薬舗の騒ぎがようやく落ち着いた頃には、窓の外の空は薄い橙色に染まっていた。
それでも、店の中から人の気配が消えることはない。見習いたちは疲れた顔で器を洗い、神官たちは交代で祈りを捧げ、教会騎士は薬箱の数を確かめている。長椅子に横たわる村人たちの呼吸は、昼よりいくらか落ち着いていたが、誰もが安心できるほどではなかった。
セレンは、棚の脇に積まれた空の木箱を見ていた。
箱の底には、乾いた葉の欠片がわずかに残っている。薬草の匂いはある。だが、中身はもうほとんどない。
「見ての通りよ」
背後から声がした。
ミレナだった。手には帳面を抱え、表情は先ほどよりいくらか落ち着いている。だが、その目に残る鋭さは変わらない。
「薬も、人手も、時間も足りない」
彼女は空の箱を顎で示した。
「今朝の時点でも余裕はなかったけど、昨夜の分でほとんど吐き出したわ」
フィリアが棚へ歩み寄る。
「これ、全部使ったの?」
「全部ではないわ。全部使ったら、次に熱を出した人間を見殺しにすることになるもの」
ミレナはさらりと言う。
「だから、使う順番を選んでる。嫌な仕事でしょう?」
フィリアは答えられなかった。
誰に薬を使うのか。
誰の治療を後に回すのか。
勇者として剣を振るうのとは、まるで違う種類の選択だった。
「……足りないのは、傷薬だけですか」
セレンが静かに尋ねると、ミレナは帳面を開いた。
「いいえ。足りないものはいくつもあるわ」
指先で項目をなぞる。
「熱を下げる薬草。痛みを散らす根。浄化を助ける粉。包帯。清潔な水。神官の手。薬を煎じる見習いの体力」
そこで、少しだけ目を細める。
「それと、正確な情報」
「情報?」
フィリアが顔を上げる。
「アンデッドの傷は、後から悪くなることがあるの」
ミレナは店の奥へ視線を向けた。
「今は落ち着いて見える人でも、夜になって熱が上がるかもしれない。傷口が黒ずむかもしれない。昨日の村で何が起きたか、どんな傷を負ったか、それが分からないと薬の配分も間違える」
セレンは小さく頷いた。
戦いは終わっても、その後に続くものがある。
負傷者の数、傷の種類、穢れの残り方。
どれも戦場では見落としやすいが、ここでは命を左右する材料になる。
「戦いの記録が、そのまま治療の手掛かりになるのですね」
「そういうこと」
ミレナは短く頷く。
「だから、あなたたちの話は助かったわ。派手に戦ってただけじゃないって分かったし」
「そこは余計じゃない?」
フィリアが眉を寄せる。
「褒めてるのよ」
「褒め方が分かりづらい」
ミレナは軽く肩をすくめた。
その時、奥から小さなうめき声が聞こえた。見習いが慌てて顔を出す。
「薬師長、二番の子ども、また熱が……!」
「白灯葉の煎じ薬を薄めて。濃くしすぎないで。浄化薬は一滴だけ」
ミレナは即座に指示した。
「それで下がらなければ呼んで」
「はい!」
見習いが走り去る。
フィリアはその背中を見送り、ぽつりと言った。
「一滴だけ、なんだ」
「一滴でも効くように作ってあるから」
ミレナは帳面を閉じる。
「本当なら、もう少し使ってあげたい。でも、次の子の分も残さないといけない」
その言葉は、重かった。
フィリアは拳を握りしめる。
何か言いたげだったが、言葉にはならない。
セレンは棚の薬瓶へ目を向ける。小さな瓶の底に、淡い青色の液体がわずかに揺れていた。
「その浄化薬が、特に足りないのですね」
「ええ」
ミレナは瓶を一本手に取る。
「アンデッド絡みの傷には、これが効く。神官の浄化で落としきれないものを抑えて、体が回復する余地を作る」
瓶を光に透かす。
「でも、これを作るには青霊草がいる」
「青霊草……」
フィリアが聞き返す。
「蒼海連邦の島々で採れる薬草よ」
ミレナは答えた。
「潮気を含んだ土地で育つ、青い筋の入った葉。普通に煎じても効くけど、特殊な魔法を重ねると、浄化薬の核になる」
セレンの目がわずかに動く。
「魔法を重ねる、というのは」
「薬草の効能を引き出して、固定するの」
ミレナは瓶を棚へ戻した。
「ただ魔力を流せばいいわけじゃない。薬草が持っている性質を壊さないように、必要な分だけ術を掛ける」
少しだけ自嘲気味に笑う。
「面倒な仕事よ。だから私がやってる」
その言い方には、疲れと誇りが混じっていた。
「すごい技術なんですね」
セレンが言う。
「また真っ直ぐ言う」
ミレナは少しだけ目を細める。
「でも、技術があっても材料がなければ何もできないわ」
そこで彼女は、帳面の別のページを開いた。
「青霊草は、本来なら蒼港から定期的に入るはずだった」
「本来なら?」
フィリアの声が強くなる。
「届いていないの」
ミレナは淡々と言った。
「輸送路そのものに、問題が起きている可能性がありますね」
セレンが静かに言う。
「ええ」
ミレナは頷いた。
「遅れているだけならまだいい。でも、ここ最近は遅延だけじゃない。途中で荷が消える。値が跳ねる。買い付け先が急に口を閉ざす」
帳面を指で叩く。
「事故か、盗賊か、買い占めか。あるいは、それより面倒な何かね」
フィリアの表情が変わった。
「誰かが買い占めてるってこと?」
「その可能性はあるわ」
「でも、こんな時に?」
「こんな時だから、よ」
ミレナの声は低かった。
「怪我人が増えれば薬の値は上がる。希少薬草ならなおさらね」
フィリアは唇を噛んだ。
怒りが顔に出ている。
昨夜の命の重さを見たあとで、薬を金に変える者がいるかもしれない。その現実が、彼女には受け入れがたいのだろう。
「教会には?」
「言ってあるわ」
ミレナはすぐに答えた。
「支部も動いてる。騎士長にも報告は上がってるはず」
そこで、少しだけ肩をすくめる。
「でも、報告が上がったからって、棚に薬草が生えてくるわけじゃないのよ」
フィリアは小さく息を呑んだ。
その言い方は厳しい。
だが、教会を責めているだけではない。
現場に物がないという事実を、ただ事実として言っている。
「蒼港に行けば、分かるんですか」
セレンが尋ねると、ミレナは彼を見た。
「分かるかもしれない。少なくとも、荷がどこで止まっているのかは追えるでしょうね」
「危険は?」
「あるわ」
即答だった。
「薬草の遅れがただの事故ならいい。でも、誰かが意図的に止めているなら、そこには利権か犯罪か、あるいはもっと面倒なものがある」
もっと面倒なもの。
セレンは、その言葉の奥にあるものを考える。
アンデッドの増加。浄化薬の不足。流通の乱れ。薬の値上がり。
すべてが偶然なら、まだよい。
だが、偶然が重なりすぎている。
「……行く」
フィリアが言った。
ミレナは彼女を見る。
「そう言うと思った」
「止める?」
「止めないわ」
ミレナは少しだけ笑った。
「ここで止めても、あなたはどうせ別のところから走っていくでしょうし」
「……それ、私の扱いひどくない?」
「噂通りなら妥当よ」
「よく理解されていますね」
セレンが静かに頷く。
フィリアがぎょっとしたように振り向いた。
「ちょっと、セレンまで!」
「否定は難しいかと」
「そこは努力してよ」
ミレナは二人を見比べ、少しだけ面白そうに目を細めた。
「仲がいいのね」
「そういうんじゃない」
フィリアは即座に言った。
「まだ何も言ってないわ」
「言い方がそうだった」
ミレナは楽しげに肩をすくめる。
「でも」
彼女はすぐに表情を戻した。
「今すぐ一人で飛び出すのは違う。必要なのは感情じゃなくて、正式な道筋と準備。それから、蒼港で動けるだけの許可よ」
その言葉に、フィリアは反射的にセレンを見た。
昨夜の口論が、二人の間をよぎる。
前へ出ること。無謀であること。
まだ答えは出ていない。だが、同じ失敗を繰り返すつもりは、フィリアにもなかった。
「……分かってる」
彼女は短く言った。
「今すぐ走らない。ちゃんと話を通す」
セレンは小さく目を細めた。
ミレナもそれに気づいたのか、少しだけ口元を緩める。
「いい返事ね」
「子ども扱いしないで」
「してないわ。少しだけ評価を上げただけ」
フィリアはまた不満そうな顔をしたが、今度は少しだけ照れも混じっていた。
その時、外から教会騎士の声が聞こえてきた。
「薬師長ミレナ殿はいらっしゃるか!」
店の方で何人かが振り返る気配がした。ミレナは扉を開け、表へ顔を出す。
「ここよ。何かしら」
やって来たのは、教会支部の使いらしい騎士だった。手には封書を持っている。顔には疲労が浮かんでいたが、その姿勢は崩れていない。
「支部より通達です。青霊草を含む浄化薬素材の不足について、緊急の協議が行われました」
騎士は封書を差し出す。
「蒼海方面へ調査人員を手配する方針です。薬師長殿には、不足品の一覧と優先度の確認をお願いしたいとのことです」
「ようやく動くのね」
ミレナは封書を受け取る。
「人員は?」
「教会騎士と、商人組合の者を中心に編成予定です」
騎士は答えた。
「ただし、勇者殿には翠都での待機をお願いする方針です」
フィリアの顔が上がる。
「どうして」
騎士は少しだけ言い淀んだが、すぐに姿勢を正した。
「夜襲の直後です。翠都周辺でも警戒を強める必要があります。勇者殿は戦力としても、民の希望としても、簡単に都を離れていただくわけには……」
「私がここにいれば、薬草が届くの?」
フィリアの声は低かった。
「それは……」
「蒼港で何かが起きてるかもしれない。薬が足りなくて、今ここで苦しんでる人がいる」
フィリアは革の手袋を握りしめた。
「それなら、私が行く」
騎士は困ったように眉を寄せる。
「勇者殿。お気持ちは分かります。しかし、これは騎士長の方針でもあります。勇者殿を都から離すことは、民に不安を与えかねません」
セレンは、騎士の声の奥にあるものを感じ取った。
怒りではない。拒絶でもない。
そこにあったのは、勇者を失うことへの恐れと、責任を負わされることへの不安だった。
セレンは相手の意思を曲げようとはしなかった。
そんなことをすべき場面ではない。
ただ、その迷いに届く言葉を探す。
「勇者を翠都に留めることは、確かに安全かもしれません」
セレンは静かに言った。
騎士が彼を見る。
「ですが、青霊草が届かなければ、次に夜襲が起きた時、守った命をここで繋げなくなります」
部屋の空気が静かになった。
「フィリアは象徴です」
セレンは続ける。
「だからこそ、ただ都に置かれるだけではなく、人々の命に届く場所へ向かうべきです」
フィリアは少しだけ目を見開いた。
勇者という言葉を、彼はもう軽々しく使わなかった。
だが、その名を否定もしなかった。
今のセレンは、フィリアを縛るためではなく、彼女自身の意思を支えるためにその言葉を使っていた。
「それに」
セレンは騎士へ向き直る。
「彼女は一人で行くわけではありません。僕も同行します」
「あなたが?」
「ええ」
セレンは静かに頷いた。
「彼女を止めるべき時は止めます。進むべき時は共に進みます」
「それ、信用していいの?」
フィリアが横から小さく言う。
「努力します」
「そこは断言して」
ミレナが小さく笑い、それから騎士へ向き直った。
「現場としても、勇者殿に行けるなら行ってほしいわ」
彼女は封書を軽く振る。
「騎士や商人だけでは、荷の行方は追えても、人命に関わる優先順位が後回しになる可能性がある。勇者殿がいれば、話も動きやすいでしょう」
騎士はしばらく黙っていた。
やがて、深く息を吐く。
「……私の一存では、許可は出せません」
当然の答えだった。
「ですが、勇者殿ご自身の志願、同行者殿の意見、薬師長殿の要望として、すぐに支部へ持ち帰ります」
フィリアが頷く。
「お願い」
「ただし」
騎士は真剣な顔で続けた。
「正式な許可が出るまでは、動かないでください」
フィリアは一瞬だけ口を開きかけ、すぐ閉じた。
「……分かった」
短い返事だった。
「待つ」
その一言に、セレンはわずかに安堵した。
騎士は深く頭を下げ、足早に薬舗を出ていった。
それからしばらく、三人は調合室に残った。
ミレナは不足品の一覧をまとめ、セレンはそれを見て輸送の優先順位を確認し、フィリアは時折、外の夕暮れへ視線を向けていた。
走り出したい気持ちを抑えているのが、見て分かった。
だが、それでも抑えている。
それが、昨夜とは違っていた。
やがて日が沈みかけた頃、先ほどの騎士が戻ってきた。
息を切らしている。
手には、新しい封書があった。
「支部より、条件付きで許可が下りました」
フィリアが立ち上がる。
「条件?」
「蒼港方面への調査任務として、勇者フィリア殿の同行を認めます。ただし、単独行動は禁止。同行者殿と共に行動し、現地では教会支部、商人組合、薬舗関係者と連携すること」
騎士は文面を読み上げる。
「薬草確保を最優先とし、異変が確認された場合は即時報告。必要に応じて追加人員を要請すること」
フィリアは封書を受け取り、静かに目を通した。
「……分かった」
今度の声は、昨夜のように衝動だけで飛び出すものではなかった。
怒りもある。焦りもある。
だが、それを飲み込み、進むべき道として選んだ声だった。
セレンは静かに頷く。
「ええ。僕も同行します」
ミレナは二人を見比べ、それから棚の奥から小さな革袋を取り出した。中には薄青い薬瓶が数本、丁寧に詰められている。
「持っていきなさい」
「いいの?」
フィリアが驚く。
「今ある分のうち、ぎりぎり渡せるだけよ」
ミレナは革袋を差し出した。
「アンデッド相手に傷を負ったら、すぐ使って。無駄遣いはしないでちょうだい」
フィリアは両手でそれを受け取る。
「ありがとう」
「礼は、青霊草を持って帰ってからでいいわ」
ミレナはそう言って、少しだけ目を細める。
「勇者殿」
「なに?」
「助けた命を、ここまで届かせるだけじゃ足りない」
彼女は静かに言った。
「次は、その命をこの先まで繋ぐために行ってきて」
フィリアは革袋を握りしめた。
「うん」
短い返事だった。
「必ず、持って帰る」
セレンはその横顔を見る。
また危ういほど真っ直ぐな顔だ。
けれど、昨日とは少しだけ違う。
彼女はもう、一人で駆け出そうとはしていない。
「行きましょう」
セレンが言う。
「うん」
フィリアが頷く。
「蒼港へ」
薬舗の外では、夕暮れの翠都が赤く染まっていた。
昨日の夜襲が残した傷は、まだ癒えていない。
だが、その傷を塞ぐために必要なものが、遠い港町へと続いている。
足りないものは、ただ薬草だけではない。
そこへ届くための道。
その道を切り開く意志。
そして、誰かを救うために立ち止まらず、それでも無謀になりすぎないための隣人。
セレンとフィリアは、次なる目的地を見据えた。
翠の国の都から、蒼海の港へ。
二人の旅は、新しい段階へ進もうとしていた。