東の船着き場へ向かう道は、蒼港の表通りから大きく外れていた。
夕暮れの光はまだ港の空に残っている。だが、倉庫の影と細い路地が重なり合う場所では、その光も薄く、潮風さえどこか淀んで感じられた。
セレンとフィリアは、子どもたちの後を距離を取って追っていた。
青霊草の包みを抱えた少年。
その後ろを歩く、痩せた子どもたち。
首元に巻かれた細い革紐。
彼らは誰も大きな声を出さない。泣きそうな顔をしている子もいたが、それでも泣かなかった。泣けば叱られると知っている子どもの沈黙だった。
フィリアは奥歯を噛みしめる。
「……酷い」
短い言葉だった。
だが、その中に怒りが滲んでいた。
セレンは答えなかった。
彼の視線は、子どもたちの先にいる男たちへ向いている。先ほどの細身の男だけではない。路地の奥には、荷運びに紛れた見張りが数人。腰に短剣を下げ、ところどころに蛇のような黒い印を入れた木札を持っている。
勇者一行に気づかれた。
そう判断したのだろう。
彼らの動きは、明らかに慌ただしくなっていた。
「移してる」
フィリアが小声で言う。
「どこか別の場所へ」
「ええ」
セレンも頷く。
木箱が運び出されている。中身はすべて青霊草とは限らないが、同じ形の薬草箱がいくつか混じっていた。子どもたちもまた、荷物のように急かされ、東の船着き場へ向かっている。
その光景に、胸の奥がきしむ。
怒り。
恐れ。
そして、遠い記憶。
セレンは息を整えようとした。
怒りに呑まれるな。
恐れに呑まれるな。
マスター・ヨルの声を、心の中で探す。
だが、目の前の子どもたちの背中は、あまりにも小さかった。
先頭の少年が、足をもつれさせた。
抱えていた包みがずれ、青霊草の葉が数枚こぼれる。彼は慌てて拾おうとしたが、後ろから来た男が苛立ったように舌打ちした。
「何をしてる」
「ごめんなさい、すぐ――」
言い終える前に、男の手が少年の頬を打った。
乾いた音が、路地に響く。
フィリアが息を呑み、半歩前へ出る。
だが、セレンの方が先に動きかけていた。
「セレン」
フィリアの声で、彼はかろうじて足を止めた。
少年は頬を押さえながら、涙をこらえて青霊草を拾う。周りの子どもたちは見ているだけだった。助けたいのに、動けない。動けば次は自分が打たれると知っている目だった。
セレンの拳が震える。
見ていろ。
まだだ。
奥にいる子どもたちもいる。
全員を助けるために、今は見極める。
自分にそう言い聞かせる。
だが、男はさらに苛立ったように少年の襟を掴んだ。
「お前らは、言われた通りに動いてりゃいいんだよ。飯を食わせてもらってるだけありがたいと思え」
その言葉に、セレンの胸の奥で何かが熱くなった。
飯。
働く。
ありがたいと思え。
かつて聞いたことのある言葉。
子どもの命を、物と同じように扱う声。
そこへ、最年少らしい小さな子どもが転んだ。膝を打ったのか、かすかな声を上げる。
見張りの男が顔をしかめ、そちらへ歩いた。
「またか」
男の手が上がる。
だが、その前に一人の少女が飛び出した。
子どもたちの中では少し年上に見える、痩せた少女だった。彼女は最年少の子どもを抱えるように庇い、自分の背を男へ向ける。
「この子、歩けます」
少女は震える声で言った。
「私が連れていきます。だから――」
「黙れ」
男は腰から鞭を抜いた。
革が空気を裂く音が、細く鳴る。
――その瞬間、セレンの中で、何かが切れた。
「セレン!」
フィリアも飛び出そうとした。
だが、セレンの方が速かった。
青い光が、夕闇に走る。
ライトセーバーの刃が一瞬で伸び、鞭を振り上げた男の前へ滑り込む。男が驚いて振り向くより早く、青い刃が閃いた。
鞭が宙で断たれる。
続いて、それを握っていた腕が、力を失って落ちた。
男の悲鳴が、倉庫街に響いた。
セレンは、男と子どもたちの間に立っていた。
青い刃が低く唸る。
その光に照らされたセレンの顔は、ひどく静かだった。
静かすぎて、怒っていることがかえって分かる顔だった。
「その子から離れてください」
声は穏やかだった。
だが、誰もその穏やかさを優しさとは受け取らなかった。
見張りたちが一斉に動く。
誰かが笛を鳴らした。短く、鋭い音が港の影に響き渡る。
フィリアもすぐに駆けつけ、少女と最年少の子どもの前に立った。
「こっちへ!」
少女は一瞬だけ迷った。
だが、フィリアの声に弾かれたように頷き、最年少の子を抱えて後ろへ下がる。
他の子どもたちも動き出しかけた。
しかし、倉庫の奥から男たちが飛び出してくる。
「何してやがる!」
「勇者だ!」
「青い剣の奴もいるぞ!」
混乱が一気に広がった。
フィリアは聖剣を抜き、子どもたちへ向かう男の短剣を弾き飛ばす。聖剣の光が夕暮れの陰を裂き、相手を押し戻した。
「子どもたちに触るな!」
その声は、怒りに満ちていた。
だが、セレンとは違う。
フィリアの怒りは前へ進むための炎であり、目の前を見失ってはいなかった。
セレンは数人の男を退ける。
ライトセーバーを振るうたび、相手の武器が切り落とされ、木箱が裂け、地面に火花が散った。だが、彼の動きにはいつものような受け流しの余裕が少ない。
ソレスの守りではない。
押し込み、断ち、相手を退ける剣。
フィリアはそれを横目で見て、胸の奥がざわついた。
「セレン、深追いしない!」
声を飛ばす。
セレンは一瞬だけ止まった。
その隙に、倉庫の奥から低い音が響いた。
鎖を引きずるような音。
ぎしり。
ぎしり。
濡れた何かが石の床を擦る音。
男たちの何人かが顔色を変える。
「おい、まさか今出すのか」
「止められるかよ! 勇者がいるんだぞ!」
フィリアが眉を寄せる。
「何……?」
次の瞬間、倉庫の奥の鉄扉が大きく揺れた。
内側から何かがぶつかったような轟音。
続いて、太い鎖が弾ける音。
扉の隙間から、ぬめるような黒い影が現れた。
巨大な蛇だった。
ただの蛇ではない。
人の胴ほどもある太い体。黒緑の鱗。濡れた刃のように光る牙。頭部には古傷が走り、首元には無理やり打ち込まれた鎖の輪が食い込んでいる。
黄色く濁った目が、夕闇の中でぎょろりと動いた。
フィリアは思わず息を呑む。
「大蛇……!」
蛇は低く喉を鳴らし、倉庫の床を這い出てくる。
それだけで、周囲の男たちさえ一歩下がった。
セレンは動かなかった。
いや、動けなかった。
青いライトセーバーは握っている。
構えも崩れていない。
だが、その肩がわずかに強張っている。
フォースの流れが乱れる。
怒りで熱くなっていた胸の奥に、今度は冷たい恐怖が滑り込んできた。
蛇。
濡れた鱗。
閉じない目。
這うように近づく巨体。
それは、ただの魔物の姿ではなかった。
砂と油の匂い。
鉄の首輪。
暗い檻。
子どもたちを番号で呼ぶ声。
そして、奥の玉座に沈む、巨大な蛇じみた支配者の影。
粘つく笑い声が、記憶の底から這い上がってくる。
あれは蛇ではない。
そう分かっている。
分かっているのに、身体が先に思い出してしまう。
呼吸が浅くなる。
「セレン?」
フィリアが気づいた。
セレンは答えようとした。
だが、喉がうまく動かなかった。
大蛇が頭を持ち上げる。
その視線が、フィリアの後ろにいる子どもたちへ向いた。
「まずい」
フィリアは即座に判断した。
このまま戦えば、子どもたちが巻き込まれる。
セレンは明らかに本調子ではない。
敵の数も多く、場所も悪い。
以前の自分なら、ここで突っ込んでいたかもしれない。
だが、今は違う。
「退く!」
フィリアの声が響いた。
セレンがようやく彼女を見る。
「ですが、子どもたちが――」
「全員助けるために退くの!」
フィリアは少女と最年少の子どもを押し出すようにして、路地の出口へ向かわせる。
「走って! こっち!」
リーダー格の少女は一瞬だけ他の子どもたちを見た。
まだ倉庫の奥に残されている子がいる。連れていかれた子もいる。
だから動けなかった。
フィリアはその少女の肩を掴む。
「今は生きて。戻るから」
少女の目が揺れる。
「本当に……?」
「本当に」
フィリアは迷わず言った。
「勇者だから」
その言葉は、飾りではなかった。
誰かに与えられた名でもない。
今この場で、目の前の子どもを立たせるための言葉だった。
少女は唇を噛み、最年少の子を抱えて走り出す。
大蛇が動いた。
黒い影が地面を滑り、想像以上の速さで迫る。フィリアは聖剣を振るい、蛇の進路へ光の刃を叩きつけた。
硬い鱗が火花を散らす。
「硬っ……!」
切れない。
だが、怯ませることはできた。
「セレン!」
フィリアの声が飛ぶ。
セレンは一瞬遅れて動いた。ライトセーバーを構え、大蛇の顔の前へ青い刃を走らせる。蛇は熱を嫌ったのか、頭を引いた。
だが、セレンの足はまだ硬い。
フィリアはそれを見逃さなかった。
「今は逃げる! いいね!」
「……ええ」
セレンは短く答えた。
悔しさが滲んだ声だった。
フィリアは子どもたちを先に走らせ、セレンと共に後退する。追ってくる男たちには石箱を蹴り倒し、聖剣の光で牽制した。セレンもライトセーバーで吊り鎖を斬り、積み上がっていた空箱を崩して路地を塞ぐ。
大蛇がその向こうで大きく身をくねらせた。
木箱が砕ける音。男たちの怒号。子どもたちの泣き声。
そのすべてを背に、二人は路地を駆け抜けた。
港の外れにある廃船小屋へ辿り着いた頃には、空は濃い紫に沈みかけていた。
フィリアは連れてきた二人の子どもを奥へ座らせる。リーダー格の少女と、最年少の子ども。どちらも震えていたが、大きな怪我はない。
セレンは入口に立ち、外の気配を探っていた。
追手はまだ近くにはいない。
だが、完全に撒いたわけでもない。
ライトセーバーはすでに消している。
それでも、手の中の柄が妙に重く感じた。
男の腕を斬った瞬間の感触が、まだ残っている。
守るためだった。
そう言える。
だが本当に、それだけだったのか。
怒りはなかったか。
あの鞭を見た瞬間、自分は何を思ったのか。
「セレン」
フィリアが近づいてくる。
セレンは振り向かなかった。
「すみません」
先に出た言葉は、それだった。
「何に?」
「冷静ではありませんでした」
フィリアはすぐには返事をしなかった。
少しして、隣に立つ。
「うん」
彼女は正直に言った。
「そう見えた」
その答えは優しくはなかった。
だが、責めるためのものでもなかった。
「でも、あの子を守ったのも本当」
フィリアは続ける。
「だから、今ここで全部間違いだったとは言わない」
セレンはゆっくりと目を伏せた。
「……ありがとうございます」
「お礼じゃなくて」
フィリアは少しだけ眉を寄せる。
「次、ちゃんと助けるために必要な話をしてるの」
その言い方に、セレンはほんの少しだけ視線を上げた。
フィリアは変わった。
少し前までなら、怒りのままに突っ込んでいたはずの少女が、今は自分を止め、撤退を選び、次を見ている。
そのことが、今のセレンには痛いほど分かった。
「……あなたに止められるとは思いませんでした」
「私も、止める側になるとは思わなかった」
フィリアは小さく息を吐く。
「でも、今度は私が止める番だったんでしょ」
セレンは答えなかった。
ただ、静かに頷いた。
廃船小屋の奥で、リーダー格の少女がこちらを見ていた。まだ警戒している。だが、その目の奥には、ほんのわずかな期待も混じっていた。
フィリアは彼女の前にしゃがみ込む。
「名前、聞いてもいい?」
少女はしばらく黙っていた。
やがて、小さな声で答える。
「……ラン」
「ラン」
フィリアはその名を繰り返した。
「私はフィリア。こっちはセレン」
ランはセレンを見て、少しだけ身を縮めた。
青い剣の光を見たからだろう。
男の腕を斬ったところも見ている。
セレンは距離を取ったまま、静かに膝をついた。
「怖がらせてしまいましたね」
声を抑えて言う。
「すみません」
ランは答えない。
けれど、視線を逸らさなかった。
最年少の子が、ランの服を掴んで震えている。
フィリアは二人へそっと水袋を差し出した。
「大丈夫。今は追ってこない」
「……戻るの?」
ランが聞いた。
フィリアは頷いた。
「戻る」
「みんな、まだ……」
「分かってる」
フィリアの声は強かった。
「みんな助ける。青霊草も取り戻す」
ランの目が揺れる。
「でも、蛇がいる」
その言葉に、セレンの指がわずかに動いた。
フィリアはそれに気づいたが、今は触れなかった。
「うん」
彼女はランへ向けて言う。
「だから、ちゃんと考えてから行く。もう無茶に飛び込まない」
ランは信じ切れていない顔をしていた。
当然だろう。
この子たちは、大人の言葉に何度も裏切られてきたはずだ。
セレンは静かに言った。
「必ず、助けます」
ランが彼を見る。
セレンは続けた。
「今度は、見失いません」
それが誰に向けた言葉なのか、フィリアには少しだけ分かった気がした。
外では、蒼港の夜が始まっている。
表通りには灯がともり、酒場の歌声が風に乗って聞こえる。
だが、その明るさの裏で、子どもたちはまだ檻の中にいる。
そして、巨大な蛇がその檻の前に横たわっている。
セレンは夜の港を見つめ、静かに息を整えた。
怒りに呑まれるためではなく。
恐れに屈するためでもなく。
今度こそ、救うために。