すでに数頭の馬が引き出され、騎士たちが慌ただしく鞍を確かめていた。フィリアはその脇をすり抜け、一頭の手綱を掴む。
「勇者殿!?」
若い騎士が叫ぶ。
「準備中です、少々お待ちを――」
「待たない」
聖剣の勇者の声音だった。鋭く、真っ直ぐで、一切のためらいがない。
軽やかに鞍へ飛び乗る。
「フィリア!」
セレンがもう一度呼ぶ。
彼女はようやく振り返った。
その目にあるのは焦りだけではない。決意だ。
「私は勇者だよ」
息を荒げながら、それでもはっきりと言う。
「助けを求める声があるなら、先に行く。それだけ」
馬腹を蹴る。
白い馬が石畳を鳴らし、中庭を飛び出した。
止められない。
セレンは短く息を吐くと、すぐ隣の馬の手綱を掴んだ。
馬そのものは知らない。
それでも、かつて辺境惑星で似たような騎乗獣をフォースで宥めながら走った記憶が、手綱を握る指をためらわせはしなかった。
「借ります」
半ば言い捨てるようにそう告げ、鞍へ飛び乗る。
教会の門を抜け、翠都の夜へと駆け出した。
夜気は冷たく、街道は暗かった。
前を行くフィリアの背中は小さい。だが、その小さな背は一度も揺らがない。街道脇の灯を次々に追い越し、馬は風を切って進む。
「フィリア!」
横に並びかけながら、セレンが声を張る。
「村へ着いても単独で飛び込まないでください! まず状況を――」
「見てる暇があるなら一人でも多く外へ出す!」
フィリアは前を見たまま叫び返す。
「それが間違い?」
「間違ってるかどうかじゃありません!」
セレンも声を強めた。
「あなたが死ねば、助けられたはずの命がその先でさらに失われる!」
フィリアは答えなかった。
だが手綱を握る手に、いっそう力がこもる。
やがて前方の闇の向こうに、赤い揺らめきが見えた。
火だ。
さらに、悲鳴。
村は小さかった。街道沿いに開けた農村で、柵と畑と数軒の家、それから中央に井戸。素朴で、脆い。夜襲を受ければ、ひとたまりもない規模だった。
その木柵の一角がすでに破られていた。
死者たちが流れ込んでいる。
骨の兵、腐った肉を引きずる亡骸、異様な速さで四肢をばたつかせる犬じみた死体。第一波――そう聞いたが、その数は想像よりはるかに多い。二十、三十では足りない。闇の奥にまだ影がある。
「……多い」
セレンが低く呟く。
フィリアは馬から飛び降りていた。
白銀の聖剣が抜かれる。夜を裂くように光が走る。
「みんな、下がって!」
最初に飛び込んだ先には、倒れた荷車の裏に身を寄せる母子がいた。その目前に腐敗した男の亡骸が迫っている。フィリアは間に滑り込み、一閃でその腕ごと断った。白い光に灼かれた死体が悲鳴もなく崩れる。
セレンも地へ降りる。
青い刃が起動し、村の夜に二本目の光が灯った。
ライトセーバーが骨の槍を焼き切り、返す動きで二体目の頭骨を砕く。さらに左手を向けると、フォースの衝撃で前列のアンデッドがまとめて吹き飛んだ。
「井戸の方へ!」
セレンが村人へ叫ぶ。
「火から離れて、開けた場所へ!」
泣き叫ぶ子どもを抱いた母親が、何度も頷きながら走っていく。
「セレン、右!」
「見えています!」
フィリアが左手の家屋へ突っ込み、セレンは右の納屋へ向かう。
もう言葉を合わせる必要はない。気づけば、互いの動きを前提に身体が動いていた。
納屋の前では老人が鍬を握ったまま腰を抜かしていた。三体のスケルトンが槍を構えて迫っている。セレンは踏み込みと同時に最前列の槍を受け流し、反転して二体目の脚を断つ。骨が崩れた隙に掌を突き出し、最後の一体を壁へ叩きつけた。
「立てますか」
老人は震えながらも頷いた。
「井戸の方へ。今ならまだ通れます」
振り返ると、フィリアはすでに別の家へ走っていた。
燃えかけた柵の向こうで、泣き叫ぶ少女を抱えて出てくる。その背後から腐敗した獣の亡骸が跳びかかった。
セレンは地を蹴り、フォースで一気に間合いを詰める。青い刃が獣の頭蓋を断ち、そのまま横薙ぎに振り抜いて後続までまとめて押し返した。
「大丈夫ですか」
「今のは助かった」
フィリアが息を切らせながら言う。
「でも、まだ終わってない」
村の奥で悲鳴が上がる。
二人は同時にそちらを見る。
半壊した家の前に、若い男が倒れていた。腹を裂かれ、血が石畳に流れている。そばで家族らしい女が泣き叫び、その声に引かれるようにさらに数体の亡骸が集まっていく。
フィリアが迷わず駆ける。
「待ってください!」
セレンも追う。
聖剣が走り、一体の胸を裂く。セレンの青い刃がもう一体の首を飛ばす。だが、若い男はもう動かなかった。
フィリアの表情が凍る。
間に合わなかった。
だがその背後で、別の村人がまだ生きている。悲しむ時間はない。フィリアは歯を食いしばり、再び聖剣を振るった。
夜風の中、聖剣の白とライトセーバーの青が何度も交差する。
倒しても、倒しても、終わらない。
井戸の周囲へ集めた村人たちを守りながら戦うには、二人だけでは手数が足りない。セレンはフォースで荷車を動かし、即席の障壁を築く。フィリアはその前に立ち、聖剣で押し寄せる死者を切り払う。
「第二波……っ」
フィリアが息を飲んだ。
村外れの闇から、さらに新しい影が現れる。
セレンの顔色も変わった。
「想定より多い」
「それでもやるしかない!」
「やるのは当然です!」
セレンの声も強くなる。
「ですが、押し切れる数ではありません!」
次の瞬間、骨の槍が飛んだ。セレンはそれを弾いたが、弾かれた切っ先が井戸の縁へ刺さり、避難していた少女が悲鳴を上げる。
セレンの胸に冷たいものが走った。
今のは危なかった。
自分たちが前へ出すぎれば、守るべき者のすぐそばへ戦いが近づく。
フィリアも見たはずだ。
それでも、その目はまだ前だけを見ている。
「セレン、左!」
「ええ!」
青い刃が左から迫る群れを薙ぎ払う。
その間にフィリアが右を断つ。
だが、その直後、彼女の肩口が腐った爪に掠められた。
「っ……!」
「フィリア!」
「平気!」
言葉とは裏腹に、呼吸は乱れ、足元もわずかに揺れる。
セレンは歯を食いしばった。
このままでは押し潰される。
その時、街道の方角から鋭いラッパの音が響いた。
続いて、祈りの詠唱。
白い灯が夜を裂く。
「教会騎士団だ!」
誰かが叫ぶ。
街道側から突入してきた騎士たちが、浄化灯の光を掲げてアンデッドの群れへ楔のように食い込んだ。聖印を刻んだ槍が死者を貫き、神官の詠唱が白い波となって闇を押し返す。
遅れたが、来た。
村の空気が一気に変わる。
「勇者殿!」
先頭の騎士が叫ぶ。
「村人を後方へ!」
フィリアは返事もそこそこに、すぐ井戸の周囲へ向き直った。
「みんな、今のうちに下がって!」
その声に村人たちが動き出す。
セレンは最後尾に立ち、迫る亡骸を青い刃で押し返した。騎士団の援護が入り、ようやく前線に余裕が生まれる。白と青の光が交錯し、押し寄せていた死者の波が少しずつ削れていった。
長く感じられた戦いが終わった時、村には焦げた匂いと、濃い血の匂いだけが残っていた。
死者は出た。
助けきれなかった命も、確かにあった。
それでも、井戸のそばで肩を寄せ合う村人たちの中には、二人が駆けつけたからこそ生き残った者もいた。
泣きながら子どもを抱き締める母親が、何度もフィリアへ頭を下げている。
セレンが納屋から逃がした老人も、震える手で祈りを口にしながら座り込んでいた。
教会騎士たちは生存者の確認と遺体の回収に追われている。
その喧騒から少し離れた場所で、フィリアはようやく聖剣を下ろした。
「……来てよかった」
息を切らしながら、それでもはっきりと言う。
「間に合った人がいた」
セレンはすぐには答えなかった。
彼の視線の先には、先ほど助けきれなかった若い男の遺体がある。白布をかけられたそれは、夜風にわずかに揺れていた。
「セレン」
フィリアが振り向く。
「聞いてる?」
「聞いています」
返答は静かだった。
「ですが、賛成はできません」
フィリアの眉が寄る。
「どうして」
「あなたは数も戦力も分からないまま、突っ込んだ」
「でも、そのおかげで助かった人がいた」
「その一方で、あなたが倒れていればどうなっていたかも考えるべきです」
フィリアが一歩、詰め寄る。
「私は倒れてない」
「結果論です」
セレンの声音も、珍しく硬かった。
「あなたが死んだら、今夜救えた命だけでは済まない。これから先、救えたはずの命まで失われる」
フィリアの目が強くなる。
「でも行かなかったら、今この村で死んでた人がもっと増えてた!」
「ええ、増えていたかもしれない」
セレンも退かない。
「ですが、無謀な突撃で逆に危険にさらされた命もありました」
井戸の縁へ刺さった骨槍のことが、二人の間によぎった。
フィリアの唇がきゅっと結ばれる。
「それでも」
絞るような声だった。
「それでも、私は行くよ。目の前で助けを求められて、後から来る誰かを待つだけなんて無理」
「分かっています」
セレンは短く息を吐いた。
「あなたがそういう人だということは」
「じゃあ何で止めるの!」
火が爆ぜるような声だった。
セレンは一瞬だけ沈黙した。
その沈黙の中に、銀河の記憶がよぎる。
助けたかったのに間に合わなかった顔。
守ると言いながら、守れなかった命。
「……死んでほしくないからです」
低く、抑えた声だった。
フィリアが言葉を失う。
「あなたが無茶をするたびに、救われる命はあるのでしょう」
セレンは続けた。
「ですが、あなたが倒れた瞬間に失われるものもある。あなた一人の命だけでは済まない。勇者が倒れたら、それが絶望に――」
そこまで言って、セレンは息を呑んだ。
自分の口から出た“勇者”という言葉が、ひどく冷たく聞こえた。
教会騎士長が口にしていたものと、どこか似た響きになってしまった気がした。
フィリアの表情が揺れる。
「じゃあ何!?」
今度は彼女が叫ぶ。
「あの親子を見捨てろっていうの!?」
言った瞬間、自分でも違うと分かった顔だった。
セレンがそんなことを言いたいわけではない。
分かっている。分かっているのに、引き返せない。
セレンはすぐに言い返さなかった。
ただ、その沈黙がかえって痛かった。
フィリアも唇を噛む。
互いに、今の言葉が本心そのままではないことだけは分かっていた。
想いがぶつかり、夜気が張り詰める。
その時だった。
「勇者殿」
後ろから、教会騎士の声がかかった。
「生存者の確認が終わりました。あなたが先に来てくださらなければ、井戸の周辺はもっと厳しかったかと」
フィリアの目が揺れた。
騎士はそれだけ告げて去っていく。
残された言葉の重みが、二人の間へ落ちた。
セレンは目を閉じ、短く息を吐いた。
「……だからこそ、余計に危うい」
それはフィリアへの反論であり、半ば自分自身への言葉でもあった。
フィリアはそれ以上言い返さなかった。
ただ、唇を引き結び、背を向ける。
「今は、話したくない」
そう言って歩き出す。
セレンも追わない。
夜襲のあとの村には、まだ助かった命の泣き声と、助からなかった命の静けさが同時に残っていた。
どちらも本当だった。
フィリアが駆け出したから救えた命がある。
同時に、その無謀さが紙一重だったこともまた、本当だった。
だからこそ、二人の言葉は噛み合わない。
聖剣の勇者と、ジェダイ・ナイト。
人を救いたいという願いは同じでも、その歩き方はまだ少し違っていた。