石橋を下りてから、二人はほとんど言葉を交わさなかった。
翠都の昼は明るい。市場は賑わい、子どもたちは笑い、礼拝帰りの人々は穏やかな顔で行き交っている。だが、その喧騒の底には、昨夜の夜襲の余波が確かに沈んでいた。教会騎士の姿は朝よりも増え、荷車には包帯や箱詰めの薬草が積まれている。通りを急ぐ者たちの顔つきにも、どこか余裕がない。
翠都最大の薬屋は、教会支部からそう遠くない場所にあった。
白壁の大きな店で、看板には翠の国でも名の知れた薬舗の名が掲げられている。表の棚には乾燥薬草や香油、傷薬の小瓶が並んでいるはずだったが、今はそんな整った雰囲気ではなかった。店の前には人が溢れ、教会騎士が道を空け、荷運びの若者たちがせわしなく木箱を運び込んでいる。
鼻をつくのは、乾いた薬草の匂いだけではない。煎じた薬の苦味、消毒に似た刺激、血と汗、そして昨夜嗅いだのと同じ、死の気配をうっすらと残した傷の匂いが混じっていた。
フィリアの足が止まる。
「……多い」
思わず零れた声は小さかった。
店先の長椅子には、布を巻かれた村人たちが並んでいる。腕を吊った男、額に汗を浮かべた子ども、顔色の悪い女。中には、ただの切り傷ではないものもあった。肌の周囲が不自然に青白く痺れたようになり、神官が何度も浄化の術を重ねている。
昨夜の戦いは終わった。
だが、救いきったわけではない。
その当たり前の事実が、店先に並ぶ人々の姿で改めて突きつけられる。
「行きましょう」
セレンが静かに言った。
フィリアは短く頷き、人混みの中へ足を踏み入れた。
すぐに、教会騎士がこちらに気づく。
「勇者殿」
昨夜も村に来ていた若い騎士だった。疲労の色は濃いが、目はまだ死んでいない。
「こちらへ来られていたのですか」
「さっき噂を聞いた」
フィリアは周囲を見回しながら答える。
「村の人たち、ここに?」
「はい。重傷者は教会支部とこちらへ分けて運びました。昨夜のうちに浄化と応急処置はしましたが……」
騎士は言葉を切り、店の奥へ視線をやった。
「薬が足りません。人手も」
店の中では、若い神官が額に汗を滲ませながら治癒の術を行っていた。白い光が傷口を包み、肉の裂け目がゆっくり閉じていく。だが、一人に術を施し終えた神官は明らかに息が上がっていた。すぐさま次の患者へ向かうものの、足元がわずかに揺れている。
「昨夜、教えてもらった通りですね」
セレンが小さく呟く。
「祈りだけで、全部が片付くわけではない」
フィリアは小さく頷いて、一歩前へ出た。
「手伝えることは?」
騎士へ向けた声は、勇者としてのものだった。
「何でもいい。水運びでも、人の誘導でも」
若い騎士は一瞬だけ驚いた顔をしたが、すぐに真面目な表情へ戻る。
「それなら、奥へ。薬舗の者たちが手一杯です。案内します」
店の中は、表以上に慌ただしかった。
棚からは高価そうな薬瓶が半分以上消え、机の上には刻まれた薬草、布、すり鉢、煎じた液体の入った鍋が乱雑に並んでいる。年若い見習いらしき者たちが、震える手で包帯を切り、湯を運び、指示を受けて走り回っていた。
店の奥では、壮年の神官が低い声で祈りを紡いでいる。その前に横たえられた男の脇腹には、黒ずんだ爪痕が残っていた。治癒の光で傷は塞がりつつあったが、別の者がその傍らで緑色の薬を傷口へ塗り込んでいる。
セレンはその様子を見て、隣の騎士へ尋ねた。
「治癒の術だけでは、足りないのですか」
「アンデッドにやられた傷は、普通の傷より厄介なんです」
騎士が答える。
「浄化で穢れを落とし、治療で傷を塞いでも、熱や痺れが残ることがある。そういう時は薬が必要になる」
セレンは小さく頷いた。
昨日、術師の女が言っていた通りだ。魔力の治療だけで何でも治るわけではない。傷の深さ、穢れの残り、体力の差。そのすべてを埋めるために、薬草と調合がいる。
「セレン」
フィリアが呼ぶ。
振り返ると、彼女は水桶を二つ持っていた。いつの間にか袖をまくり、動きやすいように髪も軽く結び直している。
「ぼーっとしてないで、こっち」
「ええ」
セレンはすぐに歩み寄り、桶の片方を受け取った。
「失礼しました」
「そういうとこ、律儀だよね」
「慣れています」
フィリアはその答えに、ほんの少しだけ笑った。昨夜のような鋭さではない。少し疲れていて、それでも前を向く時の笑い方だった。
二人は指示を受けながら、人の流れを整え、湯を運び、薬草を刻む手伝いまでこなした。
セレンは怪我人を運ぶ際、呼吸の浅い者や意識の落ちかけている者へ自然と目が向いた。フォースに深く頼るつもりはなかったが、命の流れが弱まる感覚は隠せない。彼が「この人を先に」と小さく告げるたび、薬舗の者たちは戸惑いながらも従い、その判断が間違っていないことを後で知る。
フィリアは村人たちの間を駆け回り、子どもへ声をかけ、重い荷を運び、泣き出しそうな見習いを励ましていた。勇者だから前へ出る。そう言ってきた彼女の在り方は、こういう場所でも変わらない。
店の奥、壁際の長椅子で、フィリアの動きがふと止まった。
昨夜、荷車の陰に隠れていた母子がそこにいた。母親の頬には疲れが色濃く浮かんでいたが、子どもの方はもう泣いていない。包帯を巻かれた腕を抱えながら、ぼんやりとこちらを見ている。
母親はフィリアへ気づいた瞬間、慌てて立ち上がろうとした。
「だめ、無理しないで」
フィリアがすぐに駆け寄る。
それでも女は深々と頭を下げた。
「昨夜は……ありがとうございました」
声が震えていた。
「あの時、来てくださらなければ、あの子も私も……」
フィリアは返す言葉を一瞬失う。
助けられた命だ。
たしかに、そこにある。
けれど同時に、助けきれなかった命も昨夜あった。
その両方を、今の彼女はもう知っている。
「……間に合って、よかった」
ようやく出たのは、それだけだった。
母親は何度も頷いた。隣の子どもが、恐る恐るフィリアの服の裾を掴む。
「おねえちゃん、ひかってた」
小さな声だった。
フィリアは少しだけ目を見開き、それから膝をついて目線を合わせた。
「うん」
聖剣を持つ右手ではなく、空いた左手で子どもの頭をそっと撫でる。
「もう大丈夫。ちゃんと治るから」
その光景を少し離れたところで見ながら、セレンは静かに息を吐いた。
フィリアは間違っていない。
少なくとも、それだけでは言い表せない。
あの時飛び出したからこそ、ここにいる母子がいる。
だが、その在り方をそのまま肯定し切っていいとも、まだ思えない。
答えは、まだ遠い。
だからこそ、隣に立つ意味があるのだろう。
「そこの二人!」
鋭い女の声が飛んだ。
振り向くと、作業台の奥で数人へ一斉に指示を出していた女が、こちらを見ていた。年の頃は二十代後半ほど。栗色の髪をきっちり束ね、袖をまくった腕には薬液の染みがいくつもついている。若いながらも、その目には場を掌握する鋭さがあった。整った顔立ちに疲労の色は浮かんでいるが、それ以上に気迫と才気が際立って見える。
「水を運んで。足りない分は奥の井戸から。終わったら刻んだ薬草をこっちへ回して」
女は間髪入れずに言う。
「もちろん」
フィリアはすぐに立ち上がった。
「分かった」
セレンも小さく頷く。
「承知しました」
その女の声ひとつで、店の空気がさらに引き締まる。神官も騎士も見習いも、彼女の指示に迷いなく従っていた。薬舗の中で、実際に現場を回しているのが誰なのかは一目で分かる。
フィリアが小声で囁く。
「……たぶん、あの人だよね」
「ええ」
セレンも同じ考えだった。
「薬師長でしょう」
女は次の患者の傷を確かめながら、別の見習いへ厳しくも的確な指示を飛ばしている。祈りの外側で、人の命を繋ぎ止めている手つきだった。
若くして薬師長を任されただけのことはある、とセレンは思う。現場を動かす判断の速さに、ためらいがなかった。
薬屋の奥で、鍋が煮立つ音がした。
誰かの痛みに耐える息遣いが重なる。
神官の祈りと、薬草を刻む音と、怒号に近い指示が、同じ場所で一つの命を繋ごうとしている。
フィリアはそれを見つめ、静かに息を吸った。
「……昨日の続きだね」
「ええ」
セレンが答える。
「できるだけ、多くの人を助けましょう」
女がこちらへ振り返る。鋭い視線が、二人を真っ直ぐ射抜いた。
「終わったら、勇者殿もそっちの旅人も、話を聞かせてもらうわ」
疲れているはずなのに、その声音には少しの揺らぎもない。
「昨日の村で何があったのか、現場にいたなら知ってるでしょう」
フィリアは頷き、セレンもまた静かに頭を下げた。
「承知しました」
「ええ。終わったら」
女は満足したように短く顎を引く。
「私はミレナ。この薬舗の薬師長よ」
その名が、薬草と祈りの匂いに満ちた空間へ、静かに落ちた。