ミレナに指示された仕事は、思っていた以上に多かった。
奥の井戸から水を汲み、湯を沸かし、刻み終えた薬草を作業台へ運ぶ。合間には包帯を切り、空いた器を洗い、熱に浮かされた怪我人へ濡れ布を当てる。店の中はひっきりなしに誰かの声が飛び、鍋が煮立ち、薬草を擦る音が途切れなかった。
その慌ただしさが少し落ち着いたのは、陽が傾きかけた頃だった。
重傷者の処置に一区切りがつき、長椅子にいた者たちの何人かも、ようやく眠れる顔になっている。まだ終わったわけではない。だが、目の前の命をひとまず今夜へ繋ぐところまでは辿り着いた、という空気が、薬舗の中にわずかに流れていた。
「そっちの桶、置いてちょうだい」
ミレナの声に、フィリアとセレンは揃って振り向いた。
作業台の奥に立つ彼女は、さっきと同じように袖をまくったままだった。だが、鋭い目つきの奥に、ほんの少しだけ疲労の色が濃くなっている。若い見習いたちへ指示を出し続けていたせいか、声も少し掠れていた。
「こっちは一旦いいわ」
そう言って、二人を奥の小部屋へ顎で示す。
「約束通り、話を聞かせてもらうわね」
案内された部屋は、店の裏にある調合室だった。
棚には乾燥薬草の束や、液体の入った瓶、粉末を詰めた壺がびっしり並んでいる。机の上には広げた帳面と、使い込まれたすり鉢、火にかける前の薬鍋が置かれていた。表の喧騒は扉一枚で少し遠のいたが、それでも薬の匂いはここが中心なのだと分かるほど濃い。
ミレナは椅子に腰を下ろさず、帳面を開いたまま二人を見た。
「まず確認するわ。昨夜、東街道沿いの村に先に駆けつけたのは、あなたたちで間違いないのよね」
「はい」
フィリアが頷く。
「騎士団が出る前に、報せを聞いて飛び出した」
「聞いてるわ」
ミレナはそこでセレンへ視線を移した。
「あなたも一緒に?」
「ええ」
セレンは静かに答えた。
「止めはしましたが、止まりませんでしたので」
フィリアが少しだけ眉を寄せた。
「そこ、わざわざ言う?」
「事実です」
「今それ言う?」
「今でも同じ答えですので」
ミレナは二人を見比べ、ふっと鼻で笑う。
「なるほど。昨夜の話、少しは本当らしいわね」
「昨夜の話?」
フィリアが聞き返す。
「村から戻った騎士が言ってたの。『勇者様と見慣れない旅人が、現場でずいぶん派手にやり合ってた』って」
ミレナは帳面へ目を落とす。
「でも、それで救われた命もあったとも聞いたわ」
フィリアは言葉を飲み込んだ。
セレンも何も返さない。
ミレナは淡々と続ける。
「私は戦場を見てない。だから、どっちが正しかったなんて軽々しく言う気はないの」
帳面に何かを書き込みながら、短く言う。
「必要なのは、現場で何が起きたか。その結果、こっちで何を背負うことになったか。それだけよ」
その物言いは冷たいというより、徹底して現場だった。
「最初に現れた敵の数は?」
「二十を超えていました」
セレンが答える。
「ただ、闇の奥にまだ動く影がありました。第一波という報せは正しかったと思います」
「種類は?」
「骨の兵と、腐敗した死体が混じってた」
フィリアが言う。
「数も多かったし、まとまりはないけど、流れ込む勢いが強かった」
ミレナは短く頷き、帳面へ視線を戻した。
「思っていたより悪いし、思っていたより持ちこたえてる」
やがて帳面を閉じて、そう言った。
「中途半端に聞こえるでしょうけど、今はそれが正直な感想ね」
「持ちこたえてる……?」
フィリアが問う。
「昨夜の怪我人の数と傷の深さを見れば、村そのものがもっと酷く壊れていてもおかしくなかった」
ミレナは真っ直ぐに言う。
「あなたたちが先に入ったおかげで、助かった命は確実にあるわ」
フィリアの肩が、わずかに揺れた。
認められたいわけではない。
だが、それでも、その言葉は胸に重く落ちる。
「ただし」
ミレナはそこで言葉を切った。
「だからといって、勇者殿が毎回それでいいって話にはならないわ」
フィリアが顔を上げる。
「……あなたも、そう言うんだ」
「言うわよ」
ミレナは即答した。
「助かった命があるのは事実。でも、勇者が半死半生で運ばれてきたら、こっちはそのぶん余計な手も取られるでしょう」
少しだけ目を細める。
「それに、助ける側が倒れた時、現場は一気に崩れるの。薬師でも騎士でも勇者でも、それは同じよ」
静かな声だった。
怒鳴りもしない。責め立てもしない。
だが、現場を知る者の言葉として、鋭く刺さる。
フィリアは反発しかけて、結局何も言わなかった。
昨夜セレンとぶつかった言葉が、まだ胸に残っているのだろう。
「……でも」
ようやく出た声は小さかった。
「行かなきゃ、助からなかった人もいた」
「そうね」
ミレナはすぐに頷いた。
「だから面倒なのよ、この話は」
その返しがあまりにもあっさりしていて、フィリアは少しだけ目を丸くした。
「どっちかだけが正しいなら楽だったんでしょうけど、そうじゃないの」
ミレナは調合台へ手を置く。
「飛び込んだから助かった命がある。飛び込んだから危なかった命もある。現場って、だいたいそういうものよ」
セレンはその言葉に、静かに目を伏せた。
白か黒かではない。
どちらの言い分にも届いていて、その上で切り捨てない言葉だった。
「それはそうと……あなた、面白いわね」
ふいにミレナがセレンを見る。
「僕ですか」
「ええ。旅人にしては、怪我人の見方が妙だったの」
帳面を指先で叩く。
「息の浅い人間を先に回したり、傷より顔色を見てたり。何者なの?」
フィリアが横目でセレンを見る。
その視線には、責める色はなかった。むしろ少し面白がっている。
ミレナの目は鋭かった。
表の喧騒の中で、そこまで見ていたのかとセレンは内心で感心する。
「……大したことではありません」
セレンはわずかに肩を竦めた。
「慣れているだけです。今は、そう思っていただければ」
初対面の相手に、フォースのことまで持ち出して話を複雑にする必要はない。
薬師長として現場を回している彼女なら、なおさら余計な混乱は避けるべきだとセレンは判断した。
「便利な逃げ方ね」
ミレナはあっさり返す。
「でも、そういう人材は嫌いじゃないわ」
それから、机の上に置かれた小さな包みを一つ持ち上げた。
「昨夜から使ってるのは、ただの傷薬じゃないの」
包みを開くと、乾いた薄緑色の葉が現れる。
「これは熱を引かせる薬草。こっちは痺れを和らげる根。で、こっちが浄化の補助」
別の小瓶を指す。
「神官の術だけで落としきれない穢れを、薬で押さえるのよ」
フィリアが覗き込む。
「昨日、術師の人も似たようなこと言ってた」
「でしょうね。回復魔法だけで全部片づくなら、薬師なんていらないもの」
ミレナは少しだけ口元を上げる。
「治癒の術はすごいわ。でも、あれは体を助ける力。薬はその後を支えるの。熱を下げる、痛みを散らす、傷が悪さをしないように抑える。全部、役割が違うのよ」
セレンは興味を隠さずに葉を見た。
「同じ薬草でも、使い方で効き目が変わるのですか」
「変わるわ」
ミレナは頷く。
「刻むのか、煎じるのか、塗るのか、乾かすのか。そこに魔力をどう重ねるかでも変わるの」
少しだけ顎を上げる。
「簡単に言えば、薬草だけでも足りないし、魔法だけでも足りない。両方を噛み合わせるのが仕事、ってことね」
その言い方には、若くして薬師長にまで上り詰めた自負が、隠しきれずに滲んでいた。
「すごいですね」
セレンが素直に言う。
ミレナが一瞬だけ目を瞬いた。
「……真っ直ぐ言うのね」
「そういう人なの、彼」
横からフィリアが口を挟む。
「慣れない冗談はたまに言うけど、基本はすごく素直」
「余計な補足です」
「事実でしょ」
ミレナは小さく息を漏らした。笑ったのだと気づくまで、少し間があった。
「なるほど。変な旅人だと思ったけど、少なくとも嫌な感じはしないわ」
そう言って、改めてフィリアを見る。
「勇者殿も、思ってたより話が通じるし」
「それ、遠回しに失礼じゃない?」
「少しはね」
フィリアがむっとした顔をしたのを見て、ミレナは今度こそはっきり笑った。
「噂だけなら散々聞いてたもの」
ミレナは肩をすくめる。
「辺境でアンデッドを斬って、傷ついたら教会で治療と浄化だけ受けて、また次へ飛び出していく勇者様、って」
フィリアがわずかに言葉に詰まる。
「……そんな言い方されてるの?」
「だいたい合ってるでしょう?」
ミレナはさらりと言う。
「だから、薬屋に落ち着いて顔を出すような人だとは思ってなかったのよ」
フィリアは不服そうに眉を寄せたが、強くは言い返せなかった。
図星なのだろう。
その空気が少しだけ緩んだところで、扉の外から見習いの声が飛ぶ。
「薬師長! 三番の熱、また上がってます!」
「すぐ行くわ」
ミレナは即座に答え、椅子から立ち上がった。
だが出て行く前に、振り返って二人へ言う。
「今日は助かったわ。本当に」
短い一言だったが、今度は現場の責任者ではなく、一人の人間としての声だった。
「人手が足りないのは、当分変わらないでしょうね。だから、まだここにいるなら、また手を貸してちょうだい」
「もちろん」
フィリアは迷わず答えた。
「できることはやる」
「僕も」
セレンが続ける。
「役に立てるのなら」
ミレナは小さく頷く。
「いい返事」
そう言い残し、扉へ手をかけた。
「……それと、勇者殿」
「なに?」
「あなたが助けた命は、ちゃんとここに届いてるわ」
ミレナはそれだけ言った。
「忘れないで」
フィリアは一瞬、息を止めたようだった。
扉が開き、再び喧騒が流れ込む。ミレナはすぐに現場へ戻り、見習いたちの中心へ立った。若いのに誰より早く動き、誰より先に判断し、誰より疲れているはずなのに立ち止まらない。
その背を見つめながら、フィリアがぽつりと呟く。
「……すごい人だね」
「ええ」
セレンも頷いた。
「思っていた以上に」
そして、少しだけ間を置いて続ける。
「あなたと少し似ています」
「は?」
フィリアが振り向く。
「どこが」
「前に出るところです」
セレンは真面目に答えた。
「ただし、剣ではなく薬で」
フィリアは一瞬きょとんとして、それから堪えきれないように笑った。
「なにそれ」
「間違っていないと思います」
「うん……まあ、ちょっとだけ分かるけど」
笑いながらも、その目元にあった重さは、さっきより幾分やわらいでいた。
だがその一方で、セレンの胸には別のものが残っていた。
薬草、調合、浄化の補助。
治療だけでは届かない部分を埋める技術。
そして何より、それを回すための物も人も、明らかに足りていない現実。
昨日の夜襲は、一つの村だけの問題では終わらない。
ここで足りないものは、きっとまだ増えていく。
調合室の棚に並ぶ薬瓶を見ながら、セレンは静かに思った。
次に探るべきものは、傷を治す方法そのものではなく、
その方法を支えるために欠けている何かなのだと。