碧門の祠を離れてもしばらくのあいだ、二人は無言のまま森を歩いていた。
戦いの熱はすでに引いている。だが、首なき守護騎士と刃を交えた余韻は、まだ身体の奥に残っていた。腕に残る鈍い痺れ。肺に貼りつく冷気。祠の奥でわずかに開きかけた扉と、その向こうから滲んだ“眠る何か”の気配。
碧光の森は相変わらず青白く静かだったが、さっきまでとは見え方が違っていた。
ただの神秘の森ではない。古い誓いと、異質な呪いが、確かにそこに積み重なっている。
先を歩いていたフィリアが、ふいに足を止めた。
「……おかしい」
セレンも立ち止まる。
「何がですか」
フィリアはすぐには答えず、少し考えるように視線を落とした。それから、聖剣の柄に触れたまま口を開く。
「私が最初に祠へ来た時」
彼女は言った。
「あんな、首のない騎士はいなかった」
セレンは黙って先を促す。
「祠は静かだった。古くて、誰も来ない場所って感じで、怖くなかったわけじゃないけど……少なくとも、さっきみたいな気配はなかった」
フィリアは小さく息を吐いた。
「聖剣も、あの時は私を呼ぶみたいに光っただけ。警戒するみたいな感じじゃなかった」
それはつまり、あの守護騎士は最初からあの姿で祠にいたわけではない、ということだ。
「最近の異変と繋がっている可能性がありますね」
と、セレンは言った。
「やっぱり、そう思う?」
「ええ。少なくとも自然ではありません」
セレンは森の奥を振り返る。
「祠そのものは古い。ですが、あの冷たい結びつきはもっと新しい。後から染み込んだような違和感がありました」
フィリアがゆっくりと頷く。
「私も、そんな気がする」
声は低かった。
「あの騎士、本来はあんなふうに起き上がる存在じゃなかったはず」
スケルトン。ゴースト。動くはずのない死者。
この世界では、それらをただの魔物とは別に扱っているらしい。しかも聖なる力か、フォースに近い何かでなければ完全には断てない。そこには明らかに、この世界の生と死の流れを歪める“別の力”が介在している。
「祠の騎士まで起こすほどの異変、か……」
フィリアが呟く。
「やっぱり、放っておけない」
セレンはその横顔を見た。
疲れていないわけがない。あの戦いは、彼女にとっても明らかに限界に近いものだった。それでも視線は前を向いている。止まることを、まだ自分に許していない顔だった。
「その前に」
セレンが言う。
「休むべきです」
フィリアが少しだけ眉をひそめる。
「今?」
「そうです」
セレンの声は穏やかだったが、譲る気はなかった。
「このまま次の異変に遭遇すれば、今度は立て直せないかもしれません」
フィリアはすぐには返事をしなかった。
反論を探しているというより、自分でも分かっている事実を飲み込もうとしているように見えた。
「……分かった」
やがて彼女は短く答える。
「少しだけ休む」
「ええ。それだけでも十分です」
二人は森の斜面を少し下り、水音のする方へ向かった。ほどなくして、小さな沢に出る。陽はまだ高いが、木々に遮られて辺りは薄暗く、休むにはちょうどよかった。
フィリアは岩に腰を下ろすなり、ようやく大きく息を吐いた。
「はあ……」
そのまま顔を上げる。
「正直、助かった」
「無理をしていたのは気づいていました」
フィリアは少しだけ口を尖らせたが、反発はしなかった。代わりに、沢の水面へ視線を落とす。
「セレン」
「はい」
「さっき、私が最初に祠へ来た時のこと、聞いてたよね」
「ええ」
「その時、私は一人だった」
フィリアは自分の指先を見るように、静かに言った。
「村のみんなが逃がしてくれて、走って、気づいたら祠に辿り着いて……聖剣に選ばれて。それで翠都へ行って、勇者だって言われた」
そこで彼女は、ほんの少しだけ言葉を切る。
「最初は、よく分からなかった。勇者っていうものはいるんだって、ずっと思ってたし、教会の話も信じてた」
苦笑のようなものが、口元をよぎる。
「でも、それが自分だなんて全然思ってなかった。私なんかが選ばれるなんて、考えたこともなかった」
沢の音が静かに流れる。
セレンは口を挟まなかった。
ただ、聞いていた。
その沈黙が必要だと分かっていたからだ。
「教会は私に“アークライト”って名前をくれた」
フィリアは少しだけ顔を上げた。
「勇者としての名前。みんなの前でそう呼ばれて、聖剣の勇者だって言われて、最初は……悪くないって思った」
彼女の声音には、否定しきれない本音が混じっていた。
「でも今は、少しだけ分からなくなる時がある」
「どういう意味ですか」
「それが、本当に私の名前なのかなって」
フィリアは苦く笑う。
「村にいた時の私は、ただのフィリアだった。なのに、勇者になった瞬間から、教会の人たちは“アークライト”って呼ぶようになった。もちろん、それで助けられたのも本当。でも……時々、私じゃない何かを期待されてる気がする」
セレンはその言葉を静かに受け止めた。
勇者であること。与えられた名。背負わされた役割。
それは彼にも、まったく無縁のものではなかった。
「あなたは、フィリアです」
しばらくして、セレンはそう言った。
フィリアが顔を上げる。
「……単純に言うね」
「複雑にする必要がありません」
セレンは沢の流れを見たまま続ける。
「勇者であることも、アークライトと呼ばれることも、今のあなたの一部ではあるのでしょう。ですが、それであなた自身が消えるわけではない」
フィリアは少し黙り込んで、それから小さく息を吐いた。
「たまに思う」
彼女は呟く。
「セレンって、変に大人びてる」
「そうでしょうか」
「そう」
フィリアは即答した。
「落ち着いてるし、見てるところが少し遠い」
そこでわずかに目を細める。
「でも、全部分かってるって顔はしない」
その言葉に、セレンは少しだけ視線を伏せた。
全部分かっているわけがない。
この世界のことも、勇者のことも、教会のことも。
分からないことばかりだ。
それでも、自分が知っている“失う側の痛み”くらいは、見誤りたくなかった。
フィリアが沢の水をすくって顔を洗う。その動きはまだ疲れているが、少しずつ呼吸は整ってきていた。
「でも」
と、彼女は水滴を払ってから言う。
「そういう言い方、嫌いじゃない」
セレンは何も返さなかった。
ただ、ほんの少しだけ目を細めた。
沢で休んだあと、二人は村へ戻る道を選んだ。
祠で起きたことを、まずは整理する必要がある。
守護騎士が最近になって目覚めたという事実。祠の奥にまだ何かが眠っていること。あの冷たい結びつきが、自然のものではないという確信。
木柵が見え、煙の匂いが風に混じる。人の営みの気配が戻ってくる。どこか張りつめていた森の空気から、ようやく抜け出したような感覚があった。
村人たちは、二人の姿を見るなり安堵と緊張の入り混じった顔をした。昨夜と今朝のことがある。この森から無事に戻ってくるだけで、彼らにとっては十分に異常なのだろう。
「無事だったか!」
初老の男が駆け寄ってくる。フィリアは小さく頷いた。
「なんとか」
そしてすぐに続ける。
「でも、しばらく祠の方へは近づかないで」
男の顔が強張る。
「やはり、何かいたのか」
「いた」
フィリアは短く答える。
「ただの魔物じゃない。昔からあそこにあったものが、最近の異変で目を覚ましたみたいな感じ」
セレンはその表現に内心で頷いた。
真実のすべてではない。だが、今この場で伝えるには十分で、しかも誤魔化しすぎていない言い方だった。
「教会へも報告します」
フィリアが言う。
「でも、すぐに全部が片付くとは思わない。だから、夜は特に気をつけて」
勇者としての声だった。
無責任に安心させず、しかし必要以上に怯えさせもしない。
その在り方を見て、セレンは少しだけ認識を改めた。フィリアは勢いだけではない。未熟でも、ちゃんと“立とう”としている。
村人たちが散っていったあと、村外れの木柵にもたれかかっていた三人組が、ようやくこちらへ歩いてきた。
「よう」
先頭の大剣の男――ダルクが、渋い顔のまま言う。
「帰ってきたか」
その声は素っ気ない。だが、本当に興味がない人間の声音ではなかった。
術師の女がフィリアをじろりと見たあと、はっきりと息を吐く。
「生きてるならそれでいいわ。戻ってこないかと思った」
弓の男も肩を竦めた。
「まあ、半分くらいはそう思ってた」
「縁起でもないこと言わないで」
フィリアが即座に返す。
「ちゃんと戻ってきたでしょ」
「その“ちゃんと”が一番信用ならないんだよ」
ダルクが鼻を鳴らした。
「毎回毎回、一人で突っ込んでりゃそうなる」
フィリアは言い返しかけて、少しだけ言葉に詰まった。以前なら、ここで真っ向からぶつかっていたのだろう。
「……それは」
「図星か」
と、弓の男が言う。
術師の女が腕を組んだまま、セレンへ視線を向ける。
「で。そっちの旅人さんが、今度の命綱ってわけ?」
「そういう言い方はやめて」
フィリアが睨む。
「でも事実でしょ」
女はさらりと返す。
「少なくとも今回は、あんた一人じゃなかった」
セレンは三人を見る。
彼らの態度には棘がある。だが、悪意だけで出来てはいない。
むしろそれは、不器用に距離を取ろうとした者の物言いだった。
「あなた方は」
セレンが静かに口を開く。
「元々、フィリアと同行していたんですね」
「教会の依頼でな」
ダルクが言った。
「勇者様の補佐だの護衛だの、格好のいいことは色々言われたさ」
弓の男が続ける。
「でも実際は、ついていくだけで精一杯だった。魔物相手ならまだしも、ああいう死人相手じゃ決め手がない」
「足手まといになるくらいなら離れた方がマシだと思ったのよ」
術師の女が淡々と言う。
「それに、この子」
顎でフィリアを示す。
「人の忠告、全然聞かないし」
「……う」
フィリアが詰まる。
「無茶してでも前に出る。止めても出る。守られたくない顔をする。あんたと一緒にいたら、こっちまで道連れにされるわ」
女はそこで少しだけ表情を緩めた。
「だから離れた。……でも、別に死んでほしいわけじゃない」
その言葉に、フィリアは視線を伏せる。
ダルクが頭を掻いた。
「見捨てたって言われりゃ、否定はしねえよ」
低い声だった。
「だが、俺たちじゃもう付き合いきれなかった。それだけだ」
しばし沈黙が落ちる。
フィリアは聖剣の柄へ手を置いたまま、ようやく口を開いた。
「……ごめん」
三人がそろって目を瞬かせた。
「前のあなたなら、そんなこと言わなかったでしょうね」
術師の女が半ば呆れたように言う。
「言えるようになっただけ偉いんじゃない?」
弓の男が笑う。
ダルクはセレンの方をちらりと見た。
「へえ」
それだけ言って、口元を少し歪める。
「なによ」
フィリアが眉を寄せる。
「いや。少しは人の話を聞く顔になったと思ってな」
「それ、どういう意味?」
「そのまんまだよ」
術師の女が面白そうに目を細めた。
「でも分かる。前より少し落ち着いてる」
そして、セレンとフィリアをゆっくり見比べる。
「……なるほど、そういうことね」
「え?」
弓の男も口元を歪める。
「確かに。今度の同行者は、ただ一緒にいるだけじゃなさそうだ」
「ちょっと、何その言い方」
フィリアが眉を寄せる。
「そういうんじゃないから」
そのやり取りを見ながら、セレンはほんの少しだけ目を細めた。
三人の態度は荒い。だが、フィリアをよく見ている。離れた今でも、完全に他人になったわけではないのだろう。
術師の女がふっと表情を戻す。
「で、祠の方は?」
問いかけの声は真面目だった。
フィリアもすぐに空気を切り替えた。
「よくない」
短く言う。
「昔からあそこにあったものが、最近の異変で起きたみたい。教会に報告して、ちゃんと記録も調べた方がいい」
セレンが補足する。
「祠そのものも、最近のアンデッドと無関係ではないはずです。あの冷たい結びつきが、あそこまで染み込んでいた」
弓の男が顔をしかめた。
「冷たい結びつき、ね。あんたの言い方は分かりにくいけど、嫌な感じってことだけは伝わる」
「それで十分です」
と、セレンは答えた。
ダルクが腕を組む。
「なら、行き先は決まりだな」
「翠都」
フィリアが言う。
「私の拠点でもあるし、教会の記録もある。あの祠についても、最近の異変についても、向こうで調べる」
術師の女が頷いた。
「妥当ね」
そして、少しだけ口元を上げる。
「勇者様が真っ先に突っ込む以外の選択肢を口にしたの、初めて見たかも」
「だから、うるさいってば」
けれど今度のフィリアは、本気で噛みつかなかった。
言い返しながらも、その頬には少しだけ赤みが差している。
ダルクが踵を返す。
「じゃ、俺たちは先に行く」
「え?」
フィリアが顔を上げる。
弓の男が肩を竦めた。
「依頼主には、こっちから先に状況を入れとくよ。あんたが無茶して死んでないってことも含めてな」
「翠都で落ち合いましょ」
術師の女が言う。
「勇者様と、その新しい同行者さん」
フィリアが何か言い返そうとしたが、その前に三人はもう歩き出していた。
「ちょっと、待って――」
「待たねえよ」
ダルクが振り返りもせずに言う。
「無事は確認した。なら十分だ」
そのまま三人は、夕暮れの街道へ消えていく。
不器用で、そっけなくて、でも最後まで他人になりきれない背中だった。
フィリアはしばらくその背を見ていたが、やがて小さく息を吐いた。
「……勝手なんだから」
そう言いながらも、その声音には怒りより安堵の方が強く混じっていた。
村人たちが、食事と水を用意してくれた。今は断らない方がいいと、誰もが分かっていた。
木製の器に入った温かいスープを受け取り、フィリアが小さく肩の力を抜く。
「生き返る……」
「それは何よりです」
「今の言い方、年寄りくさい」
「褒め言葉として受け取っておきます」
フィリアは一瞬きょとんとして、それから少しだけ笑った。
大きな笑いではない。けれど、これまでより自然なものだった。
食事のあと、セレンは村の外れで空を見上げた。
異世界の夜空には、やはり見慣れた星座はない。
だが、その空の下で守るべきものがあるという事実は、もう変わらなかった。
後ろで足音が止まる。
「セレン」
「はい」
振り返ると、フィリアが立っていた。聖剣はもう腰に収められている。表情は朝よりも、祠へ向かう前よりも、少しだけ柔らかい。
「明日、翠都へ行く」
彼女は言った。
「祠のことも、最近の異変のことも、ちゃんと調べたい。勇者として報告もしないといけないし」
「ええ」
「あなたも来る?」
その問いには、確認以上の響きがあった。
「……って、聞くまでもないかもしれないけど」
セレンはすぐには答えなかった。
翠都。教会。勇者の拠点。
その先には、この世界の異変の手掛かりがあるだろう。祠に染み込んでいた冷たい結びつきの正体も、フィリアが背負わされている“勇者”という名の意味も、何か分かるかもしれない。
だがそれだけではなかった。
オーダー66。崩れ落ちた聖堂。倒れていったジェダイたち。
マスター・ヨルの最後の姿を、セレンはまだ知らない。知ることすらできないまま、この世界へ落ちた。
自分だけが生き残ったのだとしたら。
銀河で果たせなかった教えがあるのだとしたら。
それでも今、目の前で救える命があるのなら――。
フォースは、遠い銀河の記憶と、この世界の静かな夜気を、奇妙な形で繋いでいた。
マスター・ヨルなら、何と言うだろう。
答えはもう、聞かなくても分かる気がした。
進め、と。
救えるものがあるなら、そこで立ち止まるな、と。
セレンはゆっくりとフィリアを見た。
勇者フィリア。
まっすぐで、危うくて、目を離せない少女。
放っておけば、また一人で飛び込んでいくのだろう。だがその危うさの奥には、本気で誰かを救いたいと願う光がある。
眩しい、と思った。
だからこそ、目を逸らしたくなかった。
「行きます」
セレンは静かに答えた。
「ジェダイ・ナイトとして。今度は、ちゃんと前に進みたい」
フィリアが目を瞬く。
「……そっか」
それだけ言って、彼女は少しだけ視線を逸らした。
けれど、その横顔にはわずかな安堵が浮かんでいた。
「じゃあ、決まり」
フィリアは前を向く。
「明日から、一緒に翠都へ行こう」
「ええ」
ただ偶然並んでいるだけではない。
もう二人は、同じ異変を追う者として、確かに同じ道を見始めている。
碧門の祠は、まだ終わっていない。
守護騎士が目覚めた理由も、祠の奥に眠るものの正体も、何も分かってはいない。
それでも、旅立つ理由は十分だった。
セレンは静かな夜気の中で、もう一度だけ空を見上げた。
見知らぬ星々の下でも、自分が進むべき道は、きっと変わらない。