青い筋の入った葉が、石畳の上に散らばっていた。
潮風に煽られ、そのうちの一枚がひらりと裏返る。薄青い葉脈。かすかな薬草の香り。ミレナが言っていた青霊草に、よく似ている。
少年はそれを必死にかき集めていた。
十歳になるかならないかの細い腕。汚れた上着。擦り切れた靴。胸に抱えた小さな包みを守るように丸くなりながら、彼は背後を何度も振り返る。
「おい、待てって言ってるだろ!」
倉庫の奥から、太い声が響いた。
男が二人、路地へ出てくる。荷運びの格好をしているが、足取りは乱れていない。怒っているというより、逃げ道を塞ぎ慣れているような動きだった。
フィリアの手が、反射的に聖剣の柄へ伸びる。
だが、セレンはそれより早く一歩前へ出た。
「待ってください」
声は静かだった。
だが、その静けさの底に、いつもより硬いものが混じっていた。
男たちが足を止める。
「あんたらには関係ねえ」
片方が低く言う。
「そのガキは倉庫の荷に手を出した。こっちで始末をつける」
「荷」
セレンが繰り返す。
その一言に、胸の奥で何かが冷たく鳴った。
少年は青霊草を拾い終えると、ぎゅっと包みを抱き直した。逃げようとしているのに、足がすくんでいる。目だけが、必死に出口を探していた。
フィリアが男たちを睨む。
「子ども相手に、ずいぶん物騒な言い方するね」
「勇者様か」
男はフィリアを見て、面倒そうに顔を歪めた。
「なら、なおさら口を挟まないでくれ。港には港のやり方がある」
「その子が持ってるの、青霊草でしょ」
「さあな」
「知らないふりするには、無理があるよ」
男の目が細くなる。
その瞬間、セレンは少年へ視線を向けた。
「怪我はありませんか」
少年は答えない。
ただ、セレンを見上げた。
恐怖。警戒。諦め。
そのどれもが、幼い顔の中に押し込められていた。
フォースが、その震えを拾う。
そして、もっと奥にあるものも。
空腹。疲労。痛み。
それから、命令に逆らった時の恐れ。
セレンの指先が、わずかに強張った。
「こっちへ」
彼は少年へ手を伸ばす。
「大丈夫です。何もしません」
少年は一瞬だけ、その手を見た。
次の瞬間、彼は青霊草の葉を一枚だけ地面に残し、身をひるがえして路地の奥へ駆け出した。
「おい!」
男たちが追おうとする。
フィリアが前へ出た。聖剣は抜かない。ただし、その立ち位置だけで道を塞ぐ。
「行かせない」
「どけ」
「嫌」
男の手が腰へ伸びかけた。
その瞬間、セレンの視線がそこへ落ちる。
空気が、低く軋んだ。
男の身体が、見えない壁に押されたように半歩下がる。背中が倉庫の柱にぶつかり、鈍い音が鳴った。
青い刃は起動していない。
セレンは手を上げてもいない。
ただ、胸の奥で膨らんだ怒りが、ほんの一瞬だけフォースに触れてしまった。
「……っ」
男の顔から血の気が引く。
フィリアが小さく息を呑んだ。
「セレン」
その声で、セレンはようやく自分のしたことに気づいた。
指先が、わずかに震えている。
男たちは一歩、二歩と後ずさった。
「……覚えてろよ」
そう吐き捨てた声は、さっきより少しだけ上ずっていた。
男たちは倉庫の奥へ戻っていく。
フィリアは彼らの背を見送ってから、地面に落ちた葉を拾い上げた。
「青霊草、だよね」
「おそらく」
セレンの声は低かった。
フィリアはその横顔を見る。
「追う?」
「ええ」
セレンは路地の奥を見つめたまま答えた。
「ただし、距離を取って」
その言葉は冷静に聞こえた。
だがフィリアには、分かった。
今のセレンは、冷静でいようとしているだけだ。
蒼港の裏路地は、表通りとはまるで別の場所だった。
桟橋の喧騒は遠ざかり、魚と香辛料の匂いは薄れ、代わりに湿った木材、汚れた布、古い鉄、そして人の暮らしの底に溜まるような匂いが濃くなる。
狭い道の左右には、傾いた家屋と倉庫の裏口が並んでいた。窓は小さく、戸は半ば腐り、壁には見慣れない印が煤で書かれている。子どもたちの足音は、そうした路地のさらに奥へ消えていった。
セレンは歩きながら、フォースへ意識を澄ませる。
少年の気配はまだ近い。
怯えながら、どこかへ戻ろうとしている。
フィリアも隣で声を落とした。
「さっきの子、青霊草を盗んだのかな」
「分かりません」
セレンは答える。
「ですが、ただの盗みではないように見えました」
「うん。私もそう思う」
しばらく進むと、路地の曲がり角の向こうで、かすかな声がした。
「遅い」
「ごめん」
「箱は?」
「取れなかった。これだけ」
先ほどの少年の声だ。
二人は壁際に身を寄せ、角の向こうを覗いた。
古い倉庫の裏手に、数人の子どもが集まっていた。年齢はまちまちだが、どの子も痩せていて、服は汚れている。彼らのそばには、割れた木箱と布袋が置かれていた。その中に、青霊草らしき葉が数枚だけ入っている。
そして子どもたちの首元には、細い革紐が巻かれていた。
飾りではない。
名札でもない。
まるで、目印のようだった。
セレンの呼吸が、わずかに変わる。
フィリアが小声で言う。
「……あれ」
「分かっています」
返事は短かった。
その声に、フィリアは思わずセレンを見る。
いつもの落ち着いた目ではない。
青い刃を抜いていないのに、まるで既に戦いの中にいるような目だった。
子どもたちの前に、細身の男が現れた。派手な外套を着ているが、足元は汚れている。商人とも船乗りともつかない身なりだ。
「これだけか」
男は布袋を覗き込み、不満そうに顔をしかめた。
「すみません」
少年が小さく言う。
「見つかって……」
「言い訳はいらない」
男は少年の首元の革紐を指で引いた。
「お前らは働くために飯を食ってる。役に立たないなら、別の場所に回すだけだ」
別の場所。
その言葉に、子どもたちが一斉に黙った。
セレンの視界の端が、少し暗くなる。
遠い記憶が、潮風の匂いを押しのけて滲んできた。
砂に混じった油の匂い。
狭い檻。
値踏みする声。
何番、と呼ばれる子どもたち。
そして、記憶の中に焼きついた、太陽のような少女の笑顔。
最後まで笑おうとしていた。
怖くないはずがないのに、年下の子どもたちを安心させるように。
セレンの足が、一歩前へ出た。
「セレン」
フィリアの声が、すぐ横から飛ぶ。
彼は止まらなかった。
もう一歩。
フィリアが腕を掴む。
「セレン、待って」
その声は強かった。
だが、怒鳴ってはいない。
セレンはゆっくりと彼女を見る。
「離してください」
穏やかな言葉だった。
だが、穏やかすぎた。
フィリアはその声に、背筋が少し冷えるのを感じた。
「だめ」
「子どもたちが脅されています」
「分かってる」
「なら」
「だから待って」
セレンの眉がわずかに動いた。
フィリアは掴んだ腕に力を込めた。
「今飛び込んだら、あの子たちは助かるかもしれない。でも、奥にいる子たちは?」
「奥?」
「気配がある」
フィリアは視線を倉庫のさらに奥へ向けた。
「私にはフォースとか分からない。でも、あそこにまだいる。たぶん、あの子たちだけじゃない」
セレンは一瞬、何も言えなかった。
フォースへ意識を戻す。
確かにいた。
怯えた小さな気配が、複数。
倉庫の奥、あるいは地下。息を殺し、声を出すことすら恐れている。
怒りが、視界を狭めていた。
それに気づいた瞬間、セレンは唇を噛んだ。
「……僕は」
「分かるよ」
フィリアが言った。
「分かる、なんて簡単に言ったら駄目かもしれないけど。でも、今のあなたが止まれなくなりそうなのは分かる」
セレンは答えない。
「でも、前にあなたが言った」
フィリアの声は低く、まっすぐだった。
「前に出ることと、無謀であることは同じじゃないって」
その言葉が、セレンの胸へ真っ直ぐ刺さった。
以前、自分が言った言葉だ。
フィリアを止めるために。
彼女の無茶を責めるために。
今、その言葉を返されている。
「今度は、私が止める番でしょ」
フィリアはそう言って、少しだけ苦く笑った。
セレンは目を伏せた。
怒り。恐れ。執着。
呑まれるな。
マスター・ヨルの声が、遠くで響く。
だが、目の前の子どもたちを見て、心を静めることは簡単ではなかった。
「……ありがとうございます」
やがて、セレンは小さく言った。
フィリアの手から、少しだけ力が抜ける。
「落ち着いた?」
「完全には」
「正直でよろしい」
いつもの調子に戻そうとするような言い方だった。
けれど、フィリアの目は真剣なままだった。
セレンは深く息を吸う。
「まず、見極めましょう」
「うん」
「子どもたちの人数。出入口。見張り。青霊草の流れ」
「それから、助け方」
フィリアが続ける。
セレンは頷いた。
「ええ。必ず助けます」
「うん」
フィリアも頷く。
「必ず」
倉庫の裏では、細身の男が子どもたちへ短く指示を出していた。
「今夜、東の船着き場だ。遅れるな」
「でも、あそこは……」
「口答えするな」
少年が肩を震わせる。
男は小さな木札を投げた。そこには、蛇のように曲がった黒い印が刻まれている。
「それを見せれば通れる。余計なことはするな。次に失敗したら、飯は抜きだ」
それだけ言って、男は路地の奥へ消えた。
子どもたちはしばらく動かなかった。
やがて、一人が泣きそうな声で言う。
「もう嫌だ」
「静かにして」
「東に行ったら、戻れないって」
「黙って」
少年は包みを抱え直し、無理やり皆を立たせようとした。
自分も怖いはずなのに、年下の子を先に歩かせている。
セレンはその姿から目を離せなかった。
自分も、かつて誰かにそうしてもらった。
記憶の中の少女はいつも、年下の子を先に逃がした。
自分が怖くないわけではなかったはずだ。
それでも笑った。大丈夫だと言った。
そして最後に、戻ってこなかった。
セレンの拳が震える。
フィリアはそれを見て、静かに隣へ立った。
「大丈夫」
「……何がですか」
「一人で背負わなくていいってこと」
セレンは彼女を見る。
フィリアは路地の奥を睨んだまま、言った。
「あの子たちを助ける。青霊草も取り戻す。どっちもやる」
「簡単ではありません」
「知ってる」
フィリアは少しだけ口元を引き結ぶ。
「だから、二人で考えるんでしょ」
その言葉に、セレンはほんの少しだけ目を細めた。
「ええ」
静かに答える。
「二人で」
路地の向こうで、子どもたちが東へ向かって歩き始める。
セレンとフィリアは、距離を取ってその後を追った。
蒼港の空は、夕方へ近づいていた。
表通りにはまだ光が満ち、人々の声が溢れている。
だが、路地の奥へ進むほど、その光は細くなっていく。
檻の匂いがする。
鉄の匂い。汗の匂い。諦めの匂い。
そして、子どもたちの小さな命が、誰かの都合で荷物のように扱われている匂い。
セレンはそれを知っていた。
知りたくなかったのに、知っていた。
だからこそ、今度は見失わない。
フィリアが隣で小さく言う。
「セレン」
「はい」
「行こう。でも、ちゃんと助けるために」
「ええ」
青い光はまだ抜かない。
聖剣もまだ鞘の中にある。
だが二人の歩幅は、確かに揃っていた。
蒼港の裏側に、消えた青霊草と、檻の中の子どもたちへ続く道が口を開けている。
セレンは静かに息を整えた。
怒りに呑まれるためではなく。
救うために。