碧光の森は、奥へ進むほどに音を失っていった。
鳥の声は遠のき、風に揺れる枝葉のざわめきさえ薄れていく。代わりに、森そのものが息を潜めているような静けさが満ちていた。地面には淡い青白い苔が広がり、木々の根元には、古びた石片が半ば埋もれるように点在している。自然に呑まれかけてはいるが、ここがただの森ではないことは明らかだった。
セレンは足を止め、地面から突き出した石柱の欠片へ目を向けた。
表面には、風化しながらもなお幾何学的な紋様が残っている。文字なのか、装飾なのかは分からない。だが、少なくとも人の手で刻まれたものだ。
「この辺りから」
前を歩いていたフィリアが、振り返らずに言った。
「聖剣が、ずっと反応してる」
セレンは彼女の背へ視線を向けた。
昨日までなら、彼女は一人でずんずん進んでいたのだろう。だが今は、数歩先を歩きながらも、時折こちらの足音を確かめるように歩幅を緩めている。それを本人が意識しているかどうかは分からない。
「碧門の祠、でしたか」
「うん」
短い返答。けれど、その声にはわずかな緊張が混じっていた。
「私が聖剣に選ばれた場所」
その言葉の重みは小さくない。
二人は森の緩やかな斜面を下っていく。木々の密度が薄くなり、代わりに古い石畳のようなものが地中から覗き始めていた。長い年月に削られ、ところどころ苔に覆われているが、もとは参道か何かだったのかもしれない。
その途中、不意に茂みが揺れた。
低い唸り声とともに飛び出してきたのは、大型の狼に似た魔物だった。灰黒色の毛並み、異様に長い牙、赤く濁った目。二体。左右から挟むように飛びかかってくる。
銀河で見た獰猛な獣種を、セレンは一瞬だけ思い出す。
だが、あれほど単純な生き物ではない。この森の魔物には、どこか不自然な飢えと歪みがあった。
「右、行く!」
フィリアが叫ぶ。
「お願いします」
セレンは左へ流れた。
狼型の魔物が空中で牙を剥く。セレンは最小限の動きで身をずらし、そのまま柄に手を添えた。青い刃が一閃し、牙の軌道だけを焼き切る。悲鳴を上げて着地を乱した魔物の背へ、軽く掌を向けた。
フォースの衝撃が走る。
魔物は地面を転がり、立ち上がろうとしたところへ、セレンはもう一度だけ刃を滑らせた。首は落とさない。前脚の筋を断ち、戦意を奪う。魔物は低く唸ったあと、森の奥へ逃げていった。
反対側では、フィリアがすでに一体を押し切っていた。
聖剣の光をまとった斬撃が横一文字に走り、狼型の魔物は弾き飛ばされる。追撃に踏み込む足は速く、迷いがない。逃げる隙も与えない勢いだ。
強い、と改めて思う。
だがやはり、踏み込みが深い。相手を仕留める意志が強いぶん、戦いそのものが一直線だ。
魔物が退いたあと、フィリアが肩越しに振り返った。
「今の、わざと逃がしたの?」
「そうです」
セレンは答える。
「もう戦えないなら、追う必要はありません」
フィリアは少しだけ眉をひそめた。
「でも、また襲ってくるかもしれない」
「その時は、また止めます」
「それ、毎回そんな感じで戦ってるの?」
「できるだけは」
フィリアは少し考えるように黙り込んだあと、前を向いた。
「私は、倒せるなら倒した方がいいと思う」
「ええ」
「迷ってる間に誰かが傷つくなら、その方が嫌だから」
その言葉は強かったが、乱暴ではなかった。
誰かを傷つけたいからではない。守るために早く終わらせたい。その発想が先にあるのだ。
「分かります」
と、セレンは言った。
「あなたの剣は、そういう剣ですね」
フィリアが足を止める。
「……分かるの?」
「少しは」
セレンも立ち止まった。
「切り開くための剣です。迷っている時間を、自分で潰して進む」
フィリアは返事をしなかった。だが、完全に否定する気もなさそうだった。
「セレンの方は逆」
と、彼女は続けた。
「守るために止まる剣。受けて、見て、それから返す」
「そうですね」
「見てて、ちょっと焦れる」
「よく言われます」
フィリアは小さく息を吐いて、また歩き出した。
「でも、そういうのじゃないと守れないものもあるんだろうな、ってのは……分かる」
その言葉は、前を向いたまま零された。
セレンは返事をしなかった。ただ、その一言は確かに胸のどこかへ落ちた。
やがて、森が大きく開けた。
二人の前に現れたのは、石造りの古い祠だった。
地面からせり上がるように築かれた基壇。その上に、半ば崩れながらもなお形を残している門。門柱には蔓草が絡みつき、上部の石板には、風化した紋章がかすかに刻まれている。左右には、剣を捧げ持つ騎士像が立っていた。片方は首が欠け、もう片方は腕が砕けている。
だが、そこに漂う気配は死んでいなかった。
聖剣が、低く鳴るように光を帯びる。
フィリアが思わず息を呑んだ。
「やっぱり……」
そのまま数歩、祠へ近づく。聖剣の光はさらに強くなり、白銀の刀身に淡い紋様が浮かび上がった。
セレンもまた、フォースの流れの異質さを感じ取っていた。
この場所だけ、森の生命の流れとは別の層がある。沈んでいるのに、完全には途切れていない。何かが眠り、何かが待っている。そんな感覚だった。
「ここで、選ばれたんですね」
フィリアは門を見上げたまま頷いた。
「逃げてる途中だった」
声は静かだった。
「村が襲われて、みんなが私を逃がして……私はそのまま森の中を走ってた。どこへ行けばいいかも分からなかったのに、気づいたらここにいた」
セレンは何も挟まずに聞いていた。
フィリアは聖剣を見下ろす。
「この祠の奥で、聖剣が光った。最初は夢かと思った。でも、あの時の私は、何か掴まないと前に進めなかった」
その声に、少しだけ硬いものが混じる。
「だから、手を伸ばした」
それが勇者の始まりだったのだろう。
選ばれた、というより、縋りつくように掴んだ光だったのかもしれない。
「そのあと、翠都へ?」
「うん」
フィリアは短く答えた。
「聖剣を持ったまま翠都に行って、教会に保護されて……それで、勇者だって認められた」
そこで一度、彼女の声が止まる。
「教会の人たちと一緒に、村へ戻った」
わずかに、聖剣を握る手に力が入った。
「でも、その時にはもう遅かった」
森の静けさが、さらに深くなったように感じた。
セレンは彼女を見た。フィリアは泣いていない。声も震えていない。だが、その静かさそのものが、どれほど強く押し固められているものかは分かった。
「……そうですか」
他に言えることは、今の彼にはなかった。
フィリアは少しだけ口元を結んだあと、前を向く。
「だから、辺境だからって放っておけない」
その言葉は、誰かに説明するためのものではなかった。
「教会が間に合わないこともある。待ってるだけじゃ遅いこともある。だったら、私が行かなきゃいけない」
セレンはその横顔を見つめた。
選ばれた者。守るために動く者。
期待と喪失の両方を背負って、それでも前へ出る者。
違う形をしていても、その在り方には見覚えがあった。
「この祠、昔から伝承があるの」
と、フィリアは少しだけ話題を変えるように言った。
「かつて勇者がこの地を訪れた時、聖剣を納めた祠と、それを守る騎士がいたって」
「守る騎士」
「うん。勇者に仕えて、祠を守って、最後まで剣を置かなかった騎士」
セレンは崩れた騎士像を見上げた。
剣を捧げる姿勢。門を背に立つ構図。誇示ではなく、守護のための像だ。
この祠がただの聖地ではなく、何かを封じ、繋ぎ、残すための場所だったことが分かる。
「セレン?」
フィリアが少し不思議そうに振り返る。
「どうしたの」
「……いえ」
本当は、少し気になっていた。
勇者を支える騎士。守るために剣を置かなかった者。
その在り方が、どこか他人事には思えなかったからだ。
だが、それを口に出す前に、フォースが鋭く波打った。
「下がってください」
セレンの声に、フィリアの表情が変わる。
「来るの?」
「ええ。近いです」
祠の奥――正確には、門の向こうに続く暗がりの中から、冷たい結びつきが濃くなる。昨日までのアンデッドとは違う。もっと深く、もっと重い。長い時間をかけて染み込んだ呪いのようなものだ。
そして次の瞬間、金属が石を擦るような音が鳴った。
ギィ……と、錆びついた音。
フィリアが聖剣を構える。
「昨日までのと違う」
「ええ」
セレンもライトセーバーの柄に手をかけた。
「かなり強い」
暗がりの奥で、何かが動いた。
甲冑のような輪郭。重い足取り。だが、まだ姿は見えない。門の奥の闇に沈んだまま、こちらを見ている気配だけがある。
フィリアの聖剣が強く光を増した。呼応するように、祠の門柱の紋様が淡く浮かび上がる。
「聖剣が……警戒してる」
セレンはゆっくりと一歩前へ出た。
風が止む。森が息を潜める。
暗がりの中から、再び金属音が鳴った。
今度は、よりはっきりと。
重い剣を引きずるような音。
石段を上がってくる足音。
そして――首の高さにあるはずの場所だけが、ぽっかりと黒く空いた影。
フィリアが息を呑む。
「……騎士?」
その声に答えるものはない。
ただ、かつて勇者を守ったはずの存在は、もう祠の番人として正しく立ってはいなかった。
セレンは青い刃を起動した。
フィリアもまた、聖剣を握り直す。
門の奥、闇の中で、首なき騎士の影がゆっくりと剣を持ち上げる。
碧門の祠は、まだ終わっていない。
そう告げるように、冷たい気配が二人の前で静かに牙を剥いた。