翌朝の翠都は、昨夜の騒ぎが嘘のように穏やかだった。
石畳は朝の光を受けて白く乾き、露店では焼きたてのパンの匂いが立ちのぼる。礼拝へ向かう人々、荷を運ぶ商人、見回りの兵。都は都として、変わらずに一日を始めていた。
けれど、セレンにとってもフィリアにとっても、昨夜がなかったことにはならない。
夜襲を受けた村のこと。助けられた命と、助けきれなかった命。ぶつかり合った言葉。扉越しに交わした、少しだけ静かな話。
朝食の席で顔を合わせた時、二人は少しだけぎこちなかった。
だが、そのぎこちなさは、もう冷たさではなかった。
「今日は、翠都の中を見て回ろうと思ってる」
スープを口に運んでから、フィリアが言う。
「見回りも兼ねて。あと、あなたに都のことも少し教えたいし」
「ありがとうございます」
セレンは素直に頷いた。
フィリアがじっと見る。
「そういうところ、ほんとまっすぐだよね」
「フィリアほどではありません」
「それ、ちょっと上手く返したつもりでしょ」
「慣れないことをしました」
フィリアは小さく笑った。
「じゃあ決まり。ついてきて」
そうして二人は、朝の翠都へ出た。
街を歩いていると、教会騎士の姿は思っていた以上に多かった。
白を基調とした鎧に、青い紋章。腰の剣や槍には、細い線のような模様が刻まれている。昨夜の戦いでも見たそれに、セレンは自然と目を留めた。
ちょうどその時、通りの向こうを数人の騎士が歩いていく。彼らの手には、槍だけでなく、白い光を淡く宿した灯があった。
セレンはその背を見送りながら、静かに口を開く。
「昨夜から気になっていました」
「どれ?」
フィリアが視線を向ける。
「あの武器に刻まれている印と、光る灯です」
セレンは騎士たちの方を見る。
「アンデッドに有効だった。あれは、どういうものなんでしょうか」
フィリアは少しだけ感心したように目を瞬かせた。
「さすが、でもあなたなら……そうだよね」
彼女は通りの脇へ少し寄りながら説明しはじめた。
「あれは聖印。教会騎士が持つ、アンデッドを倒すための力の一つ」
「力そのもの、ではないんですね」
「うん。聖なる力を武器に通すための印って感じかな」
フィリアは頷く。
「剣とか槍に刻むと、アンデッドみたいな“普通の武器じゃ止まりにくいもの”にも効くようになる」
セレンは小さく頷いた。
昨夜の騎士団の動きを思い出す。
槍が亡骸を貫いた時、ただ金属で刺しただけではない手応えがあった。
「誰でも刻めるのですか」
「それは無理」
フィリアは首を振った。
「聖印を付与できるのは、教会聖堂の中でもごく限られた神官だけ。しかも簡単じゃないし、たくさんは作れない」
「量産が難しい、と」
「そう」
フィリアは通りの先を指さす。
「だから教会騎士の武器って、それだけで結構価値があるんだよ」
セレンの視線が、今度は騎士たちの手にある灯へ移る。
「では、あの灯も」
「浄化灯」
フィリアがすぐに答えた。
「夜の見回りとか、アンデッドが出る場所で使う。世闇を照らして、アンデッドが嫌がる光を出す松明」
「昨夜も見ました」
「うん。あれも同じで、聖堂の中の神官だけが力を付与できる」
少しだけ真面目な顔になる。
「聖印も浄化灯も、教会が人を守るために持ってる大事な力」
その声音には、教会に育てられた者の実感があった。
セレンは淡く光る灯を見つめる。
聖印。浄化灯。
どちらも限られた者だけが扱える力であり、実際に死者の脅威へ対抗する手段でもある。
「この世界で、教会が必要とされる理由が少し分かってきました」
セレンが言うと、フィリアは少しだけ誇らしげに頷いた。
「そうだと思う」
それから、少しだけ視線を和らげる。
「祈りだけじゃ、人はついてこないから」
二人は市場通りを抜け、街の外れに近い訓練場の方まで足を延ばした。
そこでは傭兵や騎士見習いらしい若者たちが木剣を打ち合い、脇では荷車に武器や食糧が積み込まれている。どうやら小規模な討伐依頼が出ているらしい。
セレンはその準備の様子を眺めながら、ふと別のことを思い出した。
「そういえば」
「うん?」
フィリアが振り向く。
「以前、あなたは僕のライトセーバーを“魔法剣みたいなもの”と言っていました」
「言ったね」
「この世界の魔法や魔力は、どういうものなんでしょうか。教えていただけますか」
フィリアは少しだけ考え、それから苦笑した。
「説明はできるけど、たぶん私より詳しい人がいる」
「詳しい人?」
「ほら」
と、彼女が顎で示した先に、見覚えのある三人組がいた。
大剣を背負ったダルク。弓を持つ男。杖を提げた術師の女。元勇者一行だ。
「げ」
ダルクがこちらに気づいて顔をしかめる。
「なんで朝からいるんだよ、勇者様」
「そっちこそ」
フィリアが返す。
「もう次の依頼?」
弓の男が肩を竦めた。
「オーク退治。街道沿いに小さい群れが出たってさ」
「街道沿い?」
フィリアの声色が少しだけ変わる。
「じゃあ私も――」
「待て待て」
ダルクがすぐに手を上げた。
「民家の近くじゃねえ。見張りもついてるし、人里へ降りる前に片づけるだけだ」
「それに」
弓の男がにやりとする。
「勇者様が出てきたら、依頼主が“そこまで大事か”って腰抜かして、俺たちの取り分まで消えかねない」
術師の女も肩を竦める。
「あなたが行くと話が大きくなりすぎるのよ。今回は私たちで足りる案件」
少しだけ目を細める。
「昨日みたいに、人を助けに走るのとは話が違うわ」
フィリアはすぐには返さなかった。
行こうと思えば行ける。けれど、今の説明には理があると分かっている顔だった。
「……分かった」
少し不満そうに言ってから、セレンをちらりと見る。
「今日は見回りの方、優先する」
セレンは何も言わなかった。
ただ、ほんの少しだけ目を細める。
術師の女が今度はセレンを見る。
「で、旅人さんは?」
「見回りと勉強中」
フィリアが先に答える。
「この人、まだ世界のこと全然知らないから」
「へえ」
弓の男が面白そうに目を細める。
「そこまで何も知らなくて、よく今まで生きてたな」
「僕もそう思います」
セレンが真顔で答えると、ダルクがわずかに噴き出した。
「案外そういう返しするんだな」
セレンは術師の女へ視線を向ける。
「ちょうど聞きたかったことがあります」
「あら、なに」
「魔法と魔力についてです」
術師の女は一瞬だけ目を丸くし、それから面白そうに口元を上げた。
「勇者様より話が早いわね」
「私はだいたい感覚で使ってる方だから」
フィリアが少しだけむっとした声を出す。
術師の女は肩を竦め、杖を軽く持ち直した。
「簡単に言うと、この世界には魔力がある」
そう言って、空気を指先でなぞるようにする。
「目には見えないけど、空気みたいにそこら中にある力。それとは別に、人の中にも魔力は宿ってる」
「内と外、両方にあるのですね」
セレンが言う。
「そう」
女は頷いた。
「で、人の中にどれだけ魔力を溜められるかは、才能でかなり違う。多い人もいれば少ない人もいる」
「術師とか神官は、その魔力を形にできる」
と、弓の男が補足した。
術師の女はそのまま杖の先を軽く持ち上げる。
「たとえば、こう」
次の瞬間、杖の先に赤い火球がぽっと生まれた。拳ほどの大きさの炎は、数秒その場に揺れ、それから彼女が指を払うと掻き消える。
「魔力を炎として実体化したもの」
女が言う。
「人によって得意な属性が違う。火や氷……いろいろね」
セレンは目を細めた。
炎そのものを生む力。
フォースとはかなり性質が違う。
だが、世界に満ちる力を介して現象を起こすという点では、どこか通じるものも感じる。
「魔力は減るのですか」
「減るわよ」
即答だった。
「使えば疲れるし、尽きればふらつく。休んだり、眠ったり、時間を置けば戻る。体力に近いと思えばいい」
「回復にも使うんだっけ」
フィリアが横から口を挟む。
「そう」
術師の女は頷く。
「回復魔法も同じよ。魔力を使って傷の治りを早めたり、病気に対する耐性を持たせたりする」
少しだけ杖を持ち直す。
「教会の人間はその手の魔法が得意。昨夜あなたたちが受けた治療も、その類でしょうね」
セレンは小さく頷いた。
フィリアの肩の傷が、夜のうちにかなり落ち着いていた理由がそこで腑に落ちる。
「浄化、というのは?」
セレンが続けて尋ねる。
「アンデッド絡みの傷や穢れをきれいにする行為よ」
術師の女が答える。
「普通の傷を塞ぐだけじゃなくて、死の気配とか、嫌な魔力の残りを落とす感じ」
「それも教会側の得意分野だな」
ダルクが腕を組んだまま言う。
「死人相手じゃ、そこを雑にすると後が面倒だ」
「へえ……」
フィリアが少しだけ感心したように言う。
「説明されると、ちゃんと理屈あるんだね」
「勇者様、普段だいたい感覚で斬ってるからね」
弓の男が笑う。
「うるさい」
フィリアが睨む。
術師の女は肩を竦めた。
「まあ、回復魔法だけで何でも治るわけじゃないけど」
そう言って、少しだけ視線を細める。
「薬草や調合と組み合わせる方が、よく効く場合も多い。そういうのを専門に扱う人もいるわ」
その一言は、セレンの中に小さく残った。
薬草。調合。
昨夜の負傷者たちのことを思えば、覚えておくべき話だった。
フィリアが聖剣の柄へ手を添えた。
「私の聖剣は、ちょっと違う」
その声音に、術師の女が「そこは自分で説明しなさい」と目で促した。
フィリアは少しだけ照れくさそうに続ける。
「聖剣は、私の中の力だけじゃなくて、周りの魔力も集めて使う」
「集める?」
セレンが聞く。
「うん」
フィリアは頷いた。
「戦う時に光るの、見たでしょ。あれ、集まった魔力が聖なる力に変わってる感じ」
拳を軽く握る。
「その力で身体能力とか、剣の重さとか、全部一気に上がる。だからアンデッドも斬れる」
ダルクが腕を組んだまま鼻を鳴らす。
「勇者様の馬鹿力の正体だな」
「馬鹿力って言うな」
「だいたい合ってるだろ」
フィリアは不満そうに眉を寄せたが、否定はしなかった。
「持ち主が成長すると、扱える魔力量も増えるって言われてる」
少し真面目な声に戻る。
「なるほど」
セレンは小さく頷いた。
「聖剣の持ち主が強いのは、ただ選ばれるからではなく、選ばれた上で成長し続けるからでもあるのですね」
フィリアが少しだけ目を丸くする。
「そういうまとめ方、なんか賢そうでずるい」
「整理しただけです」
「そういうところだよ」
術師の女が呆れ半分に笑った。
「まあ、だいたいそんなところ」
そして荷車へ視線を戻す。
「こっちはそろそろ出るわ。オーク退治、放っておくと街道に出るかもしれないし」
ダルクが大剣を担ぎ直す。
「お前らは都の見回りでもしてろよ」
「勇者様がそれで済めば苦労しないけどな」
弓の男が笑う。
「今日はちゃんとそうする」
フィリアが言うと、ダルクたちは少しだけ意外そうな顔をした。
「へえ」
ダルクが鼻を鳴らす。
「少しは落ち着いたか」
フィリアは何も言い返さず、代わりにわざとらしくそっぽを向いた。
三人はそのまま訓練場を離れていく。
去り際、術師の女だけが振り返り、セレンへ目を向けた。
「旅人さん」
「はい」
「変な力を使ってるのは知ってるけど、今は突っ込まないであげる」
少し口元を上げる。
「代わりに、勇者様が無茶しそうなら止めなさい」
「努力します」
セレンが答えると、彼女は満足そうに笑って去っていった。
三人と別れたあと、二人は再び街を歩いた。
市場の喧騒が少し遠のき、道はゆるやかに川沿いへ下る。翠都の外縁には小さな水路が走っており、石橋の上からは街並みと空が一緒に見えた。
フィリアがそこで足を止める。
「……で」
わざとらしく言った。
「次はこっちの番」
「何がでしょうか」
「あなたの変な力」
フィリアはきっぱり言った。
「前からずっと気になってた。相手を吹き飛ばしたり、草を見分けたり、あれ何?」
セレンは少しだけ空を見上げた。
「説明が難しいんです」
「逃げないで」
「逃げてはいません」
フィリアはじっと見上げてくる。
こういう時の彼女は、妙に強い。
セレンは観念したように息を吐いた。
「フォースです」
「フォース」
「ええ。ジェダイが信じ、使う力です」
フィリアは少し眉を寄せる。
「魔力とは違うの?」
「少し違います」
セレンは橋の下を流れる水へ目を向けた。
「世界に満ちる、生きるものの流れというか……生命と、それを包む大きな力のつながりに近いんです」
「……分かったような、分からないような」
「僕も、最初はそうでした」
フィリアが半眼になる。
「あなたがそれ言うんだ」
セレンは続ける。
「相手の気配を読む。危険を感じる。手を伸ばさずに物を動かす。衝撃として放つ。あとは、生き物の状態を探ることもできます」
「草を見分けたのも?」
「ええ。毒や腐りの違和感は、ある程度分かります」
フィリアは腕を組んだ。
「便利すぎない?」
「便利なだけではありません」
セレンは静かに言った。
「怒りや恐れに呑まれたまま使えば、簡単に人を傷つける力にもなる」
フィリアはそこで少しだけ黙った。
昨夜の話を、たぶん思い出したのだろう。
だが、何も言わずにその先を待った。
「そして」
セレンは腰のライトセーバーへ触れる。
「この剣と合わせることで、僕はアンデッドにも対抗できています」
「高熱の魔法剣みたいなもの、だっけ」
フィリアが言う。
「そう思ってもらうのが、今は一番近いです」
「でも、それにフォースが合わさってるから、ただの剣じゃない」
「そうですね」
フィリアは少しだけ黙り込み、それからぽつりと呟いた。
「やっぱり、変」
「またですか」
「また」
彼女は小さく笑う。
「でも、前よりちょっと分かった気がする」
そう言って橋の欄干へ肘を乗せる。
風が彼女の髪を揺らした。
ほんの少しだけ、何でもない時間だった。
戦いでも、報告でも、口論でもない。
ただ同じ景色を見て、言葉を交わしているだけの時間。
その静けさが心地よいと感じて、セレンは少しだけ驚いた。
その時、橋の向こうを教会騎士が二人、足早に通り過ぎていくのが見えた。
「翠都最大の薬屋だと?」
「先の村の負傷者を運び込むなら、今のうちに薬を押さえねえと足りん」
「騎士団の分も回すとなると、かなり要るぞ」
通り過ぎざまの会話だった。
だが、二人には十分だった。
フィリアが顔を上げる。
「薬屋……」
その声音から、さっきまでの柔らかさが少しだけ消える。
「昨日の村の人たち、都まで運ばれてきてるんだ」
セレンも頷いた。
「おそらく、かなりの人数が」
フィリアはすぐに歩き出した。
「行こう」
「ええ」
「私たちも、関係ないって顔してる場合じゃない」
その横顔には、迷いより先に責任感があった。
「昨日の件、全部が私たちのせいじゃない。でも、一端は背負ってると思う」
セレンはその言葉に何も異を唱えなかった。
都の穏やかな昼は、また少しずつ緊張を取り戻していく。
教会騎士たちが急ぐ先、翠都最大の薬屋。
そこにはきっと、昨夜の続きがある。
フィリアとセレンは並んで石橋を下り、都の中心へ向かって歩き出した。