風が草を撫で、戦いの熱を少しずつ攫っていく。
オークの巨体は地に伏し、散り散りになったゴブリンたちはもう戻ってくる気配がない。つい先ほどまで命のやり取りがあったとは思えないほど、碧光の森の広場は静まり返っていた。
その静寂の中で、フィリアはなおも聖剣を構えたまま、セレンを見据えていた。
「……あなた、何者?」
戦いの余韻が残る声だった。礼より先に警戒が来るのは当然だろう。見たこともない光の剣を振るう男が、突然背後から現れて自分を救ったのだ。事情を問わない方が不自然だった。
セレンはすぐには答えず、まず周囲へ意識を巡らせた。
残っている敵意はない。冷たい結びつきも、この場からはひとまず消えている。話す時間くらいはある。
そこでようやく、彼はライトセーバーを腰に戻した。
「旅の者です」
フィリアの眉がぴくりと動く。
「その答えで納得しろっていうの?」
「納得していただく必要まではありません」
セレンは静かに言った。
「ですが、敵ではないことは確かです」
「それを信じろって?」
「少なくとも、先ほどはあなたを助けました」
フィリアは聖剣を握る手に力を込めたまま、セレンを睨んでいる。反発の色は濃い。だが完全な敵意ではない。あの一瞬で、自分を救った剣筋だけは見ていたのだろう。
「……名前くらいは名乗って」
「では、あなたから」
ほんの一瞬、フィリアの表情が止まった。
問い詰めるつもりでいたところへ、逆に順序を正されるとは思っていなかったのだろう。だが、彼女は視線を逸らさなかった。
「フィリア」
短く、だがはっきりと告げる。
「フィリア・“アークライト”。勇者として、この森の異変を追ってる」
勇者――その言葉に込められた響きは重かった。
飾りではない。誇示でもない。背負うと決めた者の声だ。
「セレンです」
「それだけ?」
「今は、それで十分かと」
フィリアはわずかに目を細めた。
「随分と慎重なんですね」
「そうあるべきだと教わりました」
素っ気ない返答だったが、そこでそれ以上は追及しなかった。戦いの直後に無理に踏み込んでも意味がないと、彼女も分かっているのかもしれない。
代わりに、フィリアは視線を広場の端へ向けた。先ほど青白い影が揺らいでいた場所だ。もう何も残っていない。だが空気の冷たさだけは、まだそこにかすかに留まっていた。
「あれも……最近増えてる異変の一つ」
セレンもその方を見る。
「最近、というと」
「最初は魔物だけだった。ゴブリンとかオークが森の奥で群れ始めて、それだけでも十分厄介だったのに、ここ数日は違う」
フィリアの声が少しだけ低くなる。
「死んだ獣が起き上がる。埋めたはずのものまで動き出す。村の人たちが怯えるのも当然でしょ」
「教会は動いていないんですか」
「動いてはいる」
フィリアはすぐに答えた。
「でも、辺境まで手が回ってない。だったら、私が先に確かめるしかないでしょ」
その言い方には、責任感と焦りが同時に滲んでいた。
「それで、単独で?」
「……最初は違った」
フィリアは少しだけ視線を逸らす。
「仲間はいた。でも、今は別行動」
セレンの脳裏に、先ほど村で会った三人の顔がよぎる。彼らの口ぶりは荒かったが、完全に見捨てたようには聞こえなかった。
「村で三人組に会いました」
「……ダルクたちに?」
やはり、そうか。
「ええ」
「何か言ってた?」
「あなたが無茶をしている、と」
フィリアの目がわずかに険しくなった。
「そう」
短い返答だった。
怒っているというより、そう言われることに慣れている響きだった。
「否定はしないんですね」
「できないから」
フィリアは聖剣の切っ先を少しだけ下げた。
「無茶だって分かってる。でも、行かなきゃいけない時もある」
「それは勇者だからですか」
「……うん」
今度の返答には迷いがなかった。
「聖剣に選ばれた以上、見過ごすわけにはいかない。助けを待ってる人がいるなら、私が動くしかない」
その言葉に、セレンはわずかに呼吸を止めた。
選ばれた者。守るために動く者。期待を背負う者。
形は違っても、聞き覚えのある理屈だった。
「責任を感じているんですね」
「当然」
フィリアは真っ直ぐに答える。
「勇者であることは、名乗るためのものじゃない」
その目は強かった。まっすぐで、危うくて、嘘がない。
だからこそ、放っておけないのだろうとセレンは思う。彼女自身が、誰かを放っておけないように。
「ですが」
セレンは静かに続けた。
「危険だからこそ、単独で追うべきではありません」
フィリアの表情が硬くなる。
「私一人じゃ無理だって言いたいの?」
「そういう意味ではありません」
「じゃあ、どういう意味?」
「あなたが強いことは分かりました」
セレンは彼女から目を逸らさずに言った。
「ですが、強さと単独行動は別の話です。背後の気配に気づけていなかった」
図星だったのだろう。フィリアの唇がきつく結ばれる。
「……助けられたのは認める」
「なら十分です」
「でも、それとこれとは別」
フィリアの声は低い。
「私は自分の役目を果たそうとしただけ」
「その結果、倒れてしまっては意味がない」
「……分かってる」
今度の言葉は、先ほどより少し小さかった。
ただの反発ではない。自分でも分かっているのだ。危うい綱渡りをしていることを。それでも止まれないから、こうして前へ出ている。
セレンはそれ以上、責めるようなことは言わなかった。
言葉を重ねるより先に、フォースがわずかにざわめいたからだ。
細い。だが確かに残っている。
先ほど断ち切ったはずの冷たい結びつきの残滓が、森の奥へと伸びている。
「まだいます」
フィリアもすぐに顔を上げた。
「……ええ。私も感じる」
彼女は聖剣を握り直す。さっきまでの言い合いは、それだけで終わった。戦いの前では、互いの主張を押し通すより早く剣を取るべきだと、二人とも分かっていた。
「右をお願いします」
セレンが言う。
「こちらで左を押さえます」
フィリアは一瞬だけ目を見開いた。
「指示するんだ」
「不都合なら変えます」
「……いい」
フィリアはすぐに答えた。
「右は、さっき傷を負ってた方でしょ」
「見えていましたか」
「あなたほどじゃない」
そう言ってから、彼女は小さく息を吐く。
「でも、戦える」
「十分です」
その短いやり取りだけで、互いの役割は決まった。
二人は同時に駆け出した。
倒木の陰に潜んでいたのは、傷を負いながらも退いていなかったオーク一体と、青白い火を宿した獣骨が二体。森の薄闇の中で、それらは不自然なほどはっきりと浮かび上がって見えた。
フィリアが右へ飛び込む。
「はあっ!」
聖剣が白く光り、オークの大剣と激突する。金属同士が軋む甲高い音とともに、火花が散った。華奢な体躯からは想像もつかない圧力で、フィリアは真正面から押し返していく。
一方、セレンは青い刃を起動し、左へ流れた。
獣骨の一体が低く跳ぶ。速い。だが、昨夜の戦いで感覚は掴んでいた。噛みつきの軌道を外し、着地の瞬間に身を捻る。青い刃がひと閃きし、骨ではなく、その奥にある“縁”を断ち切る。獣骨は音を立てて崩れ落ちた。
もう一体が側面から迫る。
セレンは半歩だけ下がり、刃を斜めに滑らせる。青白い火が弾け、二体目も沈黙した。
その時、オークの怒号が広場に響いた。
フィリアが押し込んでいる。だが剣筋が真っ直ぐすぎる。勢いがあるぶん、相手に合わせる余地が少ない。オークがそれを読んで、大きく刃を振り上げた。
「フィリア!」
呼びかけに、彼女は反応した。だが半拍遅い。
セレンが踏み込み、その一撃を横から受け流す。重さを逸らし、体勢を崩す。オークの胴が開いた。
「今です!」
「――はい!」
フィリアの返答は鋭かった。
聖剣が一直線に走る。先ほどまでよりも短く、深い一撃。白銀の刃がオークの胸を裂き、その巨体を膝から崩れ落とした。
倒れる音が、森に重く響く。
静寂が戻った。
今度こそ、本当に周囲から敵意は消えている。
フィリアは肩で息をしながら、ゆっくりと聖剣を下ろした。
「……助かった」
今度は、きちんと礼の言葉だった。
「こちらこそ」
と、セレンは答える。
「対応が早かった」
フィリアは少しだけ目を瞬かせた。褒められるとは思っていなかったのかもしれない。
「それは……あなたが隙を作ってくれたから」
「あなたが決めたんです」
フィリアはしばらく黙っていたが、やがて小さく息を吐いた。
「あなた、変な人」
「よく言われます」
「……そういうところは素直なんだ」
その声音は、さっきまでよりわずかに柔らかかった。
完全に警戒が解けたわけではない。それでも、戦える相手だとは認めたのだろう。
フィリアは改めてセレンを見る。
「セレン」
「はい」
「あなたは、やっぱりただの旅人じゃない」
「ええ」
今度は否定しなかった。
「少なくとも、普通の旅人ではありません」
「それ以上は?」
「今は話せません」
フィリアは少し考えるように視線を落としたあと、無理に問い詰めることはしなかった。
「……分かった」
そして、はっきりと言う。
「全部を信じたわけじゃない。でも、さっきも今も助けられた。それは事実」
それは、彼女なりの判断だった。
熱さだけではない。見たものを見たまま受け止める強さがある。
「私はフィリア。勇者として、この森の異変を追う」
彼女は言った。
「あなたも放っておけないなら……一緒に来る?」
誘いというより、確認に近い言い方だった。
セレンは短く頷く。
「行きます」
フィリアの目がわずかに細くなる。
「即答なんだ」
「迷う理由がありません」
「……そう」
その返答に、フィリアはほんの少しだけ口元を緩めた。笑みというほどではない。だが、先ほどまでの硬さだけでもない。
セレンはその変化を見逃さなかったが、何も言わなかった。
碧光の森の奥には、まだ消えていない冷たい気配がある。
異変の原因も、アンデッドの結びつきの正体も、まだ何一つ分かってはいない。
だが今は、一人ではない。
静かに守る青い光。
まっすぐ切り開く白い光。
並び立つには、まだ互いを知らなすぎる。けれど、背中を預けるだけの理由は、すでに剣を交えた中にあった。
フィリアが先に歩き出し、少しだけ振り返る。
「行こう、セレン」
「はい」
短く応じて、セレンもまた歩き出す。
勇者フィリア。
まっすぐで、危うくて、それでも確かな強さを持つ少女。
その背を見つめながら、セレンは彼女と並んで森の奥へ向かった。