翌朝、翠都の教会支部には、いつもより早い時間から人の気配が集まっていた。
礼拝堂の鐘が鳴る前だというのに、廊下には騎士たちが行き交い、神官たちは負傷者の名簿と薬の残量を照らし合わせている。昨夜の夜襲は終わった。だが、その後始末はまだ終わっていない。
セレンとフィリアは、支部の小会議室へ通された。
机の上には、翠の国から蒼海連邦へ向かう街道と海路を記した地図が広げられている。その脇には、封書、薬草の見本、小さな木札、それから商人組合の帳簿の写しが積まれていた。
部屋にいたのは三人だった。
教会騎士長。薬師長ミレナ。そして、商人組合から来たらしい中年の男。男は丸眼鏡をかけ、手元の帳面をしきりに撫でている。戦場に立つ者というより、数字と荷の流れを扱う者の顔だった。
「勇者殿」
教会騎士長が一礼する。
「昨夜はお疲れのところ、急な話となってしまい申し訳ありません」
「平気」
フィリアは短く答えた。
「それより、蒼港の話を聞かせて」
その言い方に、教会騎士長はわずかに眉を動かした。
だが、すぐに表情を戻す。
「では、状況を整理します」
商人組合の男が、慌てて帳簿を開いた。
「青霊草は本来、蒼海連邦の島々で採れたものを蒼港に集め、そこから街道か船で各地へ流しています」
指先が帳面の行をなぞる。
「翠都へは月に二度。大きな欠けは、これまでほとんどありませんでした」
「それが、急に届かなくなった」
フィリアが言う。
「はい」
男は頷く。
「最初は天候の影響かと思われました。蒼海は風と波の機嫌で、船が遅れることもありますから。しかし、今回は少し違います」
「違う、とは?」
セレンが静かに尋ねると、男は地図の一点を指した。
「港には入っているのです。少なくとも、青霊草を積んだはずの荷は、蒼港までは届いている」
「ですが、そこから先で消える」
ミレナが低く続けた。
彼女は昨日と同じように袖をまくっていたが、今日は薬液ではなく、薄い紙束を持っている。薬師長というより、薬の流れそのものを追う者の顔だった。
「届いたはずの荷が、倉庫で数が合わない。別の名義で買い取られている。値段が不自然に跳ねる。挙句の果てには、買い付け先が急に黙る」
ミレナは紙束を机に置く。
「事故にしては、きれいに消えすぎなのよ」
フィリアの拳が少しだけ握られる。
「誰かが意図的に止めてる」
「断定はできないわ」
ミレナは即座に言った。
「でも、疑う理由は十分にある」
セレンは地図を見下ろした。
翠都から蒼港までの道は、まず南西へ進み、川沿いの街道を抜け、やがて海に面した巨大な港へ至る。蒼海連邦は、複数の島々と港町が連なった商業圏だと以前フィリアから聞いていた。翠の国とはまた違う、海と交易の国。
「蒼港で調べるべきは、青霊草の荷がどこで消えているか、ですね」
セレンが言う。
「加えて、誰が買い付けを妨害しているのか」
「その通りです」
商人組合の男が頷いた。
「ただし、蒼港は一筋縄ではいきません。商人、船乗り、傭兵、荷運び、各国の使者……人も荷も多すぎる。正規の帳簿だけ見ても、裏の流れまでは追えないことが多い」
「裏の流れ」
フィリアの声が少し低くなる。
その言葉は、彼女の中の何かに引っかかったようだった。
教会騎士長が静かに口を開く。
「だからこそ、今回は調査です。勇者殿には、無理な摘発や戦闘ではなく、薬草流通の異変を確認し、可能であれば青霊草を確保していただきたい」
そして、セレンへ視線を移す。
「同行者殿にも、勇者殿の補佐をお願いします」
「ええ」
セレンは頷いた。
「そのつもりです」
「補佐って言われると、ちょっと複雑なんだけど」
フィリアがぼそりと言う。
「止めるべき時は止める、と昨日約束しましたので」
「そこだけ律儀に覚えてる」
「大事な約束です」
ミレナが二人を見比べ、少しだけ口元を上げた。
「いいんじゃない。止める人がいる勇者様なら、昨日よりは安心できるわ」
「ミレナまで」
「褒めてるのよ」
「だから褒め方が分かりづらい」
商人組合の男だけが、会話についていけずに少し困った顔をしていた。
教会騎士長が咳払いをする。
「今回の任務には条件があります。第一に、単独行動は控えること。第二に、蒼港の教会支部と商人組合へ必ず到着報告を入れること。第三に、アンデッドや禁術めいた異変を確認した場合は、即時報告すること」
わずかに間を置く。
「そして、勇者殿。あなたは翠都にとっても、大陸にとっても重要な存在です。危険があると判断した場合は、撤退を優先してください」
フィリアは少しだけ唇を引き結んだ。
以前なら、ここで食ってかかっていたかもしれない。
だが今は、すぐには反論しなかった。
「……分かった」
短い返事だった。
「でも、目の前で誰かが危なかったら、私は助ける」
「それは止めません」
教会騎士長が答える。
「ただ、助けるためにも生き延びてください」
その言葉は、意外なほど真っ直ぐだった。
フィリアもそれを感じたのか、一瞬だけ目を丸くした。
セレンは教会騎士長の横顔を見る。
勇者を管理しようとする空気はある。
だが、目の前の人間がただ冷たいだけでもない。
この世界の教会は、一言で割り切れるほど単純ではないのだと、改めて思う。
「それと」
ミレナが小さな革袋を机の上へ置いた。
「昨日渡した浄化薬に加えて、これも持っていきなさい」
中には、乾いた薬草を束ねたものと、紙に包まれた粉が入っていた。
「応急用の薬草と、熱を抑える粉。青霊草そのものじゃないけど、軽い傷なら持ちこたえられる」
「こんなにいいの?」
フィリアが尋ねる。
「いいわけないでしょう」
ミレナはあっさり言った。
「でも、あなたたちが途中で倒れたら、それこそ損失よ」
「……言い方」
「無駄にしないで、って意味」
フィリアは革袋を受け取り、少しだけ表情を改めた。
「ありがとう」
「礼は、青霊草を持って帰ってからでいいわ」
ミレナはそう言ってから、セレンへ視線を向ける。
「あなたも。変に我慢しないで使って。倒れられると困るから」
「承知しました」
「ほんとに分かってる?」
「必要であれば使います」
ミレナは少しだけ疑わしそうに目を細める。
「あなたも大概、我慢しそうな顔をしてるのよね」
「そうでしょうか」
「そうなの、彼」
フィリアが当然のように言う。
「たぶん、平気ですって言いながら倒れる方」
「フィリアに言われるのは心外です」
「私は倒れないし」
「昨日、肩を負傷していました」
「それは掠っただけ」
ミレナは呆れたように息を吐いた。
「二人とも使いなさい。いいわね」
「はい」
「……分かった」
妙な形で声が揃い、商人組合の男がとうとう小さく笑った。
その後、必要な書状と通行許可証、蒼港の連絡先、青霊草の見本が手渡された。セレンはそれらを一つずつ確認し、革袋へ丁寧に収める。フィリアはそれを横で見ながら、少しだけ落ち着かない様子だった。
「走り出したいですか」
セレンが小声で聞く。
「……ちょっとだけ」
「正直ですね」
「嘘ついても分かるでしょ」
「多少は」
フィリアは小さく息を吐いた。
「でも、今は走らない」
「ええ」
「ちゃんと準備してから行く」
「その方が、助けられる命は増えると思います」
フィリアはそれを聞いて、少しだけ目を伏せる。
「そういう言い方なら、聞ける」
短い言葉だった。
だが、昨夜からの二人を思えば、それは十分すぎるほどの前進だった。
出発は翌朝と決まった。
その日は、蒼港へ向かう準備に費やされた。水、保存食、簡易の寝具、治療薬、通行証。フィリアは必要な物を並べながら、何度も確認した。セレンはその横で、荷の重さや移動距離を考えながら、持つべきものと置いていくものを仕分けていく。
夕方には、元勇者一行の三人も顔を出した。
「蒼港だって?」
ダルクが腕を組む。
「また面倒そうなところに行くな」
「そっちはオーク退治、終わったの?」
フィリアが聞く。
「終わった。小さい群れだったからな」
弓の男が肩を竦める。
「勇者様が来るまでもなかった」
「それ言いに来たの?」
「半分くらいは」
術師の女が呆れたように弓の男を見て、それからフィリアへ視線を戻した。
「で、今度はちゃんと準備してるのね」
「してる」
フィリアは少しだけむっとしながら答えた。
「見れば分かるでしょ」
「前なら、もう街道に出てそうだったから」
「……それは」
言い返せずに詰まるフィリアを見て、ダルクが鼻を鳴らした。
「少しは変わったな」
「みんなして何なの」
「褒めてるのよ」
術師の女が言う。
「分かりづらいけど」
「最近それ多くない?」
セレンが小さく目を細めた。
「そういう星回りなのかもしれません」
「セレンまで変なこと言わないで」
そのやり取りに、三人が少しだけ笑った。
かつては距離を置いていた元勇者一行も、今は完全な仲間ではないにせよ、フィリアをただ突き放しているわけではなかった。
術師の女は一歩近づき、フィリアへ小さな布包みを差し出す。
「これ、持っていきなさい」
「なに?」
「魔力回復用の干し実。味は悪いけど、効く」
「味は悪いんだ」
「悪いわ」
女はきっぱり言った。
「でも、倒れるよりはまし」
フィリアは布包みを受け取り、小さく頷いた。
「ありがとう」
術師の女は一瞬だけ目を瞬かせ、それから肩を竦めた。
「どういたしまして」
そしてセレンを見る。
「旅人さん。止める役、ちゃんとやりなさいよ」
「努力します」
「そこは断言しなさい」
フィリアと術師の女が同時に言った。
セレンは少しだけ間を置き、真面目に頷いた。
「では、できる限り」
「弱い」
「弱いわね」
また二人の声が重なり、フィリアは少しだけ気まずそうに視線を逸らした。
それを見て、セレンは静かに笑った。
ほんのわずかに、だが確かに。
翌朝。
翠都の門前には、蒼港へ向かう小さな荷馬車隊が用意されていた。商人組合の荷に紛れる形で移動し、道中の村々で情報を拾いながら蒼港へ向かうことになっている。
馬車の上には、空の薬箱と交換用の物資が積まれていた。青霊草を持ち帰るための箱もある。空の箱は軽い。だが、それが持つ意味は決して軽くなかった。
ミレナは見送りに来ていた。
「忘れ物は?」
「ないと思う」
フィリアが答える。
「“思う”じゃなくて、確認した?」
「した」
「ならいいわ」
ミレナはセレンへ視線を移す。
「あなたは?」
「確認しました。薬、書状、通行証、青霊草の見本、地図。すべてあります」
「助かるわ。勇者殿と足して割るとちょうどいいわね」
「どういう意味?」
フィリアが眉を寄せる。
「そのままの意味よ」
フィリアがむっとする前に、セレンが静かに言った。
「では、二人で一人前ということで」
フィリアが振り向く。
「それ、慰めになってる?」
「また、慣れないことを言いました」
フィリアは一瞬黙り、それから小さく笑った。
「なら、いっか」
門の外には、翠の国の街道が伸びている。
その先にあるのは、蒼海連邦。
潮風の都、蒼港。
薬草を求める旅であり、流通の裏を探る調査でもある。
だがセレンには、それだけでは終わらない予感があった。
フォースの中に、まだ形にならないざわめきがある。
冷たい結びつきと同じものではない。だが、どこか遠くで別の影が揺れているような感覚。
港。荷。消えた薬草。
そして、誰かが意図して命に必要なものを止めているかもしれないという疑い。
「セレン」
フィリアが声をかける。
「はい」
「行こう」
彼女はもう前を向いていた。
走り出すのではなく、歩き出すために。
「ええ」
セレンも隣に並ぶ。
翠都の門が背後でゆっくりと開く。
朝の光が、街道の先を淡く照らしていた。
翠の国の都から、蒼海の港へ。
二人の旅は、新しい風の方へ進み始めた。