森の空気は、歩き出してしばらくすると少しずつ変わっていった。
深く、湿り気を帯びた土の匂い。名も知らぬ花々の甘い香り。葉の擦れる音に混じり、遠くからは水のせせらぎも聞こえてくる。碧光の森と呼ぶに相応しいのだろう、木々の幹や下草にはどこか青白い光が宿っていて、昼だというのに森全体が薄い月明かりの中にあるように見えた。
セレンは警戒を緩めないまま、村の気配を辿って歩いていた。
フォースの流れに意識を澄ませるたび、この世界そのものが持つ生命の濃さを感じる。銀河で知るどの惑星とも違う。荒々しく、しかし豊かだ。一本の木、一匹の小動物、一滴の水に至るまで、力の巡りがむき出しのまま息づいている。
そして、その大きな流れの中に、人の営みもまた小さな灯火のように存在していた。
煙。火。土を踏みしめて生きる命のまとまり。
村は近い。
だが、その安堵を素直に受け取れない程度には、セレンの中にはまだ、前の世界の傷が残っていた。
昨日まで隣にいた者が、今日には銃口を向けてくる。
正義の名を掲げた組織が、もっとも冷酷に牙を剥く。
そんな光景を見たばかりだ。
人を疑いたいわけではない。だが、盲信する気にもなれない。
彼の師匠、マスター・ヨルなら、きっとこう言っただろう。
――警戒と不信は違うぞ、セレン。前者は生きるために必要だが、後者は心を曇らせる。
「……ええ。分かっています、マスター」
独り言は、森の中にすぐ溶けた。
やがて視界の先が開けた。木々の隙間から、小さな集落が見える。粗い木柵で囲まれた村だった。畑があり、井戸があり、煙を吐くかまどがある。大きな村ではない。家の数も十数軒ほどで、森と共に慎ましく生きているのだと一目で分かった。
セレンが足を踏み入れると、最初に彼に気付いたのは、井戸のそばで水を汲んでいた少女だった。
「……えっ」
少女は桶を落としかけ、慌てて持ち直した。視線はセレンの焼け焦げたローブと、見慣れない風貌に釘付けになっている。
その声で、近くにいた大人たちも一斉に振り向いた。鍬を持った男。洗濯物を干していた女。薪を割っていた老人。誰もが露骨に警戒を浮かべている。
無理もない、とセレンは思った。
焼け焦げたローブ姿の若い男が、森の奥からふらりと現れたのだ。歓迎される理由はない。
「……すみません。驚かせるつもりはありませんでした」
できるだけ穏やかな声でそう言うと、村人たちは顔を見合わせた。言葉は通じるらしい。それだけで、ひとまず助かる。
「旅の方か?」
前に出てきたのは、灰色の髭を蓄えた初老の男だった。服の質素さと態度からして、村長か、それに近い立場なのだろう。
「そんなところです。森で道に迷ってしまって」
嘘ではない。ただ、全部を話していないだけだ。
男はセレンをじっと見た。焼けたローブ、泥のついた靴、疲労を隠しきれない表情。何を測るように、数秒ほど沈黙が流れる。
「……森で迷って、その格好か」
「少し、厄介なことがありました」
男はまだ納得していないようだったが、それ以上は追及しなかった。
「ここは翠の国の辺境だ。碧光の森の外れにある、名もないような小村だよ。宿らしい宿はないが、水と休む場所くらいなら貸せる」
「ありがとうございます。助かります」
翠の国。
初めて得た、この世界の地名だった。
セレンは心の内で繰り返し、その響きを記憶に刻む。
村に入ると、さっきの少女がまだ少し離れたところからこちらを見ていた。目が合うと、ぴくりと肩を揺らして隠れるように家の陰へ引っ込む。
セレンはそれを追わず、案内されたベンチ代わりの丸太に腰を下ろした。
差し出された木の器の水は冷たく、驚くほど美味かった。喉を潤すだけで、ようやく人心地ついた気がする。
「旅人さん、どこから来たの?」
さっきの少女が、今度は少しだけ勇気を出して近づいてきた。手には干した薬草の束を抱えている。
「遠くから来ました」
「遠くって、翠都より?」
「……たぶん、ずっと遠いところです」
少女はよく分からないという顔で首を傾げたが、それ以上は聞いてこなかった。
代わりに、村の空気が少しだけ和らいでいく。大人たちも、完全ではないにせよ、セレンがいきなり剣を振り回す手合いではないと理解し始めたらしい。
視線を巡らせると、家々の入口や井戸のそばに、小さな木札や白布がいくつも下げられているのが見えた。そこには見慣れない紋様が描かれている。
「それは?」
セレンが問うと、少女が薬草の束を抱えたまま答える。
「聖導の祈のお札だよ。夜になる前にちゃんと掛けておかないと、悪いものが寄ってくるって」
聖導の祈。
その言葉に、近くにいた大人たちが小さく頷いた。
「教会さまのおかげで、この辺りもなんとか守られてるんだ」
「最近はそれでも、森の奥が変でな……」
「死んだ鹿が動いたって話もある」
最後の言葉に、セレンの意識が微かに鋭くなる。
やはり、ただの魔物ではない。
「教会の騎士は来ないんですか?」
「支部に頼みは出してる。だが辺境だからな……急ぎの用は多いらしい」
男は苦笑した。責める響きというより、諦めに近い。
セレンはその顔を見て、何も言わなかった。組織の末端がすべて悪いとは限らない。だが、末端に手が届かないほど大きな組織は、それだけで脆い。
そんなことを考えていた時、家の一つから慌ただしい声が上がった。
「熱がまた上がってる!」
「水だ、水を持ってきて!」
村人たちがどっと動く。セレンも立ち上がった。
家の中では、小さな男の子が布団の上で苦しそうに息をしていた。まだ五つか六つほどだろう。顔は赤く、汗が額ににじんでいる。母親らしい女性が、泣きそうな顔で布を替えていた。
「薬草が足りなくて……森の奥まで取りに行かないと」
「でも今日はもう日が傾いてる」
誰もが困惑している。
セレンは入口のところで立ち止まり、少しだけ逡巡した。
こういう時、手を出しすぎれば目立つ。フォースを使って何かを行えば、余計な注目を集めるかもしれない。
だが、苦しんでいる子供を見過ごして通り過ぎるという選択肢は、最初から彼の中になかった。
「必要な薬草は何ですか?」
母親が顔を上げる。
「え……?」
「形と匂いを教えていただければ、取ってきます」
村人たちがまた顔を見合わせる。初老の男が口を開いた。
「森は危険だ。さっきも言っただろう、最近は様子が」
「危険だからこそ、行ける者が行くべきです」
その言い方に、男は一瞬だけ言葉を失った。
セレン自身、少しだけ苦笑する。マスター・ヨルにもよく言われたものだ。“理屈は分かるが、お前はそういう時に躊躇がないな”と。
結局、薬師として村で頼られている女が薬草の特徴を説明し、セレンは森の手前まで案内されることになった。
――戻るまでにかかった時間は、そう長くなかった。
フォースに意識を通せば、生命の気配の濃い場所は分かる。薬草の類も、探し方を間違えなければ見つけられる。帰ってきた時、村人たちの目は明らかに変わっていた。
「本当に見つけてきたのか……」
「しかもこんなに」
「これで足りますか」
薬師の女は薬草を確認し、目を見開いた。
「十分すぎるよ。……あんた、本当にただの旅人かい?」
セレンは少しだけ間を置き、答える。
「人助けには、少し慣れています」
それは、半分は冗談のようで、半分は本音だった。
日が落ちる頃には、村に向けられる視線はかなり柔らかくなっていた。子供の熱も少し下がり、母親は何度も頭を下げた。食事まで勧められたので、さすがに断り切れず、薄いスープと焼いた根菜をご馳走になる。
そんな小さな安堵が、長く続くとは思っていなかった。
夜。
森は昼とは別の顔を見せる。
家々の窓から漏れる灯り。風に揺れる祈り札。虫の声。遠くの獣の唸り。村の人々は早めに戸を閉め、外を歩く者はほとんどいない。
セレンは村の外れ、柵の近くに立っていた。
眠れないわけではない。だが、森の奥で感じた“冷たさ”が、ずっと意識の端に引っかかっていた。
そしてそれは、夜の深まりとともに確かに近づいてきていた。
風が変わる。
生命の匂いが、薄くなる。
代わりに、何か乾いたものが擦れ合うような、不自然な気配が混じる。
「……来る」
呟いた、その直後だった。
村の反対側から、甲高い悲鳴が上がった。
「出たぞ!」
「骨の……!」
セレンは弾かれたように駆け出した。
家と家の間を抜け、広場に出る。そこには、青ざめた村人たちと、それを囲むように立つ“それ”がいた。
骸骨。
いや、ただの骨ではない。人の形をしているが、空洞の眼窩の奥には青白い火のようなものが揺れている。錆びた剣や槍を持ち、ぎこちない足取りで、それでも確かな殺意を持って前へ進んでいた。
スケルトンが三体。さらに、その背後の闇には、ぼんやりと浮かぶ人影のようなものも見える。
村の男が鍬で殴りつける。骨は確かに砕ける。だが、砕けたはずの腕が、糸で引かれるようにまた動き、男の足首を掴んだ。
「う、うわぁっ!」
「離れてください!」
セレンが前に出る。
村人の鍬では、完全には止められない。
問題は骨ではない。もっと奥にある。
フォースに意識を澄ませると、すぐに分かった。
骨を動かしているのは、死者への執着ではない。もっと冷たく、もっと人工的な結びつきだ。何かが、本来終わっているはずのものを無理やり現世に繋いでいる。
「下がっていてください」
セレンはライトセーバーの柄を握る。
青い刃が夜を裂いた。
広場にどよめきが走る。
「な、なんだ……!?」
「光る、剣……?」
スケルトンの一体が突進してくる。セレンはその剣を受け、絡め、弾く。返す刃で胴を断つ――が、それだけでは終わらない。骨は崩れても、青白い火がまだ残っている。
やはり、そこだ。
セレンは一歩踏み込み、フォースでその“結び目”を探る。生命の流れに逆らい、死者をここに縫い留めている縁。その一点を感じ取る。
「――断ちます」
青い刃が、何もない空間を払うように閃いた。
その瞬間、スケルトンの中に残っていた青白い火が掻き消える。骨は音を立てて地面に崩れ落ち、今度こそ動かなかった。
「……!」
村人たちが息を呑む。
もう一体。もう一体。
セレンの剣は、骨そのものではなく、その奥にある見えない繋がりを断ち切っていく。まるで森の冷たい闇に張られた糸を焼き払うように。
最後に残ったのは、背後に揺れていた半透明の影――ゴーストめいた存在だった。ゆらり、と青白い人影が浮かび、怨嗟とも風音ともつかぬ声を漏らす。
村人の一人が祈り札を投げつける。札は影をすり抜け、地面に落ちた。
効かない。
だが、セレンはその場を動かない。
目を閉じ、フォースに深く沈む。
悲しみ。空虚。終われなかったもの。縛られたもの。
感じ取る。
見つける。
そして、断つ。
刃は振り下ろされることなく、静かに横へ払われた。
ゴーストの輪郭が揺らぎ、霧のように崩れる。夜気に溶け、そのまま消えた。
静寂が戻った。
村人たちはしばらく誰一人動けず、ただセレンを見ていた。青い光に照らされた焼け焦げたローブ、静かな横顔、呼吸一つ乱さず立つ姿。
やがて、初老の男が震える声で言う。
「……教会騎士、なのか?」
セレンはライトセーバーを止め、青い刃を消した。
「違います」
短く、それだけ答える。
「ですが、もう大丈夫です」
その一言に、村の空気が少しだけほどけた。泣き出す子供。へたり込む男。胸を撫で下ろす女。
セレンは広場の端に転がる骨を見つめる。
骨ではない。死そのものでもない。
誰かが、これを作っている。
森の奥から感じた冷たい結びつき。あれは気のせいではなかった。
そして恐らく、今夜のこれで終わりでもない。
「旅人さん……」
あの薬草を教えた少女が、おそるおそる近づいてきた。
「ありがとう」
その声は小さかったが、真っ直ぐだった。
セレンは少女を見て、ほんの少しだけ表情を和らげる。
「礼には及びません。皆さんが無事なら、それで十分です」
それは綺麗事ではなかった。少なくとも彼にとっては。
助けを求める者がいる。守るべき命がある。
それだけで、剣を抜く理由としては十分だった。
だが同時に、胸の奥では別の感覚が燻っている。
この世界にもまた、子供が怯え、大人が諦め、強い者が弱い者を食い潰す構図があるのだとしたら。
見過ごせるはずがなかった。
広場を吹き抜ける夜風が、村の外れの森へと流れていく。
その先から、またほんの一瞬だけ、冷たい気配が触れた。
人ではない。獣でもない。
死の側にありながら、何者かの意志で引き戻されている、不自然な存在の気配。
セレンは静かにその方角を見る。
村人たちの不安は、今夜だけでは終わらない。
そして、自分がこの世界に落ちたことにも、ただの偶然では済まない何かがあるのかもしれない。
夜空には、彼の知るどの星もなかった。
それでも、守るべきものが目の前にある限り、進む道は変わらない。
セレンは村の柵の向こう、碧光の森の闇を見据えた。