翠都を発ってから三日目の昼過ぎ、風の匂いが変わった。
それまで街道に混じっていた土と草の匂いが薄れ、代わりに湿った塩の気配が鼻先をかすめる。風は少し強く、肌にまとわりつくようでいて、どこか開けていた。
荷馬車の前方で、フィリアが顔を上げる。
「そろそろ見えるよ」
その声には、わずかな緊張と、抑えきれない好奇心が混じっていた。
セレンは視線を街道の先へ向ける。
丘を越えた瞬間、視界が大きく開けた。
青い海が、そこにあった。
陽の光を受けて、遠くの水面が白く瞬いている。湾に沿って広がる港町には、いくつもの桟橋が突き出し、帆船や大型の商船が並んでいた。木造の荷揚げ機、石造りの倉庫群、色とりどりの旗。潮風に煽られた帆が鳴り、遠くから人々の怒号にも似た掛け声が届いてくる。
翠都の白く整った静けさとは、まるで違う。
蒼港。
蒼海連邦最大の港町。
「……大きいですね」
セレンが呟くと、フィリアが少しだけ得意そうに笑った。
「でしょ。翠都とは全然違うんだよ。ここは物も人も、とにかく流れてくる場所だから」
「宇宙港に近いかもしれません」
「また知らない言葉が出た」
「すみません」
セレンは少しだけ考えてから言い直す。
「大きな船や荷が集まる場所、という意味では似ています」
「ふうん」
フィリアは海を見ながら言う。
「じゃあ、あなたの故郷にもこういう場所があったんだ」
「ええ」
セレンは頷く。
「もっと金属と光に満ちていましたが、人の慌ただしさは似ています」
貨物船の発着場。飛び交う作業員。荷を待つ商人たち。
遠い銀河の宇宙港と、この世界の蒼港は何もかも違う。
けれど、何かを運び、何かを求め、人が集まる場所に生まれる熱は、どの世界でも変わらないのかもしれない。
荷馬車隊は、坂道を下って港町へ入った。
蒼港の門は、翠都のそれほど厳かではなかった。
代わりに、騒がしい。
荷を積んだ馬車、魚を運ぶ若者、どこかの島から来たらしい肌の浅黒い船乗り、鮮やかな布をまとった商人、手早く通行証を確かめる門番。潮の匂いに、魚、香辛料、油、濡れた木材、そして人いきれが混ざっている。
フィリアは少しだけ眉を上げた。
「相変わらず、すごい匂い」
「慣れているのですか」
「一度だけ来たことがある。教会の任務で」
彼女は周囲を見回す。
「その時は、こんなにじっくり見る余裕なかったけど」
「今回は見回る余裕がありますか」
「ある……と思う」
フィリアは言いながら、すぐ前で荷車をひっくり返しかけた少年を目で追う。
「たぶん」
「今、追いかけようとしましたね」
「してない」
「少しだけ」
「してないってば」
セレンはそれ以上言わなかった。
ただ、ほんの少しだけ目を細める。
フィリアはそれに気づいて、不満そうに唇を尖らせた。
「最近、そういう顔するようになったよね」
「どのような顔でしょうか」
「分かってるくせに、言わない顔」
「慣れないことをしています」
「またそれ」
フィリアは呆れたように言いながらも、少しだけ笑っていた。
荷馬車隊は、まず蒼港の商人組合へ向かうことになっていた。教会支部へ向かう前に、青霊草の荷が実際にどこまで届いていたのか、帳簿を確認するためだ。
商人組合の建物は、港湾区の中央にあった。
広い石造りの建物で、入り口には蒼海連邦の紋章が掲げられている。中へ入ると、木札を持った人々が行き交い、何人もの事務員が机に向かって書類を捌いていた。
翠都からの書状を見せると、二人は奥の部屋へ案内された。
対応に出てきたのは、細身の事務官だった。年齢は四十前後。整った髭をしており、いかにも帳簿の乱れを嫌いそうな顔つきだった。
「翠都より、青霊草の件ですね」
事務官は書状に目を通しながら言う。
「話は届いております。こちらでも調査は進めていますが……正直、厄介です」
「厄介?」
フィリアが聞き返す。
事務官は机に置かれた厚い帳簿を開いた。
「青霊草を積んだ荷は、たしかに蒼港へ入っています。入港記録もありますし、荷下ろしの署名もある」
指先で行をなぞる。
「問題は、その後です」
セレンが帳簿へ視線を落とす。
「倉庫から出た記録がない?」
「出た記録はあります」
事務官は渋い顔をした。
「ただし、名義が変わっています。本来は翠都の薬舗へ送られるはずの荷が、別の買い付け人の名で処理されている」
「誰が買ったの」
フィリアの声が低くなる。
「表向きは、港の薬材商です」
「表向き?」
「その商会自体は実在します。ですが、近頃急に取引量が増えた。さらに言えば、実際の荷の行き先と帳簿上の行き先が一致していない」
事務官は眼鏡を押し上げた。
「要するに、きれいに整った帳簿の中で、荷だけが消えているのです」
ミレナが言っていた通りだった。
事故にしては、きれいに消えすぎている。
セレンは静かに問いかける。
「最後に確実に確認された場所はどこですか」
「第三倉庫です」
事務官は地図を広げ、港湾区の一角を指した。
「青霊草の箱は、そこで一度検品されています。その後、別名義へ切り替わり、記録上は西側の薬材倉庫へ移されたことになっている」
「実際には?」
「西側には届いていません」
フィリアが拳を握った。
「つまり、第三倉庫からどこかへ運ばれた」
「その可能性が高い」
事務官は頷いた。
「ただ、港では荷が一日に何百と動きます。船から倉庫へ、倉庫から馬車へ、馬車から別の船へ。正規の札を付け替えられれば、追うのは簡単ではありません」
「第三倉庫へ行けますか」
セレンが尋ねる。
「行くだけなら」
事務官は少し言い淀む。
「ただし、あの辺りは荷運びの縄張りが絡みます。正規の倉庫とはいえ、あまり外の者が踏み込むと面倒になる」
「面倒って?」
フィリアが聞く。
「港には港の秩序があります」
事務官は言葉を選んだ。
「騎士の秩序、商人の秩序、船乗りの秩序、そして……表に出にくい者たちの秩序です」
部屋の空気が少しだけ重くなる。
フィリアは眉を寄せた。
「裏の流れ、ってこと」
「そう呼ぶ者もいます」
事務官は目を伏せた。
「勇者殿、どうか慎重に。蒼港では、剣を抜くより先に話を通すべき相手がいることも多い」
フィリアは一瞬だけ口を開きかけたが、すぐに閉じた。
セレンが隣を見る。
「フィリア」
「分かってる」
彼女は短く答えた。
「まずは見る。いきなり斬り込まない」
「ええ」
そのやり取りを聞いて、事務官は少しだけ安堵したようだった。
「では、第三倉庫への通行札を出しましょう。商人組合からの確認という形なら、少なくとも門前払いにはならないはずです」
「ありがとうございます」
セレンが頭を下げる。
フィリアも、少し遅れて頷いた。
「助かる」
事務官は木札を二枚用意しながら、ふと声を低めた。
「それと、もう一つ」
「何ですか」
「最近、港の裏路地で子どもの姿をよく見るようになりました」
フィリアの目が細くなる。
セレンの表情も、わずかに変わった。
「荷運びの子どもですか」
「それならまだ分かります」
事務官は木札を差し出しながら言った。
「ですが、どこの組にも属していない子たちです。荷の近くで見かけたと思えば、すぐに消える。誰かに使われているのかもしれません」
セレンは木札を受け取る手を止めかけた。
子ども。
荷。
裏路地。
胸の奥に、遠い記憶が一瞬だけ触れた。
鎖の音。
油と砂の匂い。
顔を伏せて歩く幼い影。
「セレン?」
フィリアが小さく呼ぶ。
セレンは瞬きをし、すぐに表情を戻した。
「……問題ありません」
フィリアは何か言いたげに彼を見たが、今は追及しなかった。
商人組合を出ると、港の喧騒はさらに強くなっていた。
午後の荷揚げが始まっているのだろう。桟橋には船が次々と入り、縄が投げられ、木箱が滑車で吊り上げられていく。荷運びたちの怒声、船乗りの歌、商人の値切り声。すべてが潮風に混じって渦巻いていた。
フィリアは第三倉庫の木札を握りしめる。
「行こう」
「ええ」
セレンは頷く。
「ただ、慎重に」
「分かってるってば」
フィリアは少しだけむっとする。
「さっきも言ったでしょ」
「大事なことなので」
フィリアは何か言い返そうとして、やめた。
代わりに小さく息を吐く。
「……分かってる。以前みたいにはしない」
その声は小さかったが、確かに届いた。
セレンは静かに頷いた。
「では、行きましょう」
二人は港湾区へ向かった。
第三倉庫は、表通りから少し外れた場所にあった。石と木で組まれた大きな建物で、壁には潮風で削れた番号札が打ちつけられている。周囲には似たような倉庫が並び、荷車と作業員が忙しく出入りしていた。
だが、その中で第三倉庫だけは、どこか空気が重かった。
人の出入りはある。
けれど、近づく者の視線が少しだけ鋭い。
笑い声が少なく、会話も短い。
セレンは足を止めず、木札を見せて入口の男へ近づいた。
「商人組合からの確認です」
丁寧に告げる。
「青霊草の荷について、入庫記録を確認したい」
入口の男は、日に焼けた顔で二人を見た。目が細い。荷運びにしては、手の動きがやけに落ち着いている。
「組合から?」
「ええ」
男は木札を確認し、それからフィリアへ視線を移した。
「勇者様まで連れて、薬草の確認か」
「必要な薬草だから」
フィリアはまっすぐ返す。
「ここに入った記録があるって聞いた」
「入った荷なんざ、いくらでもある」
男は肩をすくめる。
「青い葉っぱの箱だけ覚えてろって方が無理な話だ」
フィリアの眉が動く。
セレンが一歩だけ前へ出た。
「覚えている方を紹介していただけますか」
穏やかな声だった。
「こちらも、騒ぎを起こしたいわけではありません」
男はしばらくセレンを見た。
その目の奥に、警戒がある。
敵意ではない。だが、何かを隠す者の緊張がある。
セレンはそれを感じ取ったが、踏み込まなかった。
ここで力を使って相手を押す場面ではない。
まずは、相手が何を恐れているのかを見極めるべきだ。
「……待ってろ」
男は短く言い、倉庫の奥へ消えた。
フィリアが小声で言う。
「怪しい」
「ええ」
「でも、まだ斬り込まない」
「その通りです」
フィリアはじっとセレンを見る。
「今、ちょっと褒めた?」
「事実を述べました」
「それ、褒めたってことでいい?」
「お任せします」
フィリアは不満そうにしながらも、少しだけ口元を緩めた。
その時だった。
倉庫の裏手の路地から、小さな影が飛び出した。
少年だった。
十歳になるかならないか。薄汚れた上着を着て、胸に小さな包みを抱えている。彼は二人を見るなり、一瞬だけ固まり、すぐに反対方向へ走ろうとした。
その背後から、男の怒声が飛ぶ。
「おい、待て!」
フィリアが反射的に動きかける。
「フィリア」
セレンの声が鋭く飛んだ。
彼女は足を止めた。
止めた。
けれど、目は少年を追っている。
少年は路地へ飛び込みかけ、そこで足をもつれさせた。抱えていた包みが地面へ落ち、中から薄青い葉が数枚こぼれる。
青い筋の入った葉。
フィリアの目が見開かれる。
「青霊草……!」
少年は慌てて葉をかき集めようとする。
その手は震えていた。盗人の手というより、追い詰められた獣のそれに近い。
セレンは、彼の向こう側を見た。
路地の奥。
薄暗い影の中に、別の子どもたちの気配がある。
そしてかすかに、鉄の匂い。
潮風と魚と薬草の匂いに混じって、消えかけた錆のような、嫌な匂いがした。
胸の奥に、冷たいものが落ちる。
フィリアが小さく言う。
「セレン……?」
セレンは答えなかった。
ただ、青い葉を抱え直して震える少年と、路地の奥に沈む暗がりを見つめていた。
蒼港の表通りは、相変わらず明るく騒がしい。
だが、そのすぐ隣にある影は、思っていたよりも深い。
消えた薬草の先にあるものは、ただの帳簿の乱れではないのかもしれない。
潮風の都で、二人はようやくその匂いに触れた。